騙る
一睡もできないまま朝を迎えてしまった。よみから言われた狐っぽいニオイ発言に加え、雨女が泣きながら発した一言は、脳天に隕石が落下したかと思われるぐらいの衝撃だった。
『……ある山に封印されていた怨念の塊が、これまで以上に強くなってきています。……実は、あそこの山から出てきたらしい怨念のようなものに出くわしてしまったのです。これは、あなたがミドちゃんと呼んでいる迦陵頻伽の力だけでは到底太刀打ちできるものではありません。私はこうして必死で逃げてきたんですけれど、あなたの家に逃げてきたのは、やはり非常にまずいかもしれません。今は、あの怨念があなたのもとへ来ないかもしれませんが、それも時間の問題だと思うんです。……ここから、逃げたほうがいいんじゃないかって……』
あの思念体はミドちゃんが封印したはずだった。それなのに、影響力が大きくなってきてしまっている。前にも、卓の友達である灰谷浩太と銀山猛が、薫の部屋に飛ばされてきたことがあったが、雨女の言ったことから察するに、これまで以上にひどいことが起こる可能性が高いことが想像できた。
「逃げたって、無駄だと思うんだよね。思いだしてもみなよ。薫がたとえ、心霊スポットへ行かなかったとしても、あっちのほうから薫のほうへ来るんだから」
ナキメが薫の心を見透かしたかのような言葉を言い放った。一睡もしてないせいで、仕事に身が入らず上司に散々怒られつつ帰ってきた薫に浴びせたナキメの一言は薫の心の傷をさらにえぐった。精神的に疲れていた薫はナキメに怒る気力すらわかなかった。それに、ナキメの言った言葉は間違っていないのだ。逃げたところで、どうしようもないのだ。
「……じゃあ、ナキメはどうしたらいいと思うわけ? 今までこんなことに遭ったことなんて一度もなかったのに、相手がミドちゃんの太刀打ちできない怨霊だなんて考えただけでも、ゾッとするよ」
薫は撫でてくれと頭を押し付けてくるラッちゃんと、僕も撫でてほしいとすり寄ってきたよみに押し倒されながら、ナキメに問いかけた。
「……わかるわけないじゃん」
「まったく……」
薫はナキメに答えを求めること自体が無理だとわかっていても問うてしまう自分に嫌気がさした。
「ダマレ!」
「わんわん、わんわん!(お前はたくさん撫でてもらったからいいだろっ)」
「ちょっと、僕の上で喧嘩なんかしないでよ。それによみ、重たすぎ」
「わん!(それは関係ないじゃないか)」
よみはショックを受けつつも薫から離れた。子犬の時だったら、こうはいかなかっただろう。そんなよみを見てミラはふてくされていた。
「まったく、親分候補と来たら、強くなるための特訓はしなくてもいいのかよっ」
ミラが文句を垂れ始めたその時、薫の携帯電話が鳴った。薫は一瞬ドキッとした。薫にとって携帯電話から流れる曲は少し苦痛なものになって来つつあったのだ。
「メールだ……」
薫が携帯電話を開いてみると、翠川賢志からのメールが来ていた。里奈とはメルアドを交換し合ったが、賢志とはしていないのでなぜ彼からメールが来たのか、少し疑問に感じたが、きっと里奈に教えてもらったということなのだろう。
『件名:用がある
本文:今すぐ会って、話がしたい。これは君にかかわる重要なことだ。それと、黒犬を連れてきてほしい。場所はウサギ公園だ。』
「……どうして、よみを連れてきてほしいんだろう?」
薫はどうして賢志がよみを連れてきてほしいのか、さっぱり検討が付かなかった。もしかしたら、薫が外に出ていく間に怪異に襲われることを考慮してのことだろうか。しかし、それなら彼が里奈を連れて行くほうがいいのではないか。頭の中に疑問がいくつもわきあがってきたが、悩んでも仕方がないのでさっさと外に出ることにした。
「よみ、一緒についてきてくれる?」
「わんわん!(いいけど、どうして?)」
「いや、それが僕にもよくわからないよ」
そう言って玄関へと赴いた。よみは後足を引きずって薫のもとへ来た。その様子を見た薫はよみを外へ出したくない、という思いが頭をよぎった。しかし、頼まれたのだから連れていかないわけにもいかなかった。薫が外へ出ようとした時、ナキメが後を追ってきた。
「ねえ、それは本当に賢志という人から来ためーるなの?」
「え? 何を言ってるんだよ。メールにはちゃんと翠川賢志って名前が出てるじゃないか」
