愛を宿す水晶玉
彼女はいつもどこか遠くを見ている。
私を通して、誰かを見ているようだった。
知らない誰かを求めるように。
まるで愛おしい相手を見るように。
ーー彼女は、一体誰を見ている?
ズキリ…頭が痛む。
彼女は私に優しい。
いつも笑顔で嬉しそうに微笑みかけてくる。
しかし、その瞳はやはりどこか遠くを見ていた。
「愛しているわ」
彼女は口癖のように私にそう伝えてくる。
私に「愛」を伝える彼女は美しく微笑んでいる。
しかし、その瞳だけは氷の様に何処までも冷えきっていた。
けれど…
時折、ふとした瞬間に見せる悲しげに揺れる瞳が美しくて…
胸を締め付ける痛みが苦しくて仕方がない。
この痛みを、苦しみを私は知っている。
この感情がなにか、私は覚えている筈なのに…
ズキズキ…
私を蝕む頭痛が思考を遮る。
ーーこの胸の痛みは、この感情は何だっけ?
彼女はいつも何かを抱えていた。
丸くて小さい、手の平程の美しい水晶玉だった。
彼女はそれを愛おしげに見つめてはいつもどこか悲しそうに笑っていた。
何かを諦めるように、溜息を零しては水晶玉を愛おしげに撫でている。
何かを求めるように渇望してやまない光を瞳に宿しては、水晶玉をコロコロと手のひらで転がした。
彼女は何かを求めては、いつも何かに焦がれてるようだった。
それこそ、いつも私に薄っぺらい言葉で伝えてくる
ーー「愛」というものを。
ズキッ…また、頭が痛む。
まるで何かを訴えかけるように、痛みを増してゆく。
『ーー』
痛みの狭間で…
彼女ではない、誰かの声が聞こえた気がした。
痛みを隠すように素知らぬ顔でそれは何?
と彼女に問いかける。
正直、彼女にそんな顔をさせる水晶玉なぞいっその事壊してしまいたかった。そうしたら、彼女は私を見てくれるかもしれない、なんて夢想する。
けれど、彼女がとても大切にしているものだということも理解していたから思わずはらい落としそうになる手を背中に回して拳をにぎりしめては我慢して我慢して耐えるのだ。
そんな私の事など知らない彼女は首を傾げて、何と伝えようかと言葉を探しているようだった。
そして、暫くの逡巡の後…
とても悲しそうな目をして微笑んだ。
愛おしげに、悲しげに彼女は水晶玉を撫でる。
「これは…とても大切なものなの」
けれど結局そう言ったっきり、詳しく話してくれることは無い。あれは一体何なのだろうか?
「ねぇ、愛しているわ」
そう口にする癖に、私を見ない彼女に苛立ちが込上げる。
あなたは、誰にそれを言っているの?
あなたは、誰を見ているの?
あなたの瞳に、私は映らない。
彼女の視線はまた、手元に収まる小さな水晶玉に向けられていた。
合わない視線。
こちらに向けられることの無い感情。
彼女の関心を一身に集めるのは私では無い。
小さな、小さな水晶玉はキラリと光って彼女の瞳に映った。
無機質な冷たいそれに…
彼女は呟くのだ。
「…ーー愛しているわ」
『ーーーる』
そんなもの、壊れてしまえばいいのに。
「愛」を伝える彼女の、本当の愛は誰に向けたものなのか?
「…愛しているわ」
『ぁーーー』
なら、私を見て。
「あなただけを、私はーー…」
『ーーー…』
彼女の声に、誰かの声が重なる。
ズキズキ痛む頭が、何かを伝えてくる。
この痛みはなんだろう?
彼女は何故、私を「愛している」なんて言うのだ?
