怨まれる
『ラッちゃんが家に戻ってるですって?! 本当なの? 目を離したすきにいなくなったからどうしようかと思ったわよ……』
夏未は大声を張り上げて驚いてしまった。預かっているはずのラッちゃんがいなくなったと思ったら、薫の家にいるというのだ。
「うん、そうなんだ。僕もどうしてラッちゃんがアパートに戻ってきたのかよくわからないんだ」
薫は天狗に攫われたとき、なぜラッちゃんがミドちゃんと一緒に来たのかわからなかったが、きっと薫のピンチを知ったラッちゃんがミドちゃんに頼んで、一緒に薫のもとへ駆けつけてきたということなのだろう。
『まったくこれからも私のところに預けるたびに篭脱けするようじゃ、これからは私の家に預けられなくなるわよ』
薫はそれを言われて、困ったことになったなと感じた。薫が今の仕事を続けていられるのは夏未にラッちゃんを預けてもらえているからなのだ。
「なんとかならない?」
『何とかって言われてもねぇ……』
ところで、夏未の足元ではコツメカワウソのおやどと、その家族がじゃれ合っている最中で夏未はおやどに突進を受けよろけそうになりながらも電話をしていた。
『キュッ!』
『キュッ!』
「大丈夫? なんか周りが騒がしいみたいだけど」
『だ、大丈夫よ。おやどたちが遊んでいるだけだから。それはそうと、ラッちゃんは本当に無事なのね?』
「ダマレ!」
薫は携帯電話をラッちゃんのもとへ持ってきて、携帯越しにラッちゃんの声を聞かせた。
『……そっちのほうが十分騒がしいんじゃない』
「うっ、ごめん……」
薫はラッちゃんの声を聞かせたのはまずかったと思い焦った。ラッちゃんの声はとてもよく通るどころの音量ではないのだ。ましてや「ダマレ!」と喚くものだから、聞こえが悪い。
『まあ、薫は明日も休みなんでしょう? ラッちゃんの籠、渡しに行くから』
「そんな、いいよ。僕が取りに行くから」
『わかったわ。それじゃ、明日の五時半ごろに取って来てもらえるかしら? 明日はいろいろと用事があるからそのころにしてほしいの』
「うん。そうするよ。それじゃあ、また明日」
『明日ね』
「ぎゃっ!」
薫が携帯電話を片づけた後、よみが薫にすり寄ってきた。よみの体が大きすぎるせいで、薫は下敷きになりかねない状況になった。
「わん!(薫っ)」
「もう、いきなり飛びついてこないでよ……」
薫はよみから何とか逃れようとするが、よみは薫を前肢でしっかり押さえているので離れることができなかった。それを見たナキメは面白そうに笑っているし、ミラはよみが見てくれないことにムシャクシャしているし、ラッちゃんは薫から離れろといわんばかりに騒ぎ始めた。
「ダマレ! ダマレ!」
「もう、明日は夏未のうちに行かなきゃならないんだから、早めに休まないといけないんだよっ」
薫はそう言ってラッちゃんが入っている替えの小さな籠に布をかけた。しかし、よみがまとわりついてくるのでなかなかうまくかぶせられない。ラッちゃんの籠を置く場所を換えたいのだが、薫がラッちゃんのところに行くたびに、よみがついてくるのでラッちゃんとよみを会わせないようにするという目論見はここ最近うまくいかなくなっていた。
ラッちゃんはよみのことを嫌っているみたいなので、よみが薫のそばにいたがるようになってきたのは非常にまずいとしかいいようがなかった。
「よみ、もうちょっと離れていてくれるとありがたいんだけど……」
「わんわん!(薫から離れたくないよ)」
いったいどうしてこうなってしまったのか。よみが小さいころはミラと遊びほうけていたのに、ここのところずっとこんな感じだ。成長期に入ってきた証ということなのだろうか。熱い眼差しがとても熱心過ぎて目が合わせられない。
「よみ、そろそろ薫から離れたほうがいいんじゃない? ミラが怒りのあまり薫をころしてしまったら、それこそ大変だよ?」
「わん!(それはちょっと……)」
よみは仕方がなく薫から離れた。確かにミラは怒りをあたりにまき散らしていた。
「親分候補は最近あいつのことばっかじゃないか! くそ!」
