平穏と苦慮の道行き
◇◇◇
――目を開けた雪はあの白い部屋にいた。
数度目の訪問とはいえ、この部屋の異質さはどうにも慣れない。
この部屋に来るのはグリューン国に向かう道中以来。
久しぶりというほどでもないが雪は改めて軽く辺りを見回した。
扉も窓もない完全に密閉された(少なくともそう見える)部屋。
自分の存在をアピールするかのように部屋の中には黒で塗られたテーブルと椅子が一つ置かれている。
それ以外はシミ一つない、眩しいほど全てが明るい白色のため、空間が果てなく無限に広がっているように錯覚してしまいそうになるが、よく見ればちゃんと壁も天井もある。
近づいてみれば床と壁の間にはしっかりつなぎ目もあり、それを辿っていくと約10m程の広さの正方形だとわかる。
無限などではない。一個の閉じられた空間。
「やあ、雪。――来てくれたんだね」
女は”雪”という名前を呼ぶ。
かつてはその名前を聞けば尻尾を振り回し、嬉しさでいっぱいになっていた。
しかし呼ぶ相手に違いがあれば気持ちの動きも変わる。
心を満たしてくれた主人はもういない。
「うん。やっぱりいいねーー奇跡という名前も素敵だけどボクは君を雪って呼ぶことにするよ」
雪の心境など気にもせず女は楽しそうに口にする。
”……勝手にすれば”
得体の知れない場所に相応しい得体の知れない存在。
入院患者のような風体をしたその女は椅子に座りながら来訪者を歓迎した。
「どう? 新しい“花”にはもう慣れたかな?」
“……よく、わからない”
「そう? 獣の君にとっては人間の生活圏に埋め尽くされた元の世界より居心地の良いものだと思ったんだけどな」
……正直なところ、この女をどう見るべきか未だにわからない。
この女の目的や雪に求めている事が何かは聞いた。自分の管理する世界が死にかけているからなんとかしてほしい。
恐らくこれに嘘はないのだろう。
実際、ヴェルメの世界の人々は魔王や魔族によって危機に瀕している。
そもそも騙して、こんな事をさせる理由なんてないだろうとも思う。
仮にそんな理由があるとしたらそれはもう到底、雪に計り知れるようなものではない。
嫌な意味で歯に着せない物言いも含めて、この女に憤りを感じるが少なくとも敵意はないし嘘はつかないはずだ。
……半分以上、願望ではあるのだが。
*
「マーギアの村か……意外なところに足を向けたね。――でも楽な道中でしょう?」
“え? ……まあ、今のところは”
「だよね。なにしろその世界には野生の魔物なんてものはいないからね。魔物が襲ってくるのは魔族の明確な意思がある時だけだ。つまり敵に見つかってない間、君達の旅は安全そのものだよ」
魔物さえ出てこなきゃ平和でまったりでしょ? と女は言う。
確かにここしばらく大きな危険には出会っていないが。
だがアシュティンの話を聞く限り、危険に値する生物や場所は存在する。
魔物が出てこないから平和というのはさすがに適当を言いすぎだろう。
”それより、そのマーギアだけど……その村は本当にもうないの?”
「彼は魔王城からとてつもないエネルギーを放ち、西の国とマーギアを焼いたーー君が耳にした通りだよ」
彼……というのはもちろん魔王のことだろう。
アシュティンとリーベのしていた話は事実であるらしい。
”……どうして魔王はそんな村を狙ったの?”
雪は浮かんだ疑問をとりあえず質問してみた。
「どうしてか、なんてボクにはわからないよ。彼に意図するものがあったのかどうかも。知るのは本人のみだろうね」
”……”
「そんな呆れた目で見ないでほしいなぁ。しかたないんだよ。実際、あの村を狙うに値する合理的な動機なんてあるとは思えないからね。今のところただの血迷いが一番有力かな。まあもしくはーー」
”……なに?”
