世間話
なんだい? 急に来るなんてさ。
連絡の一つでもしてくれれば茶菓子の用意でも出来たのに。まぁ、君がそんなことを気にするとは思えないけどね。とにかくあがってくれよ。それにしても久しぶりじゃないか。半年……いや、一年ぶりか。最近は歳のせいか昔のことがよく思い出せないんだ。若かった頃はこんなじゃなかったんだけどなあ。
コーヒーを淹れよう。美味いぜ、ぼくの淹れたコーヒーは。君はブラックだったな。うん、そんなことは覚えているんだ。君にだってあるんじゃないか? 大切なことは思い出せないのに、ほんの些細なことなら何故か覚えている。不思議だよな、人間って。
ん? あぁ、同棲のことかい? もちろん上手くいってるよ。ぼくがあの女と同棲を始めたのはもう十年にもなるかなあ。そういえばあの女と同棲すると決めたとき、君は猛反対したっけ。絶対上手くいかないってさ。そりゃあぼくにも不安はあったさ。こんな風になるなんて、思ってもみなかったからさ。
覚えているかい? あの女とぼくらが最初に会ったときのこと。綺麗だったよなあ。ぼくは目の大きい女の子が好きなんだよ。それにスタイルも抜群。ま、このことはそんなに大したことじゃないけどね。なぁ、ボディサイズなんてぼくにとっちゃあまり意味のないもんだもんな。君はそうじゃないんだっけ。気にするタイプだったよな。でも異性のタイプなんて十人十色だしね。
そんなことより、やっぱりぼくがあの女に何より魅力を感じたのは、やっぱり長くて艶やかな黒髪だよ。
あの女の髪の毛は本当に綺麗だった。とても瑞々しくって繊細で。ちょっと触っただけで粉々に壊れちゃいそうでさ。そんなはずないのにね。昔から美しいものは壊れやすいっていうだろ。そういう印象を持つ代物だったんだよ。あの女は。知ってるだろ? ぼくは昔から女を壊すことに悦びを感じる男だって。自分の大切にしなきゃいけないものを自分で壊してしまう背徳感。それが堪らないんだなあ。君にはわからないだろうけどね。
コーヒーが沸いたようだ。今カップに入れるよ。おっと、少し濃すぎたのかな。ずいぶん色が濃い。でも構わないだろう? 君は薄いコーヒーをとても嫌っていたからさ。さぁ、飲んでくれよ。どうだい? 美味いか? ……そりゃよかった。
ぼくはコーヒーを飲むたびあの女のことを思い出すんだ。
あの女に色をつけるとしたら、やっぱり黒だよなあ。
なに、それは髪の毛のことだろうだって? ふん。そういう考え方もあるな。けどそれだけじゃないよ。もう君はあの女の事を忘れてしまったのかなあ。別にいいけどね。あの女はぼくだけのものだ。誰にも渡しやしないよ。それは君だって例外じゃない。あの女は、ぼくだけが独占していい。ぼくだけがあの女のことを理解できる。わかるかい? あの女は、ぼくに壊されたがっているんだ。
それはあの女が持っている意識のもっとも奥底の部分。其処こそが、ぼくがあの女を“黒”と形容した一番の理由さ。傲慢で冷ややかで、自尊心の塊みたいで人を傷つけるのが大好きで、そのくせとても繊細だ。そうざらに居ないぜ、あんな良い女は。だからぼくはあの女と同棲した。奇妙な同居生活ではあるけど。
あの女に会いたいかい? もちろん良いとも。
けれど、君も飽きないね。
今まで何度となく会っているのに。
ふん、気持はわからないでもないけど。
けどいいかい。
今まで飽きるほど繰り返した言葉を言おう。あの女に触れることは許さない。いや、気にしないでくれ。深い意味はないんだ。ただの独占欲さ。あの女はぼくにのみその肉体を預けるんだ。ぼくはそう思っている。もちろんあの女もそう思っているはずさ。良いかい。もう一度だけ言おう。あの女に触れることは許さない。ほんの指先だけでも触れたとしたら、ぼくは君を殺すよ。いいね。そのことは守ってくれ。あの女はぼくだけのものだ。君は遠目で眺めていればいい。君の事は本当に大切な友人だと思っている。だからこそこれほど執拗に言っているんだ。君を無くしたくはない。だから、守ってくれ。
さぁ、コーヒーも飲み干したことだし、あの女の所へ行くとしよう。この家の間取りは覚えているかい? なにせ一年ぶりだからな。もう記憶は朧だろう? 良いさ、ぼくが先導しよう。そもそもこの家の造りは複雑でね。斯く言うぼくもここに住み始めてからしばらくは迷っていたからね。あの女は寝室だよ。さぁ、こっちだ。足元に気をつけて。ずいぶん不精していたからなあ。寝室へ行く廊下にはいろいろなものが落ちているだろう。
