見切り発車ヒヒーンな婚約破棄
私の婚約者には馬面王子なんていうあだ名がある。
「馬面」の部分は、少しばかり面長だから。
「王子」の部分は、金髪碧眼で顔立ちが非常に整っているから。
要するに馬面王子とは、目や鼻といった各パーツは優れているが面長の一点のみ残念でならない、という理由からつけられたあだ名だ。
ただしそれはなにも悪質なあだ名というわけではない。
なぜなら彼の顔面に対する周囲の評価は、上・中・下でいうところの上であるからだ。
その半分を占めている「王子」という褒め言葉が証明するとおり、彼はけっして不細工というわけではない。
程よく鍛えられた体格も見栄えがよく、いわゆる美男子に分類される青年であることは間違いなかった。
性格は優しく誠実、物腰も穏やかで紳士的なことから、彼を好む女性は少なくはなく、彼に対する高い評価の裏付けとなっている。
むしろ面長のおかげで完璧さが崩れ、親しみやすさが増したことでより魅力的に見えてしまうのだと、友人たちの多くが力説しているくらいだ。
「コーネリア。本当にすまないが、僕との婚約を破棄してほしい」
そして、いま目の前に座っている彼――ランスロット・レディウス公爵令息は心底申し訳なさそうに顔を歪め、震える声で私にそう告げた。
我が家であるスタイン侯爵家の応接室。
私は父と横並びにソファーに座っており、テーブルを挟んでランスロットと向かい合っている。
「婚約破棄だって……? 面白い。小説の良いネタになりそうだ」
私より先に反応を示したのは父。
今朝方、「パパね、小説で食っていこうと思うんだ」と宣言した小太りな父は、その目をきらりと輝かせたかと思うとすぐに目をつむって熟考しはじめた。
「あのランスロット様。この場合、破棄ではなくて解消とすべきではないのでしょうか?」
自分の世界に入ってしまった父はさておき、真っ先に気にかかった点を指摘する。
こうして場が設けられ、両者が話し合った末に決められるのならそれを破棄と表現するのはおかしいと思ったからだ。
「いや、破棄でいいんだ。君を傷物にするわけにはいかない。だから僕の不誠実さを公表し、婚約解消ではなくて婚約破棄としてほしい」
「でも……」
「君という大切な婚約者がいながら、僕はほかの女性に心を惹かれてしまったんだ。ただの一度も話したことのない相手に運命を感じ、いまこうして父の了承も得ずに独断で行動してしまっている。すべてを台無しにしてでも彼女と添い遂げたい、なんて身勝手なことを想ってしまっているんだ。こんな僕に解消だなんて円満な終わり方は許されないよ」
懺悔するかのように言い切ったランスロットから、私はそっと目を背けた。
そうして視界に入ったのは部屋の片隅にある姿見で、無表情な私の顔。
漆黒色の長髪、深い紅色の瞳、見るからに大人しそうな地味な顔立ち。
姿見が映す私は華やかなランスロットとは対照的に、人を寄せつけないような暗い雰囲気を醸している。
訪れた重い沈黙の中、やはり思うことは一つ。
はたしてランスロットは私との婚約を望んでいたのか、という根本的な疑問だ。
ずっと昔から抱いてきたがついぞ口にして聞くことはできなかった、そんな疑問だった。
現在、私たちはともに王立学園に通う学生の身であり、私は一年生、ランスロットは三年生。
年齢は私が十六歳、彼が十八歳で、婚約関係は三年目を迎えている。
子供が私一人しかいない我がスタイン侯爵家に、レディウス公爵家の次男であるランスロットが婿入りする。
そんな形で彼の王立学園への入学と同時に結ばれた婚約は、父親同士が友人である縁からなるもので母親同士も賛成している一方、当の本人である私たちの意向は汲まれていない。
だからこそ私は疑問に思わざるをえない。
ランスロットが発した「大切な婚約者」という言葉は本心からのものなのか。
彼にとって私はその生涯を添い遂げるに値する女性であったのか。
いまや過去系となってしまったそれらの疑問を、私は姿見に映った自分の顔をぼんやり眺めながら思った。
「コーネリア?」
「――えっ? ああ、申し訳ありません。なんでしょうか?」
「いや、僕との婚約を破棄してもらいたいという話なんだけど……」
「そうでしたね」
横にいる父の顔をちらりと見やる。
