ストレイシープ
飼い慣らすことの出来ない感情が知らない間に巣くっていることを、私は疎ましく思った。その感情は昼夜を問わず襲いかかってくる。
意地汚い言葉を吐いて私を惑わせては、静謐な筈の心に土足で上がり込んでくる。そして躾のなってない子供が玩具を散らかすみたいに、様々な感情を散らかしていく。
後には、ぽっかりとした欠落感が私に残される。
大切なものを奪われてしまったという、奇妙な欠落感。
こんな感覚、私は味わいたくなかった。
それも全て彼のせいだ。彼が、私の前に現れたから……。
多分彼は、私がそんな感情にかき乱されているなんて想像もしないだろう。
「無愛想」
「気取ってる」
「外交官の娘だからって、何様のつもりなの?」
今まで受けて来た中傷の数々を思う。だがそのどれもが的を射たものだ。事実、私はいつも能面の様に感情を押し殺している。
この高校に転校して以来、私に話しかけてくれるクラスメイトには、「はい」か「いいえ」等のごく事務的な返事しかしていない。
とてつもなく無愛想だ。その姿を気取っていると思われるのも、正当な評価だろう。
そしてまた、私の父が外交官と言うのも事実だ。私と母はその父に付き添い、十数年もの間、各国を転々としている。
父と母はノルウェーの大使館で出会った。
父は日本人。母はノルウェー人。つまり、私はハーフだ。
多分、日本人にはノルウェーなんて馴染がないと思う。世界地図を広げて見せても、隣国のスウェーデンと区別が付かないかもしれない。
ノルウェーは天然資源に支えられた財源を背景に、高度な教育と福祉を成り立たせていることから、世界でも有数の福祉国家といわれている。
私はそのノルウェーに生れ、そのまま三年間をその地で過ごした。まだ知性が幼く記号を操る事がままならなかったので、世界が意味を持って私に開かれることはなかった。その為、当時の記憶は殆どない。
その後、アイルランド、フィンランド、フランスと経て、またノルウェーに戻ってから、私のノルウェーの記憶は始まる。
フィンランドもそうだったが、授業は少人数制学級で行われる為、先生と生徒の距離が近く、その分だけ先生も生徒一人一人の特性を鑑みた教育カリキュラムを組んでくれる。
だから日本のすし詰め状態のクラスに、私は違和感を覚えた。
こんな狭い空間に、三十人近い人間が蠢いている。転校初日、私は思わず吐きそうになり保健室に運ばれた。
日本は世界有数の人口過密国だと教わっていた。広大なユーラシア大陸にまたがるロシアと同人数の人間が、この小さな島国に集まって暮らしている。
情報としては認識していたし、成田空港に母と降り立った時、アジア独特の湿気のシャワーと共に人ごみの洗礼も味わった。
でも独特の湿気に慣れる事は出来ても、人いきれには慣れる事が出来そうになかった。だから私は、学校でも出来るだけ人の少ない場所を選び、逃げ込んだ。
それが殆ど使われていない図書室で、彼と出会ったのもその場所だった。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
「あの、すいません……『三四郎』って、どこにあるか分かりますか?」
図書カウンターの内側に座り、手元の本に視線を落としていた私は、男の声に、ゆっくりと視線を上げる。そこには愛想の良い笑みを浮かべた、細身の男が立っていた。
「はい……なんでしょうか?」
「いやその、『三四郎』を探してるんだけど、見つからなくて」
私が海外住まいの癖で男の眼を見ながら尋ねると、男は居心地悪そうに視線を外した。
「『三四郎』……夏目漱石の……ですか?」
父の方針で家庭での父との対話は、日本語でする様に訓練されていた。その為、日本語に問題はない……とはいえ、父以外の男性と日本語で話す事に少し緊張した。
「そう! 俺、殆ど本なんか読まないんだけど、あれだけは好きでさ……最後のシーンを急に読みたくなちゃたから、探してるんだけど、見当たらなくて……」