「強いて言えばマーギアは魔法使いの村だからね。そこら辺が関係してる可能性もなくはないのかも」
……なくはないのかも、というよりそれしかないんじゃないか。
魔法使いの村――字面だけを見れば魔法使い達が暮らす村だと受け取れるが。
そしてその予想はやはり当たっていた。
ただし女の口からは思わぬ話も出てきた。
……この場所と“花”の中では時間の流れがまったく違うらしく、ややこしいのだが。
とにかくあの世界での百年だか二百年だか前には魔法使いという存在は酷く迫害をされていたらしい。
普通とは違う目の色で生まれ、普通の認識では測れない不可思議な力を持つ。
その存在は人々にとって理解の及ばない畏怖すべきものだった。
たとえ我が子だろうと強く拒んでしまうほどに。
それは雪にとってあまり知りたくない方向に意外な話だった。
……だってヴェルメの村の人達は誰もリーベの力を怖がってなんかいなかった。
二人のことを理解して、優しく受け入れてるようにさえ見えた。
なのに魔法を使えるっていうだけで否定される……なんて。
そもそも魔法など、そんなものと無縁の世界で生まれた雪にとっては完全な未知の力だったが、それはあの異世界にとっても同じであったらしい。
「人間はあらゆるモノに名前を付けたがる。それも一定の意味を乗せることをとても好むんだ。“雪”や“ヴンダー”なんて、いい例だと思うよね?」
女は楽しそうに微笑みを浮かべる。
「魔法、魔法使い、魔物、魔族、魔王――これらは全て人間が呼称したもの。彼らは忌みものに対して、“魔”という一字をよく添えるんだ。まあ、彼らなりの区別というやつなのかもね」
“……”
くべつ――区別? どうして区別なんてする?
人間同士――同じ人間のはずだ。
ヴェルメとリーベが恐ろしいものとして分けられるなんて絶対に変だ。
不思議な力を使えるから。目の色が違うからで区別するなんて、ぜんぜん理解できない。
……自分の知ってる人間はそんな変なことを考える生き物じゃないのに。
さっきは気づこうともしなかった雪の心境を今度は見抜いたかのように女は語る。
「安心していいよ、雪。長い年月の経過と特定の出来事が合わさったことで魔法使い達を色眼鏡で見るような人々は今はもうずいぶん減った。実際、グリューン内で彼女達にそんな目を向ける者はほとんどいなかっただろう?」
それは――確かにそうだ。村の人達も、グリューン国で出会ったあの親子もヴェルメ達をそんなふうに見ていなかったと思う。
「話が逸れてしまったね。さっきの続きだけど――魔王があの村を狙った理由は知らない。でも魔法使いの村という特殊性が何か、彼に狙う動機を生んだのかもしれないね」
……この女がそう答えるのならこれ以上はもう見当もつかない話だ。
雪はひとまず考えるのをやめて、代わりに別の質問をした。
“……そのマーギアの村にはもう、本当に誰もいないの? もしかして生き残った人がいる、とか――”
「さあ? でもそれはないと思うよ。実際見ればわかるけど――本当に焼き尽くされちゃってるからね。あの村にいた者が助かる可能性はわずかもないはずさ」
女はあまり興味なさげに。しかし確かな事実を口にした。
バカなことを訊いたと自分でも思う。
これまでの話を聞いてそんな可能性はないだろうことは雪にもわかる。
昔の思い出を語っていたアシュティンの表情には確かな幸福感と同時に寂しさも見えていた。
それを癒したい。なんとかしたいと考えるのは、かつての主人と共に培った雪自身の優しさだ。
そんな思いが先走って、出てしまったのが今の質問。
……わかってる。ただの妄想を希望に置き換えようとしただけの、つまらない質問だ。
でも、アシュティンだって。
その村に行こうと提案したのは彼自身だ。
誰よりも現実を受け入れているはずの彼がそう言いだしたのは、やはりそれでも一片の期待している何かがそこにあるかもしれないと考えているからではないだろうか。
もしかしたら友達が実は生きている――なんて。
「どうしたんだい、雪?」
“……”
……やめよう。こんなのは彼の助けになんてならない。
そもそも何も理解していない自分が先に答えだけ得たところで、彼の心の何を救ってあげられるというのだろうか。
この女をアテにして仲間の心に寄り添おうとした自分がとても醜く思えた。
“……なんでもない。忘れて”
「そう? それじゃあ今回はこの辺にしようか。――道中、気をつけて。雪」
女がそう口にすると雪の意識は暗闇に沈んでいった。
◇◇
ヴンダーが目を覚ますと日は昇っていて、リーベがみんなの朝食の用意をしている。
ここ何日かですっかり見慣れた光景だ。
「目を覚ましたのね、ヴンダー。ほら、ヴェルメ。そろそろどいてあげないと、ヴンダーが動けないわよ」
その言葉を聞いて気づいた。ヴンダーの体にはヴェルメの頭が乗っかっている。
寝ているわけではなく、どうやらしがみついているだけのようだ。
リーベの声で、ゆっくりと上げた彼女の顔はなぜか今にも泣き出しそうな怯えた表情をしていた。
何か怖い夢でも見たのだろうか?