両腕を組んだ姿勢でソファーの背もたれに背を預け、いかにも考え事をしてますといった風に目を閉じている父はすぅすぅと静かな寝息を立てていた。
「承知しました」
「いいのかい?」
「ええ。他ならぬランスロット様ご自身がそう望まれているのであれば、私には反対する理由がございませんから」
「……本当にすまない。ありがとう、コーネリア」
そう言って無理に微笑んだランスロットの顔は私の胸をちくりと痛めさせた。
胸を引き裂くような痛みではない。
針を指先に刺してしまったときのような、鋭くも一瞬で消えてしまう痛みを感じさせた。
寝入ってしまった父をさておき、私たちは応接室を出て玄関に向かう。
先をいくランスロットの少し見上げる背中はきっと今日で見納めになるのだろう。
鼻に香ってくる、彼がつけたいつもの香水の匂いもこうして間近で嗅ぐ日はきっともう来ないだろう。
そんなことを何気なく思いつつ、逃げるように早足で歩く彼の背を私は小走りになりながら追いかけた。
「見送りありがとう。じゃあ失礼するよ」
「――あのっ!」
「な、なんだい?」
玄関先で不意に口から飛び出た声。
思いがけず出てしまった声とその声量に私自身驚きを隠せないでいると、ランスロットもまた同様に面食らった様子だった。
「最後に、お相手は誰なのか、教えていただけませんか?」
「……エルザ・ワーグナー辺境伯令嬢だよ」
少し逡巡したのち、ランスロットは絞り出すように口にした。
その背が遠ざかっていき、正門の向こうへ、そして視界から完全に消え去るまで私は静かに見送った。
冷たい秋風にやがて身を震わせ、私付きのメイドを心配させて声をかけさせてしまうまで、私は玄関先でただ立ち尽くしていた。
自室に戻り、しばらくして迎えた夕食時。
外交官をしている母は他国に出張中のため、私は父と二人で夕食をとっている。
父は食事を忙しなく口に運んでは「美味い美味い」と、まるで子供のような明るい笑みを浮かべてうなっている
「コーネリア、どんどん食べなさい。失恋を癒すにはお腹いっぱい食べて不貞寝するのが一番だよ。パパもね、そうやって数多の失恋を乗り越えてきたんだ。で、ある日ママと出会って運命的かつ情熱的な恋に落ちたんだけど、その話聞きたい?」
「いい。何回も聞いてるから」
「そう……でも話したいからやっぱり聞いて! そう、あれはパパがまだうら若い青年だったころの話――」
誇張抜きに百回は聞かされた話を右から左へと聞き流しつつ、考えを巡らせる。
父はこの婚約破棄を「失恋」だと言った。
そして事実、私は婚約破棄を口では承知していながら心では受けいれられないでいる。
ランスロットと別れたくないと、そう思っている。
そう、これは失恋だ。
胸を痛める程度には。
その背に追いすがる程度には。
未練がましくも恋敵の名前を聞きだす程度には。
そんな程度には私はランスロットに恋をしていたのだ。
失って初めて気づくなんて恋愛小説にありがちな話を、実際に体験することになるとは夢にも思っていなかった。
けれども引っ込み事案な性格の私にしてみれば、これは訪れるべくして訪れた結果なのかもしれない。
自分の気持ちと真剣に向き合ってこなかったからこそ訪れた結果だと思えてならない。
では私はいつランスロットに恋をしたのか。
それはきっとパーティーで彼と初めて踊ったときだと思う。
十三歳になってすぐ、両親に連れられて参加したランスロットの誕生日パーティー。
当時、私は元来の内気さゆえ社交界といったものを頑なに拒んでいた。
それでも貴族の子女として生を受けて生きていく以上、いずれは社交界デビューしなければならず、そのための経験を積む場として参加させられたのが彼の誕生日パーティーだった。
それはちょっとした舞踏会のようで、私を気後れさせるには十分なものだった。
同世代の令息・令嬢が数十人と集められ、楽団が奏でる音楽にあわせて楽しそうに踊る様子は私の目には眩しく映ってならず。
私は早々に壁の花となって会場の片隅で独り、なにをするわけでもなくいたずらに時間を潰していた。
そんなとき――
『レディ、僕と踊っていただけませんか?』
そう言って手を差し出し、微笑みかけてきてくれたのがランスロットだった。
