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月の影を取る猿

 一瞬、何が起きたか雪には理解できなかった。


 アシュティンが凄まじい速度で突進し、自分の体の下に潜りこんだのはわかった。

 その後、全身に衝撃が走り、気がつけば真上へと吹き飛ばされていた。


“……ッッ!?”


 雪は天井に激突し、近くに吊るされていたシャンデリアを巻きこんで床に落ちた。


 ……今のはアシュティンの持つ槍によるものだ。

 体の下に潜りこんだアシュティンは雪の腹部に槍先を押し当てた。

 そして信じがたいことだが、そのままゼロ距離から槍を突き上げることで雪の巨体を10m以上ある天井の高さまで吹き飛ばしたのだ。

 

 倒れた雪にトドメを刺そうとアシュティンは間断なく斧槍を振り下ろす。


“……ッ!”


 雪はとにかくアシュティンを離すために腕を大雑把に振るう。

 その思惑通りアシュティンは後ろに飛び退き、距離を開いた。


「――ガハッ!」


 血を吐いた。お腹が熱くて、痛い。

 でも今は気にしてる場合じゃない……!


 今のうちにと体を起こすが、体勢を立て直し終えるより先にアシュティンが目前に迫る。

 人間とは思えない尋常ならざる速度で一気に距離を詰め、雪に向けて一閃の突きを放った。


“……!!”


 なんとか横に跳んで逃げるが避けきれず、雪の体の横がわずかに裂かれる。

 アシュティンは突進した勢いを使ってそのまま距離を取り、雪を睨む。


(まともに喰らわせてやったのに……まだあれだけ動けるのかよ)


 受け身も取れていなかった。それほどの一撃だったはず。

 動きを止めた後、一息にトドメを刺すつもりだった。

 なのに、まさか倒れてから即座に反撃してくるなんて――


(こんな魔物、見たことねえ……くそっ、マジで厄介だぜ)


 再び槍を構え、雪に与えたダメージの程を窺いつつ次の攻撃の機会を狙う。



 アシュティンは雪に脅威を感じているが雪はアシュティンに対し、それ以上の戦慄を覚えていた。


“こ、この人……ヒト? 人間? なんだよね……?”


 この世界にいる魔物や魔族といったものは雪にとっては初めて見る新しい未知の存在だった。

 だから最初こそ驚いても、一度目にしてしまえば“そういう生物なのだ”と受け入れることはできる。


 だが人間は違う。雪は人間という存在をすでに知っている。

 人間の持てる性能の基準というものを雪は理解している。

 元の世界で一緒に過ごした彼らも今の世界で出会った彼女達もその基準範囲だ。


 しかしこの男は? 膂力も速度も次元が違う。

 リーベのように魔法の力を扱っている様子もない。

 黒い怪物となった雪の圧倒的な力に対し、自身の純粋な身体能力のみで肉薄していた。


 アシュティンの性能は雪の理解する人間の基準をあまりに逸脱しすぎている。

 人間というものを身近で知っているだけに、アシュティンというイレギュラーさは雪にとてつもない衝撃を与えていた。


「ふふ、言ったでしょう? 彼はこの国で一番強いって。だからそろそろ本気でやったほうがいいと思うの。でないと、あなた――とてもつまらない死に方をしてしまうわ?」


 アンデルの煽りなど聞こえないが雪は焦りを感じていた。


“まずい……よ”


 アシュティンを傷つけずにリーベ達の時間を稼ぐことが目的だった。

 とにかくこの死合いを長引かせる――それは十分可能だと考えていた。

 だがこうなってくると話は変わってくる。


“甘かった――この人を軽く見すぎていた。様子見をしていたのは、この人も同じだった……!”


