第七話 -ボクの日常3-
――カタンコトン――カタンコトン
最近のボクは、徐々に達観しつつあった。
どれだけ足掻いても変わらない、どんなに努力を重ねようと全ては水の泡、決して思惑が実ることはない。原因が分からなければ、きっかけも何も掴めない、まるで雲をつかむような話。それはもはや、避けることのできない運命、逃れられない宿命、ラプラスの悪魔に定められた唯一絶対の道しるべ。
家だろうと学校だろうと、ところかまわず変わってしまうこの変身体質は、もうどうしようもなかった。人間の順応能力、慣れというものは恐ろしい、最近ではそれほど慌てなくなったし、状況を楽しむ余裕さえ出てきたほど。
カタンコトンと、電車の心地よい揺れに身を任す。休日の街の中心部へと向かう電車の中、それほど乗客は込み合っておらず、まばらに空いた席の一つにボクは鞄を抱えて座っていた。
なってしまうものは仕方ない。ならば、その後の行動の選択肢を増やしておくのは悪いことではない。
先ほどから頭の隅に感じる違和感、思考をしながらその無視できなくなった変化にどうにか言い訳のように折り合いをつけて、身体全体へと広がる変異の兆しを受け入れた。
慣れたとは言っても、それは日常の生活行動範囲圏での話であって、こんなイレギュラーな事態に対応できるほど、ボクの神経は図太くない。
うっ……
声をもらさないよう口を噤み、鞄を小さくキュ~っと抱きかかえて、気が遠くなりそうなその感覚にボクは耐え続けた。
――カタンコトン――カタンコトン
――ご乗車ありがとうございます。次は――
車内アナウンスが耳に届く頃には、肉体の変化は終わっていた。全身にうっすらと汗をかき、荒い呼吸をしている。もぞもぞと動くボクが気になるのか、隣に座る男性がチラチラとこちらの様子を伺っているような気がした。少し苦しげな声がもれていたのかもしれない。
胸にある違和感を誤魔化すように、ボクは再び鞄を抱き直した。
何度変身しようと、決して慣れることはないこの感覚。座席に座らず立っていたなら、耐えられず座り込んでいたかもしれない。比較的静かな車内、寝ている乗客も多い。なんとなく様子のおかしい乗客の雰囲気というのは伝わるものなのだろうか、ボクへと向けられる視線をいくつか感じていた。
え、あの子って男の子? 女の子? やだわ、最近は中性的な子が多くって……。向かいに座る年配女性の遠慮ない視線を感じる。
居心地が悪くなって、小さな身体をますます縮込ませて、ボクは寝たフリを決め込んで早く駅に着くことを願った。
目的の駅に辿り着くと、ボクは慌ててトイレに駆け込んだ。
顔を洗って少し落ち着いた。まさか逃げ場のない電車の中で変身するとは……。視線は感じたが大事には至ってないので、とりあえず良しとする。
後からトイレに入ってきた男性は、ボクの顔を見て一瞬ドキッと表情を変える。しかし、ボクの服装を見て、首を傾げてボクの後ろを通り過ぎる。
男に見えてる、よね……?
鏡に映る自分はいつもの自分。いつもの女性化した自分。自分で自分を眺めても、男の時と大きな変化は感じられない。確かに体格は縮んでいるようだ、大きくなった上着のおかげで胸は誤魔化せている。しかし、いつもの学校で変化する時のように男子用の学生服を着ているわけではないので、いつもより女に見えないこともない。思った以上に、男子の服を着ているという先入観が重要だったのかもしれない。
っていうか、どうしよ? このまま、女のまま用を足しちゃっていいのだろうか?
越えてはいけない一線のような気がする……
ドキドキ。
と、突然ポケットに入っていた携帯電話が鳴った。
慌てて通話ボタンを押した。
ごめん、ミッチィ! 今、駅着いたとこ。少し遅れる――
急ぎ話したところで気がついた。
先ほど用を終えた男性が、隣の手洗い台で、ギョッとしたようにこちらを眺めている。
『……』
電話口の向こう、返ってきたのは長い沈黙だった。
そして。
『ごめんなさい、間違えました!』
電話は切れた。
驚いていた男性も、何か慌てたようにそそくさとトイレから出て行った。
はぁ……
出て行った男性を見送って、今日何度目かのため息をついた。
鏡を見ると、やはりそこに映っているのは、物憂げな少女の横顔だった。
再び鳴り続ける携帯電話はスルーして、少し顔を赤くしてからトイレを出ると、目の前を通りかかった女の子が驚いて目を丸くする。
すると、何を思ったかその女の子は、ボクの腕を掴むと隣の女子トイレの中へと連れていく。
キャ~キャ~、ドッキドキの初体験! と、はしゃぐ余裕は全くなかった。
その女の子は、ボクを向き直って話す。
「キミ、女の子だよね?! なんで男性用トイレから……」
本人も少し動揺したように話す女、このお節介やきの女にはどこか見覚えがあった。
同じクラスのリッコじゃん。
「その格好、男装のつもり? 全然隠せてないよ」
苦笑しながら話す。
いや~自分本当はオトコですから、そう素直に話すことはできなかった。
いえ、寝ぼけて間違えちゃって……。無難に言い訳をしておく。
「そうなの? 普通寝ぼけてたって間違えるようなことはないと思うんだけど。これはかなりのドジッ子ね」
ドジッ子認定されました。
というか、リッコのやつ、ひょっとしてボクのことに気づいていない……?