何を緊張しているのだろう。彼はコメディアンの様に早口で、一気にそうまくしたてた。
「少々お待ちいただけますか?」
私はそう彼に前置いた後、裏手の司書室にある返却用ボックスを覗いた。そして目的の一冊を拾い上げると図書室に戻り、彼に手渡した。
「どうぞ……借りていきますか?」
「え? いや、どうしようかな……っていうか、佐々木、『三四郎』なんて良く知ってたな。まだ日本に来て、間もないんだろう?」
私はピクッと頬の痙攣を感じながら、「はぁ……まぁ」と曖昧な返事を返した。
父が日本の文学に愛着を持っている為、日本の近代――特に明治期の小説は、幼い頃から親しんでいた。その中でも夏目漱石は、私と父のお気に入りの作家の一人で、書庫の全集を私は既に読破していた。
本当は「三四郎」について彼と語り合いたかった。でも、その考えを必死で振り切った。
『多分、日本に留まるのは長くて一年だろう』
赴任に際して、父はそう漏らしていた。
今まで数えきれない程の別れがあった。それこそ幼い頃は、どうして仲良くなったお友達と離ればなれにならなくてはいけないのか理解に苦しんで、転校の間際はいつも泣き叫んでばかりいた。
でも残念ながら人間は、どんなことにもすぐ慣れる動物だ。だからもう……その感覚にも慣れた。
嘘、自分を騙した。
私はいつでも通り過ぎていく人間だ。現地の友だちとは、本質的な結びつきは生れない。
それでも日本に来る前にいたパリなどでは、外交官の娘や息子なんて珍しくもなんともなく、私がいた時には私も含め、クラスに三人も外交官の子弟が揃っていた。
そういった環境故か、向こうのクラスメイトはこちらの事情をきちんと弁えていた。
「やぁザザキ! 君のパパは何年の滞在予定なんだい?」
「そうね、二年と聞いてるわ」
「二年か……なら僕と恋だって十分できるね」
でも日本ではそんな理解は得られない。そして今回の私の滞在は一年に満たないかもしれない。
だから出来るだけ、学校の生徒とは仲良くなる事を避けていた。私には本があれば十分だった。そう自分にいい聞かせた。
学校の帰り道に古書店街を巡り、興味をそそられる本を物色する。足繁く通っている古書店の店主は、私を初めて見た時、ありありとした驚きをその顔に張り付けていた。
瞳と同じで灰色がかった髪に、色素の薄い肌。
一目で日本人ではないと分かる、私の姿。
彼の反応は、多分日本では普通なんだと思う。
「ハウアーユー? マイネームイズ、タダシ、コンドオ」
何とも古式ゆかしい英語に、思わず面食らったのを覚えている。日本語に訳すと「ご機嫌如何で御座ろうか? 某、コンドウタダシと申すものに候」といった感じだろうか。
不思議と日本では、そんな数世紀前の英語の言い回しがそこかしこに溢れている。私は人懐っこい笑みを浮かべる近藤氏に初めて会った時、私が日本を離れる時に、名残惜しい想いを抱くのは彼に対してだろうなと直感した。
事実……多分そうなる。
足繁くお店に通う内に、近藤氏は私を自分の孫の様に可愛がってくれる様になった。
「なぁ佐々木、日本の文学、好きなのか?」
思考を現実に戻すと、彼はまだ私の前にいた。
不思議な人。どうして私なんかに興味を持つの?
そんな彼に、逆に興味を持ちそうになる。
「……はい」
でも不信感を露わにする様に、出来るだけ無愛想に答えた。
「そっか、ためしに聞くけど『三四郎』は読んだ事はあるのか?」
「…………」
今度は知性の証である言語を用いずに、頷いてみせた。
私の眼鼻立ちは、日本人からするとキツイものに見えるらしい。私がただ黙って頷くだけで、不機嫌に見えるとクラスの女の子が陰口を叩いていた。
それを耳にして以来、私はある種の積極性を持って、その仕草を学校での一コミュニケーションの手段として採用していた。
「えっと……」
それでも彼は食い下る。
出来るだけ、私をそっとしておいて欲しかった。
世界が私を愛してくれるので、私は孤独になれる。
そういった日本の詩人は誰だっけ?