「……譲るわけにはいかねえ。選んじまったんだからな……選んじまった以上、もう俺には捨てられねえ。正否なんて知らねえ。俺は……捨てるわけにはいかねえんだッ!!」


 もう避けて適当に逃げ回るなんて真似はさせてくれないだろう。

 ここからは全ての攻撃が必殺に繋がってくるはずだ。

 こちらも全力の迎撃が必要になる。


 これ以上の手抜きは――死ぬことになる。


“リーベ……、ヴェルメ…………っ”


「……オオオッ!!」


「……ふふふっ うふふふ。あはははは――――っ」


 魔族は嗤う。少年の哀れな覚悟を。

 そして待ちわびる。黒い怪物がもたらす死を。



 引き返す術なしと観念した白槍の刃が、今だ覚悟の定まらない黒い獣へと振り下ろされた。



***



 呪いを一つ解いた後、リーベとヴェルメは二本目の塔を目指し急いでいた。

 幸い二つの塔は町の真ん中にある大通りを挟んで互いに向かい合うように設置されている。

 一つ目の塔からなら、そう走り回されることはない。


「おねえちゃん、腕は大丈夫……っ?」


「うん、もう平気よ。最初からたいしたことはなかったし」


 瘴気に触れた直後はヒリヒリと火傷をしたような痛みがあったが、今はそれも消えているし痕も残っていない。気にすることではないだろう。


「それより急がないと――あの子もいつまで時間を稼げるかわからない……っ」


 ……とにかくこの呪いさえ解くことができればアシュティン様も私達も自由になれる。アンデルへの手出しも可能になるはずだ。

 あんなバカげたゲームは絶対にここで終わらせないと……!


「着いたっ ――これだよね、おねえちゃん?」


 目の前には一つ目と同じく細身の高い塔がそびえ立っている。


「うん、そうね。――ごめん、ヴェルメ。ペンダントを用意してもらえる?」


「あ……、そうだね。ちょっと待って」


 ヴェルメが胸もとからペンダントを取り出す。


 ……ここにも呪いの元があるなら最初の塔と同じく、きっと内部は瘴気で覆われているに違いない。

 ヴェルメに頼りきりになってしまうのは心苦しいけど、ペンダントの効力がヴェルメにしか使えないとわかった以上、そうも言っていられない。


「いいよ、おねえちゃん」


「よし。……それじゃ、開けるわ」


 ヴェルメの合図を確認し、扉をゆっくりと開く。


(! ……あれ?)


 扉を開いている途中で何かおかしいと感じ、中の様子が見えたことでその違和感を理解した。


(アンデルの瘴気が……ない?)


 最初の塔のように空気が毒で満ち、侵入を妨害するものがない。

 見渡した限りでは異常はないようにも見える。


「なんともない……ね?」


「そう、ね……」


 ヴェルメが横から塔の中を恐る恐る覗きこむ。


(もしかして、ここじゃなかった……?)


 その可能性が頭をよぎる。

 だがアザが消えていない以上、呪いの元は確実にまだ残っている。


 それに町の真ん中に建てられた高所の建物というのは、アンデルのこの呪いにとっては拡散させやすい、かなり好条件な立地のはずだ。


 実際、一つは塔に仕掛けられていた。

 二つ目を同じ条件下に仕掛けない理由などないはず。

 少なくとももうここ以外に思い当たる場所はなかった。


(なんにしても確かめてみないと。ただ――)


 気になるのは最初の塔のように侵入を阻む為の瘴気がないことだった。

 一つには妨害を仕掛けておいて、もう一つは無防備などということがあるだろうか?


(時間は取られるけど念のため、入る前に探ったほうがいいかも……)


