廻る竜と魔女の物語
これは廻る物語
終わりなき物語
運命に囚われた
竜と魔女の物語
これは廻る物語 終わりなき物語
運命に囚われた 竜と魔女の物語
昔々あるところに、豊かな王国があった。
王を戴く国とあらば内外の戦絶えないのが歴史の常であるが、この王国は珍しく長年の平和を享受していた。華やかな都は交易で賑わい、市場は常に、肌の色も話す言語も異なる人々と、北の大国から南の蛮国まで、世界各地から遥々やって来た種々の品物で溢れていた。都の中央には王族が住む純白の宮殿があり、とりわけ隅々まで手入れの行き届いた広大な庭園は、寛大にも民に解放され、貧しい子どもから貴族までが、四季折々の花を愛でる憩いの場となっていた。
都を囲むように広がる豊穣な大地とのどかな村々を越え、国の西に広がる森には、風に吹きさらされた塔があった。竜の塔と呼ばれていたが、名の由来は誰も知らなかった。地下には財宝が眠るという伝説があったが、近づけば呪われるという噂であった。
この牧歌的な国にも悲しみの影が訪れた。国王が奇病に倒れたのである。医者たちは揃って匙を投げた。国王は頑健で、病気らしい病気をしたこともなかった。飢えた国民の苦しみを忘れぬよう、国王の食事は常に穀物と野菜を中心にした質素なもので、病の原因とは思われなかった。
万策尽きてついに、西の森の奥深くに住む妖術師の元に、忠実なる大臣が派遣された。妖術師は驚くべき高齢で、あらゆる知識を身につけているとされていた。木陰にひっそりと佇むあばら家に辿り着いた大臣を、利口そうな目をした美しい羽色の烏が迎え、風変わりな部屋の中に通した。部屋は古めかしい折れた剣を収めた硝子の棺や、怪しげな黒檀の呪い道具といった、用途のわからない、魅惑的な、しかし恐ろしげな品々で埋め尽くされていた。しばらくして現れた妖術師は、噂通り何歳ともわからないほど年老いていたが、大臣の申し出を即座に了解した。
妖術師の言うことには、奇病は王家の先祖が、竜を殺した祟りであった。治療のためには竜を探し出して殺し、その鱗を食す必要があった。それでは自分の子孫にも呪いが降りかかるではないかと国王が問うと妖術師は、殺した竜の子どもを無事に育てれば、呪いは免れると述べた。
そこで国王は、七人の息子たちを竜探しの旅へやった。竜という生き物は確かに存在こそすれ稀であり、その上妖術師の述べた条件ゆえに子を持つ竜でなければならず、捜索の旅は困難を極めた。だがようやく、最も若い王子が、七匹の子を持つ雌竜を見つけ出した。
雌竜は鮮やかな緑の鱗と、大きな翼、鋭い牙と爪を持ち、山の洞窟を寝ぐらとしていた。竜の常として凶暴で常に腹を空かせており、動く生き物は何でも襲って食べてしまったので、人間たちはその寝ぐらに滅多に近づかなかった。寝ぐらには生きのいい七匹の子竜がいたが、父竜の行方は判然としなかった。従って相手にせねばならぬのは一匹だけであると知り、王子は一計を巡らし、そばに広がる深い沼地に罠を仕掛けた。
王国の奴隷たちが囮として連れてこられ、寝ぐらのそばに縛られた。彼らの泣き叫ぶ声につられて、母竜は寝ぐらを出かけ、その隙に兵士たちが、巣に残されたまだ幼い子竜たちを攫った。母竜は哀れな奴隷たちを食いちぎって己の食欲を満足させると、残りを子竜たちに持ち帰ってきたが、自らの巣が荒らされたことに気づき怒り狂った。地面についた匂いを頼りに子どもたちを探し始めたが、辿るべき匂いはあらぬ方向に母竜を導いた。それもそのはず、七匹の子竜はそれぞれ別の人間が、叫ばないように口輪をつけて、全く別の方向に連れ去っていたのであった。母竜はいたずらに体力を消耗し、王子が企んだ通りの道筋を歩かされ、次第に人間たちが仕掛けた罠の中に誘い込まれていった。王子の思惑通り、子竜を呼んで鳴きながら歩くうちに母竜は沼に入り込んだ。竜とは水を苦手とする生き物であるゆえ、母竜は立ち往生し、隠されていた罠に足を挟まれてしまった。その隙をついて王子は、痛みに吼えたてる母竜の首を切り落とした。
