西への道程
『トマリ様、もう行ってしまうのですか?』
出立の準備をしている男性にリーベが声をかける。
穏やかな雰囲気をした黒髪の男性は少し気まずそうに返事をする。
『うん。もう聞いたと思うけど、リヒトさんが魔王討伐の仲間に僕を誘ってくれたんだ』
『でも、そんな危険な旅に……』
『そうだね。正直、僕に務まるのか心配で仕方ないけど……でも、少しでも誰かの役に立てるなら僕にとっても意味のあることだ。だから、リヒトさんの目を信じることにしたんだ』
リヒトが勇者と認められ、魔王討伐を目的に旅立つ。
それは故郷の村を失った姉妹が南の国へやってきて、しばらく経った頃だった。
『それにアシュティン君のおかげで君達も元気になってくれたからね。君達を受け入れてくれる村もリヒトさんが見つけてくれたんだ。これ以上、近くにいて君達の新しい生活を邪魔するのは申し訳ないからね』
『そんなこと――私と妹を魔族の手から助けてくださったのはあなたとリヒト様です。なのに、私達は……まだ何一つ恩を返せていません』
『恩なんて感じなくていい。僕がそうしたくてやっただけなんだ。……今度こそ、ちゃんと助けたかっただけなんだから』
男はそう言うとポケットからペンダントを取り出した。
そして何か大事なものを思い出すような寂しい表情で、ペンダントを見つめていた。
『トマリ様……?』
『いや、なんでもない。とにかく僕が自分の都合で勝手にやったんだから君達が気にする必要はないってことだよ』
優しく笑みを浮かべ男性はそう口にする。
『……キレイ』
その時、リーベの後ろにいたヴェルメが男性の手元に近づき、ペンダントを見ながら目を輝かせている。
男性はそんなヴェルメを微笑ましく思いながら見る。
『夜になると、もっとキレイなんだよ? 暗い所で見るとキラキラって青く光るんだ。そういう材料が使われてる物でね。……気に入ったかい?』
『はい。すごくキレイ――こんなにキレイな物なら、トマリ様に似合いますねっ』
屈託のない少女の笑顔を向けられながら、男性は照れ臭そうに笑う。
『僕には似合わないよ。それに、これは僕の――――』
言いかけると男性は何やら考えこむように黙る。
『どうしたんですか、トマリ様……?』
『……そうだな。僕が持つよりも……そのほうが……』
男性は少しの間、独り言を呟くとヴェルメを見て、手に持っていたペンダントを少女に向けて差し出した。
『ヴェルメ。よかったらこのペンダント、君がもらってくれないか?』
『えっ? でも、これはトマリ様の大事な物じゃ……?』
『大事、か……そうだね。でも、もういいんだ。僕にはもう……使い道のない物だから』
『……?』
男性は何かを念じるようにペンダントを強く握りしめた後、ヴェルメに渡した。
『お守りになれるよう祈りをこめておいた。この先、もし君達にまた怖いものが近づいてきたとしても、これを持っていれば、きっと君達二人を助けてくれるはずだ』
『……ヴェルメ』
少し迷っている様子の妹の肩をリーベがポンと触れる。
ヴェルメは少し遠慮がちに男性からペンダントを受け取った。
『トマリ様。私、このペンダントを大事にします。ずっと大事にしますっ きっと――きっとっ』
『――――』
その言葉を聞いた男性は何故かどこか寂しそうな顔をした。
しかし一瞬見せたその表情は消え、すぐにいつもの優しい笑みに戻る。
『ありがとう、ヴェルメ。その言葉だけでも僕にとっては嬉しいよ』
その時、勇者リヒトが遠くから男性を呼んでいた。
男性はそれに返事をし、二人に別れを済ませる。
『それじゃあ二人とも、元気で。みんなが健やかに生きていくことができるように僕も頑張ってみるよ――――……』
***
「――ヴェルメ……ヴェルメ、起きて」
「んぅ……おねえちゃん? もう朝……?」
「ええ。食事の用意ができたから、食べたら出発しましょう」
雪――ヴンダーの体を枕にして寝ていたヴェルメは微睡んだ目をこすりながら、むくりと起き上がる。