 そう判断をしかけた時、ヴェルメが前へ出る。


「急ごう、おねえちゃんっ」


「え、あっ ちょっと待って、ヴェルメ――」


 慌てて声をかけるがすでに遅く、ヴェルメは中に足を踏み入れた。


 すると塔の中――階段の手前の床が紫色に光り始めた。


「え――」


 ヴェルメは足を止める。

 そこから出現したのは3mはある巨大な人影――いや、魔物。オークだ。


 ああ、ただの杞憂だったらよかったのに――とリーベは目の前の現状を心底、厭った。

 オークがヴェルメを両断しようと大ナタを振りかぶっている。


 リーベは後ろからヴェルメを抱えて横に飛び、凶刃から逃れた。

 飛び退いた勢いで二人一緒に倒れこむ。


 リーベはすぐに立ち上がり、ヴェルメの体を引き起こしてから指示をする。


「ヴェルメ、行って! 階段を上るの! はやくっ!!」


「で――」


 でも、と言いかけたが有無を言わせない姉と状況に押されてヴェルメは走った。

 体勢を戻しきっていないオークの横をすり抜け、階段を駆け上がっていく。


「グ、ゴ……ッ!」


 オークはそれに気づき、逃がさないとばかりにヴェルメに手を伸ばす。


草木よ、眠りに誘え(プランツェ・スレイプ)!」


 リーベが呪文を口にすると、どこからともなくオークの頭上に花びらが現れる。

 はらはらと流れるように落ちたその一枚が体に触れた瞬間、オークは力が抜けその場で倒れた。


「っ……、あ……っぶなかったぁ……」


「おねえちゃん! 大丈夫っ?」


 上からヴェルメの声が聞こえる。


「平気よ! 今、私もそっちに――」


 行くね、と言いかけた時、床が再び紫に光り始めた。

 そこから二体目のオークが出現し、巨大な体でリーベを見下ろしている。


「う、そ……でしょ……!?」


「っ、おねえちゃん! はやくこっち来てっ!」


 確かに階段からは近くこのまま駆け上がることもできるが、この魔物を無視して行くのはあまりに危険に思えた。

 この魔物のサイズでは狭い階段を上ることはできないと思うが、下で暴れられでもすれば階段どころか、この塔ごと崩されかねない。


「私はいいから! あなたは早く上に向かって!」


「グオ……ッ!!」


 壁を背にしたリーベは間一髪、横に跳びこみ振り下ろされた大ナタを避ける。

 ナタを打ちつけられた後ろの壁が一部崩れた。


「こ、の……! こんな狭い場所に出てきていい大きさじゃないでしょ、あなた達は――!」


 この中で戦うのはまずいと考え、リーベは扉に向かい外に飛び出した。

 そして注意を引くため、外からオークに呼びかける。


「ここよ! こっちに来いっ! 私が相手だっ!」


 オークはリーベの声に反応し、扉を狭そうに潜りながら出てきた。


(よし。とりあえずヴェルメからは引き離せた! ただ――私一人でこいつをどうにかできるか……っ?)


 いや、どうにかするしかない。こんな罠が仕掛けてあった以上、やはりこの塔にも呪いの元があるのは確定と考えていい。

 こいつを倒して、すぐにヴェルメの後を追わなければ。


「もう少しのはずなんだから……邪魔しないでっ!」



**



「はぁ、はぁっ、……おねえちゃんっ」


 本当はすぐにでも姉を助けに行きたかったが、今は呪いを消すことが最優先だ。

 呪いを解いて、魔族を倒すこと――それが現状この国で起きている全ての窮地を救うことに繋がるはず。

 リーベはその上でヴェルメを先に行かせた。

 なら自分が止まるわけにはいかないとヴェルメは必死に階段を上る。


 このペンダントがあれば呪いを消してみんなを助けることができる。

 それを可能なのが自分だけなのだと理解した今、必ずやりきるという決意がヴェルメの中に生まれていた。


「はぁっ、はぁっ――……!」


 ヴェルメは元々、臆病な気質で勇敢な子どもではない。

 昔から辛い時も怖い時もリーベが傍で守ってくれて、ヴェルメもそんな姉の後ろに隠れることばかりだった。


 こんなに怖がってばかりの自分では誰かの助けになんてなれないと考えていた。


(でもあの子は――怖がってても、守ってくれた。悲しくて泣いてたのに、一緒に来てくれた)


