逃げる
封筒をポストにいれる手が震える。はっきり言って、自分の仕事の出来栄えなんて見せたくない。しかし、母親には送ると約束してしまったのだ。薫はものすごく躊躇していた。あれを見せることに。
(うぅ、送りたくないっ。はぁ、見せたくないよぉ)
薫は出来上がった心霊特集雑誌を入れた封筒をまだ手に持って、ポストを前に迷っていた。そんな薫を見てじれったいと感じたのか、ナキメは薫の背中をドンッと押した。
「わっ!」
薫は思わず、封筒から手を離す。そして、封筒はめでたく(?)ポストの中に入っていったのであった。
「うわー! 入れてしまったー!」
「薫~。約束したんだから、迷わないの!」
薫は恨めしげにナキメを見やった。にやにや笑いをしているようで腹立たしい。
「ナキメ、普通にポストに入れさせようとすることはできないわけっ?」
「僕にそれを望んでも無駄だもんねー。長い付き合いなんだから、推し量ってよっ」
「何が、推し量ってよ、だよ。あー、もう後戻りできないじゃないかっ」
そんな二人のやり取りを見てにやにやするミラとしっぽを振るよみ。よみの身体にはハーネスがつけられていた。麻痺して動かせない右後足を保護するためだ。
「ひひっ、あの時見てぇに大っぴらにつまずいたら面白かったんだけどな」
「わん!(そんなこと言わないの!)」
「はぁ、別の雑誌を送れたらよかったのに……」
薫はよみのハーネスにつけられたリードを持った。よみはハーネスとその先につけられたリードに慣れないらしく、何度もリードを咬み切ろうとした。
「まったく……。これはよみの後ろ脚を守るためにあるんだから、慣れなきゃだめだよ」
「わんわん! わん!(このヒモをとってよ! 走れないよ!)」
よみは自分のためにハーネスをつけてもらったということがわからないようだった。
「走ったら、余計足の状態が悪くなっちゃう。それでもいいの?」
「親分候補の足って治るもんじゃないのか?」
ミラはよみの足のほうを見ながらそう言った。
「これ以上むやみやたらに走らないならね」
薫はためらいつつもそう言った。実は動物病院の医者からはこの病気(ウォブラー症候群)は治ることはないと言われてしまっていたのだった。薫は医者の言葉を信じなかった。というより信じたくなかった。信じてしまったら、どうしていいかわからなくなってしまいそうになるからだ。
「じゃあ、まだ望みはあるんだな。だって親分候補は世界一の親分になるんだもんな」
「わん!(うん!)」
ナキメは薫が本当のことを言ってないことに気が付いたらしく、何か言いたげに薫のほうを見た。
(……。薫のその選択が悪いほうに転ばなきゃいいんだけどね)
「……何、ナキメ。何か言いたいならはっきり言ってくれなきゃわからないよ」
「いやぁ、薫の母さんがあの雑誌を見て、どんな反応をするのかなぁって考えるとワクワクしちゃうなーって思ったんだ」
「うわー。やめてよ。考えただけでゾッとする!」
そんな時だった。薫がとある通りを歩いた時、違和感に気が付いたのだ。あまりにも静かすぎる。人の気配もなく、車も通らず、そして何より暗さが一層際立っていた。普通ならついているはずの街灯の明かりや、家の中からの明かりでさえ見えてこない。路地裏を通っているときならまだしも、ここは昼間は小学生も通る普通の通学路なのだ。あまりにも静まり返っているため、薫は自分たち以外の誰もがいなくなってしまった錯覚を覚えた。
「……ナキメ、なんか変じゃない。ここ」
薫は思わず小声になっていた。もしかしたら誰かに見張られているのかもしれないと思ったのだ。歩みを進める足幅も自然と早歩きになる。早くここから出たい。そう思わせるような雰囲気が漂っていた。
「……まあ、静かだし、暗いよね。僕とミラにしてみればありがたいことなんだけどね」
「きゃん!(暗いよ!)」
あまりにも足早に歩いたせいで、よみの足取りがふらついてしまった。そして当たり前のことだが、よみはそんな薫に抗議するためか、その場から動こうとしなくなってしまった。
「……ちょっと、よみ。何で立ち止まるんだよ。早く、ここから出ないとっ」
薫はここの雰囲気があまりにも不気味なせいで気が滅入っていたのかもしれない。よみたちを慮る余裕がその声からみじんも感じられなかった。