「なら佐々木は、どのシーンが好きなんだ? 俺は……」
「ストレイシープ」
「え?」
「はい?」
男が驚いた様子で、私を見ている。
私は能面に感情を隠していたが、実は自分の方が驚いていた。心の中で答えた事が、思わず口を衝いて出てしまっていたのだ。
「ストレイシープ……あぁ、やっぱりそうか! それって、最後の展覧会のシーンだよな?」
男が殊更楽しげな声を上げると、それが図書室全体に響いた。
放課後の図書室には、私と彼を除いて誰もいなかった。
「そちらにも勿論出てきますが……。主人公とヒロインが河原で……」
仕方ない。さっさと答えて、彼には御退出を願おう。私はそう観念して、渋々といった態度で彼に説明しようと試みたが……。
「え? そんなシーンってあったっけ?」
その瞬間、私の能面は外れた。
自分から話を振っておいて、あの名シーンを知らないだなんて言わせない!
「貸して下さい」
そう言って彼から本をふんだくると、該当のページを直ぐに見つけ出して、「ここです」と提示する。
彼は差し出されたページを崩さない様に受け取ると、黙って読み始める。
「あぁ、初めてストレイシープが出て来るところか! 忘れてたよ」
「忘れるだなんて……考えられません! いいですか、ここは主人公とヒロインが初めて心を通わせ合うシーンで、ここから『三四郎』は始まると言っても――」
一気にまくしたてようとする最中。怒りの形相を向けた相手に鏡を差し出され、自分の顔の醜さに唖然となる様に……私は咄嗟に自分のしている事に思い至り、言葉をしぼませた。
「ははっ、なんだ……佐々木はそんな風に喋る奴だったんだな」
恥ずかしさで思わず赤面する。色素の薄い私は直ぐに顔が赤くなる。自分の顔が赤いと言う自覚が、更に自分の顔を赤くさせ……あぁ、もう!
しかし、ふと冷静な思考が私の肩を叩く。
そういえば、彼はなぜ私の名字を知っているのだろう。さっきも『まだ日本に来て、間もないんだろう?』って……。
「……あの……どうして私の苗字を?」
すると彼は驚きに目を剥いた後、苦笑を口の端に浮かべて答えた。
「おいおい、俺クラスメイトだぜ。クラスメイトの近藤譲。なんだよ、今まで気付かなかったのか? あっそうそう、うちの爺ちゃんが、俺の学校の生徒がよく店に来てくれるって話をしてたんだけど……多分それって、佐々木のことだよな?」
「近藤……さん? あっ、まごころ書店、近藤屋さんの――」
「そうそう、あそこの店主、俺のじいちゃんなんだ」
思わず彼の顔をまじまじと見つめる。
彼は相変わらず居心地悪そうにしていたが、今度は視線を逸らさなかった。
言われてみると、奇妙に愛想の良さそうな顔が近藤氏にそっくりだ。その事実に気付いた私は、自然に笑みをもらしてしまった。
「あっ、佐々木が笑った。なんだよ? 何が可笑しいんだ?」
「ふふっ、別に、何でもありません」
私は必死に取り繕おうとしたが――。
「ははっ、何でもってことないだろ、なんだよ?」
「ふふっ、だらか別に、ふふふ」
その後、私たちは声をあげて笑った。
そして気付けば、好きな文学作品の事やお互いの事を、夕日が家路を染めるまで話し合っていた。
その中で彼が美術部員で油絵をやっていることや、近藤氏の店を大手通販サイトのアマゾンに登録し、彼が経営危機を救った話等を興味深く聞いた。
ちなみに近藤氏は今は一人、書店の二階で暮らしているらしい。彼の両親が同居を勧めても、頑なにそれを拒んでいるそうだ。
彼は不思議な人だった。
人には決して触れてほしくない心の領域が存在する。私にとっては、学校での無愛想と言われる態度だ。
どうして? 等と無遠慮に聞かれると答えに窮してしまう。
仲良くなると、別れが苦しいから……なんて、言えるはずもない。
彼は、話の必然的な流れの中でそんな領域に話題が及びそうになると、それと察し、直ぐに話題を別の流れにもっていった。
「佐々木がこんな頑固で面白い奴だったなんてな、どうして教室では――」
「えっと、それは……」
「頑固と言えば、この前、爺さんの友だちの――」
そんな具合に人の心を守ろうとしてくれる。それが日本人独特の心遣いなのか彼の特質なのか、私には判断が付かなかった。
でもそれが嬉しくて、私はついつい彼との話に熱中してしまった。本音をいえば……多分こうして、同年代の人間と気軽にお喋りがしたかったのだと思う。
――その日以来、彼は放課後の図書室に、毎日の様に顔を出し始めた。