目が合ったヴェルメは離れるどころか一層強くヴンダーの体を抱きしめてきた。
「……ヴェルメ?」
「どうしたんだ?」
リーベとアシュティンが心配そうにヴェルメを見る。
ヴンダーもその様子にどうしていいか戸惑っているとヴェルメが小さく呟くように口にした。
「……帰ってきてくれて……よかった」
ヴンダーはその言葉に自分の心臓がビクリと跳ねたのを感じた。
――どういう意味だろう。今の言葉はまるで……
ヴェルメは落ち着いたのかヴンダーから静かに離れ、食事の用意をしているリーベの近くに座った。
まさか……気づいてる? いや、さすがにそれはない。
自分はただ寝ていただけ。少なくとも周りからはそうにしか見えてないはず。
まして意識だけがあの白い部屋で謎の女と会っていたなんて、いくらなんでもわかるはずがないだろう。
……とはいえ心臓に悪い。
ヴェルメは何か見透かすような不思議な言葉を口にすることが度々あったが、今のはこれまでの中で一番びっくりした。
いや。仮に知られたとしても特別まずいわけでないとは思うのだが、ただでさえヴェルメは難儀を背負っている立場なのだ。
自分のこんな理解不能で途方もない事情にあの子を巻きこみたくない。
*
朝食を終え、今日も一行はマーギアを目指す。
ここ連日は天気がよく、時折吹く風が心地いい。
グリューン国を出てからの日数も増えたが、あれ以来魔族に襲われることもない。
危険というほどの出来事もなく、喧噪のない穏やかな旅路だ。
こうしていると正直、ここが滅びかけの世界だということを忘れそうになる。
何日も草原ばかりが広がる変わり映えのない景色と平坦な道を歩き続けることに若干の飽きがないわけでもない。
それでも怖い目に合わずにすむならその程度の許容は楽だった。
「あとどのくらいで着くかな?」
「もうずいぶん進んでるはずだぜ。もう何日かはかかると思うけど、このまま森に沿って歩けば見えてくるさ」
リーベの質問にアシュティンが答える。
どうやら、だいぶ目的地に近づいてきたらしい。
初めは横に見え続ける森を追うカタチで舗装された道を歩いていたが、昨日からその道も途切れてしまった。
昨晩はその地点で野営をし、今日は道のない草地を進んでいる。
幸いここしばらく天候に恵まれていたのもあり、ぬかるんで歩きにくいといったこともない。
しっかりと土を踏みしめ、先に伸びている森を進行方向に歩き続ける。
「ふぁ……、ふぅ……」
ヴェルメが小さくあくびをしながら目をこすっている。
もしかして眠れていないのだろうか?
「大丈夫、ヴェルメ?」
「だ、大丈夫だよおねえちゃん。その、ヴンダーと一緒に……ちゃんと寝たもん」
ヴンダーをちらっと見ながらヴェルメはリーベに答える。
あまり無理をしてなければいいんだけど、とヴンダーは思う。
暖かな気候と風に揺れる草がヴンダーの体を触る。
……あの女の言葉を肯定したいわけじゃないが、確かに平和だ。
人間の国は全て支配されているという話なのに、それ以外の場所は……あまりにも穏やかで。
いっそのこと、この辺りに隠れ住んでしまえば魔族達に見つかることはないんじゃないだろうか――そんなふうにも考えてしまう。
……何か最近、都合のいい想像をすることが多くなってる気がする。
悪い傾向だとヴンダーは思考を切り替えることにした。
「グレンツェの森……いつもは近寄りたい場所じゃないけどこうして目的地の指標にできるのは助かるわね」
ポツリと口にしたリーベの言葉にヴンダーは耳を立てる。
……この森に名前があったのか。
マーギアの村は南西端の森の中に位置するという。
グリューン国と同じく陸の端に当たる場所にあるため、グリューンを起点にして西に歩くだけで目的地には近づける。
その際、陸の端側には森が伸びており、それを指標にマーギアを目指すことになったわけだが――その森はヴンダーにはどこか異様に感じられた。
何が異様かと聞かれると答えづらい。
ただ一言だけで感じた印象を言うなら、大きすぎるのだ。
なにしろこの森はグリューン国から――“から”という言い方も正しくないとは思うが、とにかくずっと続いている。
南端の国と呼ばれているグリューンだが、あの国の後ろには広大な森が続いていた。
つまり南端とは言っても陸の一番端に位置しているというわけではない。
とはいえ端に近いのなら、あの森の奥を抜けた先が陸の終わりになっているのだろうか?