そう言いながら薫は携帯電話を取り出してナキメに見せた。ナキメはそれをうさんくさそうに眺めまわした。そして思いっきり溜息をついた。
「携帯電話のめーるっていうものは相手が見えないから困ったものだよ」
「なっ。ナキメだってあの人に会ってるじゃないか。あの人が悪いことを言う人には見えないよ」
しかし、ナキメは薫の言葉になびかなかったらしい。携帯電話をじっくり見てまた溜息をついた。
「別の知らない人が名前を騙っているかもしれないじゃないか。……会いに行きたかったら会いに行けばいい。けど、どうなっても知らないよ」
薫はよみとミラ(親分候補を見守るためらしい)を連れて、ウサギ公園に出向いた。なぜ、ナキメがあんなことを言いだしたのか、薫には訳がわからなかったが、今までのことで気が張りつめていてもおかしくなかったので、薫はナキメの一言を気にしないようにした。夜とはいえ暖かい空気があたりに漂っていていた。薫はよみの歩行速度に合わせているため、一歩一歩が遅かった。
「よみ、大丈夫? あんまり無理しないようにしてよ」
「わん!(大丈夫だって)」
よみがそう答えると同時にミラがぼやき始めた。
「親分候補の足が一発で治るような薬はねえのかよ」
ミラはよみの体についたごみを払いながらそう言った。よみは足を引きずって歩くためか、汚れが体につく頻度が以前より増していた。
「世の中に薬は五万とあっても、病気がすぐさま治るような薬はないよ。それにそんなものがあったとしても、副作用が激しいものが多いんだ」
「ふくさよう……?」
「わんわん、わんわん!(用は、利き目が強いほど体に悪い影響が出てしまうってことだよね)」
「……そう、そうだよ」
薫はなぜよみがそんなことに通じているのか不審に思ったが、あえて気にするほどでもないと思い相槌を打った。そして、ほどなくして薫たちはウサギ公園についた。そこには、翠川賢志が一人待っていた。
「ごめん。待たせてしまったみたい」
「それほどでもないよ。ちゃんと、黒犬を連れてきてくれたみたいだね」
そう言いながら、賢志はよみのほうをみた。その時、なぜかよみはそわそわし始めた。首につながれたリードを咬み始めたのだ。
「どうしたんだよ。よみ。この人には前にあったじゃないか。なんでそわそわしてるの?」
「わんわん!(か、帰ろうよ)」
「親分候補、どうしちまったんだよ。ただの人間だろ?」
賢志は慌て始めたよみを見て、落ち着かせようとして手を伸ばした。
「わんわん!(こっちに来るな!)」
よみはひと際大きく吠えたてた。子犬のころと違って大きく成長した犬の吠え声なので、犬が苦手だった薫の肝を縮みあがらせるには十分だった。
「そ、そんなに怒んなくてもいいじゃないの……」
その様子を見た、賢志はよみに近づくのをあきらめたようだ。
「ところで、話があるみたいだけど、よみに何かあるの?」
「それなんだけど……」
その時、ウサギ公園に向って誰かが走ってきた。二人いるようだ。
「ちょっと待て!」
「あ、卓っ。て、えっ!」
薫は口をあんぐりと開けてしまった。なぜなら卓の横にいたのは、賢志だったからだ。
「なっ、同じ人間が二人もいる! どうなってんだ!」
ミラは同じ人が二人もいることに明らかに気味悪がっていた。
「わんわん! わんわん!(あの人が本物だ。僕の横にいるのは偽者だっ)」
よみがもう一方の賢志に向って吠えたてると、その人は不気味な笑みを浮かべた。
「最初から見抜かれてしまってたってわけか……。それじゃあ、この姿でいる必要はないわけだな」
そう言うと、賢志らしき人は元の姿に戻り始めた。卓は賢志が二人もいるというだけで驚きだったのに、その賢志モドキが元の姿に戻り始めるのを見て、ありえないという顔をした。
「な、何がどうなってるんだ……」
薫たちの目の前に立っているのは、一人の少年だった。薫はその人をどこかで見たことがあると感じた。しかし、思い出せない。
「卓。お前は帰っていてくれないか。これは常識的なことではないからね。後で、俺の妹をそっちに行かせるから」
賢志は卓にそう伝えた。卓は見たもののせいで頭がうまく回らなかったが、どうにか賢志の言ったことは理解できた。
「わ、わかった……」
卓が帰っていくのを見届けると、賢志の姿を真似ていた少年はあからさまに不満げな表情を浮かべた。
「なんで、邪魔すんだよ。てめえが来なけりゃうまくいってたのに……」
「君がしようとしていることは、間違っているからだ。……黒野月臣」
