吊り橋効果の恋
それは偶然と必然が混ざり合う、数多ある未来へのひとつの分岐点。
工場勤務の僕は、普段はラフな格好で車通勤をしている。
音や匂いの問題があって数年前、住宅街になってしまった元の場所を追われるように郊外の今の場所に移転していて、通勤手段は車くらいしかないので距離数は増えてしまうけどそうしていた。
もっとも駐車場だけは広く用意されているので駐車し易く、距離さえ慣れてしまえば満員電車の苦痛には戻れない程には快適だった。
本来は現場で工程に入っている僕が、出張などで工場外に仕事で出向く事はないのだけれど、入社四年を超えるに当って義務付けられた研修を受ける事になった。
研修先は都内にある本社ビル。
一度も踏み入れた事のないそこには、当然ながらスーツを着て電車で出向く必要がある。
「はぁ。今月も出費がかさむ」
思わずそう呟いてしまったのには訳があって、入社時に作ったスーツは体形に合わなくなっていたので新調する羽目になった。さらに、自宅からでは始発バスに乗っても間に合わないので、ビジネスホテルに実費で泊まる必要に迫られた。
会社の研修なのだから、その辺も会社負担にして欲しいと思うのだが、交通費を含めて持ち出しになるのは労働規約が会社寄りである為だろう。
三日分の着替えと会社貸与のノートPCをキャリーバッグに入れ、仕事明けの疲れた体に慣れないスーツ姿で電車に揺られて、数年振りに都内にやって来た。
平日の夜にも拘らず(だからこそ?)降りたホームは終点なのもあって、人・人・人。
地方暮らしでプライベートはボッチな僕には、この人だかりが一番のストレス源になっているわけで、一刻も早く地上に出たい衝動に駆られてしまうが、人が空いてから移動しようと立ち止まってコートを羽織った。
人が空いたのを見計らって下りエスカレーターに乗ると、次の電車がホームに入ってくるのが見えた。地元では考えられないダイヤに溜息さえ漏れる。
「きゃ!」
エスカレーターで中程まで降りた所で少し後ろから女性の声が聞こえ、振り返るとすぐ横を大柄な男が駆け下りて行き、よろけた女性がこちらに倒れ込んできていた。
とっさに両手を広げて受け止めた瞬間、自分の迂闊さに気付かされた。女性を受け止めたまま、後ろ向きにひっくり返ったからだった。
(片手は手すりだろう!)
そう自分を罵倒するも後の祭りで、女性を抱いたまま下まで一気に滑り落ちて気を失ってしまった。
気を失っていたのは数分かも知れない。
目を覚ますと、駅員が傍らにしゃがみ込んで「担架を早く」と叫んでいた。
「っ!」
体を起こそうとすると、左肩が痺れていて動かせない。癖になっている脱臼を起こしている様だった。
「目を覚まされましたか。痛みとか気持ち悪さとか有りませんか?」
駅員が背中を支えて起き上がるのをサポートしてくれる。
「気持ち悪くはないです。が、肩を脱臼しているようで」
「担架を用意していますし、救急車も呼んでいますから」
その言葉を遠くに聞きながら呼吸を落ち着かせ、強張った左肩の力を抜いて行き、そっと左手首に添えていた右手を瞬間的に捻る。と、「ゴリ!」っと嫌な音を立てて肩が嵌る。
痛みがじわじわ湧いてくるが、軽く動かす限りは問題なさそうだった。
「ふぅ。肩も嵌ったので、とりあえず端に寄りましょうか」
「あ、あの。助けて頂いて、ありがとうございました」
立ち上がって移動しようとすると、駅員の後ろにいた女性が頭を下げて感謝を伝えてきた。
「気にしないでください。それより、走り降りてった男は? あれにぶつかられたんじゃないですか?」
「はい。重いものを持っている方に当られて、体がよろけてしまって」
「貴女にお怪我は?」
「幸いにも膝をすりむいた程度で。ただ、荷物は割れてしまいましたけど」
彼女の視線の先には、半分ほど濡れた僕のバッグが端に寄せられているが、漂う匂いは日本酒か? 風呂敷に包まれた瓶は、割れているのが見て取れる状態だった。
「すいません。交番が近いなら、呼んできてもらえませんか?」
駅員に依頼すると既にこちらに向かているそうで、ほどなくして到着した。
状況の説明をして被害届を出す旨を話し、到着した救急車で病院に向かう事になったのだが、助けた彼女が僕の荷物も持って一緒に乗り込む。
「荷物、ありがとうございます。まだ力が入らないので、助かりました」
「いえいえ。助けて頂いたので、これくらいはさせて下さい」
