見られる
薫は、息を切らしながら、山道を登り続けていた。薫の後ろには、鬼火のナキメと、餓鬼のミラと、子犬と呼ぶには疑問点が付くぐらい大きく成長した黒犬よみがついてきていた。
よみは片足を挙げながら、何とか薫に追いつこうとしている。ミラはそんなよみを時折心配そうに見ながら、よみが歩きやすいように、よみの目の前の障害物をどけていた。薫は今、新しい取材先である、ある山に来ていた。そこでは、なぜかいろいろと、心霊現象が起こっていて、地元の人はおろか、観光客でさえ寄りつかないというようなところだった。
その謎を究明するために、薫はこの山の管理人に入山許可をとり、登山することになったのだ。そこになぜ、ナキメだけでなく、よみとミラもついてきているのかというと、よみが薫について行きたがった為に、足を心配したミラがやめさせようと説得したが、その甲斐虚しくよみが薫の仕事場についてきたため、やむなく、ナキメとミラもついてくることになったのだ。
薫はよみはミドちゃんと同じで、能力を持つ犬としてよみを見るようになっていた。なので、こんな離れた土地にひょっこりと、よみが姿が現すことになっても、薫はよみはそういう犬なんだと、薫は自分自身を納得させることにした。何しろ、薫の周りにはそういう普通ではないものが寄りついてくるのだ。よみだけではない。霊や妖怪、怪異がわざわざ薫をめがけて寄り集まってくるのだ。ナキメは薫を心の中で、生ける心霊スポットだと、考えていた。だから、薫はこのような心霊記者になったんだ、と。
「親分候補、あまり無理しないほうがいいんじゃないか。ほら、ちょっと休むだけでも」
ミラはよみを見上げながら、そう言った。よみは最初に出会った頃より、大きく成長していたので、もともと小さい人間のようなミラはよみを見上げざるを得なくなっていた。
「わん! わん!(大丈夫だって。心配しないでよ)」
よみは薫のそばから離れたくないがために、不自由な右後足に発破をかけていた。よみの右後足は、格段に悪くなっていく一方だった。今では右後足は動かせないどころか、感覚さえなくなっているようだった。それでも、よみは薫のそばにいたい一心でこの山に登ろうとしたのだった。
「よみ、あまりミラを心配させないほうがいいじゃないか。なんなら、山の麓で待っていてくれても良かったんだよ」
薫は後ろを振り向きながら、よみにそう言った。よみは薫に見てもらえて嬉しそうにしっぽを振った。最近ではどういうわけか、よみは薫のことを熱のこもった眼差しで見るようになってきていた。
「よみ、あまり薫のことをそんなふうに熱心に見るのはやめてほしいんだけど」
ナキメは呆れたようにそう言った。よみが薫に熱い視線を送り続けるものだから、いつの日か薫の肌がその熱視線で日焼けしてしまいそうだ。
「わんわん!(見るのがそんなにいけない?)」
「ちょっと、よみ。僕のことさっきからずっと見つめ続けていたわけ?」
薫も半ば呆れかえった様子で、よみに言った。いつもなら食べ物のことしか考えてなくて、家につくなりドカ食いしているのに。ここのところ、食べているときでさえ、薫のことを見ているようなのだ。
「親分候補は、こいつの何がそんなにいいんだ?」
ミラはどうも気に入らないという感じである。ミラとしてはもう少し自分のことを気にかけてほしいと考えているため、よみのこの態度はどうもいただけなかった。
「わん! わん!(わからないよ。でも、見ていたいんだ)」
それを聞いた薫は自分のどこが見るに値するのか、わからなかった。薫は今、登山用の靴をはき、防寒具を羽織っているのである。見れるようなところは何もないに等しいくらいだ。それなのに、よみは薫のことを見ていたいというのだ。
よみの行動は時たま不可解に感じることがあった。よみがなんらかの能力を持っているとわかった後でさえ、その不可解さは消えることなくよみの周りを漂っていた。薫のことを終始見ていたいというのも、薫にとっては不可解なことだったのだ。
「はあ、それにしても心霊現象とやらはどこで見れるんだろう。この山全体で見られるらしいのに」
薫はそう言いながら、別のことを考えていた。歪んだ空間に巻き込まれた後に会った、ナキメらしき鬼火のことと、その鬼火が言った「月臣」なる人物のことだった。その後、ナキメに聞いてもはぐらかされてしまったのだ。薫はそのことについてナキメは何か知っていると感づいたが、これ以上聞いても言ってくれないだろうと思い、結局このことは胸の内に秘めておくことにした。