この声は一体…。
◇
「愛しているわ」
そう告げれば、彼は優しげな笑みをその口に載せる。
その視線は柔らかく、私を見つめている。
けれど、決して私に「愛」を返してくれることは無い。
「愛しているわ」
彼の手を取り、頬を寄せる。
暖かいはずのその手が私の手を握り返すことは無い。
私の頬を優しげに撫でてくれることもない。
ただ、縋り付く私をその冷たい手は振り払うことはしない。
されるがままの彼は、いつもと同じ微笑みだけを浮かべていた。
「愛しているわ」
彼には好きな人がいた。
彼は彼女のことをとても深く愛していた。
それを、私はいつも隣で見ていたの。
彼の隣に立って
彼の手を取って
彼に口付けて
彼を抱き締めて
それでも、彼の瞳は私を写すことは無い。
彼の心に、私はいない。
「…愛しているわ」
愛してる。
心から、あなただけを愛しているの。
でも…やはり、私の気持ちは彼には届かない。
だから…
「それは何?」
私が持つ小さな水晶玉。
いつも持つそれは一体何なのかと、彼が聞いてくる。
これは、これはね…
「…とても、大切なものなの」
あなたに決して届くことの無いものよ。
あなたが決して気付くことの無いものよ。
あなたにとってとても下らなくて、煩わしいものよ。
けれど、私にとっては命よりも大切な…
私の愛よ。
◇
水晶玉には私の愛が宿っている。
水晶玉には彼の恋が宿っている。
封じた心は混ざることはなく
封じた記憶に彼が気付く事はなく
封じた感情は色褪せることはなく
けれど、水晶玉は脆く壊れやすい。
だから、いつかこの手から零れ落ちてしまえば…呆気なくひび割れ小さな欠片となって散ってしまうのだろう。
その時、私の愛と共に貴方に全て還るでしょう。
貴方の記憶も
貴方の感情も
そして、貴方の『恋』も…
その時、あなたは何を思うのかしら。
あなたはその時、漸く私の気持ちを知るのかしら。
あなたはその時、一体どうするのかしら?
今はもう会えない彼女を想ってまた『恋』をするの?
それとも、もう会えない彼女を想って泣くのかしら?
絶望して、また心を壊してしまうかしら?
私を恨むのかしら。
私を憎むのかしら。
その時になって漸く…
あなたは私を見てくれる?
◇
私の愛と、彼の恋を封じた水晶玉は今も冷たく私の手の内に収まっている。コロコロとしたそれは、どんなに手の内においても温まることはなく氷のように冷たい。
きっとそれは、彼の想いが強いから。
「…愛しているわ」
あなただけを、愛しているの。
封じた愛を、記憶を、感情を私は知らない。
けれど、今も溢れてやまないこの気持ちはなぜかしら?
とめどなく湧き続けるこの想いはーー…
私はまた、溢れる「愛」を水晶玉に込める。
漏れないように、
溢れないように…
…本当は、見えないところに隠すことも出来た。
壊れないように大切に保管するべきだと分かってもいた。
私の中にはかつて彼を愛したという事実だけが残っている。
彼のどこを好きになったのか、
いつから彼のことが好きなのか、
彼との出会いは、
彼との思い出は…
そんな彼を愛した記憶は水晶玉に封じてしまったから今の私の中にはない。
なのに、それなのに…新たに生まれる彼への『愛』
記憶を、感情を消しても消しても
私は何度も初めから彼を愛してしまうの。
いっその事、記憶を封じた時点で彼から離れてしまえばよかったのに…どうしても、何度繰り返してもそれは出来なかった。意気地無しの私は封じてもなお新たに増え続けるこの思いを、どこかにしまい続けることは難しいのだと悟った。
だから、例え彼から離れても結局は同じだろう…と。
だから、いっその事いつ壊れてもいいように。
いつも、あなたの見える場所で持っていたの。
いつか、これが壊れた時。
私の想いと共に、あなたの心に届くように。
私の気持ちだけでもあなたと共にあれるように。
記憶を戻した貴方が、私を見てくれることを願ってーー。
ねぇ、愛しているわ。
あなたは、いつ気付くのかしら?
あなたは、どんな顔をするのかしら?
◇
パリンっ…!
