ミノタウロスとミルク ……2
魔王は口を開けっ放しにして、しばらくその場で固まっていた。
棚の中でうずくまった女に、視線は釘付けだ。
(なんでこんなところに人が?)
いろいろと疑問が浮かんでいるが、その一言に尽きる。
魔王城に住む魔王と、生み出された魔物たち。特に何か害をなしたりした覚えはないが、世間から尋常でなく恐れられているため、人が近寄ることはない。
それなのに、魔王城の敷地にあるミノタウロスの住処に、そしてミルク缶が並ぶ棚に隠れているなんて、あり得ないことだった。
「……ん、うん?」
立ち止まる魔王に気づいた女が、埋めた膝から顔を上げた。
白い髪と、対照的に日に焼けた褐色の肌。耳が少しだけ大きめでややとがっている。
黒目がちの瞳は魔王を捉えているようで、揺れて定まらない。唇は色を失い、全身を震わせている。どうやら凍えているらしい。ズタ袋を身につけたような、みすぼらしい身なりなのも寒さに拍車をかけて、すっかり生気を失ってしまっているようだった。
「あ……ま、魔王さま……」
か細い声ながら、親しみを込めて呼ぶ女。心なしか表情も明るくなる。
しかし、すぐに顔を伏せてしまった。体力も限界に近いらしい。
「俺を知ってる? いや、それよりも、まずは……」
何者であるかはさておき、救助が先だと魔王は動き出した。
「暖めてやらないと」
無造作に抱えていたミルク缶から手を離すと、おもむろにシャツを脱ぎだした。ミルク缶は地面に落ちることなく、薄着になった魔王の周りを浮く。
シャツには、暖まる魔法を付与して女に掛け、そのまま腕に抱えた。
魔王はすぐに氷室から出て、視線を落とすと、女は依然として腕の中で震えている。
「ずいぶんと冷たくなってるな……。体温を取り戻すには、体の芯から温めてやる必要があるか」
魔法によってふわふわ浮かびながらついてくるミルク缶を見る。
「あれを作ろう。手の込んだものにしたいけど、今はそうも言っていられない」
料理をしようと、魔王は氷室の隣にある調理場に入った。
ダイニングも兼ねた部屋となっている。ミノタウロスサイズのどっしりした食卓に女をつかせて、魔王はキッチンに立った。
ミルク缶は台に置き、調理に取りかかろうとする魔王だが、その動きが止まった。
あまりに物がない。かまどや鍋はあって、あと使えそうなのは麦の粉くらいか。
しかしそれもそのはずで、住人のミノタウロスたちは、料理をほとんどしない。元、牛だった彼らの主食はわらや麦そのものである。調理する必要がなかった。
「まあ仕方ないか、なんかあれば嬉しいとは思ってたけどな」
魔王に焦りはなかった。
台に、三個の小瓶を置く。
それぞれ塩、胡椒、凝縮した鶏のブイヨンだ。
愛用の包丁を鞘に収めて携帯するような男なので、いくつかの調味料なら、常に懐に忍ばせている。
魔王は、かまどに魔法で火を入れると、鍋でミルクを温めだした。
そこに、小瓶からブイヨンをたらし、麦の粉をダマにならないよう気をつけながら加えて、かき混ぜる。
とろみがついてきたら、塩とこしょうで味を調えて、完成。
魔王は取り出した小さじでひとすくい、口に入れた。
「……こんなもん、かな。ベーコンでも野菜でも、ひとかけらあればなぁ」
シンプルなスープに寂しさを覚える魔王だが、今回はこれで良しとした。
適当な皿がなかったので、鍋のまま女の前に持って行った。
立ち上る湯気。女の鼻がひくひくと動く。
何か、と薄く開かれた目に、温かそうな白いスープが映る。香りも相まって、女の目が次第に輝いていった。
「よかった。食欲はあるみたいだな。ほら、口を開けて」
言われるまま小さく開いた女の口に、魔王はそっと木のスプーンを差し入れた。
優しいミルクの風味が広がる。
口から、のどを通っておなかの中まで、じんわり染み渡るように体を温めていく。
「んん~~~」
女は顔をくしゃっとして、もだえている。
その気に入った様子に魔王が気を緩めた次の瞬間、女は素早い動きでスプーンを奪い取り、鍋にしがみついて一心不乱にスプーンを動かした。
少なくない量があったはずのスープは、みるみるうちにかさを減らし、気づけば残されていたのは、空の鍋だけ。
呆気にとられていた魔王だが、女が満足げにため息を吐くのを見て、ほおが緩んだ。
「少しは元気になったかな?」
余韻に浸っていた女は、魔王に声をかけられると、はっとして居住まいを正した。
すっかり血色がよくなって、目には力が宿った。元気を取り戻した女は背筋が張って、凛としている。
身にまとうのはボロだが、筋肉と女性らしい丸みを兼ね備えた、しっかりとした体つきだ。
「はい、危ないところを助けていただきありがとうございます、魔王様」
「そんな大したことしてないけど。しかし、いい食べっぷりだった。見てるこっちが嬉しくなるほどだったよ」
「そうです!」
急に女は魔王に詰め寄った。
「素晴らしくおいしかったです! 私にとってミルクは冷たいものでしたが、温かいと風味の広がり方が段違いで……。それに、コクというのでしょうか、味わいに深みがありました!」
黒目がちな瞳を輝かせ、女は嬉々として語った。
「わかったわかった。ただあれをそんなにほめられても……」
「なぜ謙遜を? 最高でしたよ!」
「いや、ははは……」
たじろぐ魔王。
不出来だと思ったスープが絶賛されたことに困惑したのもあるが、距離の詰め方が尋常でない女への対応に困っていた。
ただでさえ久しぶりの人間で、しかも身なりを整えればどこに出しても恥ずかしくない器量よしだ。
端的に言えば、魔王はかわいい女の子相手に照れていた。
「ところで、君は何者なんだ?」
一歩引きながら、聞きたかったことを魔王は尋ねた。
状況を見れば当然の質問に対し、女は首をかしげる。
「何者……と言われましても」
そして困った風に言うには、
「見ての通り、ミノタウロスですが」
しばらく、二人の間には不思議な空気が流れた。