誘われるがままに連れられ、リードされるがままに踊ったダンス。
初めこそ緊張から動きが硬くなってしまっていたダンスも、ランスロットが上手く合わせてくれたおかげで程なくして楽しめるようになったことはいまでも覚えている。
非日常的な時間の中、熱に浮かされ、頬を火照らせたあの思い出はけっして忘れられない。
ああ、そうだ。
あのとき私は恋に落ちてしまっていたのだ。
優しく私を包みこんでくれたランスロットに恋をしたのだ。
「ママとの初めてのデート先にパパが選んだのは、そう、かの有名なロゴス寺院で――」
「ねぇお父様」
「もうコーネリアったら。お父様じゃなくてパパ、そう呼びなさいって何度も言ってるでしょ? で、なんだい?」
また思い返してみれば、私たちの婚約が結ばれたのはあの誕生日パーティーから間もなくのことだった。
一体なぜか。
その理由はわかりきっている。
恐らく――いや間違いなく、父が友人であるレディウス公爵に働きかけてくれたのだろう。
放っておけば恋に踏み出すはずもない私を、父と母が気遣ってくれたに違いない。
「私をランスロット様の婚約者にしてくれてありがとう」
心から感謝の言葉を口にする。
余計なお世話だなんて思わない。
自分の恋心にすら気づかない愚かな私に、両親は人並みの幸せを与えてくれようとしたのだ。
感謝こそすれども迷惑に思うはずがない。
「私、すごく幸せだったよ」
この言葉にも嘘はない。
ランスロットと正式に婚約を結んでから過ごした日々はたしかに幸せなものであった。
家に閉じこもってばかりいた私の世界を広げてくれたのはランスロットだ。
彼に連れられて参加したお茶会で友人ができ、読書や裁縫といった趣味の輪を広げられた。
町中のカフェや流行りの劇場など、彼に誘われて出かけた先々は新鮮で目新しく、外で遊ぶ楽しさを知った。
そんな温かい思い出を挙げていけば切りがない。
いつも笑顔で手を引いてくれた彼に私は心からの信頼を寄せ、彼が自分の婚約者であることを喜ばしく思っていた。
そう、ランスロットは私の好きな人だった。
恩人であり、誇りであり、そして本当に素敵な人。
私が知らず知らずのうちに恋をしていた、誰よりも大切な婚約者だったのだ。
「コーネリア……でも本当にいいのかい? こんな見切り発車な婚約破棄、パパがいつものようにレディウス公爵に全力で泣きすがれば撤回することなんて朝飯前なんだよ?」
「ううん、大丈夫。私を幸せにしてもらったように、ランスロット様にも幸せになってもらいたいの。だから私は大丈夫」
「そうか……うん、わかった。じゃあパパもこれ以上はなにも言わないよ」
あのとき、私はランスロットに求められるがままに婚約破棄を受けいれた。
でも後悔はしないと思う。
なぜなら彼に幸せになってもらいたいという気持ちは本物だから。
食事を終えたのち湯浴みを済ませ、ベッドの中に入る。
なにを考えるでもなく天井をしばらく眺めてから目をつむる。
父が「見切り発車」と称したように、不貞を働く前に心変わりをした段階で婚約破棄を申し出てくれたランスロットの、その愚直なまでの誠実さに感謝してから眠りにつく。
彼が幸せになれるように、ただそれだけを祈って。
◆
婚約破棄を受けいれてから一週間が経った。
私はあの翌日からも学園に休まず通っている。
初めこそランスロットと顔を会わせることを思うだけで辛く、ずる休みしてしまおうかと考えてしまったけど、それではみんなに迷惑をかけてしまうため思い直した。
もともと彼は身の丈以上の相手で、私には過ぎた婚約者だったのだと自分自身を納得させ、痛む心に見てみぬ振りをして日々を過ごしている。
なお婚約破棄の処理については父に一任している。
もとより私はどうこうできる立場にはないのだが、「あとはパパに任せておきなさい」と言ってくれた父には、ランスロットが悪者にならないよう穏便に済ませてほしいと頼んである。
もうしばらくすれば私と彼との婚約関係が白紙になる旨は公にされることだろう。
ただ一点、どうしても気になることがある。
それはランスロットが学園を休んでいることだ。
あの翌々日からいまや六日間もの間、ランスロットはその姿を見せていない。
