駆ける
薫の会社では、薫が担当した心霊コーナーが掲載される雑誌が仕上げにかかっていた。薫が撮った黒い手が写った写真はミドちゃんのおかげで、どうにか普通の写真に戻り雑誌に載せられることとなった。文章が薫が書いていたのより別の人が書いたようになってしまったのは薫にとっては痛手だったが、これ以上駄々をこねるわけにもいかず、校閲部がこれでもかと直した文章で行くしかなかった。
薫が初めて担当したコーナーだっただけに、写真でも、文章でもうまくいかなかったことは後味の悪いスタートを切ったといえる。それでも、薫が撮った写真が雑誌に載せられるとあって、母親がその雑誌を送ってきてほしいと頼まれたとき(その雑誌はコアな雑誌でなかなか書店に置いてない)には、薫は自分の力で成し遂げたんじゃないものを見せることが果たしていいことなのかと悩んだ。しかし、母親の強い希望で、雑誌が出来上がり次第母親に送ると薫は渋々ながら了承したのだった。
『早よう、送って来てぇな。ほんに楽しみやわぁ』
「期待せんとってぇや。たいした出来やないし……」
『何言わはるの。薫の初めての仕事やさかい。親なら、子供の仕事の成果を見たいと思うのは普通のことやないの』
「……そやな。ほな、電話切るよ」
『はいはい。また電話してぇな』
「は~い。……で、何の用でしょうか?」
薫は携帯電話を片づけると、隣にいた女性に聞いた。ナキメは薫が他の人と話しているのを見て、よみとミラを押さえつけておかなければならなかった。
「私は、金子優奈といいます。青木卓という方はご存知でしょうか?」
金子優奈と名乗った女性は、そう尋ねた。
「……知ってますけど」
「それなら話は早いわ。私はこういう者です」
そう言うや、その人は名刺を手渡した。
「……なるほどね。ジムインストラクターの方ですか。確かに卓が通っているジムだ(会社の柔道部に入ってるのにジムにも通ってるって、あいつは本当に筋肉フェチだ)」
薫が名刺を懐に入れるのを見てから金子優奈はこう言った。
「実は、青木さんから頼まれていることがあるのですが、ちょっとお時間いただけますでしょうか?」
「ジムの勧誘ならお断りします」
薫はつっけんどんにこう言った。薫は悲しくなるほどの運動音痴なのだ。
「そういうことではないですよ。ただ、ちょっと青木さんが白山さんに悩みがあるなら聞いてほしいと頼まれたんです」
「……なぜ、それを貴女に頼むんですか。そういうことなら直接本人が言ってくるべきじゃないですか」
薫はそう言いながら、卓は大っぴらに恩を売りつける奴じゃないな、と今更ながらに思い出した。
「青木さんは、こう言うことは苦手のようなので、私に頼んできたんじゃないでしょうか」
「そういうことですか。……気持ちはありがたいですけど、普通は悩みがあったとしても初対面のあなたに言うことではないですよ。直接卓に言いに行きますよ」
薫はそう言いつつ、夏未のことを思いだしていた。きっと薫自身に悩みがあったとしても、誰かに打ち明けられるものではないことは薫自身がよくわかっていた。それがたとえ、親友の夏未や卓であったとしても。
「……そうですか。わかりました。それでは失礼いたしました」
そういって、金子優奈は去って行った。その後ろ姿を見送りながら薫はいぶかしげにその人を見つめていた。
(だいたい初対面の人に悩みを打ち明ける人なんていないよ。卓は何考えてるんだか……)
「うわっ!」
薫が考えにふけっていると後ろから何かが衝突してきた。いきなりのことなので、バランスを失い、転倒してしまった。
「あいたーっ!」
薫はつまずいたときとっさに腕でかばったので、左腕を擦り向いてしまっていた。
「わんわん!(薫が転んだ!)」
「いやー。面白い転びっぷりだったな」
「薫くーん。もうちょっと周りに注意したほうがいいんじゃないのぉ?」
ナキメは面白そうに笑いながら薫にそう言った。たぶん他人を驚かすのはやめにして薫のほうを驚かそうと、よみとミラに提案したのだろう。
「ちょっと! 危ないじゃないか! 打ち所が悪かったら今頃、脳震盪を起こしてたよ!」