「おい、お前。親分候補が嫌って言うんだから、それに合わせろよ! 親分候補の足が調子悪いって、お前忘れたわけじゃねえんだろ!?」
「……ご、ごめん。あまりにも暗いからつい……」
薫はミラに怒られたことで、身勝手に振る舞ってしまっていたことを痛感した。そう、ここを通っているのは薫だけではないのだ。
「まったく、親分候補がお前について行かなかったら、俺だってお前のところには来なかったぜっ」
まったくもってその通りだった。よみは薫について行きたがったばっかりに、ミラもついてくることになったのだった。薫は今更ながらこの集まりが、強い絆で結ばれているわけでないことを思い知らされた。
「……本当にごめんったらっ」
「ねえ、いつまでもここにとどまっていたく無かったら、ケンカしている場合なんてないと思うんだけど?」
ナキメの冷ややかな口調に薫は自分自身が迷惑をかけているんだと思わざるを得なくなってしまった。
「……」
しばらくの間、誰もが無言だった。よみでさえ、声を発することはなかった。ただひたすら、沈黙のうちに歩んでいたのである。しばらく道なりに歩いていると、……アパートにつくはずだった。というのも、歩けど歩けど薫の住むアパートにたどり着かないのである。なにかがおかしかった。この通りから出ようとしても出れないということに誰もが気が付いてしまった。
「わんわん!(薫のアパートにつかないよ!)」
「どうなってるんだ!」
「僕だってわからないよ!」
騒ぎだしたよみとミラを見て、薫も落ち込みそうになっていた。
「お、落ち着いてよ皆。騒げばここから出れるもんじゃないでしょ」
そう言葉を発したナキメだが、何か打開策があるというわけでもなかった。しかし、パニックに陥ってしまえば、状況がまずくなってしまう一方だ。だが、この状況をさらに悪くするものが近づいてきていた。
重苦しい空気が薫たちを包み込んでいくのが感じられた。薫は殺気立ったものがすぐそばにいることに気が付いた。まずい。明らかにまずい。薫は思わずよみを抱きかかえようとしたが、よみは最初会ったときと比べ、大きく成長していたために、抱くことができなかった。
「わん!(何かいる!)」
「……薫、逃げよう」
「……わかった。でもどこへ?」
薫はよみを連れて逃げることはできないのではないかといぶかしんだ。
「どこだっていいから!」
その言葉を聞くやいなや、ミラは真っ先に逃げてしまった。ミラの小心者ぶりを笑う余裕は誰にも残っていなかった。よみも不自由な右後足をあげながら走りだし、ナキメは空の高いところへと舞上がっていった。薫もどこに逃げようか迷った挙句、よみの後ろを追いかけていくことにした。しかし、その何か不吉なものはこともあろうか、薫の足を引っかけてしまった。薫は引っかけられたせいで、あやうく顔面直撃しそうになった。
「あいたたた……」
「薫! 立って! 立ち止まらないで!」
空の上からナキメの悲痛な叫ぶ声が聞こえた。その声からは、立ち止まると死ぬだけでは済まされないことがうかがえた。そこで、薫は後ろを確認することもなく、体の痛さをこらえながら走り続けることにした。しかしながら、薫は破滅的なほどの運動音痴なのだ。全力疾走しようとしても、何秒か後には息が切れてしまうのだった。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
薫の足取りはふらついてしまっていた。でも立ち止まることができないせいで、息を整えることすらできない始末だった。その時またしても、空の上からナキメの声がした。
「薫! 向こうにウサギ公園が見えるから、あそこに向って!」
ウサギ公園は以前に、賢志が卓に取り憑いた子供の霊を祓った場所だ。そこに何があるというのだろうか。しかし、考えている余裕はなかった。薫はウサギ公園へと向かうことにした。息の詰まる重苦しい何かが背後に迫って来るなか、薫は息も絶え絶えに走り続けた。心臓がバクバクして走り続けるのが無理と思えたその時、目の前にウサギ公園が見えてきた。街灯が灯ってないせいで、かなり怪しい雰囲気になっていた。
「……く、くるじ……」
薫はウサギ公園につくなり、そばにあったベンチに倒れこんでしまった。どうやら薫をつけ狙ってくるものはなぜかウサギ公園に入れないようだった。ウサギ公園にはもう、ナキメとミラがいた。