「薫、ミドちゃんからもらった物のこと、覚えてる?」
ナキメが唐突に訳知り顔していそうな物言いで薫にそう聞いてきた。薫はどうしたんだろうという感じでナキメのほうを見やった。
「え、なんだっけ?」
「なんだっけ、じゃないよ。ほら、もらったでしょ? ミドちゃんの羽根! 悪意をもつものを寄せ付けないまじないをかけてあるあの羽根のことだよっ」
それを聞いた薫は、忘れてたという顔をした。薫があの歪んだ空間に巻き込まれたとき、いや、それより前の異界に迷い込んだ後、ミドちゃんは薫をいつまでも見守っておくことができないからと、渡されたのがその羽根だったのだ。これで、薫は守られるかもしれないが、仕事には支障をきたすのではないかと薫は訝ったが、まったくもってその通りになったらしい。これでは、いつまでたっても心霊写真を写すことはおろか、薫に悪意を持たないものは別としても、お化けさんたちに会うことはないだろう。
しかし、あの時なぜあの歪んだ空間に巻き込まれたのかというと、薫は実は家の中ではあの羽根は机の中に片づけておいてあるのだった。どうやら、身につけてないと効力を現さないらしい。薫は迷った。仕事のために、あの羽根を手放すべきかどうかを。しかし、ミドちゃんの思いを無碍にするわけにもいかず、結局薫はその羽根を取り出したかと思うと、ポケットの中に入れなおした。心霊現象を写真に収めるため、少しの間だけ、体から離しておこうと考えたのだ。どうやらその行動はてき面だったようで、何やら不穏な空気があたりに漂い始めてきた。
「な、なんなんだよ。なんか嫌な空気が流れてきたぞ……」
ミラはおっかなびっくりな声でそうぼやいた。よみもあたりに漂い始めた空気に敏感に察知したしたらしく、そわそわし始めた。
「ねえ、薫~。早いこと写真でも撮っておいて、すぐにでも、つけ直したほうがいいんじゃないの?」
ナキメは面白そうな感じで薫に言った。これで、薫の驚く顔が見れるに違いないと期待している声である。
「わ、わかったよ」
薫が携帯電話を取り出そうとした時だった。あろうことか、ミドちゃんの羽根がポケットから落ちてしまったのである。あっと思った瞬間には、霊がそこらへんからうようよと這い出してきていた。一様に誰もが、白く濁った目をし、頭や、腕など、いたるところから血を流していた。この山で遭難、あるいは落石事故にあった者たちに違いなかった。その者たちは薫の存在を感知するや、薫に向って這いずってきた。それを見たミラは尻もちをついてしまった。
薫は振り向いたことを後悔した。這いずってくる霊たちの数が10人どころではないと、わかったからだ。薫は嫌がるミラを抱きかかえたかと思うと、よみのリードを持って麓へと降りようとした。
「な、何考えてるの! 薫! 下に降りようとしてもこの数だよ! 捕まっちゃうよ!」
ナキメの言う通りだった。霊の数を考えれば、振り払ってまで山を下ろうなんて、正気の沙汰とは思えなかった。
「で、でも、逃げないと!」
「逃げるったってどこへ逃げるんだよ! それにお前、こんな山でどうやって相手をかわして逃げれるんだよ!」
ミラは薫の腕の中で暴れながら、まくし立てた。ミラは半ばパニック状態なので、腹減ったと言うことさえ忘れていた。そのとき、よみが意外な申し立てをした。
「わんわんわん!(それじゃ僕がみんなを異界を通して下まで連れていくよ!)」
薫は気が焦っていたので、よみが異界を通ることができるということをすっかり失念していた。
「え、で、でもあそこって……」
「薫! ここで悩んでも仕方がないでしょ! よみの通る異界が安全だという保証はないけれど、ここで霊につかまってしまうよりはましでしょ!」
ナキメは薫がここでしり込みしてしまっては意味がないと思いそう叫んだ。ここで潰えるわけにはいかないのだ。
「わ、わかったよ! じゃあ、よみ、頼んだよ」
「わん!(じゃあ、僕につかまってくれる?)」
薫はうじうじ悩んでも仕方がないと腹をくくり、よみに触れた。それに続き、ナキメやミラもよみに触れた。触れるやいなや、薫たちの目の前から霊はすっかりいなくなった。そこにいるのは確かに薫たちだけになったのだ。