ボクらの後に入ってきた女性は、一瞬こちらを見て驚いたような顔をするけど、すぐに何事もなかったように奥へと入っていく。普通に男の格好をしているはずのボクが、正しくそこにあるべき姿であると周囲にはそう認識されているらしい。いや、その、なんかもう、ホントすんません。心の中で謝罪する。
そして、次に入ってきたのは、ボクもよく見知った顔だった。
「リッコ、どうしたの? 慌てて駆け込んで……」
ボクに気づいた瞬間、その女の子は固まった。
チルだった。
はろ~。少し心に余裕の出てきたボクは、飛び切りの笑顔を向けてやる。
その後の彼女の行動は素早かった。グワシとボクの腕を掴むと、慌ててトイレから外へ出る。壁に押し付けられると、まるで恐喝されるように胸倉を掴まれた。
「な、ななな、な、なんでアンタがトイレにいんのよ!?」
かなり動揺しているらしい。
いえ、用を催すのは自然の摂理です。
「いや、そうじゃなくて、なんで女子トイレのいるのかって!?」
や~ん、ワタシ女の子ですよ? とぼけて言ってみる。
ガシッ!
胸を掴まれた。い、痛い痛い! そ、そんないくら自分には掴むほどないからって……ぎゃー、いたいいたい!!
素直にリッコに連れ込まれたことを説明すると、ようやく開放された。よ、予想外に痛かった、これは男のゴールデンボールを握られるのとどっちが痛いのだろうか。
「んなこと知るか!」
ちなみに経験者としては、どっちかっていうと、やっぱり後者の方が。
「誰も聞いてないから」
いつものような会話をしていると、遅れてトイレから出てきたリッコが怪訝そうな顔でこちらを見ていた。
「ねぇ、キミって、もしかして……」
ギクリ! ば、バレた!?
思わずチルの背中に隠れる。チルも庇うように二人の間に入るが、お構いなしとリッコは顔を覗き込んでくる。
「ひょっとして、学校で噂のプリンちゃん?!」
両手を握られた。
そりゃあ、この声とチルとの漫才みたいな会話を聞けば、そういう結論になってもおかしくない。
「あれ? でも、なんかどっかで見たことある顔のような……。キミ、同じ学校に兄弟とかっている?」
い、いませんいません、兄弟なんていませんよ、いえ兄弟ならプリン星で王子やってます、はい。慌てて答えて、再びチルの影に隠れた。
「ふ~ん、なんかおもしろい子だね」
あぅ、また変な設定が……
「それよりさ、プリンちゃんは今ヒマなの?」
あぅあぅ、素でプリンちゃんって呼ばないでください。本気で恥ずかしくなってきた。
「今日はチルと一緒に買い物に来てたんだけど。アタシ達と一緒に、お店見てまわらない?」
リッコの突然の発案に、ちらりとチルの様子を伺った。もう好きにしてと、諦めた表情で彼女は頷いた。
いきなりの展開に少し驚いたが、これはチャンスでもある。
一人では入りにくい店にも行ける。滅多にない機会なので、利用できるものは利用する。
ウィッグを買った。
どうせ変わるなら、完璧に変身すべきだ。ボリュームの増した髪をツインテに結わい付けて「いや~ん可愛い!」と上から目線でリッコに頭撫でられるのもこの際目をつぶる。男の時でもリッコやチルには身長で負けているので、これは仕方ない仕方ない……
服を買った。
安いスカートを一枚。Tシャツやズボンなどであれば男性用女性用に差はほとんどない。今着ているズボンにシャツも、男の子っぽいという格好であって、女の子が着ていても決しておかしくはない。どうせ変身するなら、完璧に変装すべきだ。重要なのは、たとえ知り合いに出くわしたとしてもボク=ワタシと気づかれないこと。女の子の象徴であるスカートをはくことによって、女であることを印象付けることができる。チルに白い目で見られながらも、いかにも女の子らしい可愛いスカートを購入。
……ごめんなさい、ただなりきってみたかっただけです。
「そんなに気に入ったのなら、着替えていく?」
リッコにそう言われたが、このままでは着れない理由があった。