「鬼火のやつがウサギ公園とか言う場所に行けって言うからよ、場所を教えてもらってようやくつくことができたぜ」
ミラは居丈高な口調でそう言ったが、声の端々が震えていた。
「ところでよ、親分候補はまだか?」
それを聞いた薫は背筋が凍る思いがした。よみがまだ来ていない……。
「薫、どこへ行くつもり?」
ナキメは立ち上がった薫にそう聞いた。
「よみを探しに行ってくる」
「ダメだよ! 危ないって! ここでミ……」
しかし、薫の決意は固いようで、ナキメの言葉を遮った。
「気持ちはありがたいけど、行くよ」
そう言って薫はナキメが止めるのを聞かず、ウサギ公園から出ていった。
「……なんか、そういうところ、よみにそっくりになってきた……」
「わんわん!(僕がどうかしたの?)」
よみが街路樹の物陰からそろっと出てきた。
「お、親分候補! いつのまにここに?!」
「わんわん! わんわん!(ミドちゃんを呼びに行ってたの。でも呼べなかったよ!)」
「……ちょっとまずいよ。薫は君のことを探しにここから出ていったんだよ!」
薫はよみを探しに出ていったはいいものの、何か当てがあるわけではなかった。よみが行きそうな場所を探そうと思ったが、ここら辺りはよみを連れて来たことがないことに気が付いた。薫はまたあの重苦しい空気がのしかかってくるのを感じたが、構わず突き進んだ。何としてでもよみを見つけなければ。
「よみー。どこにいるんだよー」
薫はトボトボと歩いていた時、誰かに肩を思いっきりつかまれた。
「ひっ」
薫は恐る恐るつかまれたほうの肩を見てみた。それを見て薫は気を失いそうになった。骨だ。これはどう見ても、人間の手の骨だ。薫はその手を思いっきり振り払って逃げようとした。が、どうしても振り払えない。それどころかますます力が入ってくる。このままでは殺されてしまう! もうもはやこれまでかと思われたが、薫の運は尽きていなかったようだ。
「ピーピー!(その手をどけろ!)」
ミドちゃんが声を張り上げると、骨の手は薫の肩から離れた。それと同時に薫は、その場にしゃがみ込んでしまった。ミドちゃんは薫のそばに来ると、また囀った。すると、薫のそばにまだいた骨はその声を聞くのが苦痛だとでもいうようにその場を離れていった。そして重苦しい空気が消えていった。それを感じた薫は安心感が広がったのか、思わず笑みをこぼした。
「ピーピー、ピーピー。ピー?(まだ安心はできない、ここから出なければ。立てるか?)」
「……な、なんとか」
薫は立ち上がってみたが、まだ膝が震えていた。しかし、ミドちゃんがいることで、薫は気を保って歩くことができそうだった。
「つまり、あの一帯が何らかの原因で異界と通じてしまったということなんだね?」
薫はアパートに戻って、ナキメと一緒にミドちゃんの説明を聞いていた。そのそばで、よみとミラがうるさくしているものだから、ラッちゃんが起きやしないかとハラハラしていた。
「ピーピー(さよう)」
「ミドちゃんが、今回こうなることを見据えてウサギ公園にある種の結界を張ることにしたんだ。そうだったよね」
ナキメがミドちゃんにそう聞いて、ミドちゃんはうなずいて見せた。
「ピーピー、ピーピー。ピーピー(なぜ繋がってしまったのか、まだ原因はつかめていない。いずれにせよ早いうちに閉じておかなければならない)」
やり取りを静かに聞いていた薫がおもむろに口を開いた。
「ねえ、ちょっと思ったんだけど、いいかな」
「……ピー(何かね)」
薫はためらいがちに聞いた。
「……よみがミドちゃんに助けを呼びに行ったって言ってたけど、どうやって異界から出ることができたの? あの時は、たしか、どんなに歩いても灯という灯は見えなかった。そして、変な空気が漂っていた。だからどんなに歩いても、異界からは出れなかったと思う」
その問いにしばらくミドちゃんは答えなかった。答える気がないのかと思い、話題を変えようとした時だった。
「わんわん! わんわんわん!(それはないよ! だって僕がしばらく歩いて行ったら灯が見えたんだもん!)」
「……え?」
薫は耳を疑った。よみはいったい何のことを言わんとしたのだろうか。薫の反応が信じられないとでもいうようによみはまた吠えた。
「わんわん! わんわん!(だから、ぼくがミドちゃんを呼びに行こうと思ったその時にはもう灯が見えたんだよ!)」