「わん!(麓に向おう)」
よみは動かない右後足を挙げ、山道を降りていったので、薫たちもそれに続いた。しばらくの間、静寂のベールが薫たちを包んだ。何の音もせず、星の光さえ見えず、薫たちの出す足音だけが鳴り響いた。まだ降りなければならないのかと思ったその時、目の前に確かに麓が見えてきた。管理人も誰もいない、閑散とした麓が。
「つ、ついた~。もうどうなるかと思ったぜ」
ミラがヘロヘロになりながら麓に降り立った。
「本当だよ。まったく……」
薫が避難がましい目でナキメを見た。
「な、何だよ! あの羽根を落としたのは薫じゃないか! あ、そうだ。これ、拾っておいたから」
そう言って、ナキメはミドちゃんの羽根を取り出した。土が付いて踏みしだかれてよれよれになっていた。
「あ~。これ、もう使えないかも……」
薫は羽根を受けとりながらそう言った。
「わん!(異界から出るよ)」
よみは自分たちが現実世界に戻ってないことを薫に思いださせた。
「あ、そうだったね」
元の世界に戻ったとたん、音と光が舞い戻ってきた。風の音、草木の揺れる音、遠くに見える町の光、そして星の光が。それを見た瞬間、薫はささやかな光と音の存在が、安心するためには大切なものだとわかった。
薫たちは旅館に戻る間中、しばし無言だった。ミラに至ってはよみの背中に乗ってバテてしまっていた。薫の脳裏にはあの死者たちの顔がくっきりと焼き付いて離れそうになかった。あの白濁した目では薫たちのことは見えてなかっただろうが、薫は見られているのではと気が気ではなかったのだ。他の皆は大丈夫だったのかと薫は心配になったが、口に出さずにおいた。不安を口に出すことで、それが怖いと認めてしまうのが嫌だったのだ。
「ねえ、薫、道を変えて」
ナキメが突然立ち止まったかと思うと、おかしなことを言いだした。
「え?」
ナキメが言いたいことが薫はとっさにはわからなかった。一体、どうして。
「別の道を行こうってば!」
ナキメの焦った口調に皆が驚いた。どうしてこの道を行きたくないのか。ナキメの必死の抵抗にもかかわらず、よみは先に行こうとした。
「わん!(休みたい!)」
「あ! よみ!」
よみはミラをのせたまま、たどたどしく走っていってしまった。
「ちょっと! 止まってよ! よみってば!」
ナキメが叫んだ。どうしても行かせたくないという必死の形相が見えてきそうだった。その時、だった。
「……わん!(うわ!)」
よみが急に立ち止まり、吠えた。よみが急に立ち止まったせいでミラが振り落とされてしまった。
「な、なんだよ。急に走ったかと思えば、また急に立ち止まったりなんかして……」
ミラがそう言いながらよみのほうを向くと、ミラはギクッとした。よみが恐怖におののいているような顔つきになっていたのだ。
「お、親分候補? どうし……」
「わんわん! わん!(く、来るな! いやだ!)」
よみは何かに向って吠え始めた。それもけたたましく。
「よ、よみ、どうしたんだよ? ここには幽霊や妖怪はいないよ?」
薫がよみを落ち着かせようとしたが、よみは吠えるのをやめなかった。そして、薫の手を振り払おうとした。
「わん!(殺されたくない!)」
「よみ!」
それからよみは何度言い聞かせても落ち着こうとはしなかった。殺されるの一点張りで、薫の説得も聞こうとすらしなかった。あまりにも暴れ続けるので、ミドちゃんに来てもらうことにした。よみをなだめるためだった。
「ピーピー、ピーピーピー(だからあれほど、あの羽根を外すなといっておいたのに……)」
ミドちゃんにこの山になぜ幽霊がたくさん出てくるのを聞いてみたが、先ほどの言葉を言ったっきり、黙りこくってしまった。ナキメのあの時の焦燥感といい、よみの怯えっぷりといい、この山には何かがあるとしか思えなかった。しかし、明確な答えは出せそうになかった。
次の心霊コーナーに出すものとしてはちょっと不謹慎な気もするが、上司が決めた以上、結果を出さないわけにはいかなかった。けれども、薫はこれ以上この山について調べるのはよくないという気がしてならないのだった。これ以上この山のことを調べるな。あの死者たちに、そう言われたような気がしたのだった。
「月臣、か……」
薫は今回の記事が、誰にも見られなければいいのにと感じた。