王子は急いでその死体を持ち帰った。国王がその鱗を薬として食したところ、病はたちどころに癒えた。残りの肉は珍味として王の食卓に献上され、鱗は余すところなく装飾品に加工された。王は長男を継承者とする、数百年来のしきたりに例外を設け、手柄を立てた末の王子に王位を譲ることに決めた。
若々しい緑の子竜たちは無傷のまま連れて帰られ、母の死も知らず、狭い檻の中で無邪気にじゃれ合っていた。意味もなく絡み合って転がり、時折与えられる穀物や骨を奪い合って喧嘩をし、夜になれば翼を畳み仲良く折り重なって眠る。まだ飛ぶことはできないものの、翼をばたつかせることによって浮き上がることはでき、暴れ盛りの子竜たちは四六時中上へ下への大騒ぎであった。
子竜たちがいるのは竜の塔の地下であった。財宝の噂は全くの嘘で、塔の地下室は、他国から亡命してきた王族を匿ったり、捕らえた密偵を拷問することに使われていたのである。石の壁には、折れた剣の柄を握って掲げる若い男と、血を流して横たわる竜が描かれていたが、あまりにも古い作品であり、意味を知る者は誰もなかった。
入り口は巧妙な隠し扉になっており、王族とその臣下をはじめ、限られた者だけが存在を知っていた。
地下室では、不機嫌な親方とおどおどした奴隷のみが働いていた。親方は大柄な男で、竜をはじめとする荒々しい獣の扱いに慣れていたが、性格は粗暴で、奴隷に手をあげることもしばしばであった。奴隷はまだ子どもで、貧しい村から攫われ、国境を超えて売られてきたのであり、行く先もなく、親方に従うほかなかった。二人に与えられた仕事は竜の世話と、細々とした雑用であったが、親方は仕事熱心とは言えず、夜に酒を求めて出歩く方を好んでおり、竜たちの世話をするのは、必然的に奴隷となった。
国王は病が治った記念に、竜の塔の最上階に母竜の骨を納めて供養し、子竜たちは自慢の庭園で飼うことに決めた。また、一匹だけは愛玩用に、王女に与えることにした。命が下ると親方は一番おとなしい竜を選び、怯えて震える脚に、麻酔になる花の毒を塗った針を刺した。竜は小さく鳴いたが、すぐに目をぐるぐると回し始めた。親方はすばやく翼の付け根にある筋を純銀の鋏で切り、尖った爪を刃物で切り落とし、泡を吹く口をこじ開けて鋭い牙の先を丸く削ってしまった。
小さな竜は粗末な箱の中、血で濡れたぼろ布の上で目を覚ました。やがて麻酔が切れた竜は痛みに悲鳴を上げ始めた。翼をばたつかせるが、筋が切られてしまったため、飛び上がることはできない。歩こうとすると脚が引きつって倒れる。横ざまになって前後の左脚と右脚をぴったりと揃えたまま、竜は悲鳴を上げ続けた。檻の中の子竜たちはその声に揃って聞き耳を立てたが、兄弟の身に起こった悲劇など知る由もなかった。
街に使いに出されていた奴隷は、夜遅く疲れ切って眠るために帰ってきたが、檻の中に六匹しか竜がいないことを不審に思って地下室をくまなく探し、相変わらず横たわったままの竜を見出した。その瞳はまるで死んだかのように見開かれ、涙がとめどなく流れ出していた。奴隷は竜が自分に起こった悲劇を悲しみ、泣いているのだと思った。
とまれ数日のうちに傷は回復し、竜は兄弟たちの檻に戻された。しかし運動能力は著しく損なわれたため、餌を競って得られないことがたびたびであった。牙と爪がないため一方的に噛みつかれ、引っかかれ、痩せ細っていく姿を哀れに思った奴隷は、勇気を振り絞り、無関心な親方にこの竜を隔離することを提案した。王女の玩具が死んでは困るので、親方はその申し出を許可した。
奴隷は隙を見つけては、木の箱に入れた竜を愛撫して話しかけ、辛い日々の僅かな、しかし確かな慰めとした。塔の外に出かけるたび、奇妙な形の小石や、質素ながら香りのよい花を取ってきては与えるなどして、常に竜に構ってやった。竜もまた、次第に従来の活発さを取り戻した。
