飛ばされる
薫は取材現場から帰って来たところだった。明日は土曜なので(会社は休み)、早くも気持ちが舞上がっていたが、とんだ足止めをくらってしまった。卓にばったりと鉢合わせてしまったのだった。薫は挨拶してそのまま帰ろうとしたのだが、卓に呼び止められてしまった。
「あの~。早く家に帰って休みたいんだけど……」
薫の前に立ちふさがる卓。いい加減どいてほしい。しかし、そんな願いとは裏腹に、卓は薫に何かを伝えようとしていた。
「話はすぐに済むから。長話は嫌いだからな」
「何?」
早く帰りたい薫は少しイライラしていた。本当ならば、サワーでも買って晩酌でもしたいところなのに……。卓は単刀直入に言った。
「お前、ここのところ生傷が絶えなくないか?」
「はい?」
薫はキョトンとした。格闘技好きな卓ではあるまいし。しかしながら、ここ最近怪我が多いのは事実だった。
「危険な相手に取材をしてるんじゃないかって聞いてるんだ」
「ああ、そんなことか。別に卓が気にすることじゃないよ。インタビューする相手は一般人だし。変なことには首を突っ込んでないって」
薫は内心びくびくしていた。もしかして薫が霊や妖怪が見えることを知って、頭がイカれたのではないかと思われるのが嫌だったのだ。
「だったら、その包帯は何だ?」
そう言って卓が指をさしたのは薫の左腕だった。その腕は、取材の時に泊まった旅館の前で鬼に捕まえられた時、高いところから落とされて、かばった時にできた傷だった。
「いや、ほら。僕って案外ドジだから、すぐ転んじゃうんだよねぇ。あははは……」
しかし、卓は笑わなかった。そんな卓の様子に気が付いた薫は笑顔が引っ込んでしまった。
「お前がいくら運動神経が鈍いなまくらでも、今までそんな怪我はしてこなかったはずだぞ」
そう言われて、薫は間違いに気が付いた。生半可な答えでは卓は納得してくれないということだ。それと同時にあることを思いだした。金子優奈という人が薫に接触してきたときのことを。もしかしたら、何かやばいことをやっているのではないかと疑われているのだろうか。
「実は、さ」
薫は言おうか迷った。が、何か怪我をしたことに対する答えを言わなければならなかった。
「……何だよ。言いかけたなら、最後まで言えよ」
「最近ある犬に好かれちゃってさ。まだ子犬なのに体がものすごく大きくって、僕にじゃれつくときなんか、僕のほうは命がけなんだよねぇ」
「……犬、ねぇ」
犬と聞いて卓は考え込んでしまった。果たしてこれが答えとしてあっているのか、薫には皆目見当もつかなかった。
「わん! わんわん!(薫、早く家に帰ろう)」
「よみ!」
薫の目の前には、ナキメとミラとそしてよみがいた。ナキメは驚かす機会をうかがっているし、ミラは退屈そうに薫たちのやり取りを聞いていた。よみはといえば、薫がなかなか家に帰ろうとしないので、家に帰るよりも話しするほうが好きなのかと考えていた。
「もしかして、この犬か? じゃれついてくる犬って言うのは?」
卓はよみを見ながら薫に聞いた。
「そ、そうだよ。こいつなんだ。いつも僕を見かけるなり僕にじゃれつくんだよ」
しかしながら卓はどうも合点がいかないという顔をした。
「お前、さっきこの犬のことを『よみ』って、呼んでいたな」
「あっ」
薫はまたしても自分のしでかした間違いに気が付いてしまった。首輪が付いてないしどう見ても野良犬にしか見えないのに、名前で呼んでしまったことに。
「お前、この犬を飼っているのか……。でも、確かオウム飼ってなかったか?」
ナキメはうまく答えられない薫を見て笑いが込みあがってきた。しどろもどろする薫の顔も面白いものだ、と。
「た、確かにオウム、というか、オカメインコを飼っている。でも、こ、この犬はっ」
「この犬は?」
どうしよう。いったいどんな風に答えればいいって言うんだ。しかし、その時薫と卓の問答は打ち切られた。というのも、薫たちの周りにすさまじい突風が吹いてきたのだ。さまざまなものが飛んでくるし、とても危険でしゃべるどころではなくなってしまった。
「すごい風だっ。早いところ家に帰んないと! この話はまた今度な!」
そう言うなり卓は足を踏ん張って帰っていってしまった。
「僕たちも帰ろう! このままじゃ、飛ばされちゃう!」
薫は足を踏ん張りながらそう行った。ナキメはよみの毛にしがみついているのがやっとの状態だった。ミラもよみにしがみついて飛ばされまいとしている。