 どこから来たかもわからない、夜の森で出会った不思議なケモノ。

 あの子の優しい温かさを思い出すと怖くて震えるこの体でも立っていられる。

 私たちを守るために戦うあの子の勇敢な姿を思い出すと、こんな怖がりの自分にも勇気がわいてくる。



 あの子は、私にとって―――――



「名前……決めたよ」


 一生懸命、私なりに考えたの。気に入ってもらえるかは自信ないけど。

 でも……がんばるから。あなたみたいに勇気を出して、がんばるからっ


 だから、あなたに聞いてほしい。


「――――待っててね」


 より固めた決意と共にヴェルメは上階を目指した。



**



 黒い怪物の体から鮮血が舞い、玉座の間の床を赤く染めていく。


 アシュティンの一方的な攻勢は変わらず続いており、雪はひたすら耐え凌いでいる。

 だが彼の烈々たる攻めは回避に徹しようとする雪を逃さず、容赦のない斬撃が雪の身体を切り裂く。


「………ッ」


 せめて外だったならもっと逃げ回れたはずだが、やはりこの場所ではどうしても避けきれない。


 式典などにも利用されるこの玉座の間も一つの部屋として見た場合、かなりの広さを誇っているが5m以上ある雪の巨体が自由に駆けるにはやはり不自由と言わざるを得なかった。


 そして何より本気を出したアシュティンの攻撃は、もはや雪の地肌だけで防げるものではない。

 槍の攻めを受け続けた雪の身体からはおびただしい量の血が流れていた。


「怪物さんったら、まだ粘るの? 本当に死んでしまうわよ?」


 アンデルの茶々と同時にアシュティンが高速で接近し、下段に構えた斧槍を振り上げる。

 躱しきれず顔の右側を眼球ごと切りつけられ、視界を半分失った。


「……ッ!!」


 雪は思わず腕で殴りつけていた。

 横合いから振るわれた足に反応できず、まともに食らったアシュティンは吹き飛ばされ思いきり壁に叩きつけられる。


“っ、しまった……!?”


 依然、傷つける意思のなかった雪は焦る。

 反射的に動いてしまい力を抜くことができなかった。

 普通の人間なら即死か良くて瀕死になっている一撃のはずだが――


「ぐッ……、ハァ……ッ」


 崩れた体を立て直し、アシュティンは再び槍を構える。


 雪はホッとすると同時に改めてアシュティンという男を恐ろしく感じた。

 人間としての範疇をはみ出すぎたフィジカル。

 本当に哲郎やヴェルメ達と同じ種族なのかと疑いたくなる。


(見た目に反した速さと、見た目通りのパワーか……くそっ)


 人間としては飛びぬけた肉体をしているアシュティンもやはり今の一撃は効いていた。

 ヒザをつかないようになんとか踏ん張っている。


(そのでかい爪を使ってりゃ……今ので殺せただろうよ……テメー)


 ……理解不能だ。

 考えないようにしてたが、やっぱりこの魔物は俺を殺そうとする意思がない。

 こっちがいくら攻撃しても逃げに回って、ロクに反撃もしてこない。

 そもそも敵意すら持ってないっていうのか……?


 こいつは何なんだ? リーベとヴェルメはこいつとどういう関わりがある?

 あの二人は、どうして――――


『お願い! どうか、この子を――この子のことを信じてくださいっ!!』


 そんなこと言われてもわからねえよ、ヴェルメ……俺に、わかるわけがねえ。


 アシュティンはチラリと横を見る。

 玉座で観戦するアンデルの近くには怯えた顔でこちらを見守る親子。


(……俺にわかるのは。今、俺が折れたらあの二人が助からないってことだけなんだッ!)


 アシュティンは跳んだ。

 真っ直ぐ駆け、雪に向けて渾身の一刺を放つ。


“……”


 雪は動かない。

 アシュティンの突進を正面から待つ。



 ズグッ――って嫌な音が自分の頭の中で響いた。


 喉元には彼の槍が思いきり突き刺さっている。

 すごく痛い――でも、ただそれだけだ。

 車に轢かれたあの時みたいな、寂しさと怖さはない。


 だからこれでいい。多分今の自分はこれくらいじゃ死なない。

 ここはとても狭くて彼はとても速いから。


 捕まえるには――これでいい。


(っ!? 槍が抜けねぇ――ッ!)