奴隷の居場所は地下室の片隅で、そこでかつて殺された者たちの遺品や骨がかき集められていた。ぞっとしない光景だったが、豊かな想像力だけを玩具としていた奴隷にとっては宝の山だった。一番のお気に入りは、由緒ありげな紋様が入った古い指輪であった。宝石を埋め込む穴があったが肝心の宝石は失われていた。奴隷は一日の労苦を終えて、眠る前のひと時、ごわごわと肌触りは悪いが暖かい毛布にくるまり、がらくたを眺めては想像を膨らませるのが常であったが、そこにいつしか、小さな竜も潜り込ませるようになった。一人と一匹は互いの温もりを求め、寄り添うようにわずかな休息を取った。
奴隷はますます竜をかわいがるようになり、竜も奴隷に懐いて、後について歩くようになった。最初はいい顔をしなかった親方もその仲睦まじさに呆れ、やがてこの竜の世話は完全に奴隷に一任してしまった。王女に献上する竜はおとなしく、人懐こくなければならず、竜としての本分を忘れたかのように人間に慣れることは、むしろ好ましかったのである。
そのうち竜は奇妙な遊びに熱中するようになった。自らの尾を追いかけ、輪を描いていつまでも走り続けるのである。学のない割に考え深い奴隷は、竜には活発に運動できる広い場所と、追いかける獲物が必要なのではないかと思った。そこである日、親方が二日酔いで眠っている間に、小さな竜をこっそり地上へと連れ出した。竜の塔には近寄る人間もほとんどおらず、人目を気にする必要もなかったのである。月明かりの差し込む森に竜を降ろすと、竜は恐る恐る歩き始めたが、不意に小さな蟻を見つけ、警戒の印に尾をぴんと立てて唸り始めた。そろそろと前脚を近づけたものの、蟻は竜の足を噛み、竜は情けない悲鳴を上げて逃げ出した。奴隷は離れたところで見ていたが、竜はその腕に一目散に飛び込み、どこにいるともしれない蟻に向かってうるさく吼え立てた。しかしながら、ぶるぶる震えてそれきり降りようとはしなかったので、奴隷は諦めて地下に戻った。親方は目を覚ましており、無断で竜を連れ出した奴隷をぶったが、奴隷は自らの仮説を検証できたことで満足していたし、竜との時間は楽しい思い出であった。しかし尾を追いかける竜の習性は治らなかった。
一方、他の竜たちは、人間と仲良く遊ぶ兄弟のことなど早くも忘れていた。親方はこの竜たちにのみ、肉や魚といった栄養のある食べ物を与えた。竜たちはすくすく成長し、今や、より大きな檻の中で、麻布の両端を咥え引き裂けるまで引っ張りあったり、後ろ脚で立ち翼を広げ、行く当てのない求愛歌を喚いたりしているのであった。
親方は時折、竜たちを一匹ずつ外に連れ出した。鉄の重い首輪をはめ、長い鎖で繋いで、暫く自由にさせておくのであった。竜たちは鎖の届く範囲でこそあれ、地を駆け回り、空を飛び、身体と翼を鍛えることができた。瑞々しい緑の絨毯の上を転げ回り、小動物や木の実を食べ、夢中になって遊ぶ竜たちの姿に、見張り役として立たされていた奴隷は、か弱い小さな竜のことを思って嘆息した。
ある日、竜の見張りをしていた奴隷は、木立の中から、一羽の大きな烏がこちらを見ていることに気がついた。野の烏にしては聡そうな目だった。竜の方はちょうど、母親とはぐれた狐の子を見つけたところであった。狐の子は足を引きずっており、逃げることができない様子だったが、歯を剥き出して竜を威嚇した。
烏は不思議なことに、奴隷に向かってはっきりと数回頷いてみせ、そのまま飛び立ってしまった。奴隷がその場所に行ってみると、見たこともない銀色の薔薇が一面に群生していた。あまりの美しさに、一輪摘んで戻ると、血塗れになった獲物を咥えた竜が、誇らしげに胸を反らせて駆けてきた。竜は狐の死骸を置くと、銀色の薔薇に鼻面を近づけた。その瞬間、獲物を捕らえた喜びに爛々としていた黄色い目は、催眠術をかけられたようにとろんとなり、竜はおとなしく地面に伏せてしまった。