薫は賢志の言ったことがわからなかった。黒野月臣は確か死んだはずではなかったのか。
「え、じゃあ、この人は、幽霊?」
「いや、正確には黒野月臣の記憶だ。思念体ともいうけどね」
「え、その思念体って、まさか……」
思いだした。どこで見たのかを。眠りの呪いにかかってしまった時、夢の中で出会ったのが、この少年だったのだ。10人ぐらいに囲まれて金属バットやバールのようなもので殴り殺されたのだ。そして、最近でもあの山で見つかったと報道されたのが、この黒野月臣の白骨化した遺体だった。今までの、嫌な出来事はこの月臣の思念体がもたらしたものだったのだ。
「ひそひそと話してるんじゃねえ! これだから人間なんてのは大嫌いなんだ! コロしてやる!」
憎しみのこもった声で、声を荒げた月臣はいつの間にか瘴気のようなものを周りにまとっていた。こんなものに触れたら、ただではすまされないだろう。
「ひっ、なんなんだよ。こいつっ。おっかねえ」
「わんわん!(ミラ、大丈夫?)」
怖気づいて腰を抜かしたミラを心配そうに見つめるよみ。よみはなんとかしてこの場況を打破したいと思ったが、足が思うように動かないため、もどかしさを感じていた。
「ど、どうしよう……」
「……ちょっと、静かにしていてくれないか。考えているところだから」
この状況でさえ落ち着いていられる賢志の肝っ玉に薫は感心したが、薫としては今すぐなんとかしてほしいところだ。その間にも、月臣は瘴気をまとわせ、薫たちに向かっていった。薫は今更ながら、日ごろ運動しておけばよかったと悔やんだが、今頃後悔したところでどうなるわけでもない。
薫はドッジボールをよけるように月臣の攻撃をかわした。しかし、攻撃の手は足が不自由なよみのほうへ向かうこととなってしまった。よみが危機的状況だというのに、ミラと来たら腰が抜けたままで何もできなかった。だが、月臣の攻撃はよみに届くことなく中断された。
「待って! それ以上、自分で自分の首を絞めるのはやめて!」
そこにいたのはナキメだった。ナキメが来たことに驚いた月臣はしばらく動けないでいた。
「な、なんで。なんでお前がここにいるっ」
ナキメは月臣の瘴気が取り払われたころを見計らって、さらにたたみかけた。
「あいつらは、死んだよ。月臣がころしてやりたいと願った奴らは、全員死んだんだ。月臣を苦しめた奴らはもういない。いないんだ。だから、関係ない人たちまで巻き込もうとするのはやめて!」
「う、嘘を言うな。俺を安心させようとしてそんなでたらめなんか……」
賢志はなぜ月臣が急におどおどし始めたのか分からなかった。しかし、そばに誰かがいるのだけはわかった。そこで、賢志はある賭けに出ることにした。
「俺はお前の弟にあったことがある。かわいらしい子だったよ」
「お前も、嘘で俺をたらしこめようって言うのか! 俺の弟は、正親は、目の前で、母さんの手によって殺されたんだ!」
月臣がまた怒り始めたので、薫は賢志のやろうとしていることが何であれ、うまくいかないのではないかと懸念した。
「……話を最後まで聞いてくれ。俺があったことがあるのは、幽霊のほうだったんだ」
「なんだって?」
こいつは一体何を言ってるんだとういう表情がありありと浮かんでいた。
「とっても、まっすぐな瞳をしていた。そしてあんなに兄さん思いの弟はいないと思った。そして、自分のことよりも兄である君のことを心配していた。そして最後にこう言ったんだ。僕はもういないけど、お兄ちゃんをずっと見守っているよ、って」
その言葉を聞いた月臣はフンと鼻を鳴らした。
「……そんな言葉で、俺が騙されると思ってるのか?だいたい……」
「ぼくの言ったこと、しんじられない?」
かわいらしい声が聞こえてきたと思ったら、そこには男の子が出てきた。あの時、卓に取り憑いた男の子の霊が。男の子はまっすぐと月臣を見据えていた。
「な、あの時成仏したんじゃ……」
「ちょっと、黙ってて」
薫が思わず声を漏らしたが賢志にたしなめられた。ナキメとよみとミラは事の成り行きをじっと見守っていた。
「ま、正親……。そ、そんなわけないだろう。俺はいつだってお前のことを信じてる。今だってそうだ」
「だったら、ぼくの言うこと、聞いてくれるよね。これからは悪いことはしないって」
一瞬の沈黙。
「……わかった。約束する」
月臣は正親と一緒に薄くなって消えていった。