第三話 -ミッチィの日常-
【登場人物紹介】
・ボク:本編の主人公。エロくて、ネガティブで、下品で、卑屈で、姑息で、面白ければなんでも良いと思っている。最近、人には言えない悩みがあるらしい。
・チル:主人公の右隣の席の友人。アシスタント兼ツッコミ担当。
・ミッチィ:主人公の後ろの席の友人。
・リッコ:主人公の斜め後ろの席の友人。
・プリンちゃん:遥か彼方のプリン星からやってきたプリンセス。アニメ声。チルより胸が大きい。
最近、ふと疑問に思うことがある。
前の席のコイツの様子がおかしい。
いや、頭がおかしいというのはもはや自他共に認める周知の事実で、ヤツの遺伝子レベルで組み込まれた変えようのない不変の体質であり、そこには異論を挿む余地もなく議論することさえ馬鹿馬鹿しいほどのはっきりとした真理なのだが、それさえも鼻で笑い飛ばせるような愉快な事態が生じていた。
ヤツの行動は時々おかしくなる。体調不振を理由に、何かを隠すように、ヤツは姿を消す。体調が思わしくないというのはどうやら本当のことらしいが、時間場所状況に一切関係なく挙動不審になるのはどうか勘弁願いたい、オレまで同類に見られてしまうではないか。頭が変とか、行動原理が理解不能とか、それらを含めて、最近のヤツの様子は特におかしい。
「恋でもしたの?」
そう宣ったのは友人のリッコ。聞いた瞬間、オレの脇腹横隔膜の筋肉が痙攣を起こして引きつった。もしヤツが恋でもしようものなら、オレは逆立ちをして校内を一周したあげく下校途中のチルが毎日可愛いがっているタバコ屋のポンゴ(←ダルメシアン、オス3歳)に求婚し庭付きの白い家で101匹の子供達と明るく幸せな家庭を築けるであろう。笑えない冗談だ。
アイツがおかしいのは何も様子だけではない。今も机に突っ伏して眠っている風だが、その姿は体調不良でぐったりと倒れている生徒の後ろ姿とさして変わらないように思う。具合が悪くて眠って誤魔化したいんだけど眠れない、いつも授業中眠りたくないのに眠ってしまうのに、眠りたい時に眠れないとはなんたるジレンマこの苦痛をどうしてくれようかウズウズと、居心地悪そうに腕枕にのせている中身が詰まってなくていかにも軽そうな頭のポジションを調整している。
なんだ、いつもと変わんねーじゃねぇか。授業の放棄具合も常時と違いは見受けられなかった。
それでも、オレの直感は何らかの違和感を伝えてきている。
それに初めて気づいた時、オレはオレ自身のことが信じられなかった。これまでの長いとも言い難いオレの人生経験の中で培われてきたアイデンティティの全てが否定される思いだった。
あれ? コイツって、時々なんか可愛くね?