奴隷はこのことを親方に報告した。話は素早く国王の耳に届き、迅速に調査がなされた。竜たちを用いた数回の実験の結果、銀色の薔薇の香りは、竜の神経を鎮め、人畜無害にさせると結論付けられた。
王女の九歳の誕生日に、小さな竜は王女に献上された。
母竜の鱗を薔薇の花で染め上げて作った、赤い首輪をはめられ、奴隷を恋しがって鳴く竜を、軽やかな水色の晴れ着に身を包んだ王女は、歓声をもって迎え、その晩は嫌がる竜を抱きしめて眠った。
これほど歓迎されたにも関わらず、竜にとっては苦難が却って始まった。王女とはいえども、王家の身分を表す、青い宝石を嵌め込み王家の紋章を刻んだ指輪を身につけている他は、庶民の子どもと何ら変わらぬ悪戯盛りであり、竜の扱いは暴虐を極めた。普段は部屋に閉じ込めておきながら、気まぐれで綱をつけ、散歩と称して屋外を力ずくで引きずり回すのみならず、時には尾を掴んで振り回したり、布切れを無理やり着せて人形代わりにした。竜はそのたびに泣き叫びもがいたが、牙を削られた今では、命がけの抵抗すら愛情表現の甘噛みとしか思われなかった。
度重なるいたずらに竜はやがて抗いすらしなくなり、王女から餌を貰わんがために、服従の印としてだらしない白い腹を見せて転がることすら平気でするようになった。犬のようにお手をしたり、後ろ足で立ってくるくる回る芸当を覚えさえした。餌は牛乳と穀物が主で、肉食である竜は常に飢えており、虫や鼠が出ると捕まえては貪っていた。それでも栄養が足りるはずもなく、半年経っても、本来ならば人間の大人と同じくらいの大きさになるはずの竜は子犬程度の体つきであった。
その頃竜の兄弟たちは似ても似つかぬほど立派に成長し、正式に国王へと献上された。竜たちは、今や立ち入り禁止となった広大な庭園に放たれ、肉を思うさま食べて自由に過ごした。庭いっぱいに植えられた銀色の薔薇のおかげで竜たちはおとなしく、昼寝や軽い取っ組み合いで安逸に日を過ごし、空を舞うことはあっても、食事の時間には庭園に帰ってくるのであった。竜たちの寝床は絹、水を入れる桶は水晶だった。国王は海外の使節が来ると、竜の庭園に案内して権勢を見せつけた。そのため、竜の飼育は莫大な費用を要した。
ある日のこと、小さな竜はちょうど質素な食事を終え、物足りなげに木の器を舐め続けていたところだったが、背後から忍び寄った王女が悪戯心から、生きた蜘蛛を器に放り込んだので、驚いて飛び跳ねた。跳ね上がった尾が不運にも王女の額を打ったため、王女は癇癪を起こし、小さな竜を壁に投げつけた。竜は悲鳴を上げて落ち、尾の先まで丸くなったまま、目を固くつぶって動かなくなった。息はあったので、王女は召使の助言で気付けの苦い薬草を食べさせようとしたが、竜は口を開こうとすらしない。
奴隷は竜と引き離されてからその身を案じていたが、噂を聞いて思わず自分の立場も忘れ、国王たちの前に飛び出して赤絨毯にひれ伏し、自分に手当をさせてほしいと頼んだ。国王はその汚らしい身なりにも関わらず、申し出を快く思い、やってみるよう命じた。
奴隷が薬草を持って竜の口元に近づけると、奴隷を見分けてか、竜はおとなしく薬草を食べた。そしてたちまち元気になり、部屋の中を走り回ったので、国王は奴隷を竜の飼育係と、王女たちのお付きに任命した。奴隷は我が身の思いがけぬ栄転よりも、竜と再び共にいられるようになったことを喜んだ。王女や召使いたちから見下げられ、不当な仕打ちを受けても、竜のことを思って奴隷は耐えた。
奴隷を公平に扱い、引き立ててくれた国王は、半年と経たぬうちに塔の階段で足を滑らせて亡くなり、竜までもが喪の黒い服を被せられるような国を挙げての葬儀の後、末の息子が予定通り即位した。