クラスでは私は以前と同じ態度を崩さなかった。時折、彼と目が合う時もあったが、決められた小さな約束を守る様に彼は笑うだけで、話しかけたりはしてこなかった。
でもその分だけ、放課後の図書室では彼はよく喋った。
時には絵の具を手につけたまま入室して来る事もあり、
「本についたらどうするんですか!」
と、私を怒らせた。
怒る? そう、私は彼に怒ったのだ。
彼に笑わされ。彼に怒らされ。そして彼に……。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
彼と初めて会ってから、数か月が過ぎたその日。彼は珍しく、放課後の図書室にやってこなかった。
図書室は、私にとってお気に入りの場所だった。だから週の放課後のカウンター当番は、殆ど私が自主的にやっていた。
――私だけの静謐な空間。
高級ホテルの豪奢な静寂とも違う、心落ち着く、暖かな陽だまりの様な静寂。そこには不足しているものも、余分なものも何一つない筈だった。
なのに、その時……。
私は明確に、何かが足りないと感じていた。
その何かには心の奥底で気付いていた。でも決して、私の理性はそれを認めようとはしなかった。
そういう経験は今までにはなかった。フランスでは何度もデートに誘われたが、下卑た心が透けて見えるようで、私はいつも断ってばかりいた。
開いている本に意識が集中できない。
不意に、人懐っこい彼の笑顔が思い出される。
いや……これは違う。違うんだ。これは単に人恋しさに心が揺れているだけ。
そう何度も自分に言い聞かせた。
だけど西陽が閉館前の図書室に黄昏色を映し出す頃。埃を吸った分厚いビロードのカーテンを閉めようと外を見た時。私の理性は、叫び声を上げた。
彼が、女性徒と腕を組んで帰っていた。
二人は何か楽しげな会話に肩を揺らし、時にじゃれ合いながら、仲睦まじく歩いている。思わず窓にへばりつき、遠目で女性の横顔を盗み見た。
情緒が幼そうな顔をしていた。知性的ともいえない。
でも……彼女は堪らなく無邪気そうだった。
無邪気。
そう、あの無邪気だ。
決して作為的には手に入れる事のできない、人生を丸ごと享受する、あの無邪気。私には……決して手にいれられないもの……。
――その夜、私は涙に暮れた。
自分の部屋に逃げる様にして飛び込むと、込み上げて来た慟哭が胸を抑えつけ、引き裂かれそうな程に酷く痛んだ。
それに必死で耐えた……つもりだった。
でも無理だった。
抑えつけた感情は、不意にけたたましい号泣となって外へ迸り出る。夕日に照らされた二人の姿が、何度も頭の中でフラッシュバックする。
すると何かが絶えず、痛みを伴って心の中に湧きあがっては……どうしても鎮まろうとしない。
どうしてこんなにも悲しいのか、分からなかった。
悲しくて、悲しくて、とてもやりきれない。
この苦しさが明日も続くのかと考えると、胃の中のものを全てぶちまけてしまいそうになる。
苦しい、苦しい、と何かが怨嗟の声をまき散らす。
苦しい? なぜ苦しむ?
そうだ……あんな姿を見ても、私は私の中に生れたこの感情を、決して消す事が出来ない。彼への思いを止める事が出来ない。彼を嫌いになる事が出来ない。
――それが……たまらなく……苦しい。
夕飯を呼びに来た母の声に、なおざりに返事をする。食事なんて、まるで喉を通りそうになかった。
だけど家族に心配をかけたくないという思いが、私を立ちあがらせる。私は自分の感情が、これからどこへ向かえばいいのか分からず、遣る瀬無い気持ちになる。
迷子……。
そう。私の感情は、彼のせいで迷子になってしまった。
私は自分の部屋を後にし、階段を降りながら思わず呟いた。
「ストレイシープ……ストレイシープ」と。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
その日以来、私の能面は学校のどの場所でも外れる事はなくなった。放課後の図書室に彼が現れ、声を掛けて来る事があっても、
「お静かに願います」
という言葉で、一方的に彼との会話を打ち切った。
「佐々木?」
彼は泣きそうな顔で困惑していた。
優しい人だから……彼が優しい人だと気付いてしまったから。多分、自分が何かの拍子に、私を傷つけてしまったんじゃないかと、私の一言で、そう感じ取ったのかもしれないと思った。
その顔を見ると……痛んだ。何が?