「でも、よみは大丈夫なの? 歩けそう?」
ナキメはよみの姿勢を見てそう聞いた。よみは片足が不自由なので前肢だけで踏ん張っているせいか、どう見ても歩けそうに見えなかったのだ。
「わん!(ちょっと、無理かも)」
よみが歩こうとするたびに、態勢が崩れ、飛ばされてしまいそうになるのだ。そのたびに、よみにしがみついているナキメとミラも、飛ばされてしまいそうになるのだった。
「親分候補、どうにかして歩けないのか?」
「何言ってるんだよ。立っているのでさえやっとだって言うのに、どうやって歩けるって言うの!」
ナキメは体も小さい上に軽いため、ミラよりも必死感が漂っていた。風がやむのを待ちたいところだったが、そんな思いもむなしく、風はどんどん強くなっていく一方だった。どこからともなく、さまざまなものが飛ばされてくるのだが、よけようとするたびに足が持っていかれそうになった。
「あ!」
薫たちは必死に耐えていたが、ついに限界が来てしまった。ナキメだけでなく、ナキメより重いミラや、よみ、薫までもがあろうことか宙高く吹き飛ばされてしまった。薫はこの時、これは自然の風ではないことに気が付いた。誰かが強力な風を起こしているのだ。しかし冷静に考えている暇はなかった。こんな風に高く飛ばされてしまっては、地面に叩きつけられる恐怖がいやが上にも差し迫ってきた。薫たちはどんどん飛ばされていくなかで、気を失ってしまった。
体中に走る痛み。心臓の鼓動がドクドクと聞こえる。そして、口の中に広がる鉄の味。それらのことが、薫はまだ生きていることを認識させるのに十分だった。
「うっ!」
薫は立ち上がろうとしたが、痛みがひどいせいで身を起こすことさえままならなかった。
かさっ
薫の耳の横で、誰かが歩いている音が聞こえてきた。薫は目を開けると、誰かが一人薫のそばに立っていた。足元に目をやると、高い一本下駄が目に見えた。
「あいっ!」
しゃべろうとしてみたが口の中が切れているためか、言葉を伝えようにもどうにもならなかった。よくこんな状況で生きてられた。そんな思いが頭をよぎった。
「しゃべるな。傷に障るだろう」
一本下駄をはいた誰かが薫に話しかけてきた。何だか尊大な物言いが鼻につく。薫は誰がこの風を起こしたのかようやくわかった。天狗だ。
「今、薬師を呼びよせているところだ。うぬの仲間たちも手当てさせる」
ということは、ここにナキメたちも飛ばされてきたということか。薫は痛みをこらえ辺りを見まわすと、森のようなところが目に入った。ナキメたちは薫のすぐそばにいた。ナキメ以外の、つまりよみとミラだけ目に見えて痛々しい傷を負っていた。しかし、ナキメも無傷というわけでなく、火の大きさが小さくなっていることから憔悴しているのが見てとれた。
一体どういうわけで、風を起こして薫たちをここに連れだしたのか、薫は聞こうと思ったのだが、体の痛みに耐えかねそれどころではなくなった。しばらく横になっていると、空から小さい何かが飛んできた。何羽もの烏天狗たちが薬を入れた箱を抱えて飛んできたのだ。
「持ってまいりました。これでよろしいでしょうか」
烏天狗のうちの一羽が天狗に尋ねた。皆そろいもそろって恭しく首を垂れていた。
「うむ、それでよい。では手当にかかれ」
そう言われるやいなや、皆一羽ずつ薫たちの治療に取りかかった。軟膏を塗られるたび、痛みにうめいた。ナキメは軟膏を塗るわけにもいかず、飲み薬を飲まされる羽目になった。しかし、治療のかいもあってか、とりあえず痛みは我慢できるようになった。治療も一段落すると、烏天狗たちは薬箱を持ってまたどこかへと飛び去って行った。それを見送ってから、天狗は薫たちに向き直った。
「某がうぬらをここへ来させた訳を話しておくとする」
天狗が一言はなすたびに薫たちは背筋を伸ばさないといけないような気持ちにさせられた。薫は居ずまいを正しておくべきかと思ったが、体が痛むためやめにした。
「最近人間が住んでいる里で妙なことが立て続けに起こっておる。人が突然消えて別の場所に現れたり、霊を目にしたと言う話も聞いた。ついこの前などは、唐笠お化けを見たなどと言う人が出てくるようになったそうだ」
薫はこの話がどこに行こうとしているのか分からなかったが、天狗の話の内容は薫が出くわしたものばかりであることに気づいた。
「そして、その妙なことが起こっているときには必ず同じ人を見かけたそうだ。それが誰だか、わかるな?」