CTとかの検査になるかと思ったけど、丸まって滑り落ちたために頭部の外傷が見られず、病院では肩のレントゲンとテーピング、背中と腰に湿布を貼られた程度で済んだ。
彼女は膝の消毒をされて、絆創膏を貼られた程度で済んだようだった。
会計を済ませて待合室の椅子に並んで座ると、彼女がバッグから名刺を取り出して差し出してくる。
「あの。私、保住真帆って言います。立花技研工業株式会社に勤めていますので、損害の請求とかは遠慮なく仰って頂ければ賠償させていただきます」
受け取った名刺と彼女の顔を、ビックリしながら交互に見ていると首を傾げられてしまった。
「あ! 不躾に見てしまって申し訳ないです。僕は久住和人と言います。あの、立花技研工業の埼玉工場に勤めていて、明日から本社で行われる研修の為に来ていたんです」
「え? あ! じゃぁ明日も一緒ですね。本社の総務課にいるんですが、私もその研修を受けるんですよ」
「あ、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
思いがけない出会いに、運命を感じるほど純粋では無くなっているので、もちろんなんの期待感も湧きはしない。
「そしたら僕、ホテルのチェックインが有るので、これで失礼します」
「はい。明日また、研修でお会いしましょう」
ホテルは駅前だったので、荷物を運び込むと中身を確認していく。特に貸与品のパソコンが壊れてしまっていると始末書ものだから作動確認は怠らない。
被害としてはバッグが酒臭いのと、コートの背中に油染みがあるくらいか。コートは体型に合ってはいない古い物だったので、買い直す事にしてデパートに向かった。手頃な価格の物が購入できたが、想定外の出費で財布が軽すぎて、晩ご飯はコンビニのおにぎりで我慢する。
忘れずにドラッグストアで消臭スプレーを買って、大量にバッグにスプレーしたけれど消えないだろうなぁ。酒臭いバッグなんて恥ずかしいのだけど。
「保住さん、か。可愛かったなぁ」
部屋でぼんやりとおにぎりを頬張りながら、少し前に別れた彼女の顔を思い出してしまう。落ちている最中だから触れた感覚は覚えていないが、見た感じスタイルも良かったし、顔も好みだった。
小柄な僕とも程よい身長差があって、あんな子と付き合えたら幸せだよなって考えてしまう。
まあ隠れオタクの僕には不釣り合いだし、あれだけ可愛いのだから彼氏だっているだろうし、僕らが付き合う姿なんて想像すらできない。
翌朝は早めに起き、湿布を剥がしてシャワーを浴びる。左肩はあまり高くまで上げると外れてしまうので、体の隅々までとはいかなかったものの、頭はちゃんと洗えたので匂うことは無いだろう。
一人で背中に湿布を貼れないので、痛みはあるもののそのままにしてしまった。
ホテルで軽めの朝食を取って、少し早いが本社へ出社する。キャリーバッグはまだ酒臭かったけど、ビジネスバッグは匂いが取れていたので助かった。
始めて来る本社なので、社員なのに受付で緊張して噛んでしまったが、スルーしてもらえた。案内された会議室は広く四十人ほどが入れそうで、二人掛けの机にはテキストが置いてあって、まだ誰も来てはいない。
目立たない様に最後列の端に座っていると、制服姿の女性が入ってきた。
「あら、おはようございます。研修の方ですよね」
「はい。よろしくお願いします」
「いえ、私は講師ではないので。それより座る席が決まっていますから、この紙に参加のチェックを入れて指定場所で待っていてください」
慌てて荷物をもって扉脇の紙を覗くと、さっき座っていた席の隣りが僕の場所で、座っていた席は保住さんの名前が書かれていた。
隣りが知っている人でホッとして、名前にチェックを入れると不意に肩を叩かれた。
「君が昨日、真帆ちゃんを守ってくれた人?」
「ま、守ったと言いますか、庇ったと言いますか」
「ありがとね。あの子、男性への人見知りが激しいのに、昨日電話をかけてきて嬉しそうに話していたわ。だから、研修中もよろしくね」
「あ、はい」
どうやら退屈だと思った研修も、楽しい二日間になりそうだった。
徐々に人が増える中、保住さんが私服姿で入ってきて、戸惑ったように隣りの席に着く。制服姿は綺麗だろうけど、私服姿は少し幼く見えて可愛い。
「保住さん、おはようございます」
「おはようございます、久住さん。えっと、二日間よろしくお願いしますね」
「こちらこそ、よろしくお願いします。ところで、どうしたんですか?」
「いえ、席が決められているとは聞いてなくて。久住さんの横が空いてたら座ろうかと思っていたのですが……」