「おい佐々木、」
「……彼女さんと、お幸せに……」
「え?」
その一言を残し、図書委員の仕事を投げ打つと、私は思わずその場から逃げた。走り去る中で、私の印象、やがては思考も奇妙にぼやけ始め、混乱するようになった。
痛い……痛いの!
心と感情。その二つが密接に絡み合うどこか奥深い所で、何かが死に切れずに残っていた。それは決して死んでしまおうとせず、締め付ける様な憂愁となって、その存在を私に知らせる。
奇妙な痛みとなって。
そんなある種の感情が……。
もういい、白状しよう。恋だ。私は彼に、恋をしていた。
私の恋心は、決して報われる事がないと意地悪く私に囁きかける。
分かってる! そんなこと……分かってる!
いったい誰だろう、恋が甘やかだなんて言ったのは。恋という感情が持つ獰猛さ、残酷さは、決して……人生と相容れない。
悔しくて、悔しくて、私は走りながら泣いた。
そして気付くと、近藤氏の古書店の前にいた。
「佐々木くん? ……どうしたんだい?」
書店の前に佇む私を近藤氏が見つけると、伺う様に声をかけてきた。
「…………」
私は何も答えない。答えられない。
どうしてここに足が向いてしまったのか。動物の子供が本能で自らの巣穴に帰り着く様に、何かに導かれて私はここに来てしまっていた。
「……そうだ、ちょうど紅茶を入れようと思ってたんだ。レディグレイ。グレイ伯爵の奥方の為に作られた紅茶だ。ははっ、きっと佐々木君がいつも飲んでるような高級な茶葉じゃないけど、よかったら一緒にどうだい?」
近藤氏は私の返事を待たずに、私を招き入れた。促されるまま、近藤氏の店で私の定位置となっているカウンター横の丸椅子に腰掛けた。
『佐々木君がいるだけで、うちの店内は華やかになるからね。こんな丸椅子で悪いが、よかったらここにお座り』と、ある日、近藤氏がわざわざ用意してくれたものだ。
そういえば最近、図書室にばかりいて、ここには来てなかった。
その理由は……言うまでもない。
すると途端に、彼と過ごした日々が過去の情景となって思い出された。
学校の帰り道、一緒に買い食いと呼ばれる行為をしたこと。
自分の家から遠回りになるのに、家の近くまで送ってくれたこと。
他にも沢山の光景が、何度も何度も甦ってくる。
楽しかった、嬉しかった。初めての気持ちは、この体に収まり切らず……私の世界を鮮やかに彩った。
私は一点を見つめる様でいて、その実どこにも焦点の合っていない虚ろな表情のまま、そこに腰掛けていた。すると近藤氏が、紅茶セットを持って奥から現れる。
「さぁ、おあがり」
私は言われるがままに紅茶を一口すすった。
味の入口は限りなく狭く、線の様に苦みが抜ける。しかしその線が大きく膨らむと、やがてフルーティーな香りが口いっぱいに広がり、そのまま胃の中へストンと落ちる。
「おいしい……」
思わず呟いていた。
「そうかい、佐々木君の舌にあってよかった」
私は生気を取り戻し、近藤氏の顔を眺めた。すると、そこに、彼の……お、おもかげが……ありありと……。
「うっ……私……私」
飼いならせない感情が、また私に悪戯をする。瞳から溢れた涙が頬を濡らした。
「いんだよ……いいんだ」
近藤氏は、そういうと私の頭を優しく撫でてくれた。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
「今度の赴任先は、フィンランドになると思う」