 槍は雪の体に刺さったまま引いても押してもビクともせず。

 動きの止まったアシュティンを振り下ろした前足で床に押さえつけた。


「ぐっ……こ、のっ……!!」


 アシュティンは人間とは思えない力で雪の足を押しのけようとする。

 気を抜けばあっさりと振りほどかれてしまいそうだった。

 雪は圧し潰さないように、しかし逃げられないように力を加える。


「ぐッ……、…………」


 やがて諦めたようにアシュティンの体から力が抜けた。

 アシュティンは黙って雪を見ている。


「ふふ、勝負あったわね。おめでとう――あなたの勝ちよ怪物さんっ さあ、彼を殺して。あなたの残虐さを早く私に見せてちょうだいな」


 雪は応えない。

 何もせず、ただ黙ってアシュティンを見ている。

 そんな雪を睨みながらアシュティンは言う。


「……なんなんだよ。ワケわかんねえ……なんで俺を殺そうとしないんだ。ずっと――最初からずっと、お前には全然殺意がなかったっ」


 その事実を言葉として形にするにつれ、自分の感情がグチャグチャになっていくような感覚になり、アシュティンは声を荒立てる。


「リーベとヴェルメを守ろうとしてるんだろっ? だったら、なおさら――なんで俺を殺そうとしないんだよ!? あの二人を助ける気なら、それが必要だってわかるだろうがッ!」


 雪は動かず、ただ黙っている。

 まるで期待している何かが起きるのを待っているように。


「マジでなんなんだよ、お前……いい加減にしてくれ。魔物なら魔物らしくしてくれりゃあ……よかったのに」


「どーしたの、怪物さん? 早く殺してみせてよ。その後、あなたとはゆっくりお話がしたいんだからっ」


“…………”


「な……」


 沈黙していた雪はアシュティンを押さえつけていた足をどかし、後ろへ下がる。

 そして体に突き刺さった槍を口でくわえて乱暴に引き抜き、アシュティンの近くへ放り投げた。


 アシュティンは体を起こし、雪を見る。

 雪の体からは多量の血が流れている。

 塞がってきている傷もあるが、積み重なったダメージはまだ大きいはずだ。


 それでも雪の意思はアシュティンに訴えかける。

 まだ終わってない――終わらせるわけにはいかないと。


「…………」


 アシュティンは槍を手に取る。

 感情の整理がつかないまま再び雪と向かい合う。


“そうだ――まだ続けるんだ。まだ、終わってないんだから”


 二人のために頑張ると決めた。あの二人はきっと、まだ頑張っているはずだ。

 だからそれが済むまでは自分の役目も終わらない。

 まだまだ。全然、我慢できる。


 雪は再びアシュティンとの戦いを耐える覚悟を決めた。


「…………」


 だがアシュティンは構えを解き、槍を下げる。

 その顔は苦渋に満ちていた。


 今にも泣きそうな表情のままアシュティンは親子の方を振り返る。


「アシュティン………」


「ロミー……おばさん……っ 俺――――っ」


 親子に向けて何かを言いかけたアシュティンの口から零れたのは続きの言葉ではなく、血だった。


「コフッ――」


 何かがアシュティンの腹部を貫いていた。

 アシュティンはそのまま崩れ落ちるように倒れる。


「いやあ! アシュティンさん――!!」


 それはアンデルの影だった。

 アンデルの影が伸びて鋭利なトゲの形となりアシュティンを貫いた。


「――ごめんなさいね。本当はこんなカタチで水を差すのは好きじゃないんだけれど……私、どうしてもその子に残ってほしいのよ」


「グルルッ! グオォァッ!!」


 雪はアンデルに怒り、吠える。

 今はまずいとわかっていても飛びかかってしまいそうだった。


「ああ、襲いかかってはダメよ? 私の作ったこの呪いは自動的なの。一度アザが動いてしまったらもう私にも止められないのよ。そんなつまらない事であなたを失いたくないから、お願いね?」


 アンデルは玉座からピョンと飛び降りつつ語る。


「正直に言って、あなた達の戦いはとても期待外れだったわ。だってあなたってば、ちっとも本気で戦わないんだもの。彼を殺さないようにどころか傷つけないようにって一生懸命だったでしょう?」