今日の買い物の本命、先の二つは別に買わなくてもいいが、次のモノはどうしても購入しておく必要があった。そもそも普通の服くらいなら一人でも買える。女になっても、心まで女になりきれない自分としては、気心知れる誰かに一緒に行ってもらうしかなかった。うんざりしたような表情を見せるチルに、その必要性と重要性を説き、決して色目は使わないと強調してようやく許しを得た。
いざ行くは禁断の地、男が踏み入れることは叶わない秘密の花園、夢にまで見た幻想の楽園。
色とりどりの下着が並ぶ、ランジェリーショップへと入った。
入って早々に、ボクは店員さんに声をかける。
すみませ~ん、さらしくださー――
「あるかそんなもん!」
チルにつっこまれる。
いや、とりあえずさらし巻いて胸を隠すってのが、お約束かなと。
当然、ただの下着屋にさらしなんてあるはずもなく、普通に上下ワンセットの購入が目的です。下はともかく、上はブラがないとTシャツ姿になれないことがわかりましたから。擦れるし揺れるし、透けそうだし。もう二度と体育の授業中に変身しませんように。
これを身につけた時、男として大切な何かを失ってしまいそうです。もうそんなものは、すでに失くしているかもしれないというのはきっと気のせいです。というか、所持しているのがバレた時点でその後の人生を失いそうです……
「あれ? ヒメちゃん、ひょっとして今ノーブラ?」
はい、訳あってサイズ合うのを持ってないんですよ。チルは貸してくれないし。
プリンちゃんはやめてと懇願したら、ヒメちゃんと呼ぶようになりましたよこの女。
「そりゃチルのは無理でしょ。どう見てもヒメちゃんの方がおっきいもん」
いやいや、リッコさんほど大きくはないですよ。
「それに、チルみたいにみみっちいサイズじゃ、小中学生のつけるような地味なのしかないって」
でもこんなに可愛いのだってありますよ。ただチルが、胸のふくらみもデザインも見た目も性格も地味ってだけで。
「だよねー。どうせブラつけるんなら、もっとこう寄せて上げるブラを――」
二人揃って、寄せるものも上げるものもない女にブッ飛ばされました。
サイズだけ測ってもらい、無難なデザインのものをワンセット購入。「ヒメちゃんヒメちゃん、絶対これ似合うって!」とクマパンを持って騒ぐリッコはとりあえずスルー。チルに至っては先ほどからため息ばかりついてます。コレ似合う? と、服の上からブラをあててチルを見つめると、顔を赤らめてそっぽ向かれました。
せっかく購入したので、下着と服も着替えます。
や、やばい、スカート短すぎた! スースーする~! ブ、ブラがぁ、胸がムズムズするぅ! 軽くパニックを起こしながら、どうにか気持ちを落ち着かせます。スカート姿を二人の前に披露すると、ボク以上にリッコが騒ぎやがりました。チルは開いた口が塞がらないといった感じ。
「ねぇねぇヒメちゃん、次はどこに行く?」
どうやらリッコに相当気に入られたようです。
いやいや、そろそろ活動限界時間が近づいていますので、おいとまさせていただこうかと。
「待って待って、Tel番教えてよ。あ、一緒にプリクラ撮ろうよ」
携帯番号はまじカンベンしてください。まぁ、プリクラくらいなら。
三人で歩いていると、すれ違った男性に声をかけられた。
「あ。お前ら」
三人で振り返ると、そこには見知った顔の男、ミッチィがいた。
「あれ、どうしたの? 今日は一人?」
リッコが話しかける。
ボクは思わず、またチルの後ろに隠れてしまった。なんでこんなところで会うんだ?!
「いや……約束があったんだけど、ぶっちされた」
……はい、そうですね、元々こっちと約束してたんでした。そういえば、途中から携帯は諦めたように鳴り止んでました。
そして、ミッチィの視線はこちらへと向く。少しだけ緊張感が走り、背中に嫌な汗が流れるのを感じた。値踏みするようにボクを見つめると、怪訝そうに眉をひそめて口を開く。
「それで、その子は……?」
――To be continued...