朝食の席で、父が日本語とノルウェー語の双方で厳かに告げた。人には奇妙と思われる、我が家の当たり前の習慣。
「いいわね。日本映画で、フィンランドを題材にしたものを最近みたのよ」
母がノルウェー語でよどみなく応じる。
「私自身の赴任は二・三カ月後になると思うから、いつもの様に二人は一足先に現地に入ってもらえるかな」
「もちろんよ。学校の手続きも済ませないとね」
私は二人の会話を聞くともなく聞いていた。思っていたより早かったな、という感想がまず頭に浮かんだ。
しかしその後、思いがけず彼の顔が意識の中を去来して……。
「タック・フォ・マーテン(ごちそうさまです)」
日本人の食べ物を育ててくれた人たちへの感謝の言葉とは違い、食事を作ってくれた人へ感謝の気持ちを伝える言葉を、そっけなくノルウェー語で告げる。
不意に散らかされた感情を二人に悟られることがない様に、食堂を後にした。
「近藤さん……私、来月にはフィンランドに行きます」
「……そうか」
近藤氏は一瞬、顔一杯に苦渋の色を滲ませたが、すぐにまた人の良さそうな柔和な顔に戻った。
「ア……エラ」
「え?」
近藤氏が、か細く声を漏らした。
「私の風……君は多分、その瞳に私などでは伺い知ることの出来ない、沢山の世界を収めるんだろうね。アエラ……私の風。恐れることはない。苦しいことも、悲しいことも飲みこんで行きなさい。今は枷があろうとも、いつか、自由に……アエラ……私の……」
すると常ならぬ事に泣き崩れた。
「近藤……さんっ!」
思わず私も涙腺を緩ませ、彼を抱きしめる。
「ごめんよぉ。泣くつもりなんてなかったのにねぇ。嫌だねぇ、年寄りは」
「私は、あなたの風は、きっと戻ってきます。私は……私は……」
私たちはそのまま輪郭を共有して、じっと動かなかった。そしてその後は、少しだけ気まずく、でも嬉しい感慨の中で二人で紅茶を飲んだ。
今日の紅茶は私が淹れた。近藤氏の様に上手く入れる事ができなかったが……。それでも彼は、私の淹れた紅茶を美味しいと言ってくれた。
「佐々木! ……ここにいたのか」
紅茶を飲み終えて暫くすると――彼が、近藤君が突然書店に飛び込んできた。
「近藤……くん?」
咄嗟の事に涙が溢れそうになる。
嫌だな、こんな自分。
私は決して、涙もろい女じゃないと思ってたのに……。
学校では、いつも下をむいてただ時間をやり過ごしていた。彼の存在を、こんな近くでありありと感じるのは久しぶりだった。
「譲……久しぶりだな」
「爺ちゃん! 佐々木がここにいるって、どうして教えてくれなかったんだ!?」
「はて? お前はそんな事きいたかの? 覚えがないなぁ」
近藤君の問いかけに、祖父である近藤氏はトボケて見せた。
「それよりも佐々木、お前、どうして図書委員を……」
「わ、私……一ヶ月後にフィンランドに行く事になりました」
「……え?」
彼が驚きの中、愕然とした表情を見せる。
「フィンランド……そんな、まだ一年経ってないだろ!」
「それは……あくまで予定です。予定が早まったので、図書委員長に事情を話して委員会もやめました」
それは嘘。本当はまだ辞めてない。ただ彼に会いたくないから、図書委員の当番をさぼっていた。でも、近々辞める予定だ。
「佐々木……」
「はい……何か問題でも?」
震えた声で、気丈にふるまう。彼はまた、泣きだしそうで、それでいて酷く苦しそうな顔をしていた。
私は彼のその表情にひっかりを覚えた。
苦しい? 待って、どうして貴方が、そんな苦しそうな顔をするの?