……少し逸れたがともかく。
自分達の目的地への目印になっているこの森はグリューンを発ってから全く途切れていないのだ。
ヴンダー達はこの森に沿うことで南西端を目指している。
つまりこの森自体が陸の端に沿ってずっと伸び続けていることになる。
奇妙な森だ。
ヴンダーが初めてこの世界に来た時に迷った小村近くの森とは違う。
そういえばグリューンを発ったばかりの時、この森に入らないようヴェルメに念を押されたことがあった。
理由まで聞くことはできなかったが単純に危険だからということなのか。
どうにせよ何かしらのいわくつきなのは間違いないようだ。
「少し早いけどここらで休憩するか」
眠そうにしているヴェルメを見てアシュティンが提案する。
「ア、アシュティンさん。私、大丈夫だから――」
アシュティンの意図を理解したヴェルメは慌てながら言う。
「俺が休憩したいんだよ。別に急いでるわけじゃないしいいだろ? 頼むよ、ヴェルメ」
「あ……うぅ」
そう返されたことで否定する理由を失ったヴェルメは姉の顔を見る。
リーベはそんな妹の頭を撫でながら休息を促した。
「マーギアには近づいてるし慌てなくていいものね。一休みしましょう、ヴェルメ」
「う、うん……わかった」
気恥ずかしさを感じながらもヴェルメは二人の提案に従った。
「おいで、ヴンダー」
ヴェルメに呼ばれたヴンダーも傍に行って一緒に休もうとしたーーが。
“……!!"
突然、ピタリと立ち止まり遠くを見つめるような表情で鼻をひくひくと動かしている。
「……ヴンダー、どうしたの?」
“……"
首を傾げながら少女が自分を呼んでいる。
しかしその声もよく聞こえないほど、今気づいたものに意識を取られていた。
“……血の匂いだ"
それもかなり濃い。
この世界に来てからはずいぶん嗅ぎ慣れたし、もともと血は嫌いな匂いではないがさすがに濃すぎる。
何より腐敗臭も混ざって新鮮さはない。
ハッキリ言って不快さが勝る。
「待って、ヴンダー! どこに行くのっ?」
3人は困惑しながら、臭いを辿って走り出したヴンダーを追った。
**
(待ってっ 行かないでーー!)
突然駆け出していったヴンダーを見てヴェルメは怖くなった。
このままどこかへ行って二度と戻らないのではないか。追いかけないともう会えないのではないかと。
もちろんそんな事はなく、ヴェルメだけが抱いているただの杞憂でしかない。
しかし昨晩、眠っていたヴンダーを見た少女はそんな恐れが頭から離れなくなってしまった。
呼びかけてもヴンダーは振り返りもせず前を進んでいる。
「あいつ、森に入る気なんじゃ……!?」
「ヴンダー、待って!」
だんだん森の方へ近づいていることに気づき、ヴェルメ達はより強くヴンダーに呼びかける。
「っ、何……この臭い?」
リーベ達が周辺に漂う悪臭に気づいてまもなく、ヴンダーは足を止めた。
“……”
ヴンダーは森の手前に広がる草むらに向かって唸り声をあげている。
「はぁ、はぁ……ヴ、ヴンダー。一体、どうしたの――」
「ヴェルメ! それ以上、近づくなっ!」
「えっ?」
ヴェルメを呼び止めてからアシュティンが前へ出て、その光景を目にする。
「な……なに、これは……っ?」
「……ひっどいな」
ヴンダー達が歩いていた場所より高い草木に覆われていたため視認しづらかったが、近づいてみれば何があるかはすぐに理解できた。
――ソレは大量の死骸だった。
浅く広めに掘られた穴の中にいくつも無造作に置かれている。
「これ……全部獣の死骸? よね」
人間の死体ではない。
一つ一つがあまりに損壊が激しく、腐敗が進んでいるものも多くあるため判別しにくいが全て何かの獣のようだった。
ショックな光景ではあるが少なくとも人が混ざっている様子がないことはリーベ達の心理的な負担を無意識のうちに和らげる。
「なんでこんな所にこんな大量に……一体何の仕業なの?」