 その言葉に反してアンデルはとても嬉しそうにしている。

 愛らしくも気味の悪い笑顔で話し続ける。


「だからこそますます興味が湧いたのっ 魔族を殺し、人を助け、人を傷つけたがらない魔物なんて在り得ないんだもの! あなたって本当に素敵だわ。期待外れだからこそ素敵っ 私の物にしたくてたまらない!」


 アンデルはロミー親子とアシュティンを一瞥し、ニコリと笑う。


「だからごめんなさいね? 今回はそういう事情があるから、あなた達には謝っておくわ」


「ひ……っ」


 耳元で死刑宣告をされ、ロミーが青ざめる。


「ア、アンデル! 待て……! ロミー、おばさん……っ!」


 敗北者と認識された3人に刻まれたアザが蠢き始める。

 それは首から一気に全身に広がり、肉体を一瞬で溶かす。

 そして残った影がアンデルの糧となり消えていく。


 だが、3人に広がるアザは途中でその動きを止めた。


「――――え?」


 驚くアンデル。

 理解が追いつくより先に雪の躊躇のない巨大な爪が襲いかかった。



***



「はぁっ、はぁ――っ!」


 リーベは追ってくるオークからなんとか距離を取ろうと走っていた。

 しかしサイズ差もあって、オークの大きな歩幅から中々逃げられない。


 せめて細い道にと考えたが、塔が大通りに面した開けた場所にあったため、オークを連れた状態で狭い路地を探して逃げこむ余裕がない。

 今は広々とした道を闇雲に走っている状態だった。


(しっかり私を標的にしてるな……)


 それは望んだ状況ではあるものの、そのせいで対抗する術がない。


 リーベは複数種の魔法を扱える。

 傷を癒す回復魔法の他に水や草花の力を利用でき、中でも草花の魔法は相手を眠らせたり、幻覚を見せて視界を混乱させることができる。

 塔の中でオークを眠らせたのはその力を使ったものだ。


 ただしそれらは術者のリーベから意識を逸らした相手にしか効果がない。

 塔ではヴェルメに意識を向けていたから不意を打てた。

 だが今の状況では――


(ほんの少しの間でいい。どうにか私から意識を逸らせれば――)


 そう考えながら後ろを振り返るとオークが足を止めている。

 それを疑問に思っているとオークは手に持っていた大ナタをリーベに向けて大きく振りかぶっていた。


「え、まさか――うそでしょっ!?」


 オークは自分の得物をリーベに向かって思いきり投げてきた。

 リーベは全力で前に跳びこんで地面を転がる。

 先ほどまでリーベが立っていた地面がナタによって砕けていた。


「いっ…、たぁ……っ」


 間一髪で避けることはできた。

 目の前にあった段差に手をかけ、すぐに起き上がろうとするが――


「ぁ……」


 すでにオークは目前に立って、少女を見下ろしていた。


 動けない。

 さっきまであれほど必死に逃げ回っていたのに、今は蛇に睨まれた蛙のように身動きができなくなっていた。


 ……殺される。もう逃げられない。

 あの大ナタで真っ二つ? それともあの大きな手で掴まれて握り潰される?

 それともあの大きな口で噛みつかれて、頭からムシャムシャと食べられて――


 思考が急速に死の方向へと染められていく。

 しかし今も足掻いているであろうヴェルメやアシュティン、雪の存在が浮かぶ。

 それらがリーベの頭の中で、この状況をどうにか打開しようという思考の余地をわずかに残していた。



 その時、リーベの耳にチョロチョロと水が流れる音が聞こえてきた。

 起き上がろうと手をかけた段差が噴水の縁だと気づいたリーベは――


(噴水――――水!)