竜と奴隷の間に流れる時間は相変わらず平和であった。日中、王女に弄ばれ疲れ果てた竜の元に、夜は奴隷が訪れ、その首を自分の膝に乗せては、首筋を優しく撫でるのであった。竜は耳をぺたりと寝かせ、ごろごろと喉を鳴らして応えるのが常だったが、そんな中でも、自らの尾を追いかける遊びには飽き足らず、隙があるとぐるぐると回るのだった。ところがしなやかな身体にも関わらず自分の尾を咥えるに至ることはなかった。奴隷は、竜が自らを食べようとするほど飢えているのではないかと思索した。自らの慎ましい食事を分け与えたが、竜を満足させるにはほど遠いと思われた。
人間の歴史の常で、幸せな日は長くは続かなかった。かつては当然王位を譲られると思っていた最も年長の王子が、弟たちと共に反乱を起こしたのである。彼らは王宮に火を放ったが、燃え広がった火が庭園の薔薇まで焼き尽くしてしまった。
それが間違いの元であった。硬い鱗は激しい炎からも竜たちを守ったが、今や彼らは興奮し、宮殿と街を破壊し、人間たちを食い殺し始めた。彼らには敵味方の区別はない。内戦で分裂していた人間たちは、結束して竜たちに立ち向かうこともかなわなかった。わずか数日の間に、反乱を企てた王子たちは皆殺され、国は荒れ果てた。
王女は、国王に忠実な大臣たちと共に、竜の塔に潜んでいた。母竜の骨が納められていることを知ってか知らずか、竜たちは塔だけは襲わなかったのである。
王女が手放そうとしなかったので、小さな竜もまた連れてこられたが、奴隷はその身分ゆえ、共に来ることを許されず、炎と血で赤く染め上げられた、混乱と恐怖の最中に置き去りにされた。奴隷は真珠のような大粒の涙をこぼしたが、自分の未来を悲観したからではなく、竜との別れが辛かったためであった。
とはいえ塔の中とて安泰とは言いがたく、食糧は人間たちにとってすら十分になく、ましてや竜には食べ残ししか回ってこなかった。ひもじい竜は連日聞こえてくる悲鳴に、腹を満たす夢を見た。
七日後、新しい国王が死に、忠誠を貫いて残っていた軍隊も散り散りになった。竜の飼育のため課せられた重税に、喘いでいた民の手で殺されたのであった。
竜たちはすっかり飢えを満たした様子で、我が物となった国土をのし歩いていた。殺戮三昧にも飽きた彼らはいよいよ、自由に向かって飛び立とうとしているのであった。
兄弟たちの鳴き交わす声に異変を感じ取り、塔の竜は外へと出たがったが、暴徒と化した国民に見つかることを恐れた大臣たちは固く戸を閉ざしていた。仕方なく竜は窓から飛び出そうと駆け出したが、何も知らぬ王女は立ちふさがって竜を捕まえようとした。
爪も牙も持たぬ竜は王女に飛びついた。必死の抵抗であった。思わぬ体当たりに王女は倒れ、竜はその身体を踏み越えて走った。
小さな明かりとりの窓になんとかよじ登ると、今や自分の十数倍ほど大きな兄弟が次々に、紫紺の大空へ飛んでいく。小さな竜は窓から身を乗り出して絶叫した。後を追わんと翼をばたつかせたが無駄であった。人間たちはその首輪を掴んで無理矢理連れ戻した。兄弟たちは皆飛び去ってしまい、哀れ小さな竜だけが囚われの身として残された。
小さな竜の鳴き声のせいで、自分たちの存在が、暴徒化した民に露呈したのではないかと考え、大臣たちは王女を連れて国を脱出しようとした。かわいがっていたにも関わらず裏切られたと感じた王女も、終に竜を見捨てた。竜は地下室の、兄弟たちがいたあの大きな檻に閉じ込められ、置き去りにされた。
今度は気にかけてくれる奴隷もおらず、その安否すら定かでなかった。竜は孤独と飢えのうちに、無為に動き回って過ごした。身体をくねらせ、隙間から脱出を試みもしたが、役にも立たぬ大きな翼が邪魔をした。折しも、亡命に失敗した大臣たちが国民に捕らえられて晒し首となり、王女も行方不明となったので、王国は継承者を全て失って完全に崩壊した。人々は逃げ惑い、竜のことなど忘れ果ててしまった。