どうやら電話を受けた先輩が、人見知りの保住さんの為に指定席にしてしまった様だった。とは言え、さっき聞いた話は本人にはしない方が良いのだろうな。
研修には僕のように現場に携わる人間だけでなく、保住さんのように間接部門の人や製品開発に携わっている人など、いろいろな勤務地から来ていた。もっとも、入社四年目の人間が集まっているのだから、年齢的にはそんなに変わらないはずだ。
午前中は品質を維持する大切さや、品質が守れなかった場合の社会的制裁の過去例を聞かされ、定年まで勤め上げられるよう会社を存続させるため、決められた品質は守るようにと締めくくられた。
「お昼時間は一時間半取りますので、二時までに戻って来てください。おすすめのお店マップを入り口に置いておきますので、良かったら参考にしてください」
工場などは食堂を持っていて比較的並ばずに食べられるけど、事務方しかいない本社はそうではないらしい。外に食べに行くだけなら、財布とスマホに貸与携帯があればいいだろう。
「あの、久住さん。よかったら一緒に食べませんか」
「この辺りのお店は全然なので、ぜひご一緒させてください」
すると、前に座っていた女性二人がこちらを見てきて、声をかけて来た。
「あの。お二人はお付き合いとかしているんですか?」
「いいえ。初めて昨日お会いして、ちょうど席も隣りでしたので」
「もしよかったら、私たちもご一緒させてもらえませんか?」
「そうですね。明日以降はグループディスカッションもありますから、四人で行きましょうか。みなさん、苦手なものってありますか?」
「僕は特にありませんよ」
「私も特には」
「辛いものはちょっと苦手です」
「なら、美味しいお蕎麦屋さんがありますから、そこにしましょう」
着いたお店はこじんまりしていたけど、時間がずれているせいか丁度四人席がひとつ空いていた。
温かい物の方が良かったけれど、器を持ち上げる自信がないので天ざるを頼んだが、女性陣は野菜天ぷらそばや鴨南蛮など温かい物を頼んでいた。
朝に比べればまだ過ごしやすいが、日が昇った今でも寒い事には変わらない。
「改めて自己紹介しましょうか。僕は埼玉工場の久住です。試作部品の製造ラインに従事しています」
「私は、本社の総務部にいます保住真帆です」
「足達佳奈です。静岡工場の会計課に所属しています」
「同じ静岡工場で生産管理に携わっています、森下美紀です」
「二人は同じ工場なんだ。入社からの友達?」
「はい、入社研修から一緒で。美紀ったら引っ込み思案だから、今回も一緒の組になったんです」
「佳奈ちゃんは迷惑だっただろうけど、私一人だって大丈夫なんだからね」
「迷惑じゃないよ。むしろ独りじゃ夜の時間の過ごし方が解んない」
どちらかと言えば、足達さんの方が森下さんから離れられない様な感じだった。でもそうだな、昨晩もする事なくて早めに寝ちゃったから、今晩はどっかに行ってみようかな。
「久住さん? お蕎麦、乾いちゃいますよ?」
「おっ! すみません、ちょっと考え事をしてまして」
「おやおや? どうやって保住さんを食事に誘おうかって、考えちゃったりしてませんか?」
「今晩の暇つぶしをどうするか、少し考えていただけですよ。それよりサクッとしていて美味しいですね、天ぷら」
あからさまに話を変えてしまったけど、三人とも気にした様子も無く、ころころと話題を変えながら話しが続いてゆく。もっとも僕は、話について行くのがやっとで相槌くらいしか出来なかったけど。
午後は費用対効果の考え方を教わる。
ラインに入っている僕などは、作業改善などを提案していく立場なので勉強になるし、足達さんは実行判断の部署でもあるから真剣に聞いている。
森下さんはと言えば、退屈そうに隠れてスマホを弄っていた。
まったく関係なさそうな保住さんは、それでも真剣に聞いてはメモを取っているので、先々行きたい部署でもあるのだろうか。
「保住さんは先々の夢って、持っていたりするんですか?」
「夢ですか? 幸せな家庭が築ければとは思いますけど、お相手もいないですし具体的には何も」
「いえ、仕事の方向性と言うか、移動したい部署とかって意味で」
「っ! あの、どんな仕事もこなせる様に成りたいですが、移動の要望とかは有りません」
「「プッ」」
「笑わないでくださいよー」
苦笑いに留めた僕の代わりに、前の二人が吹き出した。特に森下さんが肩を震わせて笑い声が出るのを抑えている。