学園を休んでいる理由についても詳細は不明らしい。
表面的にはいまだ婚約者である私のもとにも、彼になにかあったのかと聞いてくる子たちがいるけれど、私には返答に窮することしかできなかった。
それでも心当たりがないわけでもない。
私との婚約を破棄してからランスロットになにか事が起こったかを考えたとき、一つだけ心当たりがあった。
「エルザ・ワーグナー辺境伯令嬢……」
校舎内、とある部屋の前。
扉の「エルザ・ワーグナー研究室」と書かれた表札を目に、私はその名をぽつりと呟いた。
エルザ・ワーグナー辺境伯令嬢。
彼女は稀代の錬金術師としてとても有名な存在だ。
錬金術師である祖父の教えを受け、幼少期より錬金術を修めてきた彼女は、私と同い年にして王立学園から名誉ある博士号を授与されている。
目の前にある部屋はエルザ専用の研究室であり、彼女は毎日ここに閉じこもって錬金術の研究に取り組んでいるそうだ。
では、そんな人物がいる部屋の前になぜ私が立っているのかといえば、それはランスロットとの間に起こったであろうことを問いただすためだ。
彼をよろしくと恋路を応援するためではない。
自分とは無関係で詮索してはいけないと頭ではわかっていながらも、わきあがる気持ちをどうにもこうにも抑えられず、ついにはここまでやってきてしまった次第である。
扉を四回ノックする。
すぐに「どうぞ」という女性の声が聞こえた。
「失礼します」
「……ごめんね、どちら様だっけ?」
高さのある本棚の前に立ち、本に手を伸ばそうとしていた女性。
私の顔をしげしげと眺めてから、エルザ・ワーグナーという名札を胸元につけた女性はそう言って首を傾げた。
白衣をまとい、いかにも研究者といった格好をしたエルザの顔は想像していたよりもずっと可愛らしい童顔で、少女のようなあどけなさを残すものであった。
銀色のフレームの丸眼鏡の奥にある青色の瞳はまん丸で親しみやすさを感じさせる。
綺麗な金色の長髪の両サイドを三つ編みにしておろした髪形も幼く見えてならず、とてもではないが権威ある著名人のようには見えない。
ただ、その性格が外交的であろうことはぱっと見た感じですぐにわかった。
まとう明るい雰囲気からも、私とは違って社交性に富んでいるであろうことがわかる。
ランスロットとお揃いの金髪でもあり、彼とエルザが並び立ったとき、その姿が私よりも遥かにお似合いだろうことも瞬時に理解させられた。
「突然お伺いさせていただき申し訳ありません。私はコーネリア・スタインと申します」
「コーネリア・スタイン……ああ、思い出した! あの残念な青年の婚約者さんか!」
「あの、その残念な青年というのがランスロット・レディウス公爵令息であれば合っていますけど」
「そうそう、ランスロット君だった! なるほどなるほど。まぁどうぞ座ってちょうだい。狭くて汚いところで申し訳ないけど」
「失礼します」
ところ狭しと物で埋めつくされた室内。
書類や何らかの器具がうず高く積み上げられた机の前で、私はエルザに用意してもらった小さな丸椅子に腰をおろした。
手を伸ばせば互いに触れられる距離で彼女と向かい合う。
「改めまして。私はエルザ・ワーグナーです。よろしくね」
「よろしくお願いします」
「うん。じゃあ早速だけどこれを見てほしい」
机の上にあったガラス製の小瓶を、エルザは私へと手渡してきた。
コルクで栓がなされた小瓶の中には人参色の液体が入っており、その水面はゆらゆらと揺れている。
「こちらは?」
「馬を魅了するための香水だよ」
「馬を魅了するための香水……」
「辺境伯領の近くに生息する魔物で、スレイプニルって名前の八本足をした馬型の巨大な魔物がいるのは知ってる?」
「はい。知識としては存じております」
「そいつをどうにか手懐けて飼育し、馬の代わりに使役しようって目的で作ったのがその香水なの」
伝え聞くにスレイプニルは一般的な馬の倍近い速さで走り、凄まじい膂力を有しているともいう。
もし手懐けて家畜として繁殖させることができれば、たしかに非常に有意義な話ではある。
「で、試作品のそれをつけて学園内の厩舎に行ってみたところ、ちょうど馬の世話をしていたランスロット君を魅了してしまったというわけなの」
「――え?」
え?