「わん!(ごめん……)」
よみは薫から離れた後、すごすごと退散していった。肢の麻痺が広がってきているせいか、歩き方もぎこちない。左脚で踏ん張っているものの、這いずったような進み方しかできなくなっていた。よみの病気は確実によみの体を蝕んでいるようだった。薫はその後ろ姿を見て、ミドちゃんはもっとよみに何かしてやれなかったのかと思い悩んでしまった。
(どうして、よみの病気は治せないんだ……。なんでなんだよ。ミドちゃん……)
その翌日、薫はよみをアパートに置いていくことにした。よみは薫に何としてでもついて行きたがったが、ミドちゃんがよみを薫についていけないようにある術を施したおかげで、よみは諦めざるを得なくなった。
「親分候補、別にあいつと永遠に別れるわけじゃないんだから、我慢しろよ」
ミラはそう言いながら、笑いを隠しきれないでいた。これで親分候補のよみと一緒にいれるのだから、笑いがこぼれるのも無理はない。しかし、よみは明らかに不服そうだった。ナキメはなぜか薫について行こうとはせず、よみのことを見守ることに決めたようだ。よみの薫への執心ぶりはナキメにとっても目に余るものがあったようなのだ。そんなわけで薫はラッちゃんを連れて、夏未のもとへ行くことになった。
「わんわん!(薫のところに行きたい……)」
事件は薫の方、ではなくよみたちのほうへ来ることになった。きっかけは些細なことだった。家の中が蒸し暑いからと、ミラが窓を開けたのが事の発端だったようだ。窓を開けた際、窓に貼っていた御札が剥がれてしまった。この御札は翠川里奈が薫に渡したものである。呪いの元である思念体を寄せ付けないためのものだが、あの時の歪んだ空間には効力がなかったようだ。ハラハラと落ちた札を見たミラは何だこれとばかりにお札を見た瞬間、恐怖に顔を歪ませ、そのお札を箸でつまんで窓の外に投げ捨ててしまった。
「あ、その御札、捨てちゃいけないもののはずなんじゃないの?」
ナキメがそう言ったが時すでに遅しで、御札は風に舞上がって飛んでいってしまった。
「あーあ。飛んで行っちゃった。でも、だいたい怪奇は薫のほうへ来るんだから、家に貼っていても、関係ないよねっ」
ナキメはその札が飛んでいったことに気に留めることもせず、ミラに頼んで窓を閉めさせるようなこともしなかった。
「あんなもん、貼りやがって背筋凍るかと思ったぜ……」
「わん!(どうかしたの?)」
よみが何事かと、ミラたちのところへ来たときにはすでに、あるものが部屋いっぱいにあふれかえっていた。霊魂である。いつの間にか薫の住んでいるアパートの一室が、まるごと霊道になっていたのである。部屋の中全体に世の中を怨んだり、すすり泣くような声が響き渡ることになった。
「な、なんなんだよ。こいつらっ」
ミラはあたりを漂う幽霊たちを見て腰を抜かしつつそう言った。ミラは食べること生きていることに執着するあまり、死ぬということを極度に怖がるようになったため、死んでいるように見える奴らが動いているということがかなりの恐怖心を煽っていた。
家の中にどんどん入ってくるものだから、ミラはおびえて押し入れの中に入っていった。しかし、霊の前に仕切りがあっても無意味というもので、ミラの逃げ込んだ押し入れの中にまで入ってくる始末だった。
この様子を見たナキメはあることに気が付いた。薫の部屋に入ってきている霊たちは薫たちが取材に訪れたあの山で見た霊たちだということに。どうしてここまで来てしまったのかという思いとは裏腹に霊たちは途切れることなく、薫の部屋に入ってくる。ミラは押し入れの中で叫びまくっているし、よみはどうしようかとおたおたしているばかりで、この状況を打破できるような段階ではなかった。
「よみ、こいつらをなんとかできるのはよみしかいないよ!」
ナキメはよみに発破をかけようとしたが、よみが放心状態になっていることに気が付いた。
「……気絶している場合なんかじゃないって言うのに……」
『……』
『……』