暗闇の時間ばかりが経った。餌をねだってどれほど吼えようと聞き留める者もおらず、竜はついに沈黙した。
永遠にも思える時間のあと、変化が訪れた。小さな人間が地下室にやって来たのである。人間は何かから逃げてきたのか、息を切らせ、すすり泣いていた。怪我をしており、血の匂いに竜は鼻をうごめかして翼をばたつかせた。暗闇の中、がさごそと動く物音を耳にした人間は、不用心にも近づいた。
何ヶ月も食べておらず、竜は飢えていた。その上、飛翔能力こそ永久に失われたままだったが、牙と爪は再び伸びてきていた。竜は無理やり首だけを檻の隙間にねじ込み、近くに寄ってきた人間の柔らかな首筋に噛みつき、若い肉を引き裂き、骨まで食べ尽くした。青い石を飾った王家の指輪だけが残ったが、竜は見向きもしなかった。
どういうわけかその頃から、時折、人間が迷い込んでくるようになった。人間たちは武装し、時には竜に向かってきたが、暗闇の中では竜に利があった。
竜にとって生肉ほどの栄養はない。人間の味を覚えた竜は、彼らを食らって少しずつ少しずつ大きくなった。首輪はやがて小さくなり、首に食い込んだ。竜は苦しがり首を掻きむしったが、短い前脚は器用な動作には不向きで、いたずらに鱗を傷つけるばかりであった。その首輪もやがて劣化し、ひとりでに千切れてしまった。
一年も経たぬうちに尾と翼の先が檻からはみ出すほどになり、首だけを突き出した状態で目をぎょろつかせるほか、竜は全くもって身動きが取れなくなった。それでも竜は生き長らえ、そしていく年ともわからぬ時間が過ぎた。
光が竜の目を打った。慈悲深い太陽の光ではなく、禍々しい紫の炎であった。炎は地下室全体を太陽よりも明るく照らし出し、人影を浮かび上がらせた。竜が身を仰け反らせ悲鳴を上げているうちに、その人物はそっと近づき、優しく檻を撫でた。檻は一人でに軋んで扉を開いた。竜はよたよたと檻から出た。檻を開けたのは、いつかの奴隷であった。驚いたことに、痩せ細り、常におびえた様子だった奴隷は、臭いこそ同じであれ、夜の闇のような衣装を纏い、見まごうほどの美しい女に成長していた。それもただの女ではなく、呪文を唱えるだけで摩訶不思議な現象を起こし、人を病から救い、また病にせしめる薬学に通じた魔女であった。王国の崩壊に乗じて逃げ出したあと、奴隷は例の烏を再び見つけた。烏は奴隷を森の奥深くへ、あの妖術師の下へと導いた。奴隷は、一生側にいて仕えるという契約の下、妖術師の弟子となり、言葉では言い表せないような謎めいた修行を積んだが、その間も片時たりとも竜のことを忘れたことはなかったのであった。
ある日、野蛮な盗賊たちが道に迷い、妖術師の元に助けを求めてきた。盗賊たちなど恐るるに足りない妖術師は、快く宿を与えた。奴隷、いや魔女は食卓にて彼らに給仕しながら、彼らが王国の跡地を荒らしに行くと知るや、言葉巧みに、竜の塔の地下には財宝が眠っていると、彼らの単純な頭に吹き込んだ。隠し扉の手がかりを仄めかすことも忘れなかった。
噂は魔女の予期した通り広まり、向こう見ずな人間たちが宝探しに出かけ、帰って来なかった。妖術師の使い魔である烏がもたらす情報から、魔女は自分の目論見がうまくいったらしいと悟った。妖術師から全てを学び取ったと思ったある日、魔女は妖術師を、妖術師自身が後生大事に持っていた、折れた剣で刺し殺し、契約を反古にして逃げ出したのであった。
竜は尾をちぎれんばかりに振って主人を迎えた。それは巨大な怪物の動作としてはいささか滑稽であったけれども。魔女は自分より大きくなった竜の、血生臭い頭と、傷ついた鱗を懐かしげに撫で、次いで不具の翼を癒そうとしたが、偶然にも退魔の力を持つ銀で傷つけられていたため、魔力が効かなかった。魔女は哀れな竜のために涙を流したが、竜は嬉しげにその美しい頬を舐めるばかりであった。魔女は国王が選りすぐった白馬で凱旋するように、飛ばぬ竜の背に乗って王国の廃墟を後にした。
