巫子と詐欺師 ~鈿女と猿田彦~
新・ウズメ異伝の劇中劇「紅と青」とは、また別の物語です。童話風で、ですます調です。
楽しんでいただければ幸いです。
昔々、葦原に、皇虎という国がありました。
この国には、巫子と呼ばれる術師がいました。彼らは、『神降ろし』という特別な技をもっていました。それゆえ恐れられ、彼らを味方に引き入れれば、勝利は確実だと言われていました。
『神降ろし』とは、名の通り、天上の神々を地上に降ろす術です。その時、巫子は神と同じ力を使うことができました。
巫子は皇虎だけでなく、葦原の様々な国に数えきれないほどいました。彼らは神降ろしを行っては、自らが仕える国を、その力を使って守っていました。
その中でも、皇虎は、巨大な軍事力と巫子の力によって領土を広げ、繁栄を築いていました。軍と巫子によって次々と敵対する国々を滅ぼしていきました。
神降ろしの中で、一番強力な力を持つ神は、大地と死の女神、伊邪那美でした。けれど、その力は巨大ゆえ、制御することは並大抵のことではありません。巫子の中ではただ一人、鈿女と呼ばれる女の巫子が伊邪那美を降ろすことができました。
伊邪那美を降ろすことは、その国が草一本、虫一匹いない死の大地になることを意味していました。彼女が現れれば、そこに住む生き物は皆、命を落とし、土に還るのです。
鈿女は伊邪那美を召喚し、いくつもの命を奪ってきました。それは、皇虎の王が、葦原にある多くの国々を統合し、戦のない平和な世を作ってくれると信じたからでした。けれど、統一できた途端、王は更に領土を拡大しようとし、海の向こうの大陸にまで手を伸ばそうとしたのです。
そして、再び鈿女の力を使おうとしました。鈿女は、絶望しました。わたしが今までしてきたことは何だったのかと。
王は、戦に出るよう何度も鈿女に進言しましたが、鈿女は決して首を縦に振りませんでした。王に逆らうことは死刑を意味していましたが、王は彼女の力を喉から手が出るほど必要としていたので、彼女を殺すことはできませんでした。鈿女には、家族も親しい友もいませんでした。ただ、理想の世を実現するために、一人で戦い、一人で生きていました。王はそんな彼女をどうにかして陥落させようと、弱みを作ることを考えました。
王は、宮殿に一人の男を呼びました。その男は詐欺師で有名で、名を猿田彦と言いました。
猿田彦に白羽の矢がたったのは、彼が人ではなく、金を信じる人間だからでした。お金を積まれれば、たとえそれが気に食わない人間だろうと、息子や親友、恋人になりました。
温かな言葉をかける一方で、彼の心は泥のように黒く、濁り切っていました。王に命じられた猿田彦は、面倒臭いことになると感じながらも引き受けました。一生遊んで暮らせるような金額を提示されたからでした。
猿田彦が鈿女の人となりを聞いて思ったことは、馬鹿な女だということでした。戦のない世の中など作れるわけがないのに、自ら進んで血を浴びるなど愚かなことをする、馬鹿な女だと。
彼は隣人を装って、鈿女と接触しました。鈿女は、人当たりはいいものの、決して心を開こうとはしませんでした。その頑なさに、猿田彦の職人魂に火がつきました。どうにかして落としてやるとそう思ったのです。
やがて、猿田彦は隣人として親しくなることができました。ある日、鈿女が何かを持って、どこかに出かけるのに気づきました。後をつけていくと、そこは貧民街と呼ばれる、皇虎の中でも特に貧しい者達が暮らす地区でした。
鈿女はそこに立つ一軒家に入り、しばらくして出てきました。水でもかけられたのか、彼女の服はびしょびしょに濡れていました。その時、どこからか数人の男達が現れました。