部屋の中が霊たちの声で騒がしくなってきた。皆何かを言っているようだが、だれが何を言っているのか聞き取れない。しかし、誰もが一様に同じ事を言っているらしいことがわかってきた。
『死んだのはあいつのせいだ……。あいつのせいで俺は死んだ……』
『あんな奴さえいなければ、死ぬこともなかった……』
『俺の人生を、返せ!』
いったい誰に言っているのかわからない。しかし、ここに集まってきている霊たちは誰もが同じ相手を憎んでいるらしかった。誰かのせいで死ぬはめになったんだと。
「まったく、よみってば! いい加減に目を覚ましてよ! こいつらをなんとかして!」
そのころ、薫は夏未の家を出ようとしていた。もちろんラッちゃんを元の籠に入れ直しての帰宅である。ラッちゃんはよみに邪魔されず薫と一緒にいれてご満悦といったところだ。
「ダマレ!」
「さようなら。気をつけて帰ってね」
「わかってるって。それじゃあね。また今度」
薫が帰ろうとした矢先、あの和風な音楽が薫の携帯電話から流れてきた。薫は何事かと思い、携帯電話を見ると、そこには非通知と出ていた。薫はあの時のことを思いだしてしまい、携帯電話を無視することにした。しかし、音楽が鳴りやんだと思ったら、またかかってきた。またしても非通知である。そんなことが何度も続いたので、薫は思いきって携帯電話に出ることにした。
「……もしもし? どなたですか?」
その時、薫の携帯電話から聞こえてきたのは大勢の人間たちの恨みのような声だった。薫は思わず、電話を切ろうとしたが、その中から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
『……よみが起きてくれないと、この部屋から霊たちを追いだせないよ! 早く起きてよっ……』
この声は確かにナキメの声だった。ナキメは電話を使えるはずがないので、この電話はどうやってかけられてきたのか不明だったが、薫はナキメたちが緊急事態だということをすぐに理解した。薫がいきなり速足で駆け出したので、ラッちゃんはかなり驚いてしまった。しかし、薫は駆け足を緩めることはなかった。速く何としてでもアパートにつかなければならなかった。
薫がアパートにつく前に、ミドちゃんを呼んでおいたのは正解だったようだ。部屋の中は霊たちで充満していたし、よみはいまだに気を失っていたからだ。
「ピーピー(まったく、なんてことだっ)」
ミドちゃんは薫の部屋に結界を張り始めた。結界が張られていくたびに、霊たちは薫の部屋から逃げだして行った。一人、また一人と部屋から出ていき、ついには霊たちは薫の部屋から全員退散していった。
「さっきのは何だったの? どうして僕の部屋に集まっていたわけ?」
薫は部屋の中に戻るなり、ミドちゃんにそう聞いた。お化けさんたちが薫のほうに来るならまだしも、部屋のほうに来るなんて訳がわからない。
「……ピー、ピーピーピー(……あやつらは、この部屋が目的で来たのではない)」
「それはわかっているよ。僕の殺風景な部屋に泊まりたがるような人や霊は誰もいな……」
ミドちゃんの目が怒っているのを見て、薫は口を噤んだ。ミラはまだ泣き叫んでいるし、よみは放心状態のままだし、ナキメはさっきのことで頭がクラクラしていた。
「……ねえ、ナキメ。何があったんだ?」
薫はピリピリしたムードに耐えられず、ナキメに聞いた。とりあえず、さっきのことは何だったのか把握しておきたかったのだ。
「……あいつら。どうしてあそこで……」
「え? 何、何のこと? はっきり言ってくれないと……」
薫はナキメにもう一度聞こうとしたが、ミドちゃんに止められた。
「ピーピー(やめなさい)」
「で、でも……」
薫はどうしてナキメに質問してはいけないのか分からなかった。先ほどの幽霊たちに何か関係あることなのか。薫はまだナキメに聞こうとしたが、ミドちゃんの気迫に押され、聞くのはやめにした。その後もナキメはまだ何かを言い続けていた。
「あそこにいたはずがないんだ……。あいつらは、僕が黙らせたからもう心配なかったはずなんだ……。あいつらがあそこで、あの山で死んだはずがないっ……」