薫は今度こそは怒りが頂点に達していた。ナキメだけが驚かすならまだしも、よみとミラまでもが、それに加わってしまっては対処のしようがないからだ。しかし、ナキメはそんなことはどこ吹く風といった調子で薫の転倒を思いだしては喜んでいたし、ミラは薫の怒った顔を見てニヤニヤしていた。だが、よみだけは違った。よみは薫がケガしたことに反省し、しょんぼりした顔をしていたからだ。
「クーン……(ごめんなさい……)」
「はぁ、よみは心配してくれるんだね……。いい子だな、お前は」
そう言って薫はよみの頭を撫でた。すると、よみは薫に初めて撫でられたのがよほど嬉しかったのか、その場でグルグルと走り回り始めた。
「わんわん!(薫に撫でてもらった!)」
しかし、よみはすぐ立ち止まってしまった。薫がどうしたんだろうと思い、よみのほうを見た。よみは右後足を気にして舐めだした。薫はよみの後ろ脚に触れてみた。よみの右後足は、体のどの部分よりも泥まみれだった。きっと後足を擦りながらここまで来たに違いなかった。
「ねえ、よみ。後ろ足動きにくくなってきていない?」
「わん! わんわん!(うん、でも大丈夫!)」
よみは本当にたいしたことがないと思ったのか、はたまた薫を心配してそう答えたのか、薫にはわからなかった。しかし、以前より動きにくそうにしているのは確かだった。薫はそんなよみを見て、将来の行く末を危ぶんだ。
「……やっぱり、動物病院に診てもらうしかないかな」
薫の不安そうな顔を見たよみは動物病院というところが怖いところだと思ったらしく、嫌がり始めた。
「わんわん!(そこ、行きたくない!)」
「……薫が心配するのもわかるよ。このまま放っておいていいものでもなさそうだしね」
「親分候補、たいしたことないよな? 死ぬなんてことないよな?」
その言葉を聞いた薫は、ミラは親分候補と呼んでいるよみのことを本当に大切に思っているんだなと感じた。
「……大丈夫だよ。よみはきっと大丈夫。何ともないよ……」
薫は自分に言い聞かせるかのように答えた。大丈夫であってほしい。何もなければいい。そう自分に言い聞かせてなければ、気持ちが落ち着きそうになかったのだ。よみは落ち込んだように見えた薫を見て自分はとんでもない目に遭いつつあるのだと怖がり始めた。
「きゃん!(何だか怖いよ!)」
もしかしたら、それが本当の不幸の始まりだったのかもしれない。今まで薫が遭ってきた災難は取るに足りないものとして記憶されることになるのだから。むしろ、そんなささいな事故が薫にとっての、幸せの絶頂だったなんて思いもよらなかったことだろう。最初はほんの小さな歪みでも、それはゆっくりと広がり、しまいには大きな亀裂となり壊滅的な結果となるのだ。
薫は、夏未の知り合いが経営している動物病院によみを連れていくことにした。よみはものすごく嫌がり、ケージに入れようとする薫の手から何度もすり抜けようとした。しかし、次第に疲れが見え始め、よみはケージの中に押し入れられることとなった。よみをその病院に連れていく間、ラッちゃんは一羽でお留守番していなければならなかった。ラッちゃんはまたお留守番しなければならないのは、よみのせいだと確信していた。そのせいで、好物のヒマワリの種ばかり食べ、それを食べることで、薫に対する欲求不満を満たそうとするのだった。
ミドちゃんが時折ラッちゃんのもとへ来たとき、ラッちゃんが明らかにメタボになってきているのをよく無い調候だと見てとり、ミドちゃんは今までよりもよく、ラッちゃんの様子を見ていくようになった。昼間の間はナキメとミラは寝ているため、ラッちゃんの相手をすることは難しいせいもあるからだった。
「ピーピー(気分はどうかね)」
「ダマレ! ダマレ! ダマラッシャイ!(どうもこうも、よく無いよ! 全部、あいつのせいだ! あいつが来たせいで薫が俺に構わなくなったんだ!)」
ラッちゃんはよみに対する怒りを爆発させていた。自分が薫に見てもらえなくなったのは明らかによみのせいだと、よみを非難した。あいつさえ来なければ、あいつが薫のところへ来なければ、あいつが薫のところから去りさえすれば、あいつさえいなくなってくれさえすれば。
「ピーピー、ピーピー(言いたいことはわかるがね、お前さんは薫のある部分を見落としておる)」