竜との再会を果たした今、魔女の心にはもう一つの目標が暗い炎となって燃えていた。幼い自分を攫い、売り飛ばし、買い取り、虐げた人間たちへの復讐である。魔女となった今は、人間たちなど踏めば潰れる蟻のようにしか思われず、恐るるに足りなかった。
竜は主人を乗せ、砂漠や森を練り歩き、主人の命令通り、行く村や街を余すところなく襲っていった。人間たちはその巨体に恐れをなして逃げ惑った。竜は食欲の赴くままに、人間たちを喰らい、その背中で魔女は脆弱な人間たちを嘲笑いながら、魔力で自らと竜を防御した。
蛮勇を振るい武器を片手に立ち向かってくるものがあれば、竜は尾で薙ぎ払った。竜を手なづけようと試みるものがあれば、頭を咥えて振り回し、遠くに投げ飛ばした。稀に、狡猾にも竜を罠にはめ窮地に陥れる者もいた。すると魔女が青白い雷をもって制裁を加えた。つまるところ、この一人と一匹は、向かうところ敵なしであった。
人間たちは金銀財宝を差し出して命乞いをしたが、魔女は刃物のような薄ら笑いを浮かべ、首を振るだけだった。自らの命が遥かに安い値段で売買されたことを考えると、却って滑稽さと憎悪が湧き出してくるのであった。
いつの間にか一人と一匹は国境を越え、隣国の領域を荒らしまわった。竜と魔女の噂は、国王の耳にも届いた。国王は竜を倒すことのできる勇者を求め、無事竜を殺した者には、曙のように美しい一人娘を与え、王位を譲ると誓った。多くの若者が竜を倒しに出かけたが、帰ってくる者はなかった。
はずれの村に一人の若者が住んでいた。年老いた母親と二人暮らしで、財もなかったが、頑丈な身体を資本としてよく働き、村の人々からも頼りにされていた。ある日彼は王のお触れを聞き、姫君の麗しい似姿に心を奪われ、自らも功を立てたいと考えたが、母親のことを考えると旅に出る決心がつかなかった。
その夜、若者の夢に見知らぬ若い女が現れた。女は、若者こそが英雄となるべく定められた者なのだと告げ、西の深い森に向かって旅立つよう命じた。目覚めると若者は、いや英雄は、まるで生まれ変わったように感じ、母親に暇乞いをして、愛馬にまたがり西に旅立った。
魔女を乗せた竜は、ある貧しい村に辿り着いた。
魔女はいつものように、すぐ村を襲うことはせず、逸る竜の首筋を、細いしなやかな柳の鞭で叩いて牽制した。竜は人間たちを見て意地汚く唸り、涎を垂らしたが、渋々主人に従って村はずれにとぐろを巻いた。魔女は竜から降りて、一人で村の中を歩き回ったが、星が地上に降りてきたかのようなその姿に、村人たちは恐れをなして隠れるばかりであった。魔女は喉の渇きを覚え、水をもらおうとしたが、遠巻きに見る村人は涸れ井戸を指し示すだけだった。魔女は続いて、ある名を尋ねたが、村人たちは皆首を横に振った。魔女は朧な記憶を頼りに、一軒一軒、鄙びた家を覗いて回ったが、微かに期待していたものは見出すことができなかった。
魔女は去り際に、珍しがって自分の後をついてきた村人たちに、井戸の中を見るように言った。
村人たちが言われた通りにしてみると、いつの間にか、清浄な水が深い井戸を満たしており、まるで夜空のようであった。
白馬に乗った英雄は西の森の中で道に迷い、疲れ果てて眠りに落ちた。目を覚ますと幾歳かも知れぬような年老いた老婆がおり、食糧を求めた。尽きかけた自らの乏しい食べ物の中から英雄が分けてやると、老婆は英雄に美しい一振りの剣を渡して次のように語った。老婆はかつて犯した罪の報いで非業の死を遂げたが、罪ゆえに死に切ることができず、遥か昔に竜との戦いで折れてしまった、聖なる剣に宿り、英雄に渡すことで償いをせんと、この日を待っていたのだと。気がつくと老婆の姿は消えていたが、剣は確かに残されており、朝露に濡れて清らかな光を放っていた。英雄は驚き感謝しながら愛馬と共に歩を進め、間もなく森を抜け出すことができた。彼はほどなくして、見る影もなく破壊された村の残骸を見出した。竜の襲来が最近のものであると気づいた英雄は、まだ近くにいると踏み、痕跡を追い始めた。