リーベは口と鼻を手で押え、少し顔を背けていた。
ヴェルメも姉の体の後ろに隠れて震えている。
爽やかな青空と草原が広がる清々しさからはあまりに乖離した悪臭と光景。
穴に投げられた死骸はどれも原形を留めないほど粉々に破壊されていた。
乱暴に放られ折り重なった肉のカタマリは何の動物が何匹いるかも識別できない。
カタマリに混ざって獣の欠けた頭部が落ちてなかったら、これが生き物の死骸ということすらわからなかっただろう。
浅いとはいえ人間の大人が4、5人は余裕で寝転がれるだろう広さの穴がほぼいっぱいになっている。
元の動物のサイズにもよるが肉の総量を見るに10匹では効かないだろう。
「人間がやったんじゃねえのは確かだな。多分、他の獣の仕業だろうけど……」
確かに人間の仕業じゃないと即断できる程度には異常な死骸だ。
アシュティンは考える。
(この破壊の仕方はなんなんだ? 意図があってそうしたって言うより、まるで有り余った力を抑えきれず結果的にそうなったみたいなーー)
「他の獣って……こんなことをする獣がいるの? 一体、何のためにーー」
「穴を掘って、その中に食料溜めこむ習性のある獣ならいくつかいるらしいけどな。ただ……」
だとしても殺し方が過剰すぎる。
何か意図があろうが偶発的に出来たものであろうが、こんな死骸を作る力を持っている生き物のいる領域など危険極まる。1秒たりともいるべきではない。
「……ここはヤバい。急いでここを離れーー」
アシュティンが離れることを提案すると同時にヴンダーがより強く唸り声を上げた。
今度は死骸の溜まった穴に対してではなく、その先。
密集した木々の奥へ警戒心を向けていた。
「ヴンダーっ?」
「っ……!」
今度はアシュティンにも理解できた。
森の奥からこちらに向ける視線。そこに乗せられた強烈な殺意を。
それを証明するようにバキバキと樹木が次々、倒れる音が聞こえた。
何かが――こっちに来る。
「リーベ! ヴェルメ! 後ろに下がれッ!!」
アシュティンがそう叫ぶやいなや森の奥から巨大な影が突進してきた。
「ッ……!!」
ーーそれはまさしく獣だった。
見た目は熊と呼んでも差し支えないほど酷似している。
違うのは首周りから両頬にかけて伸びた赤く光る模様が浮かび上がっていること。
体毛は茶や黒ではなく銀色。
何より決定的に違うのはその大きさ。
体をぶつけただけで枯れ枝を折るように樹木を薙ぎ倒すパワーを持つそのサイズは5mある変身後のヴンダーよりも一回り以上大きい。
その圧倒的な巨体が止まることなく、まっすぐリーベ達に飛びかかった。
咆哮と共に巨大な牙が少女を引き裂こうと迫りくる。
しかし、すんでのところでアシュティンが間に入り、獣の急襲を押し留めた。
全力で突進する圧倒的な体躯の獣を真正面から受け止めるアシュティンも尋常ではないが、それでも徐々に押され始める。
「アシュティンっ!」
(ッ……、ぐッ……やッ、ばい……ッ リーベ達が逃げるまで踏ん張りたいけど、持たねえ……ッ!)
上からかかる重圧を槍一本で耐えるが限界だった。
穴の中の死骸と同じように潰そうと獣は更に力をこめる。
「グオゥ……ッ!?」
その時、巨大な獣は変化したヴンダーの横からの体当たりによってその動きを止めた。
巨体は数メートル吹き飛んだがすぐに体勢を立て直し、ヴンダーを睨みつける。
「ヴンダー!」
「二人とも、もっと後ろに下がれ!」
体勢を立て直したアシュティンは2人を連れて距離を取った。
その場には二匹の獣が互いを睨み合っている。
巨大な獣は突然現れたヴンダーにも怯むことなく、仕留めるべき獲物として飛びかかる隙を見計らっている。
距離は約10メートル。
ヴンダーは小さく唸りながら敵をじっと見る。
ーー違和感を感じながら。
“どう……なってるの?"
ヴンダーは目の前の獣に対して戸惑いを覚えていた。
この獣はどうしてこんなに殺意を向けてくる?