手のひらからこぼれ落ちた水晶玉は思った通り、あっけなく壊れて散ってしまった。
その日、いつものように彼に「愛している」と伝えて手を伸ばした。けれど…遂にその手を振り払われてしまった。
…あぁ、やっぱりダメね。
拒絶された手は、痛かった。
動揺して思わず大事な水晶玉を落としてしまうくらいには。
足元で無惨な欠片となったそれは淡い光を放って彼に吸い込まれてゆく。その光を辿ってゆっくり顔を上げれば、彼は微笑んでいた。
いつもと同じ、優しげな微笑みで。
いつもと同じ、酷く冷たい目で私を見ている。
「あなたは…え?」
何かを言おうとした彼は、水晶玉が割れた瞬間に溢れた光に瞠目する。それが己の体に入ってゆくものだから余計に驚いた様子だった。思わずといった様子で数歩、後ろに下がった彼は今度は心と頭を押えて苦しそうに体を曲げた。
その時に、漸く地に落ち無惨に砕け散った水晶玉に気付いたらしい。
呆然とした顔でそれを見つめていた彼は…
私の「愛」と共に記憶を取り戻した彼は、ゆっくりとその顔を上げる。
その瞳はまるで割れてしまった水晶玉のようだった。
何処までも澄んだ美しいその瞳から一筋零れ落ちた雫が、割れた水晶の欠片に落ちて弾けて飛んでゆく。
ぼんやり、その様子を見ていた。
彼の顔は、結局よく見えなかった。
けれど、彼の瞳が私を映していないことだけはわかった。
あぁ、ダメね…
やっぱり、私では貴方をーー…
ゆっくりと、こちらに伸ばされる冷たい彼の手に…
私はそっと目を閉じた。
◇
愛しているわ
愛していたわ
ーーどんなにあなたが私を嫌おうと
私はあなたが大好きで。
ーーどんなにあなたが私を憎もうと
私はあなたが愛おしい。
ーーどんなにあなたが私の事を煩わしく思っていようと
私は貴方の傍に居たかった。
ーーどんなにあなたがあの子だけを見ていたとして
私はあなただけを見つめていたわ。
ーーどんなに頑張ってもあなたの瞳に私が映らなくても
私は貴方に必要とされたかった。
けれど、やはり貴方の心にはあの子だけが住み着いていて、私の居場所なんてどこにもなくて…
なのに、あの子は貴方を選ぶ事は無かった。
あの子と結ばれることが出来ないあなたは私が隣にいることにも気付かずにただ悲嘆にくれ日に日に心も体も壊していった。
部屋に籠り狂気に染まってゆくその姿が酷く憐れで…
まるで、自分を見ているようで悲しくて辛くて。
何度、声をかけても
何度、抱きしめても
何度も、何度も貴方を慰めて
それでも、私の事なんて眼中に無い貴方が…
憎くて仕方がなかった。
あなたは、どんなに時が経とうともあの子だけを求め続けた
ーー貴方だけを求め続ける、私のように。
だから、貴方の中からあの子に関する記憶も感情も全て私が奪って…私の気持ちと共に水晶玉に閉じ込めた。
そうすれば、あなたが少しでも私を見てくれると思ったから
そうすれば、あなたは私を望むと思ったから。
いつか、水晶玉が壊れて全てが貴方の元へ戻ったとして…
せめて、知って欲しかった。
あなたが只管にあの子を求める気持ちがあるように。
私も、貴方だけを求めていたということを…
◇
ーーー伸ばされた手が、私の首に触れる。
彼の、美しい瞳が私を映す。
まるであの水晶玉のように空虚で美しいその瞳から溢れ落ちる涙がキラキラと夕焼けを反射した。
真っ赤な空と同じ、真っ赤な涙はまるで血のようだった。
あなたの心に、少しでも傷はつけられたかしら?
あなたの心に、少しでも私はうつったかしら?
少しでも…あなたの心に私は残るかしら?
大好きで…大嫌いな、愛おしい貴方のーー…
「愛、して…る、わ…」
首に触れた手がゆっくりと私を締め上げる。
苦しくは無い。
痛くは無い。
辛くも、悲しくもない。
貴方の手で、終われるなら本望だわ。
ねぇ、愛しているわ。
ねぇ、愛していたわ。
ずっと、ずっとあなただけを…
さよなら、お馬鹿で憎らしい…
私の、愛おしい人。
ーー永遠に、1人で苦しみもがけばいいのだわ。