ミドちゃんはラッちゃんをたしなめるように言った。ラッちゃんはミドちゃんが語りかけてくるときは、くちばしを噤んでおくべきだとわかっていた。
「ピーピー、ピーピー(薫はただ一人、ではなく、仲間の皆を想っておるということだ)」
それはラッちゃんにも痛いほどわかっていた。よみとミラが来る前も、薫はラッちゃんだけでなく、ナキメにも気を配っているのをラッちゃんは目にしていたのだ。だからこそ、ラッちゃんはたとえどんなにナキメのことが苦手だと感じていても、ナキメに対しては一応の敬意ははらっておこうと思えたのだった。ナキメの驚かし癖はなんとかならないかと思っていたとしてもだ。
薫はよみを連れて、動物病院から出るところだった。金銭的な面では、夏未が工面してくれたおかげで何とかなったが、いつまでもそれに頼り続けることはできないだろう。薫は医者に言われていたことを反芻していた。
(子犬のうちから※ウォブラー症候群だっけ? にかかるのは珍しい……、か。成長期の犬がかかる病気だって言ってたっけ。それにしてもこれから通い続けるのもなぁ……)
薫の後ろからついてきているナキメとミラも、よみを案じてか、薫を驚かそうとせずにただ黙ってついてきていた。しんみりした雰囲気の中突然後ろから馬のひづめのような音がしてきた。
カポッカポッカポッ。
薫は思わず振り向くと唖然とした。なんと、首のない馬に乗った着物を着た女性がこちらに向ってくる。薫はどうしてよいかわからず、呆然とそこに突っ立ってしまった。ナキメはそんな薫を見るや、薫を無理やりしゃがませた。
「わっ。何す……」
「いいから!」
そして、その女性が乗った首なし馬は、薫たちの横をすさまじいスピードで駆け抜けていった。あまりの勢いに、よみは不安げに吠え出した。その声を聞いて、何とその馬は立ち止まってしまった。そして馬に乗った女性はその馬を薫のいる場所へと振り向かせたのだ。
「……物の怪と共に暮らす妙な女人がいると聞いておったが、殿方であったか……。まあよい。妾はそちにあることを告げるため参った」
薫は頭が真っ白になって答えられなかったため、ナキメが代わりに答えることにした。
「そのあることとは、なんでしょうか?」
女性は一呼吸おいてから言った。
「翠川里奈という者が、そちにこれから不幸が来るやも知れぬ、と言ったことは覚えておろう」
「どうしてそのことを知って……」
ナキメだけでなく薫もそのことは不思議に思った。しかし、女性はそれに答えようとはせず、ただこう言った。
「その者が申したことは疑いようもない真のことじゃ。今迄とは質の違う災いがそちにふりかかるであろう。心せよ」
女性はなぜかよみのほうを見据えたかと思うと、そのまま闇夜に消えていってしまった。しばらく薫たちは呆然自失の状態だった。フクロウがふわっと飛び去ったのを見て思わずハッとした。
「……帰ろうか」
よみは眠れずにいた。ナキメとミラがしゃべっているのを横目で見ながら、なぜあの女性が最後によみのほうを見やったのか、わからずにいた。
(あれじゃ、まるで僕が薫に迷惑をかけるって言いたいみたいじゃないか)
よみはあの女性の態度を思いだしただけで、不愉快なものを感じた。そしてあの女性が言ったことを振り払うかのように、ギュッと目をつむった。
(僕は絶対そんなことしないもん。なんだよ、あの人。まるで僕のことを知ってるかのように言っちゃってさ。ふざけないでほしいよ!)
「……ねえ、聞いてる? よみ? ミラってば、君のことを、世界一の親分にするって聞かないんだよ」
「……クィン?(……え、何?)」
ミラはよみが話を聞いてないことに気が付きちょっと傷ついたように見えた。
「親分候補は世界一には興味ねえのか? じゃあ、宇宙一ならどうだ! もっとすごいだろ!」
「おかしいったらないよ。まったく……、宇宙一なんてさ」
ナキメは呆れたように言った。
「わん!(うちゅーって何?)」
「そりゃ、空の上にあるもんだろ」
「……クィン(……わかんないや)」
空を見上げてみるも、そこには満月しかなかった。透き通るような青い月が。
※ウォブラー症候群 成長期の大型犬がかかりやすい疾患。後足がふらつき歩行が困難になり徐々に悪化する。