彼女の服装を見て、良いところの女とでも思ったのか、嫌らしい表情をしながら近づいていきます。男達に迫られても、鈿女はぼうっとしたまま動こうとはしませんでした。気づけば、猿田彦は姿を現し、鈿女を助けていました。
貧民街を出た後、鈿女は言いました。あの家には、かつて自分が滅ぼした国の人達が身を寄せ合って生きていると。
命はあるものの、財産を全て失くし、敗者の国の民であることで、皇虎では見下され、満足な仕事ももらえないというのです。鈿女は、何度もお金を持ってあの家を訪れていましたが、決して受け取ってもらえず、会う度、人殺し、偽善者と叫ばれ、水をかけられたといいます。そして、今回は、偶然、その家の女が生まれたばかりの赤子を手に掛けようとしているところに出くわして止めに入りました。女は血を吐くように言ったそうです。ここには何人もの子供がいる。食いぶちが増えれば、その分金がかかる、と。お前が、お前達がやってこなければ、私達はこんな暮らしをしなくて済んだ。子供を殺さずに済んだのだと。
猿田彦は言いました。
「お前は馬鹿だ。苦行者でもないのに自分を追いやるような真似をして、一体何がしたい?こんな事をしてもお前のやったことは変わらない」
鈿女は言いました。
「変わらなくても、私はこの目で見なければならない。自分のやったことがどういう結果を招いたのか、それを知らなくてはいけない。それが今の私にできることだから」
その言葉を聞きながら、猿田彦は思いました。
(本当に馬鹿な女だ。・・・だが、嫌いではない)
それは、金だけを信じてきた猿田彦が、初めて人を見た瞬間でした。
それから数カ月は、穏やかな日々が続きました。鈿女は貧民街の出来事以来、少しずつ猿田彦に心を開いていきました。
隣人として接する中で、猿田彦は鈿女の事を少しずつ知っていきました。
野の花が好きなこと、角にある団子屋がお気に入りなこと、片付けが苦手で大雑把なところ、子供好きなこと。そして、何か周りに事件が起これば、飛び出していってしまうこと。
彼女と接しながら、猿田彦も演技ではない素の表情を見せていることに気づきました。
飛び出していく鈿女を心配し、本気で追っていること、仕事(皇虎の人間として暮らすため)の帰り、久しぶりに鈿女の家を訊ねてみれば、物が溢れかえり、足の踏み場もなく、呆れながら、鈿女と二人で片付けたこと。
花祭りの夜、意中の相手に名を訊ね、相手がそれに答えれば一夜を共にすることができるという、裏の風習を巫子であるはずの鈿女は知らず、それを告げれば顔を真っ赤にさせ、拗ねたようにそっぽを向いた時。―かわいいところもあるのだと思ったこと。
猿田彦にとって、いつしか鈿女は仕事の相手、金づるではなく、ただの人間、ただの女として見るようになりました。
ですが、それは嵐の前の静けさだったのです。ある日、王の警備隊が猿田彦の家に押し入り、彼を宮殿に連れていきました。
そして、王は猿田彦に告げました。お前を、巫子を謀った罪で処刑すると。
猿田彦が処刑されると聞いた鈿女は、宮殿へ向かいました。
王は、鈿女に猿田彦が詐欺師であったことを告げます。鈿女は言いました。
「詐欺が処刑するほどの罪なら私は一体どうなのですか」
すると、王はにやりと口元を上げて続けました。
「では、交換条件だ。猿田彦を殺すのはよそう。その代わり、再び戦場に赴いて、その力を十分に発揮してほしい」
鈿女は目を見開いた後、王を睨みつけます。
「最初からそのつもりだったのですか」
睨む鈿女に王は言います。
「お前は人を信じやすい。一度懐に入れた者には無条件で信頼する。そして、その者を見捨てることなどできはしない」