それを聞いた薫は嫌な予感を抱いた。いったいこの天狗は薫をどうしようというのだろうか。
「……僕のこと、ですか」
口の中が痛むため、かなりたどたどしいしゃべり方になってしまったが、何とか口から絞り出した。
「さよう。わかっているなら良い。そこで聞くが、うぬは如何ようにして妖術を身につけた?」
「えっ?」
言っている意味が全然分からない。なぜこの天狗はそのようなことを聞くのか。薫は答えられずにいると、天狗は薫が思いもよらなかったことを口にした。
「うぬが、物の怪どもを従えられておるのは、まさに妖術のせいではあるまいか。それにうぬは……」
しかしながら、天狗がその言葉を言い終える前に誰かが闖入してきた。
「ダマレ!(薫、ここにいたのか!)」
「ピーピー!(薫たちを返してもらうぞ!)」
ミドちゃんが、なぜかラッちゃんを従えて森に飛んできたのだ。ラッちゃんは目を三角にしているし、ミドちゃんは小さい体から怒りをみなぎらせていた。天狗はミドちゃんを一目見ただけで、ただの鳥ではないことを見ぬいたようだった。
「お前は、迦陵頻伽ではないか。なぜここにいる?」
「え? かりょう……、びんが?」
薫は何のことだかさっぱりわからなかった。ミドちゃんはただの鳥ではないと常々思ってはいたけれど、聞いたことのない名前を聞いて、ミドちゃんの謎は余計深まってしまった。
「ピーピー。ピー(そのことを話ししてる暇はない。帰るぞ)」
ミドちゃんは、薫たちをアパートまで連れ戻すと、ぐったりしてしまった。しかし、薫の心配をよそに薫たちの怪我を癒した。
「ピーピー(満身創痍のまま、すごしたいわけではなかろう)」
怪我が治っていくのを見て薫は思いきってよみの足を治せるか、聞いてみた。動物病院で治せなくても、ミドちゃんならいけると思ったのだ。
「なんとかならない?」
「俺も、親分候補の足が治ってくれたらっていつも思ってる」
ミラもそれに続いてぼそっと言った。
「あ、今日は意見があったね」
「……たまたまだ!」
しかし、ミドちゃんはそれを聞いて黙ってしまった。ラッちゃんの「ダマレ!」だけが、部屋に響き渡る。何も言いたくないのかと思ったが、ようやくミドちゃんはくちばしを開いた。
「……ピー、ピーピーピー(……その足、いや、病は治すことは不可能だ)」
「なんだとっ」
ミラは治せないと聞いて怒った。ナキメが止めに入らなかったらミラはミドちゃんを殺してしまっていたかもしれない。それほど怒りはすさまじかった。
「怒んないでよ! ミドちゃんにもできないことはあるんだよ!」
そう言いながらナキメはミドちゃんに不可能なことはほとんどないことを思いだした。なにか訳があって治したくないのだろうか。部屋の中が殺伐としてきたのを感じ取った薫は、話題を変えた。
「ところでさ。あの天狗はなぜ僕たちをさらったのかな? 僕が妖術使いだって疑っているみたいだけど……」
ミドちゃんは薫の顔を見据えた。薫はそのように見られることに慣れていないため、一瞬身がすくんだ。天狗と同じ、周りに有無を言わせないような凄みがあった。
「……ピーピー?(本当にいいのか?)」
「……な、何が?」
「ピーピー、ピーピーピー。ピーピー?(それを聞くことは、お前の過去を知ることになる。聞きたいのか?)」
そう聞かれて、薫は戸惑った。ミドちゃんは薫の過去の何を知っているというのだろうか。
「え、い、いや。やっぱりいい」
そう言って薫は少し後悔した。薫の霊媒体質の謎を聞けたかもしれないからだ。そして、なぜミドちゃんが薫のそばにい続けているのかということも。
「本当にいいのですか? あいつらを返してしまっても?」
烏天狗は天狗に首を垂れつつそう聞いた。
「かまわん。どっちみちあの迦陵頻伽が助けに来るのはわかっていた」
天狗はそんなことはどうでもいいとばかりにつぶやいた。しかし、烏天狗は何か諦めがつかない様子だ。
「し、しかし。常々あの薫というやつに会ってみたいと思っていたではないですか」
それを聞いて天狗は少し苦笑したかに見えた。
「いや、もうよい。奴はあの妖狐の子孫とはいえ、類まれなる力は持っていないことは会ってみてわかったのでな」
「妖狐…」
烏天狗はその言葉を聞いてハッとしたようだった。
「もう用は済んだだろう。下がれ」
「……はい」
天狗は一人になるなり独り言ちた。
「……しかし妙なものだな。奴はあの妖狐の子孫であるにもかかわらず、まさかあんな奴と一緒にいるとはな……」