「コーネリアちゃんが信じられないのもわかるよ? でもね、これは本当のことだから」
「いやでも、そんな……」
「それで次の日、ランスロット君は私のところに馬並みに鼻息荒くやって来て婚約を申し込んできたわけなんだけど、香水の匂いなんてお風呂に入ればとれちゃうでしょ? だから彼も、なんか昨日と違うなって思ったらしいのね。で、よくよく話を聞いて推察してみれば、彼はその香水に魅了されちゃったという残念な結論に至っちゃうのよねぇ……」
「で、では婚約は?」
「婚約? ないない、もちろんしないよ。あ、そうそう! でね、ランスロット君の愛するコーネリアちゃんの匂いを加えれば、魅了の効果をより強力にできて長持ちもさせられると思うの――」
その後、体の匂いを隈なく嗅がれたり、皮膚や髪といった諸々を提供させられたりするなど、長らくエルザの研究材料にされてから私は解放された。
帰り道をいく馬車の中、今しがた知った事実を振り返る。
要約するに、ランスロットは馬を魅了するために作った香水に魅了されてしまった結果、私との婚約破棄を願い出てしまった。
そしてそこに彼の意思ない。
あくまでも香水に魅了されてしまっただけで、エルザ本人に魅了されたわけではなかったのだ。
「よかった……」
自然とこぼれてしまう声。
またランスロットの幸せを願っていたはずなのに気づけば、これでまだ彼の婚約者でいられると安堵している自分がいる。
傷ついたであろう彼を心配するより先に、そんなことを思ってしまうのはやはり不謹慎なのだろうか。
でも嬉しいものは嬉しくて、そんな自分を少しばかり浅ましく思う。
そうして帰宅するや否や、私はすぐ父に今日の出来事を告げ、婚約破棄の公表を取りやめてもらうようにお願いした。
すると「婚約破棄の件!? えっと、はい、了解ですぅ」との返事を得ることができた。
丸くした目を左右にきょろきょろと泳がせていた様子から、父にとっても思いがけない知らせだったのだろう。
いつになく穏やかな気持ちで過ごし、迎えた夜。
ベッドに仰向けに寝転がり、明日ランスロットに会いに行ってみよう、なんてことを考える。
彼が私を待っているのかはわからない。
ただ私が彼に会いたいからそんなことを考え、やがて訪れた眠気に身を任せる。
待ってくれていたらいいなと、ほんの少しだけ期待して。
◆
「雨、か……」
翌朝の自室にて。
椅子に腰をおろして窓の向こうへ視線を向ければ、小雨がしとしとと降っている。
出かけるべきかどうかとても悩ましい、あいにくの天気模様だ。
身支度を済ませたまではいいが、ただでさえ事前連絡なしの突然の訪問に雨が降る中という悪条件が重なってしまった。
相手の都合を考えれば当然訪問するべきではないのだろうと、かれこれずっと悩んでいる。
「コーネリア。入ってもいいかい?」
さすがに今日は中止にしよう、そう決めかけたとき。
父からの呼びかけがあった。
「どうぞ」
「失礼するよ」
「どうしたの? いつになく真面目な顔して」
入室してきた父がやけに神妙な顔つきをしていたので問いかける。
「聞こえないかい?」
「え?」
「雨に打たれる捨て犬の泣き声が――いや、雨に打たれる捨て馬のいな泣き声が」
「なにを言ってるの?」
「正門の前を見てごらん」
父に促され、窓際に立って外を見やる。
すると二階から見下ろした先、正門の前には、傘も差さずに立ち尽くしているランスロットの姿があった。
「もう小一時間になるかな? 彼がああして我が家の――」
「どいて!」
「きゃっ!」
扉の前に陣取っていた父を突き飛ばし、部屋を出て廊下を走りぬける。
階段をおり、玄関で傘を一本手にしてから外に出て、正門に向かって真っ直ぐに走る。
石畳の道にたまっていた水溜りに足をとられて転びそうになったとき、視線の先にいるランスロットが「あっ」と声をあげたのが聞こえた。
なんとか体勢を持ちなおし、また走り出して、やっとの思いで彼のもとに辿りつくことができた。
「か、傘を、濡れ、ちゃう」
息を切らせつつ、急いで傘を開いてランスロットに差し出す。
でも彼は傘を受け取ろうとはしない。
「僕は大丈夫だから」