牢に入れられた猿田彦は、年貢の納め時だと感じていました。
詐欺師として生きてきた以上、路地裏で刺されるか、ろくでもない終わり方をすると思っていたが、王による処刑とは何とも派手な最期だ。せいぜい派手に散ってみせようかなどと考えていました。
すると、そこに鈿女がやってきました。あなたの処刑は取り消されたと告げる鈿女に、猿田彦は驚きました。
「あなたが何者かは知っています。できれば、あなたのその話術が騙すほうでなく、信頼されるほうに向いてほしいけれど」
そう言う鈿女に猿田彦は叫びました。
「どうして俺を助けた!全部騙していたんだぞ!」
すると、鈿女はふわりと優しい笑みを浮かべました。
「私にとって、あなたは初めてできた友達だから。あなたが傷つくくらいなら、私は全てを背負うわ。死んでしまった人達の想いも、これから散って行く人達の想いも全部背負って、私は生きていく。それが私にできることだから」
それは、滅ぼす国の人間よりも、猿田彦を選んだということを意味していました。そんなことを言う人間に猿田彦は会ったことがありませんでした。立ち去る鈿女の背を見つめながら、猿田彦は思いました。自分が出来ることは何だろうと。
皇虎は、大陸との戦を開始し、猿田彦は変装をし、兵士に扮してその戦場にいました。彼は、鈿女が神降ろしをする様子をまじまじと見ることができました。白の衣服に緋色の帯を腰につけ、舞台の上で舞を舞うその姿は鬼気迫る勢いで、思わず猿田彦は鳥肌がたちました。そして、伊邪那美を身の内に降ろした鈿女は、武器も何も持たずに、舞台から戦場に降りました。
彼女の足が地面についたその瞬間、葉を茂らせていた雑草が瞬く間に枯れました。敵側の人間が矢を放ちますが、その場で錆びつき、砂のように粉々になってしまいました。刀を持った兵士が彼女に襲いかかりますが、鈿女の手が兵士に触れると、跡形もなくぼろぼろと崩れていきました。ゆっくりと敵陣へ向かう彼女に、敵の兵士達は悲鳴を上げて逃げ出しました。しかし、鈿女は容赦なく兵士達の命を奪っていきます。皇虎の兵達が歓声を上げる中、猿田彦はただ目を見開いて鈿女を見ていることしかできませんでした。
―死んでしまった人達の想いも、これから散って行く人達の想いも全部背負って、私は生きていく―
そう言った鈿女の言葉を猿田彦は思い出しました。けれど、そうして生きたその果てに何があるのだろう。彼女はそれで幸せなのだろうか。
兵士の大半が鈿女の力で粉々にされ、皇虎の兵達はそれに追い打ちをかけるように敵の兵達を死に追いやりました。猿田彦も当然戦いました。
その時、瀕死の敵兵に襲われ、左の目を失くしてしまいます。
痛みで気が遠くなりそうになるなか、見えたのは戦場に漂う死んだ兵士の霊達でした。生者と死者の霊が入り乱れたその中を、鈿女は歩いていました。
―これがあいつの見ていた景色か。
そう思いながら、猿田彦の意識はふっつりと途絶えました。
目が覚めたのは、清潔な布団の上でした。
猿田彦は、怪我をした皇虎の兵達と同じ、宮殿の中にある救護所に寝かされていました。
どうにかして体を起こすと、別の兵の世話を終えた侍女がこちらにやってきました。
ですが、たらいを抱えたまま、動こうとはしません。猿田彦が不思議に思っていると、侍女が口を開きました。
「よかった。生きていてくれて・・・」
小さく擦れた声でしたが、猿田彦には分かりました。この侍女が鈿女であると。
「どうして、そんな格好をしている?」
顔の片側を包帯で巻かれているため、はっきりとは見えませんでしたが、鈿女の恰好は侍女が着ているものと同じでした。