そんな感じで午後の研修も終わり、明日はいよいよグループディスカッション。
来る前は知らない人と上手くできるか不安だったけど、この四人なら何とかなりそうな感じがする。
荷物を片付け、挨拶をして本社を出ると貸与携帯が鳴りだした。
「はい。試作製造課の久住です」
「突然すみません、保住です。あの、この後お時間を頂けないでしょうか」
「構いませんよ。どうせホテルに戻ってもする事はないですし、どうやって時間を潰そうかと考えていたところですから」
「では、お昼を食べたお店の近くで待っていてください。直ぐ行きますので」
昨日のお礼なのだろう事は分っているが、食事に誘ってもらえるのは素直に嬉しい。ただ、男性に苦手意識が有って無理をしているのなら、そこまでしてもらうのは悪い気がする。
どうしたものかと悩んでいると、ものの数分で保住さんがやって来た。その表情はちょっと硬い。
「昨日のお礼と言うわけでは無いのですが、お食事をご一緒していただけないかと思って」
「それは嬉しいのですが、無理していませんか?」
「無理?」
「実は今朝、総務の方だと思うのですが女性に声をかけられまして、『男性への人見知りが激しいのに』って聞いたものですから」
「あ! そうか桜先輩がやったんだわ。あの、確かに男性が苦手なのは確かですけど、中高一貫の女子高だったから接し方が解らないだけで、苦痛とかそういった事ではないんです」
「それなら良いのですが、女性と二人で食事なんてしたこと無いんで、正直どうして良いものやら」
「あの。とりあえずお店に行きませんか?」
二人して向かったのは駅にある展望の良いレストラン。
かなりお高そうなお店に二の足を踏むが、背中を押されるようにして入店して、窓際の席に案内されてメニューを開く。
思ったほどは高くないが、それでもプチ贅沢ほどの価格帯なので安い方から二つ目のコースを選ぶ。彼女も同じものを選んで、最初に届いたワイングラスを軽く掲げる。
「改めまして、昨日はありがとうございました」
「いえ、保住さんに大きな怪我がなくてよかったです。僕も手すりに掴まったりしていれば、こんな大げさな事にはならなかったので反省していますよ」
「あの。女性と二人は初めてと伺いましたが、お付き合いなさっている方はいらっしゃらないのですか? いえ、もしいらっしゃるなら、軽率だったかと思って」
確かに。
彼女がいるにもかかわらず、出先でホイホイ女性に付いて行くのは軽率だし、彼女がいる男性を食事に誘うのは軽い女に見られる恐れもあるだろう。
とは言え、酒を飲みにとか遅くまでって訳ではないのだから、食事くらいで気にし過ぎではないだろうか。
「残念ながら、彼女いない歴と人生がイコールなんですよ。俗に言うオタクなものですから、友達関係は広くなくって。会社では広く浅くなんでボッチでは無いですが、休日まで会う人はいないんですよ」
「オタクってアニメとかですか? 私はあまり見ないのでよく解りませんが」
「ラノベってジャンルの小説が多いですね。ネット小説も良く見ますし、男性向けだけでは無く女性向けも読みます。あと漫画もジャンル問わずですね」
「少女漫画なんかはよく読みますけど、ネットで小説が読めるんですね」
「玄人顔負けの作品が無料で読めるので、けっこうハマっていますね。おかげで、休日は完全にインドアですよ」
「私も休日は家に居ることが多いですね。お菓子を作ったり音楽を聞いたりしています」
なんかお見合いでもしているのかってくらい、お互いの事を聞いたり話したりしていて、気付けば食後のコーヒーが運ばれてきた。
料理は凄く美味しかったのだけれど、その感想を話す時間さえ惜しんで、お互いが知ってもらおうとしていたようだ。
馬鹿らしいかも知れないけれど、自分を知ってもらいたかった。好きになってもらうためでなく、後悔させないためにだ。
「久住さん。もしお嫌でなかったら、私とお付き合いしていただけませんか」
「女性からの申し出を無下にしたくは無いのですが……。連絡先の交換はしましょう。ですが、付き合うかどうかは時間を置きませんか? 貴女のその気持ちは、吊り橋効果に近いものではないのでしょうか。保住さんの申し出はとても嬉しいです。でも、恥ずかしながら貴女に失望されたくないんですよ」
「でもそれは、お付き合いしてみないと解らないですよね」
「ですから。卑怯な言い方ですが、連絡先を交換したうえで時間を開けて、気持ちを確かめてから始めたいのです」