ヴンダーはヴェルメが自分から離れるのを確認してからゆっくりと立ち上がった。
「トマリ様の夢を見てたの? ヴェルメ」
「え? うん。……もしかして私、何か言ってた?」
「トマリ様の名前を口にしてた。悲しい夢ではなさそうだったけど」
「うん。トマリ様がリヒト様と旅に出る前の時の夢だった。なつかしくて……嬉しかった」
「……そっか」
リーベは微笑みながらそれだけ口にする。
今の結果に繋がる以上、過去の思い出も最終的には辛いものに変わる。
けど夢は夢だ。
眠りの中で見るわずかばかりの光景くらい、一つの幸せな記憶として閉じて完結したっていい。
その先の現実に思いを馳せる必要などない。
ヴェルメが笑って夢を見られたのなら、それは素直に喜ばしい。
「しかし、よく寝てたな。ヴンダーの奴、お前が寝てる間じっとして動かなかったんだぜ?」
「あ……ごめんね。ヴンダーの背中、気持ちよくて……重かったかな?」
もちろんそんなことはない。
以前は舞菜にのしかかられても平気だったのだから、ヴェルメくらいの子どもが乗ってもヴンダーにとってはどうということもなかった。
「嫌ならヴンダーだって離れるでしょ。気にする必要ないと思うわ」
そう言いながらリーベは木の皿に二人分の食事をよそう。
グリューン国を出た後、一行はアシュティンの希望で南西にあるというマーギアの村を目指すことになった。
舗装された道を利用して西に向けて歩き続ける。
出発して五日は経ったが目的地は未だ遠い。
人の往来の為に作られた道も人類が敗北した事をキッカケにその役割を失ってしまったのだろうか、ヴェルメ達以外の誰かとすれ違うこともない。
少しするとリーベがはい、とスープの入った木皿を渡してきた。
「ありがとう、おねえちゃん。――ヴンダー、熱いから冷ましてあげる。ちょっと待ってね」
ふー、と口で冷ますヴェルメの作業をヴンダーはおすわりの姿勢で待つ。
スープの中にはレーという名前らしい獣の肉が入っている。
こうして食事になる前の姿はヴンダーも見覚えがあった。
背中にコブのついた鹿に似た形状の獣。
この世界に飛ばされ、最初に彷徨った森で何度か見かけた動物だ。
西へ向かって歩いていた昨日の日中、獣が使っている小さな水場を見つけたアシュティンの提案でしばらく足を止めることになった。
5時間は隠れて待っていたであろう頃に現れた一匹の大きな獣の姿を認めると、すかさずアシュティンが飛び出して一息に仕留めた。
どうやら南の地方では多く生息しており、人間の食用にもなっているらしい。
「余った肉の保存は済んだから、もう何日かはこいつで問題なさそうだな」
「ありがとう、アシュティン。私達だけじゃ狩りなんてできないから助かったわ」
「昔取った杵柄ってヤツかな。基本的な狩りの仕方は教わったことがあってさ。と言っても実践の経験はほとんどなかったけど」
「それってリヒト様に?」
「そうそう」
アシュティンは少し自慢げに昔、得た知識を語った。
食べれる野草の見分けや、間近で匂いを嗅ぐと幻覚を見せてくる危険な花、人間が相手だろうと針で一刺しして麻痺させた後に動けなくなった獲物を集団で捕食する虫の対処法など。
「そ、そんな怖いのが……?」
リーベはヴェルメに。ヴェルメはヴンダーに。ヴンダーはヴェルメの体にしがみつきながらプルプルと震えている。
ひっしりと身を寄せ合って、さながら寒い時に身を寄せあう動物のようだ。
「あー……そんな心配はないぜ? 今話した奴が生息してるのは東端にある洞窟とか森の奥とかで南側にはいないはずだから」
「え。じゃあどうしてそんなに詳しいの? グリューンから外へは出たことないって昔、言ってなかったっけ?」
「引きこもりみたいに言うなよ……確かに兄貴と違って国の外にはロクに出たことなかったけど」
これは別にアシュティンに限った話ではない。
この世界の人間は基本的にその人生のほとんどを生まれた場所で過ごす。