 オークの巨大な手がリーベを掴もうと伸びてくる。

 その前に一瞬早くリーベが魔法を唱える。


水よ、包め(ウォーテ・ラップ)!」


 すると噴水の水が集まり大きな水球が作られ、それがオークの頭をすっぽりと覆った。


「!? グ、ゴオオ……ッ!!」


 オークは水球を振り払おうと体を動かし、暴れている。

 リーベがなんとか体を起こした途端、オークが腕を振って殴りつけてきた。


「きゃあっ……!?」


 ギリギリ当たらなかったが後ろにのけぞったことで噴水に落ちてしまう。


 オークは頭を覆った水球を取り除こうと手を顔に近づける。

 しかしいくら水を掻き出そうとしても手は水球の中に沈むだけで全く意味をなさなかった。


「グ……ッ ゴ…………ッ」


 呼吸する術のなくなった魔物はやがて意識を失い、倒れた。


「ぷはっ! けほっ、けほっ ――や……、やったぁ……」


 ……水の魔法は草花の魔法ほど得意じゃないから、()()()()()()()を利用することでしか発動できないんだけど……運が良かったな。



 安心から思わず噴水の中でへたり込んでしまいそうになるが、ハッと我に返る。


「だめだめ! ヴェルメの所に戻らないと――!」


 妹の無事を祈りながら、リーベは塔へと急いだ。



***



「はぁ……はぁ……も、もう少し……っ」


 長い階段も終わりが見え、最初の塔と同じく小部屋へと続く小さな扉が見える。

 ヴェルメはペンダントを手に握りしめる。


「トマリ様……どうか力を貸してください」


 ヴェルメは一度深呼吸をし、気持ちを落ち着かせる。

 そして進もうと残りの階段に足をかけた――その時だった。


 小部屋に続く扉の前の床が紫色に光りだした。


「え――」


 そこから現れたのは3匹のゴブリン。

 ヴェルメの決意を揺らがせるように行く手を阻んでいた。


(こ、ここにも仕掛けられてた……)


 恐怖で体が震えているのがわかる。

 ヴェルメは思わず後ずさりそうになるが、なんとか踏みとどまる。


 ここで逃げ出すわけにはいかない。今、ここには自分一人しかいないのだ。

 助けてくれる存在は近くにいない。ここは自分でなんとかするしかない。


(怖がってもいい……でも、すくんじゃダメ!)


 ヴェルメは勇気を出してゴブリン達をキッと睨みつける。


「大事なことをしなきゃいけないの……! だから、そこをどいてっ!」


 ペンダントを握りながらヴェルメはゴブリン達に向かって走りだした。


「ギヒャッ……!!」


 ヴェルメを捕まえようとゴブリンが掴みかかる。

 だがペンダントの力が発動し、光に包まれたヴェルメの近くにいたゴブリンは皆、霧散した。


「はぁ、はぁ……っ!」


 どうにか扉の前に辿り着くことができた。

 ペンダントの力についてはもう理解してはいるものの、やはり怖いものは怖い。

 まして魔物の群れに突っこんでいくなど普段なら到底9歳の少女ができることではなかっただろう。


(この中に、きっと……)


 ギヒャ……! ギ……ッ!


 すると今度は階下から複数のゴブリンの声が聞こえてきた。


(し、下からも来てる……!?)


 ヴェルメは扉を開け、中に入った。

 そして急いで小部屋に入り、扉を閉める。


 しかし鍵らしきものは見当たらず扉を押さえつけておけそうな重しもない。

 大体そんな物があったとしてもヴェルメにそれを動かす力はない。


「はやくっ はやくしないと――っ」


 ヴェルメは小部屋の奥を見る。

 最初の塔と同じで奥にある椅子の上に黒髪で黒いドレスの少女の人形が置かれていた。


「あった……!」


 ギヒャ……! ギヒャッ!


 ゴブリン達の声が近づいてきている。もう後がない。

 乱れた呼吸を繰り返しながらヴェルメはペンダントを握る。


 もしこれでも呪いが消えなかったら。

 まだ呪いの元が他にも残っていて、それも消さなければならないのだとしたらもう打つ手がない。

 この国の人達もアシュティンも。ヴェルメ達も皆、ここで終わってしまう。


「トマリ様……トマリ様、どうかお願いします……!」



 ヴェルメは強い気持ちで祈りながら呪いの人形へと手を伸ばした。

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