ガラスの破片、ボタン、ロープ、銀杏の花弁、血痕。
あの時のままさ。この部屋のまわりは時が止まっているというわけだな。
思い出すかい。
ぼくらがこの家に始めて訪れたときのこと。もう五年も前になるかな。そう。あの女はこの家に住んでいた。少年刑務所上がりのぼく達からすれば到底手の届かないような豪邸だった。ああ、あの時のことを思い出すな。何もかもをグチャグチャに壊したいような衝動に駆られたんだ。ぼくらは特に考えも無くこの家のチャイムを押した。口から激しく漏れる吐息を必死に抑えながら、ぼくらは待った。時間にすれば三十秒にも満たない短い時間だ。なのにあの時は何時間も待っているように思えたね。そしてあの女が玄関から姿を現した。そこでぼくはあの女に完全に心を奪われたんだ。そしてぼくは――。
さあ、着いたよ。
ここだ。廊下とはうって変わって、寝室だけは綺麗なままだろう。この部屋だけは念入りに掃除をしている。あの女が居るからね。ん、ベッドのシーツが少し乱れているな。窓が開けっ放しだったから風に吹かれたのかな。あぁ、ベッドは嫌いなんだ。床に寝転がったり座っている方がよほど快眠だよ。さて、そろそろ君をあの女に会わせなくちゃな。もうずいぶん待ちくたびれている様子だからね。そこのクローゼットだよ。君が開けたまえ。ぼくはここに座っている。座って君が悪い考えをしていないか見張らせてもらおう。さあ、取っ手に手をかけ、引くんだ。――開いたね。見えるかい。空っぽだって? はは、やっぱり忘れていたんだね。
下だよ。
そう。言っただろ。ぼくはボディサイズなんて拘らないってさ。ぼくがあの女を気に入ったのは、大きな瞳と、綺麗な黒髪。首から下なんて要らなかったんだ。魅力がなかったからね。あの日ぼくは玄関であの女を刺し殺した。君は言ったね。我慢できなかったのか、と。その通りだよ。そしてぼくは一生ここで暮らすことをあの時決めたんだ。君がこの家で……そう、ミルクティーを飲んでいたね。その間にバスルームで解体したよ。幸い二階に大工道具があったからね。日曜大工でもしてたのかな。どうでもいいことだけどね。ただ少し焦っていたからなあ。雨合羽は身に着けていたけど、解体するのが早すぎた。ずいぶん血が飛び散っちゃったんだよな。それに内臓の処理にも困ったっけ。そうだ。ぼくはまずあの女の両腕を切断した。次の両足。最後に残った胴体は細かく解体してから凍らせて、近くのゴミ処理場に捨てたんだ。あの時は君にも手伝わせてしまったよね。そういえばそのときの礼をまだしていなかった。今度お茶でも奢ろうか。いや気にしないでくれ。仕事は結構うまくいってるんだ。ただサラリーマンっていうのは性に合わないな。定時に家を出て定時に帰ってくる。まぁ、あの女と同棲していなかったら、こんな暮らしは到底出来ないなあ。
なあ、ちょっとどいてくれないか。
彼女を抱きたいんだ。
ああ、悪いね。
ふう、ずいぶんと腐食しはじめたな。あんなに美しかった黒髪も見る影もなくなった。顔だって殆どミイラみたいだよ。でも良いんだ。ぼくは君をずっと愛するからね。そうだ、キスだってしよう。毎日毎日、何度だってしてあげるよ。君も嬉しいだろう? ぼくだってそうさ。君とならずっと暮らしていける。……なあ、彼女が疲れたようだ。
今日はもうこのくらいにしようか。
クローゼットはちゃんと閉めて、さて、これからどうする? もう一度リビングで話でもしようか。積もる話もあるだろう。君は今何をしているんだっけ? あぁ、やっぱり聞かないことにしよう。それなりに上手くやっているんだろう? それならいいさ。ぼくらはお互いに良い暮らしをしているんだ。それだけで十分と思わないかい。
なんだ、もう帰るのか。
もう少しゆっくりしていけばいいのに。
そうか。この後予定があるのか。なら仕方ないな。気をつけて帰ってくれよ。もう外も暗い。――あぁ、ちょっと待ってくれ。いやなに、大したことじゃない。君の肩に銀杏の葉がついていたのさ。この家は銀杏を植えているからね。君は徘徊癖があるからね。今日もまた登ったのかい? 銀杏の木に。まぁ、奇行も程ほどにしてくれよ。まったく、君みたいな変人とぼくみたいな常識人が親友だなんて、おかしな話だよな。じゃ、また来いよ。ぼくもあの女も、いつでも待っているから。それじゃあ、気をつけて。