道中、皆がしていた話を傍で耳にした程度の情報でしかないが、行商人や何かしら特別な事情や立場を持つ者でなければ、わざわざ「外」に出向く理由などないようだ。
それは別にヴンダーにとってもおかしな話ではない。
「雪」として生きてきたあの世界でもみんながそうだったと思うし、無闇に自分のテリトリーから出ないのは生き物として正しい。
“それでも――”
なんだかもったいないなとヴンダーは思った。
少なくともヴンダーの見てきた範囲では、グリューン国や姉妹が暮らしていた最低限の居住域を除けば、見渡す限りの草原だった。
後、目を引くのは草原とを区切るかのように大きな森が広がっていることくらいか。
全力で駆け回ればさぞ気持ちがいい(実際に楽しかった)だろうが、ヴンダーにとって――雪にとっては人の息吹が感じられないことにはどこか物悲しさを感じてしまう。
元の世界ではあんなにもヒトはぎゅうぎゅうで堂々としていたのに。
この世界のヒトは……ヴェルメ達を含めてどこか控え目だ。
それが魔王に支配されたことでの“傷”によるものなのか、文字通り世界が違うことでの性質や性格の差によるものなのかはわからないが。
一匹の犬が見てきた世界の範囲で何を知った気になるというわけではないが、少なくとも今のヴンダーにはそういう印象があった。
「そういう知識もリヒト様に教わったの? アシュティンさん」
「ん、いや。これについちゃ兄貴じゃなくて……まあ、昔の友達にな」
ヴェルメの質問にアシュティンが答える。
アシュティンには二人と出会うよりもっと以前に仲の良かった同年代の友達がいて、その子から危険な動植物についてのレクチャーを受けたことがあるのだとか。
まだアシュティンがヴェルメくらいの年だった頃の話らしい。
当時、母親と一緒にグリューン国を訪れていたその子とちょっとしたキッカケから仲良くなった。
その子は魔法使いであり、現在向かっているマーギアの村の出身であるという。
「そっか。じゃあアシュティンさんの友達に会いに行くんだ。いいな……マーギアの村って、名前だけ少し聞いたことがあるくらいだったし。私も会えるの楽しみーーかもっ」
ヴェルメは無邪気な様子を見せるが、反対にリーベはわずかに沈痛な表情を浮かべている。
「……マーギアの村は、多分ーー」
「ああ。マーギアは、多分もうねえと思う」
言いにくそうに口を開いたリーベに続いてアシュティンが答える。
「どういう……ことなの?」
「西国と同じだよ。マーギアの村は滅ぼされちまってる。……魔王の“裁きの光”で」
「裁きの光は二度撃たれてる。西のロートが滅ぼされたのはヴェルメも知ってるだろうけど……そのすぐ後にマーギアの村が焼かれたの。グリューン国から調査隊も向かってた……覚えてない?」
「兵隊さんがたくさん村を通り過ぎてたのは覚えてるけど……そうなんだ」
ヴェルメは悲しさと申し訳なさの入り混じったような表情を浮かべた。
ヴンダーはヴェルメの側に近寄る。
ヴェルメに頭を撫でてもらいながらヴンダーは考える。
こうして3人の話をしばらく聞くまで勘違いをしていた。
西にある大きな国が魔王によって滅ぼされたという話は白い部屋の女からも聞いてはいた。
てっきり普通に魔王が自分の手下の軍勢を使って、攻め込んだのだと思っていたがそんなレベルの話ではないらしい。
どうやら魔王が裁きの光(多分、人間が勝手につけた名前だろう)とやらの力を使って魔王城から直接、“砲撃”をしたというのだ。
西の国は見たことがないが五国という一つのくくりに入っている以上、少なくともグリューン国と同程度の規模はあるのだろう。
それがたったの一撃で。
ほんの少し耐えることも逃げることすらもできず一瞬で滅ぼされてしまったというなら――なるほど。
残った人類の心をへし折るには十分だったかもしれない。
しかしそれが可能だったのなら、なぜそれまで魔族や魔物を使った小競り合いなどを人間相手に繰り返していたのだろう?