あなたには無邪気で可愛らしい恋人がいて、私なんか、私なんか……。
「佐々木、明日の土曜日、美術の展覧会をやるんだ」
「え? 展覧会……ですか」
彼は私の眼をまっすぐに覗きこむ。懐かしい彼の茶色がかった瞳。
目の淵がじんわりと熱くなると、思わず私は視線を外した。
「佐々木に……来て欲しいんだ」
「……何故……ですか?」
決然と彼を拒む調子を込めて、私は問う。
「その……佐々木に見てもらいたいものがあるんだ」
そういうと彼は、チケットを取り出した。
ゴタゴタと原色が溢れる中、展覧会の案内が記載されていた。
「……転校の準備があります」
「佐々木……」
「ですので……約束はできませんが、チケットはもらっておきます」
体全体が奇妙に冷え、小刻みに震える中、私はなんとかその言葉を吐きだした。震えた唇で吸い込む空気が、私にしか聞こえない小さな音でひゅひゅひゅひゅと鳴った。
彼はチケットを渡すと、一瞬何か言いたげなそぶりを見せ店を後にした。
近藤氏は、その直ぐ後もそれからも、何も言わなかった。ただ私が店を後にする間際に、こう告げた。
「佐々木君、悪いが明日なんだけど、本の買い出しがあってね……店を開けられそうにないんだ。すっかり忘れていて、伝えるのが遅くなって申し訳ない」
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
当日。私は展覧会の会場である市民芸術センターの前を朝から行きつ戻りつし、決心が付かないまま、結局、近くの同じ喫茶店に二回も入ってしまった。
そして二度目の来店で、葉が開き切っていない紅茶の味に眉根を顰めた後、覚悟を決めて喫茶店を後にした。
市民センターの扉の前に立ち、思わず手鏡で顔を確認する。寝不足で浮腫んだ顔を彼に見せたくない。でも昨夜は神経が昂って、眠れそうになかった。
困った私は、母から睡眠導入剤を二錠もらい服用した。お陰で今朝はぐっすり眠れた。昨日は夜から沢山ビタミンを取るようにしたし、顔は多分むくんでない。
意味もなく泣きそうになっても必死でこらえ、目元も手の甲でこすったりしてない。うん、大丈夫だ。
母お気に入りのロエベの鞄に手鏡を仕舞うと、思い切って扉を開いた。
「佐々木!」
開けたホールですぐに彼に見つかった。思わず「ひゃっ」という、情けない声が漏れる。
「佐々木……来てくれたんだな」
「あ、あの……このたびは、お招きいただき、その……ありがとうございます」
「ははっ、なんだよ、その挨拶は。相変わらず面白い奴だな。佐々木は」
彼が私に向けて微笑みかける。
やめてよ、もう……やめて。私は途端に、体から力が抜けてしまった。
嫌なの……あなたが、あなたをこんなにも好きな自分が……。
それなのに彼は私の手を取り、受付にチケットも見せずに、会場をドンドン進んでいく。そして一枚の絵の前に立つ。
多分、私は顔が真っ赤だ。だからその絵を前にしても、顔を上げる事が出来ずにいた。
せめて、せめて顔の赤みが取れるまで……。
周りの人の囁きが耳に入る。
「あれ……あの人って……」
それに類した囁き声が、次々と周囲から上がる。
なんだろう? 誰か有名な人でもいるのだろうか?
私は訝しんだ顔で面を上げた。
そして目の前の、大きな一枚の油絵を仰ぎ見る。
「え……嫌……嘘よ、嘘、嘘、嘘。嘘だって……嘘だっていってよ!」
そこには、図書室で本を読む私が描かれていた。
目の奥にツンとした感覚が生まれると、枯れてしまえと呪った涙が、再び溢れだす。
「佐々木、これが、俺の気持ちだ」
彼は私の横で優しくほほ笑むと、私の横顔をじっと見た。
嫌だな……こんな涙でくしゃくしゃの顔、見られたくない。
でも、それでも私は……。
手の甲で、マスカラを吸った黒い涙を拭い、彼に振り向いた。
「た、タイトルが……タイトルが……よくないです」
私は三四郎のシーンを真似して、そう呟いた。
本当は、涙で滲んで、タイトルなんて読めなかった。
でも多分、タイトルはアレじゃない。
「ははっ、そうか……じゃあ、なんとすればいいんだ?」
私はその問いに、すぐには答えなかった。
彼は、譲は、片頬をくぼませて笑う。スッと自然に、花瓶に花を刺すように優しい手つきで私の手を握った。
その瞬間、ふいに未来の情景が見えたような気がした。これから私たちは、残された僅かばかりの期間の中で、時間を惜しむ様に二人の関係性を育んでいくだろう。
そして私は、父に従いフィンランドに赴く。
でも……いずれ私も十八になる。
大学に進み、やがて自分の行きたいところへ、近藤氏の言うように、自分の好きなところへ向って何の制約も無しに吹いていける。
そしたら私は……私は……。
一人、嬉しい事や辛い事。別れた友や、淡い過去を想い返して、ただ熱い涙をぽとぽと流すだけの少女の時代は終わる。
ねえ譲。その時もあなたは、私の手を……。
私は嬉しさと悲しさと、激しい未来への衝動に痺れた様になり、涙を静かに浮かべ、譲にこう答えた。
「決まってるじゃ、ないですか。ストレイシープ……ですよ」
そう。あの絵は私の少女時代。
私が迷子だった頃の、一つの象徴。