「でも」
「大丈夫。それよりもほら、自分の体を濡らさないように傘をしっかり持って」
「う、うん……」
傘の持ち手を握っていた私の手に、ランスロットはその両手を優しく添え、私の胸元へとそっと押し返してくる。
すぐに離されたその手は雨に打たれていたせいでとても冷たくなっていた。
荒れた呼吸を整えながら改めてランスロットの顔を見る。
彼はいまにも泣き出してしまいそうな顔をしている。
濡れた髪から頬を伝い落ちていく滴が、まるで彼が流した涙であるかのように見える。
なぜそんな辛そうな顔をしているのか。
こんな雨の中、傘も差さずにこの家を訪れ、なぜ私をそんな悲しそうに見つめてくるのか。
「あの、婚約破棄の件なら大丈夫ですよ? まだ公表する前ですし、父も撤回を承知してくれてますから。だからなにも問題はありません」
どんな言葉をかけるべきだろうか。
正解かどうかはわからないけど、思いつくままに口にしていく。
「君は、コーネリアはそれでいいのかい?」
「はい」
「馬用の香水に魅了されてしまった残念な男が婚約者で、本当に構わないの?」
「そんなの関係ありません。だって私は、その……ランスロット様のことをお慕いしていますから! 初めて出会ったときからずっと!」
思いを口にしてしまったことと、つい声を上擦らせてしまったこと。
主には前者だけれども、その両方の気恥ずかしさから視線を地面へと逸らしてしまう。
沈黙が訪れる。
雨が傘に落ちる音だけが耳に聞こえる中。
告げた好意を喜んでくれているのではないかと、私は淡い期待とともにその顔を見上げてみた。
でも、ランスロットの表情はまったく変わっていなかった。
「ごめん、コーネリア。僕は、僕は違うんだ」
「違う……?」
「僕は昔、君のことを嫌いだったんだ」
一瞬、時がとまったかのような錯覚を覚えた。
「見るからに暗そうな見た目が好きじゃなかった。みんなから影で『引きこもり姫』と馬鹿にされていた君を婚約者とすることに抵抗感しかなかった。将来的には侯爵位を継承できることのみを唯一の救いのように考えていた。正直に言って、君と結婚なんてしたくなかったんだ」
そして、顔をうつむかせたまま話すランスロットの言葉が、鉛のような重さを伴って体にのしかかってくるようにも感じた。
私もまた顔をうつむかせる。
顔を上げてなんていられない。
なにかを考えることもできず、濡れた地面をただ見つめることしかできない。
「君が僕を好いてくれているのは知っていた。雨に濡れるのにも構わず僕に傘を差し出してくれたように、なにも言わなくても僕を許してくれるだろうこともわかっていた。だから最初は、君の優しさに甘えてなあなあに済ませるつもりだったんだ。でも……」
途切れた言葉。
どうしたのかと思い、重く感じられてならない顔を上げてみると、そこには顔をくしゃくしゃに歪ませて泣いているランスロットがいた。
雨に打たれ、目から涙をぼろぼろとこぼす彼がいた。
「後ろめたくてたまらないんだ。いざこうして君の優しさに触れてしまうと、罪悪感を感じずにはいられないんだ。君を散々悪く思って、それでも君を好きになって、君を傷つけるとわかってて婚約破棄を申し出て、実はあれは馬用の香水なんてものに魅了されたものだから撤回してくださいだなんて、そんなの普通に考えて許されないだろう? 僕はまさしく馬面王子で、君に相応しくない最低な男なんだ……」
どんな言葉を投げかけてあげればいいのか。
いままで見たことのないランスロットの弱った姿を前にして、私にはよくわからない。
「最低だなんて、そんなことは絶対にありません。ランスロット様は本当に素敵な人です。それになにより――」
ただ、それでもたしかなことは一つ。
ランスロットは私の好きな人で、私にとってかけがえのない存在であるということだ。
「私はランスロット様のことをお慕いしています。だから大丈夫です」
だから昔の話なんてどうでもいい。
きっと誰だってランスロットと同じように思っていただろう、そんな過去はどうでもいい。
いま目の前にいる彼に私は恋をしているということ。
ほかのなにを差し置いてでも、それだけは彼に理解してもらいたかった。