殺すこと以外の意思がまったく見えない。
こんなの異常じゃないかーー
「ヴンダー……っ」
みんなが逃げるにもここは見晴らしが良すぎる。
唯一森に入れば身を隠せそうだが、木々を障害物ともしないような存在相手では難しいかもしれない。
“……とにかくみんなを守らないとーー、!?"
「ヴォ……ッ!!」
ヴェルメ達に気を向けた一瞬を狙って獣がヴンダーに飛びかかった。
“……ッ!"
獣はヴンダーの顔を殴りつけると、首に噛みついてきた。
“この……!"
そのまま勢いで引き倒そうとしてくる相手を前足を使って全力で抵抗する。
強引に押しのけると今度はヴンダーが相手の首に牙を突き立てる。
「ヴ……! ヴォォッ!!」
巨大な獣もヴンダーを引き離そうと抵抗するが、ヴンダーの牙はしっかり喰らいつき放さない。
「っ、マジか……」
5メートルを超える巨体二つが直立し、取っ組み合う姿はまるで怪獣映画さながら。
離れて見守っていた3人はその光景に圧倒されていた。
しかしその喰い合いにもすぐに決着が着いた。
巨大な獣はヴンダーの牙を振り解くことはできず、必死に暴れていた足からダラリと力が抜ける。
ヴンダーは首肉をそのまま噛み砕くと巨大な獣は倒れ、絶命した。
“……"
犬の姿に戻ったヴンダーに3人が駆け寄る。
「ヴンダー! 大丈夫だった?」
ワン! と心配ないことを伝えるため、ヴンダーはなるべく元気に返事をした。
「なんだったの……? これ、獣……なのよね? でもこんな大きな獣――」
「多分、トラムぺㇽって獣だ」
皆が感じていた疑問をアシュティンが答える。
やはりこの怪物のような姿は魔物ではなく野生の獣ということらしい。
「西側に生息してるって獣だ。数は少ないみたいだけどロート国の領地じゃ、小村がたまに襲われることがあったらしい。兄貴も昔、こいつの被害を食い止める手伝いをする為に西国に行ってたことがあったよ」
「トラムぺㇽなら私も聞いたことがあるけど……でも、こんなに凶暴なんて話じゃなかったような。こっちから無闇に近づいて刺激しなければ襲われることはそうそうない、って」
「俺も実際に見たのは初めてだからな……でも、それを言うならこんな所にこいつがいるのがそもそもおかしいぜ。西側に寄ってるとはいっても、ここはまだ南の領域だ」
「裁きの光で……西が焼かれた、から?」
ヴェルメがポツリと呟く。
「……かもな。こっちに逃げてきたってことかもしれねえ。んで、この死骸の山は奴の食糧の保管場所ってことだったのかも」
「私たちが近づいたせいで……怒らせちゃったのかな?」
アシュティンがヴェルメの肩をたたき、気にすんなと声をかける。
「とにかく危なかったな。こいつは罠を使って死角から一気に仕留めるのが正しい退治法なんだ。本来こんな正面から堂々と戦うような相手じゃねえ。ヴンダーがいてくれてマジで助かったぜ」
アシュティンはヴンダーの頭を撫でながらホッと胸をなでおろしている。
「そうね……もう行きましょう。まだ他にいないとも限らないだろうから」
「うん――ヴンダー、行こっ」
ヴェルメに促され、ヴンダーも後をついていく。
最後にヴンダーは動かなくなった獣を見ながら考えた。
……怒ってた?
違う。あの獣はただこっちを殺そうとしてた。
そこには何の気持ちも含まれていなかった。
でもそんなの変だ。そんな動物はおかしい。
知らない相手に対する怖さからなる敵愾心ではなく。
自分のテリトリーを侵されたことによる怒りでもなく。
ただ動いている生物がいるから殺す。
そんな無機質な殺意をどうして動物が持てるのだ。
“なんだか、やだな”
全身の毛が逆立つ。
得体の知れない不気味な感覚。
それは暴力によって威圧されるものよりもずっと恐ろしかった。
**
草原を歩く途中、人間の子どもくらいのサイズの岩石がポツポツと点在した岩場を見つけた。
暗くなりはじめていたのもあり、一行はそこで夜を明かすことにした。
低く露出していた岩の上にランタンを置き、その周囲を囲む。
アシュティンは見張りをしながら槍の調子を見ていたが二人は休んでいる。
特にヴェルメ。昨夜はヴンダーを気にして(多分)あまり眠れていなかったせいか、横になってすぐに眠ってしまった。
ヴンダーの体に頭を乗せてすやすやと寝息を立てている。
「トマリ……さま」
首にかけたペンダントを小さな手で握りながらヴェルメはその名前を呟いた。
ヴンダーはそんなヴェルメの姿を優しく見つめている。
……トマリ様。どんな人だったんだろう。
ヴェルメとリーベ。それにアシュティンもだ。
彼女達の口からその人の話が出る度にみんながその人を慕っていることがよくわかる。
きっと素敵な人だったのだろう。
もしかしたら自分にとってのテツロウのような人だったのかもしれない。
“少し、会って見たかったかな……"
そんな思考を最後にヴンダーは今夜を終えた。
◇ ◇ ◇
“ーーなんか用?"