魔女と竜は今ひとつ村を滅ぼし、崩れ落ちた家々の上で一休みしていた。魔女の遠くまで見通す目には、煌びやかな都が映っていた。自分を虐げた元凶を滅ぼすことなくして、魔女の心は休まらないのだった。一方、たらふく食べてご満悦の竜はいつもの無意味な行動に耽っていた。
竜はこれほど成長してもなお、尾を追いかける愚かな遊びを止めないのだった。魔女はたびたび止めさせようと試み、折檻を加えさえしたのだが効果はなく、今となっては諦めて見守るのみであった。
この日も竜は憑かれたようにぐるぐると回っていたが、不意に首を伸ばし、ぱくりと自分の尾を咥えた。頭の先から尾の先までが、象徴的な完全な円環を描いた。魔女が驚いて立ち上がると、折しも向こうから馬に乗った男が駆けてくるのが見えた。英雄であった。魔女も男が只者でないことを悟ると、急いで竜を叩いて遊びを終わりにさせ、その背中に飛び乗った。
巨大で獰猛な竜と、邪悪な美しさをきらめかせた魔女を目の前にしても、己の運命を固く信じた英雄は微塵も怯まなかった。
その勇猛果敢な様子に焦りを覚えた魔女が手を振ると、たくさんの毒蛇が湧いて出て英雄を襲ったが、英雄は聖なる剣もて打ち払い、無傷で竜の元へ進んでいった。
魔女が呪文を唱えると、竜の周りに毒のある底なし沼が現れ、英雄の行く手を阻んだが、聖なる剣の魔力で、英雄の白馬は泥沼の上を軽やかに渡った。
魔女は、竜はおろか自らの身にも危険が迫っていることを知り、やむなく魔法の小さな雲に飛び移って退いた。しかし竜を守るために魔女が遠くから放つ数々の魔法は全て剣の力に跳ね返されてしまった。英雄は太陽のごとく煌めく剣で竜に斬りかかり、戦いが始まった。
竜は小さく見える人間に向かって吼えたが、英雄は微動だにせず、猛烈に斬りかかった。飛翔能力という竜本来の武器を失い、競い合うべき兄弟とも幼いうちから引き離されたために戦いに不慣れな竜は取り乱し、闇雲に尾を振り回すばかりであった。
英雄に圧された竜は魔女の下に逃げ出そうとしたが、誤って底なし沼にはまり、抜け出そうともがけばもがくほど、深みに落ち込んでいった。魔女は自らの致命的な過ちに気がついて悲鳴を上げ、逆呪文を唱えた。沼は徐々に姿を消し、竜は何とか陸に這い上がったが、毒が回って麻痺した重い身体をどさりと横たえ、目をぎょろつかせることしかもはやできなかった。英雄は白馬から飛び降り、竜の首筋に斬りつけたが、それと共に剣も役目を果たし、折れてしまった。とはいえ竜に致命傷を負わせるには十分で、竜は首筋からどくどくと血を流れ出させ、物問いたげな黄色い目は次第に濁り出した。
魔女は虹色の雲を飛び降りて駆けつけ、瀕死の竜の首に取りすがって泣いたが、治癒の呪文も虚しく、竜は喉をごろごろ言わせた後に息絶えた。
英雄は魔女をも殺そうと弓に矢をつがえたが、魔女は呪詛の言葉を呟きながら、抵抗せず泣き続けるばかりであった。英雄はどういうわけか魔女に見覚えがあるように感じ、弓を降ろしたものの、思い出すことのできぬまま城へと帰還し、魔女は死んだと報告した。魔女は七日間泣き続け、ようやく涙が枯れてしまうと、憎しみに満ちた目で、折れた剣を持って森へと立ち去り、それより後、その姿を見たものはなかった。
英雄は竜を倒した勇敢さを讃えられ、王家に迎え入れられた。美しき姫君を妻とし、よき国王、よき夫、よき父として一生を終えた。その後には、竜を倒した偉業を讃える記念の塔が残され、人間たちは英雄の冒険を語り継いだーその記憶が風の中に消え去るまで。