勇者やその仲間というのがどれほど強かったのかはわからないが、そんな強大な力(もしくは兵器?)を持っていたのなら追い詰められることすらなかったはずではないだろうか。
それに裁きの光が撃たれたのはたったの2回。
そのうちの一回は魔王城から直近にある中央国ではなく、なぜか西端の国。
なにより残りの一回に至っては五国の領地ですらない、遠く離れた場所にポツンとある小さな村に向けて撃ったという。
アシュティンやリーベの口調から何かしら特殊性、もしくは事情のある村だということはわかるが、わざわざ優先して標的にするほどの脅威でもあったというのだろうか。
一発で国を消すような力を持った存在以上の脅威などあるわけないと思うのだが。
なんにしても未だ見ぬ魔王という存在にまつわる話は、打倒を志しているヴンダーの心に暗い影を落とすに十分な物だった。
……そんな途方もない力を持った相手を、本当に倒せるのだろうか。
「悪いな。なくなった村に行こうなんて変なこと言って」
皆に頭を下げるアシュティンにそんなことないと二人は首を横に振る。
ヴンダーとしても特別それを咎める理由はない。
……この世界が死ぬとあの女は言ってたけど、どう動くかはこっちに任せると言ったのもアイツだ。
時間制限がないわけではないのかもしれないけど、一切の寄り道ができないほど差し迫っているというわけでもないだろう。
「さ、そろそろ行こうぜ。まだ先は長いからな」
荷物をまとめ、一行は出発した。
***
ヴンダー達がマーギアの村へ向けて発ってから数日経った頃、グリューン国の町中にはまばらに人の姿があった。
アンデルの支配がなくなったことを知り、閉じこもっていた人々も徐々に表に出始めている。
歓喜しているわけでも活気づいているというわけでもないが、片付けや何かの作業をしている者などが散見される。
――そんな町中の通りを異様な風体の男が歩く。
装飾のない無地の黒いローブを着ている。フードを目深に被っているため表情はわからないが、頬が少しこけているのが見える。
長身だが背を少し丸めて、のそりのそりと重そうに歩く様子が具合の悪い病人にも見える。
そして身に着けた黒いローブは男の長身を持ってもなお長く、ウェディングドレスのトレーンのように男の背後をズルズルと引きずられていた。
また異様なのは男の姿だけではない。
そんな存在が近くを通っているのに町の住民は誰も気に留めていない――というより気づいていない様子だった。
男は一瞬立ち止まり、ある一軒の家をじっと見据える。
するとその家に向かって再びゆっくりと歩き始めた。
その家の前では中年の男が積まれた荷を自分の家に運び入れていた。
中年の男がふと視線を外にやるとローブの男が自分に近づいてくる姿を認めた。
誰も気づかなかったその存在は何故か中年の男の目にハッキリと映る。
まるでローブの男が自分を見ることを許したかのように。
(な、なんだあいつは……)
ローブの男は近づきながら被っていたフードを外す。
その頭部から生えた角は――――
「まッ、まぞ――」
先ほどの緩慢な動きなど嘘のように。
中年の男がその正体を言い切るより先にローブの男は家の中へと押し込んだ。
*
「ま、待て……待ってくれっ 頼むっ 殺さないで、くれ……ッ」
首を絞められ、床に押さえつけられた男はすぐさま命乞いを始めた。
魔族相手にこんな懇願など意味があるのか。
だが言わなければ。次に口を開くチャンスはもうないかもしれない。
ローブの男は低く、静かに声を出す。
「……訊くことがある。答える気がないならそれでいい。オマエを見たのはたまたまだ。役に立たぬなら他を使うだけだ」
考える余地などない。質問に答えなければならない。
偽ることは許されず、知らないと答えようものなら終わりだ。
だが幸い、この魔族が何を知りたがってるのか予想はつく。
中年の男は極力、魔族の機嫌を損ねないよう話に意識を集中させる。
「ここを支配していた魔族アンデルはどうした?」
「……し、死んだ。信じられねえが……やられちまったらしいっ」
「誰が殺した?」
「ア、アシュティンって奴だっ 勇者リヒトの弟で、この国に住んでたっ」
「勇者リヒト……奴の血縁? そんなものがいたのか。アンデルはそいつに倒されたと?」
「ああ、そうだ。パン屋の親子に聞けばわかるはずだッ アンデルの生贄に選ばれた連中が生きて帰ってきて、そう話してたんだからな!」
「ほう……?」
魔族は興味を持ち、耳を傾けているように見える。
中年の男はその反応を見て、さらに情報を渡す。
「そ、それだけじゃねえ……まだいるぜっ 外から来た変なガキ二人だっ グリューン内の小村から来たって本人が言ってた。妙な獣を一匹連れて突然この国にやってきたんだッ そいつらがアンデルの呪いを解いちまったって話だ」
その言葉を聞いた魔族はより関心を持った様子だ。
ーーよし。興味を持ってやがる。
惜しまずに情報をくれてやればそっちに行くだろう。
あいつらにゃ悪いがここを凌げばもう俺には関係ねぇっ
……あぁ、くそっ それにしても。床に叩きつけられた影響か?
痛ぇのはもちろんだが、背中全体がやたら痒いぜ、チクショウッ
「妙な獣……シャトゥン様の仰っていたのは、ソレか? ーーそいつらはどこに行った?」
ーー痒い。痒いな。
それになんだ? さっきから耳元の近くで小さい音が聞こえる。
カチカチって。叩きつけられた時、頭も打ったからな。幻聴まで出ちまったか?
