クビナシの花
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
暗く濁った、薄墨色の冬空の下。
朝から続く小糠雨を透かして遠くに見える山々は、ぼんやりと灰色に霞んでいる。
「……ふむ」
編笠の縁を親指で押し上げながら、朝右衛門は、太いげじげじ眉の下からぎょろりとした眼を覗かせ、頭上を振り仰いだ。
まだ昼を過ぎたばかりだというのに、辺りは妙に薄暗い。
細かな雨粒は天から音もなく振りかかり、ごつごつとした巌のような男の顔を濡らした。
空を見上げたまま、朝右衛門は湿った空気を鼻から吸い込み、一度息を止めて、ふはぅ、と口から吐き出した。
吐き出された呼気は冷えた空気の中で一瞬白く曇り、すぐに宙に溶けて消える。
「……すぐにもやむかと思うたが、な」
笠の縁から滴った雫が、太い鼻の横にぽたりと落ちた。
冷たさよりもむず痒さを覚え、朝右衛門は雫の落ちたあたりを指先で掻いた。そのまま、分厚い掌で己の顔をぬるりと撫でる。
「そろそろ、参るか」
「へえ、宜しゅうに」
先導役の猿のような老人が、頷きとも会釈ともつかぬ微妙な角度で首を曲げ、先に立って歩き出した。
朝右衛門は二人の高弟を引き連れ、老人の後に続く。
地面を踏みしめるたび、じゃく、じゃく、と濡れた砂利が草履の下で音を立てた。
然程も歩かぬうちに、目的の場所までたどり着く。
役目を終えた老人は卑屈そうに目を伏せたまま、その場から下がっていった。
「……ふむ」
それを目の前にしても、朝右衛門の顔に特に感慨が浮かぶことはない。
むっつりと唇を引き結んだまま、高弟の手を借りて、簑と笠を脱いだ。袖に襷をかけ、手速く身支度を整える。
鞘の端を左手で握り、親指を鍔にかけて何時でも鯉口を切れるようにしながら、前方の足元に無感動な視線を向けた。
目の前には、縄を打たれた死罪人がひざまずかされている。
罪人は、女であった。
それも美しい女である。
噂によれば、遊女であったこの女は、言い寄る代官の口説きをはねつけて不興を買い、あらぬ盗みの罪を被せられたのだという。
盗んだとされた額は、十両と二分。
十両を超えた盗みは、初犯でも死罪である。
もっとも、朝右衛門にとって、その辺りの事情は興味がない。
朝右衛門は、ただ、お役目のまま、命じられたまま、首を斬るのみである。
首を差し出すように前のめりの姿勢で押さえつけられている女の肢体には、赤い襦袢の上から縄目が食い込んでいた。薄絹の下から、躯の線がくっきりと浮かび上がっている。
薄暗い雨の中、赤い襦袢から伸びた細い首と、二本のふくらはぎの色だけが、抜けるように白い。
長い髪が雨に濡れて、幾筋か、女の肌に張り付いていた。
「──何ぞ、言い遺すことはあるか」
問いかけて、十を数える程の間、時を待つ。
女は地面を見つめたまま、身じろぎもしない。
振りかかる雨が、じわりと勢いを増し始めた。地面や水溜まりで跳ねる雨粒の音が、ぱらぱらと耳奥に届く。
「……ふむ」
特に表情を変えるでもなく、女の肩を押さえる二名の門弟に目で合図を送ると、朝右衛門は、腰の鞘から冷たく光る刀身を引き抜いた。
す、と刀を振りかぶり、八相に構えたところでぴたりと止める。
と、その時。
ゆるり、と首をねじって、女が朝右衛門の方に顔を向けた。
頬に張り付いた長い髪。
異人の血でも混じっているのか、ひどく薄い色の瞳が、朝右衛門の視線を捉えた。
虚ろな瞳が、一瞬揺れて──
――諦めたように、ふわりと笑う。
……雨に濡れた花のように。
『――ぃえああっ!!』
門弟たちが女を押さえつけ直すのを待たず。
裂帛の気合いと共に朝右衛門は刀を振り下ろした。
どっ、という音とともに朝右衛門の刀が女の首を通り過ぎ、半瞬遅れて、切断された首が地に落ちた。
いかなる熟練によるものか、雨に濡れた刀身には、それと判るような血曇りひとつ見えず。
首を失った胴体がぐらりと傾き、ばしゃりと地に伏した後になって、ようやく思い出したかのように斬り口から血潮を吹きはじめた。
実に見事な技の冴えである。
地に横たわった躯の首の付け根より、どくりどくりと血が流れ出て、濡れた地面に赤い花をゆっくりと咲かせていく。
ごろりと転がった女の首には、先ほど見せた散り際の花のような笑みは残っておらず。
それは虚ろにぼやけた表情の、ただの生首でしかなかった。
朝右衛門は、ふうぅぅ、と、太く長い息をひとつ吐くと、刀身を懐紙で拭って鞘に納め、のっそりと身を翻した。
濡れた砂利を踏みしめる足の運びは、心なしか、来た時よりも重たげである。
刑場の入り口を過ぎようとした際、生け垣に肩が触れ、ぽたりと地面に何かが落ちた。
朝右衛門は立ち止まり、胡乱げに足元を見やった。
椿の花であった。
紅を差した唇を思わせる、柔らかな花弁の奥からは、金糸のような蕊の束がくたりと頭を覗かせている。
つい先程まで見事に咲き誇っていたであろうその花は、降りかかる雨粒に打たれて震えるたび、それと判らぬほどの速度でじわじわと色褪せてゆくかのようだった。
「――くびなしの花、か」
「は?」
よく聞き取れなかったらしい高弟が、訝しげに首を傾げたが、朝右衛門は応えなかった。
(……まるで、あの女のような)
そう胸の内で呟きかけて、己もまた、人のことなど言えた身ではあるまいと思い直す。
考える頭を捨てた人斬りと。
その人斬りによって剪定された、首無しの花。
雨粒に打たれる花びらから、溶け出すようにとろとろと地面に広がってゆく、赤、赤、赤……。
……不意に、女が抱きたくなった。
椿の花弁と、女の血と、襦袢の色。
薄曇る視界と裏腹に、どこまでも鮮やかな幾つもの赤と赤と赤が、朝右衛門の脳裡で混じり合い…………
――――ぐる、ぐる、ぐる、と、嗤うように回った。
<了>
※例によって、また文体や雰囲気を変えてます。
※黒澤明監督の「天国と地獄」や、スピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」みたいな「モノクロの中の赤」のイメージを出したかった……(見果てぬ夢)