「開口一番で冷えすぎてない? もういい加減慣れたでしょ?」
仲良くやろうよと女は笑顔で言う。誰が。
「まあ別に用があったわけじゃないんだけど、最近は君から来てくれることが多かったしね。たまにはボクから招いてみようと思っただけだよ」
“……用がないなら帰してよ。今日は疲れてるんだ”
「あの獣を相手にしてかい? 今日は災難だったね。でもなかなか壮快だったよ。怪獣同士の戦いって感じで迫力満点だった」
女は雪に拍手と称賛を送る。
「巨獣同士でも生物としての質は君の方が圧倒的に上だったわけだ。森の獣程度では問題にもならなかったね」
“……なにが旅は安全そのもの、さ。魔族がいなくたって十分危険じゃないか”
「まあ不運に当たればどこでも何かしら多少のリスクは出てくるものだよ。それにどうだろう。あの獣を野生の危険と言っていいものか……」
“……どういうこと?”
「いや、当て推量はやめておこう。少し変な獣だったなって思っただけだよ」
“……そう。じゃあもう帰してってば”
「そう? 残念。何か訊きたいこととかあるって思ったんだけどな」
“そりゃあ訊きたいことはいっぱいある、けど”
多すぎてまとまらないし、片っぱしから聞いたところできっと頭には入らない。
それに……嬉しくないけどこの女と会うことはいつでも出来るだろうから特に急ぐ気もなかった。
でもせっかくだから一つくらい何か質問してみようかと思い直した。
“――――”
雪が何を聞こうか考えて口から出たのは雪自身にとって少し意外な質問だった。
“…………トマリ、様”
「うん?」
“トマリ様……って、どんな……ヒトなの?”
この質問にはっきりした理由があるわけではない。
ただの好奇心のようなものか。
初めは自分が知る必要はないと考えていたその名前。
しかしヴェルメ達が今もなお思い慕うその人物の人となりに少し興味を抱いた。
その程度のぼんやりしたものだ。
だから別に質問の答えに期待はしていなかった。
『会って話したわけじゃないんだから、個人の人となりなんてボクが知るわけないじゃないか』
どうせこの女のことだから、そんな感じの言葉でお茶を濁して終わりだろう。
そう雪は考えていた――のだが。
女の見せた反応は雪が思っていたものとは違っていた。
「…………」
女は視線を雪から外し、床を見つめている。
……なんだろうか。
急にボーっとしているというか、どう答えようか少し言葉に詰まっているようにも見える。
変な質問はしてないはずだが……珍しいものを見た気分だった。
「――――トマリ様、ね」
変わった反応をしていたのも束の間、女はすぐにいつもの掴みどころのない雰囲気に戻った。
「トマリというのはかつて魔王討伐に赴いた勇者の仲間の一人だ。とても強い力を持っていて、その力で勇者達を助け、多くの人達を助けた。たくさん感謝をされ、とても慕われていた人間だった」
“……そう。ありがとう”
女が見せた思わぬ反応に一瞬戸惑ったが特に目ぼしい話はなかった。
まあ、別にそれでいい。こっちも考えがあって口にした質問ではないのだから。
――――なのに。
「そして。他所の“花”から今の“花”の世界に移ってもらった生命でもある――彼もね」
――――え?
直後に出た女のその言葉は。
“…………今、なんて……?”
危うく聞き漏らしそうになるほどさらっとした口調に対する腹立たしさを我慢し、答えを聞き返す。
「彼の名前はトマリ――――早紀川泊。君と同じくボクが招いた異邦のモノ」
女は薄く微笑み、ただ淡々と事実を告げる。
「つまり、彼は君の前任者だ」