ああ、くそ、本当にロクなことがねえっ
「く、詳しくはわからねぇ。だが奴らは勇者の弟を連れて国を出た後、西へ向かって歩いて行ったのは見た」
「西……」
魔族は考えこむように何かぶつぶつと呟いている。
カチカチ。カチカチ。
ーーああ、マジで背中が痒い。痒くて痛い。
背中どころか手足の先まで痛痒くなってきた。
思い切り全身をかきたいが、下手に動いてこいつを刺激したらまずいしな。
さっさと納得して出て行きやがれ、クソ魔族がっ
カチカチ。カチカチ。
「き、気になるだろ? なんたって、あんたの同胞を手にかけた連中の話だ。パン屋の親子ならもっと詳しく知ってるはずだ。俺なんかじゃなくて、そいつらの所に行った方がいいっ なんなら、俺がその親子の所に案内をしてもーー」
すると中年の男の言葉を魔族は遮る。
「いや、必要ない。お前の情報は思ったより有益だった。これ以上の話はここでは得られまい」
そう言うと魔族はゆっくりと立ち上がり、背中を向けた。
(た……助かった……)
そう安心したのも束の間、中年はすぐに違和感に気づく。
ーー身体が動かない。
力を込めても手足はピクリとも動かせない。
どころか床に縫いつけられてしまったかのように身じろぎ一つできない。
中年はかろうじて目線だけを動かし、状況を確認しようとする。
あれ? というかーーーー俺の手と足はどこだ?
手首から先がどこにもない。足首から先がどこにもない。
赤い液体が手足の代わりにぼたぼたぼたぼたーー
カチカチ。カチカチ。
聞こえ続ける奇妙な音。
一つだけではない。幾重にも同じ音が重なって中年の側で鳴らされている。
まるでたくさんのカスタネットを無造作に叩き続けているかのよう。
――体がかゆい。痛くて痒い。かゆくて痛い。
なんだ? なんでだ? 一体どうして――
魔族は背を向けたまま動かない。
ふと見ると魔族が着ているローブがゆらゆらと不自然に揺れている。
そして一体いつからだったのか。地面を引きずるほど長いローブは更に長くなっており、中年の男の体の下に敷かれる形で伸びていた。
カチカチという音は男のローブから聞こえていた。
中年の体の下からも聞こえてくる。
敷かれたローブの表面にはーーたくさんの口がついていた。
歯並びのいい人間のような口がローブの表面に無数に浮かび上がっていた。
カチカチと中年の側で音がする。無数の口が歯を鳴らし続けている。
その無数の口一つ一つが中年の体を背中からかじり、少しずつ削るように咀嚼していた。
その光景を理解した途端、今まで体にあった痛痒さは恐怖と共に明確な痛みへと変わり、打算や理性など瞬く間に消え失せ、ただこの悍ましさから逃れるようと泣き叫ぶ。
「ヒッ、やぁあああああっ! ああアアアアあッッ!!?」
カチカチ。カチカチ。
耳をかじられた。首をかじられた。肩。腕?
下半身はいつの間にかもうほとんど残ってない。
カチカチという音はやがてグジュグジュ。ガリゴリと音色を変え、それに応じてそこにあった人間の体は徐々に小さくなり、最後にはその痕跡は完全に無くなった。
「……マズい。私もたまには美味を感じたいものだが……上物の魂はシャトゥン様に捧げるべき。ままならないものだ」
魔族ネストはぼやきながら考える。
「西へ向かったと……言っていたな」
……目的が思い当たらない。
西の国はもうないのだ。まさか西端に行くわけもあるまいが。
「パン屋の親子……と言っていたか」
とはいえ必要はないな。
アンデルの遊びから生き残ったらしいが今の人間以上の目ぼしい情報など持っていまい。
せいぜいアンデルの死に様を見た程度だろう。そんなものに興味はない。
エストとアンデルを殺し、ペンダントの持ち主の傍に寄り、勇者の血縁者を引き連れた獣。
その謎の存在に対する興味。シャトゥン様の命。それもあるが、何よりも許せぬ。
魔族に作られし、魔物が我らに逆らうだと?
……そんな存在は不要だ。
己の存在の本分を満たさぬのなら、それは欠陥品であり我らの敵だ。
必ず処分してくれる。
「……待っていろ」
そう呟く声が聞こえた後、もうその場には誰もいなかった。