「手伝いたいと申し出たの。ただ、巫子として出たら、皆困るだろうから、侍女の恰好をしているだけ。戦場にあなたがいて驚いたわ。大怪我をして、後少し遅かったら死んでいたかもしれないのよ?どうしてあそこにいたの?」
鈿女の問いに猿田彦は答えませんでした。けれど、一つだけ聞きたいことがありました。
「・・・戦は、勝ったのか?」
さきほどの問いに答える気はないと感じたのでしょうか、鈿女は小さく息を吐き、重い口調で告げました。
「勝ったわ」
「・・・そうか」
けれど、猿田彦の心に喜びは一滴も溢れませんでした。猿田彦は鈿女の顔を見ました。
鈿女の顔にも勝利を喜ぶ笑みはなく、ただ憂いを秘めた瞳をこちらに向けていました。
「お前、これからも巫子を続けるつもりか?」
「えぇ。私のこの体が動けなくなるまで」
鈿女の瞳の中に、力強い光が見えた気がしました。
(これは、何を言っても無駄だろうな)
心の中で呟いてから、猿田彦は鈿女に言いました。
「一つ聞くが、巫子は男でもなれるのか?」
驚いた様子を見せながらも、鈿女は頷きました。
「え、ええ。霊が見えれば性別は関係ないわ。修行を受けてなれるかどうかは、本人の努力と才能もあるけれど」
「そうか」
「でも、どうしてそんなことを聞くの?」
「いや。俺も巫子になろうと思ってな」
「え!?でも、あなたは・・・」
「霊なら見える。片目を潰された時、死んだ兵の霊を見た。ここにも、・・・三人いるな。お前も見えているんだろう?」
猿田彦には、見えるはずのない左目に、片足を失くした若い兵士、落とされた自分の首を手に持つ老兵、腹に風穴が開いた壮年の兵士が映し出されていました。
「・・・・・」
鈿女は息を呑み、ついで顔を俯かせました。それは、是だと猿田彦は気づきました。
「お前は言ったな。俺が傷つくくらいなら、全てを背負うと」
鈿女が顔を上げました。
「俺なんかのために背負う必要なんてないのに、馬鹿だ。お前は」
すると、鈿女は眦を上げ、猿田彦をきっと睨みました。
「自分を卑下するような言い方をしないで!あなたは私にとって、大切な・・・!」
大切な、と繰り返して、鈿女は小さく呟きました。
「友達だもの・・・」
「・・・・」
鈿女の言葉に、猿田彦は思わず目を瞬かせました。
―友達。
その言葉は、知っていましたが、長らく聞いていなかった言葉でした。牢屋の中でも聞きましたが、友達という言葉ほど自分に似合わないものはないと思いました。
胸の中にむず痒さを感じながら、けれどその片隅で、ほんの少し落胆している自分がいることに猿田彦は気づいていました。その感情の意味を知らないわけではありませんでしたが、それこそ自分には似合わないとそれを奥深くに沈めました。
「詐欺師が友達とは、本当に変わっているな。だが、お前に背負わせてばかりなのは癪に障る。だから、俺も巫子になって、その借りを返そうと思う」
「借りなんて、そんな」
「お前がそう思わなくても、俺には立派な借りだ。俺の命を救ったんだ。なら、俺がお前を戦場で助けたっていいだろう」
鈿女が目を瞠って、猿田彦を見ました。
「・・・どうして、そこまで」
「さぁ、どうしてかな」
猿田彦は肩をすくめました。鈿女を見れば、茶化すことを拒むような真剣な眼差しで、こちらを見つめていました。
ふと、猿田彦は思いました。奥深くに沈めようとしたあの感情をぶつけたら、彼女はどう反応するだろうかと。
「・・そうだな。来年の花祭りの夜に、お前が返事をくれたら答えてやってもいい」
「え・・・」
思わぬ言葉だったのか、鈿女は目を丸くし、固まったまま、猿田彦を見ました。そして、次の瞬間、紅をさしたように耳まで赤くなったのでした。