まったくもって自分勝手な物言いだけれど、彼女には幸せになってもらいたいし、出来るならば幸せにしてあげたい。それでも、一時の熱が冷める事はよくある事だと思うし、急に上がった物なら急に冷める事だってあるだろう。
「分りました。ごめんなさい、急に変な事を言いだしてしまって」
「いえ、本当に嬉しかったです。だからこそ、貴女とはちゃんと向き合いたいのです」
そこから会話が無いまま、冷めてしまったコーヒーを飲み干し、連絡先を交換して店を出た。
「保住さん。今日はご馳走様でした。あの、明日も一日よろしくお願いします」
「はい。それではここで、おやすみなさい」
「おやすみなさい。気を付けて帰って下さいね」
研修最終日。
出社してきた保住さんの目元が少し腫れていた。それを見てしまい、気付かれてしまったせいもあって、最後まで微妙な距離感と空気を纏ってしまったのには、静岡組の二人には申し訳なかったと思う。
三時に終わった研修後、僕を除く三人は買い物に行くからと挨拶を交わして別れた。僕は残って労災の手続きについて話をすることになる。
やって来たのは、初日に言葉を交わした女性で、保住さんから『桜先輩』と呼ばれていた方だった。
「研修、お疲れ様でした。肩の具合はどうかな?」
「脱臼は慣れてしまっているので。二週間ほどテーピングをしていれば、生活には問題ないと思います」
「労災の件だけど、通勤途上にも業務中にも当てはまらないので、申請は出来無いの。ただ状況は把握しているので、所属先には総務課長から連絡を入れさせてもらいました」
「ご配慮、ありがとうございます」
「ところで、真帆を泣かせたそうね」
「のようですね。すみません、自分勝手な情けない男で」
「いえ、責めてるわけでは無いの。逆に感謝しているわ。真帆を大事にしてくれて、ありがとう」
「彼女には言わないでほしいのですが、少し努力してみようと思います。少しでも彼女に見合う様に、少しも彼女が引け目を感じない様な男になるために」
「そう。頑張ってね」
その日のうちに自宅に戻り、翌日から仕事に復帰した。
相変わらず冴えない男のままだが、変わったものもある。無意識に女性との距離感を測るようになったことと、休日も外に出るようになったこと。
製造工場とは言え、女性の比率が低い訳ではない。休憩や飲み会などでも積極的に輪に入るようになったし、女性とも話をするようになった。その為にいろいろと情報を得る努力も惜しんではいない。
そんなだからか、同年代の女性から親しく声を掛けてもらう事も出来てきたが、決して二人だけになる事だけはしなかった。それは時間を置いてもらった彼女に、不安を与える要因を作りたくなかったからだ。
そうやって取り巻く環境が変わっていく中、初めて保住さんからメールが届いた。
『あれから二ヶ月が経ちました。久住さんが私の中で、大きな存在である事には変わりが有りませんが、久住さんには思いを寄せる方が現れましたか』
『もう二ヶ月なんですね。もっと近くに感じるのは、貴女への思いが強く残っているからなのかもしれません。さて、直接会って申し込みさせていただきたい事がありますので、ご都合を聞かせてくださいませんか』
直接話せば済むようなものだけれど、声を聴いてしまえば告白してしまいそうなので悶々としながらもメールを続け、再来週の土曜日に会う約束を取り付けた。
高速道路を使えば二時間くらいで行けるので、遠距離恋愛と言うほどではないけれど、なにか約束の証になるような物をプレゼントしたいと、暇ができると予定などを考えてしまっている。
今週末に向けて昼前から会うプランが決まった頃に、定期の人事異動の通達が貼り出され、役員の娘が移動してくると噂が広がった。
『本社総務課 保住真帆 4月1日付けで埼玉工場総務課へ移動』
僕が変わろうとしたように、彼女も変わろうとしてくれていた結果が、今回の人事異動であるならばとても嬉しい。
それでも、答え合わせの始めは僕からの言葉でなくてはならない。
背中を押してくれる御膳立てをしてもらったのだから、自信を持て告白をしよう。
彼女を幸せにするために。
僕が幸せになるために。
待ち受ける未来に不安が無い訳ではないけれど、土曜日が待遠しくてしょうがない。
その日、その時、その場所が、僕らにとってかけがえのない瞬間になる事を願って。
そこから始まる生活に、彼女が居てくれると言ってもらえたなら……。
それは偶然と必然が混ざり合う、数多ある未来へのひとつの分岐点。