「本当に、本当にこんな僕で構わないのかい?」
「はい。私はランスロット様がいいです。むしろランスロット様じゃなきゃ嫌です」
「コーネリア……ありがとう、本当にありが――」
「ちょっと待って! 沸いたから! お風呂沸いたからちょっと待って!」
ランスロットの両手が私の背に回され、抱きしめられようかという寸前、父の大声が聞こえてきた。
屋敷のほうを振り返ってみれば、額に大きなたんこぶを作った父が心底焦った様子で傘も差さずにこちらに駆け寄ってきていた。
ややあってから私たちのもとに着いた父は膝に手をつき、ぜぇぜぇと肩で息をしている。
「ランスロット君、お風呂沸いたよ」
「えっ? あ、はい」
「早くお風呂に入って馬体を温めなさい。風邪をひいちゃうと大変だからね。さぁ早く」
「す、すみません、ご迷惑をおかけしてしまって」
「全然構わないよ。いまのところは上っ面の間柄に過ぎないけど、コーネリアが学園を卒業したあとには義理の親子になるかもしれない間柄だからね。遠慮は要らないとも」
父がランスロットの肩に手を回し、二人は仲良く並んで屋敷へと歩いていく。
ふと、傘を打っていた雨音がいまは聞こえないことに気づく。
傘を横によけ、空を見上げてみれば雨はもうやんでいた。
さっきまでの雨がまるで嘘であったかのように晴れ間がのぞいており、遠く向こうの空には虹が架かっていた。
◆
婚約破棄騒動のあと、私たちの関係で一つ大きく変わったことがある。
それは雨上がりの虹が架かった日、ランスロットが花束を手に私のもとを訪れるようになったことだ。
用があって当日が無理な場合はその翌日か遅くても翌々日。
彼は毎回違う花束を私に手渡してくれ、おまけにちょっとした愛の言葉をささやいてくれる。
だから私は雨の降る日が待ち遠しくてたまらない。
そしてあの日ランスロットの口からは聞けなかった、私が彼にとって大切な婚約者になった理由も少しずつ教えてもらっている。
彼は私のどこを好きになってくれたのか。
いっぺんには教えてもらえないのだけれども、それを聞き出すときのやり取りを、主に彼の恥ずかしがる姿を好きだからなんの不満もない。
無表情なようでいて、嬉しいときはほんの少し目を細める顔を可愛いと思った。
一緒にいて落ち着く感じと、自分に身を委ねてくれる姿を可愛いと思った。
内気で言葉数が少なく、なにを考えているのかわからないときが多いけれども、根は素直で思いやりのある性格を可愛いと思った。
たまに考えるより先に行動してしまう天然なところを可愛いと思った。
そうしていつも最後は「可愛いと思った」で締められる言葉を口にし、自分で言って照れているランスロットの姿はこちらこそ可愛くてたまらない。
格好良いのに可愛いのだから、本当に私にはもったいない人だと思ってしまう。
もっともそんな自分を卑下するようなことを言えば彼に怒られてしまうので、面と向かって言うことはできず、私は身に余るほどの寵愛を一身に受けている。
いま振り返ってみれば笑い話の婚約破棄騒動。
でもあのときの私たちは真剣そのもので、私は失恋してランスロットを失ったことを、彼は彼で私を傷つけたことを、お互い本気で嘆いていた。
ただそれも根底にはお互いを好きな気持ちがあってのもので、だからこそ良い思い出の一つとして懐かしむことができている。
きっとこの先、「婚約破棄」という言葉を耳にするたび、私たちはお互いの顔を見合わせ、あの日のことを思い出して苦笑いしてしまうことだろう。
そんな風に私は思っている。
「ところでコーネリア。パパね、今度は歌で食っていこうと思うんだ」
「そう。頑張って」
「うん! 一丁、パパの美声で王国を感動の渦に巻きこんじゃおっと!」
最後に、父が書いていた小説――「見切り発車ヒヒーンな婚約破棄」という題名の処女作の原稿は、出張から帰ってきた母の手によって真っ二つに引き裂かれ、その場で即座に暖炉にくべられた。
燃えあがり消し炭と化していく原稿を放心した様子で眺め、やがて涙をぽろぽろ流しはじめた父の姿はちょっとだけ可哀想だった。
ほんのちょっとだけ。
読了感謝です!