これを絶望と言わずしてなんと言うべきか。
我が目を疑った。感覚を、直観を、理性と感情の全てを否定した。
そして、そう感じる時に限って、コイツは挙動不審となる。
全ての事象に対して行動とそれに伴う結果がついてくるとは思えない、だがしかし、無関係とは考え難い。
コイツは絶対に何かを隠している。
しかし、そう感じることこそが、オレの異常なのだろうか。
……あ、漫画が終わった。
漫画を読みながら柄にもなく哲学的な思考が働いてしまうのは、読んでいる漫画の影響の強いところだろう。思考:漫画:授業=5:4:1、柄にもなく数学的な思考が働いてしまうのは、受けている授業の影響が(以下略)。
さて、次の巻は……
と、自分の机の中を探った後、自分の一つ前の机の中に見つけた。
おい、次巻を貸してくれ、と前席の椅子を軽く蹴飛ばした。
前の小柄な影はモゾモゾと「うっぜーなこのクソチンカスが。そんなにたまってるなら勝手にぬきやがれ!」(←脳内変換)とウザそうに机の中から手探りで本を探しあて後ろに手渡してきた。
受け取った本の表紙を見て頷く。うむ、エロスとは哲学的衝動を意味するものである。授業中に発射することはないが。
……
まただ、また違和感がある。ここ数日、何度も感じたことのある、本を渡す時にチラリとこちらを振り返った横顔、後ろ姿の僅かな違い。
気にはなるものの、別にオレには男の後ろ姿を眺めて喜ぶ趣味はない。女の子の後ろ姿、髪を一つにまとめアップにした時に覗く項の生え際などは舐めまわすように眺めたい、むしろ舐めまわしたい。惰性で、まるで女みたいに小柄な後ろ姿を眺めてから、再び本へと視線を戻した。
……別の巻じゃねーか。
たとえエロスを追及する本であり、ストーリー性のかけらもないような本ではあるが、順を追って読んでいきたいと思うのは誇り高き日本男児A型として当然の思考回路の帰結である。
おい、これじゃねぇよ、別の巻をよこせ。
本の角で、前席男の脇腹を小突いた。
――「ひゃぁんっ!」
……
正直、かなりビビった。
周囲の空気が固まったのは、決して気のせいではない。
……おいこら! なんだその女みたいな悲鳴は!?
黒板に近い席の学生達、オレより前列に座り正しく授業に集中していた連中はほとんど気づいていないだろう。遠い席の学生達も正確には事態を理解してはいなかったように思う、チラッと視線を送っただけで何事もなかったようにまた黒板へ意識を傾ける。
すぐ近くに座る学生達は、瞬間、完全に思考が停止していた。一部の学生はチルか誰かの声と勘違いしたようだったが、そのチル自身も隣の席を穴が開くように見つめていた。
悲鳴をあげたその本人は、かなり恥ずかしくなったようで誤魔化すように顔を腕で隠してまた睡眠体勢へと入った。ここで下手に言い訳を口にしなかったのは、ある意味正解だっただろう。
コイツ今どっから声出した?!
男が咄嗟に出せる声ではなかった。
しばらくして、オレの動悸もようやっと治まった頃、寝たふりを決め込んでいたヤツが頭を上げて、チラリとこちらを涙目で睨みつけてきた。
オレの鼓動は再び跳ね上がった。
――「ばかぁ! そんな敏感なトコロつつかないでよお兄ちゃん!」(←脳内変換)
小生意気な瞳が、そう語っていた。
その瞬間、オレは全てを悟った。
ここ数日の違和感。コイツの様子がおかしかった理由。挙動不審に見えた訳。その全てが一つに繋がった。
オレは愕然とした。こんなことが存在していいものか、自身の全ての人生と価値観、そして人類史の全てを疑う。今の今まで、何も気づいてこなかった自分自身の直感を疑う。これは全生命に対する冒とくだ、そんな気さえした。
挙動不審だったのは、コイツではない、オレの方だったのだ。
オレは妹属性だったのだ!
その衝撃の事実を突きつけた張本人は「ほれほれ、コレだろ、コレがほしかったんだろ、このぶっとくてあっついのが!」というふうに、本を俺に手渡す。オレは直視できなかった。ふいっと視線を横に逸らす。
その様子がなお気に入らなかったようで、ヤツはプリプリと頬を膨らませて前に向き直った。
なんてっこった。茫然としながら、オレは初めて知った衝撃の事実を身に噛み締める。
……いやいや、待て待て!
コイツに妹を感じた、その事実こそが最も衝撃的なのではないだろうか。冷静な自分が語りかける。理性が警告を発している。
そして、オレの視界からも、一つの警告があった。角膜に連結された視神経は、脊椎を通って脳髄へ達し、直観としての反射から直感の危険を知らせていた。
怒ったコイツは、今、いったい何をしている?
机の下で何かをゴソゴソとしていた。
次の瞬間、オレは耳を疑った。聴覚は信用できなかったが、やはりオレの感覚は正確だった、もう少しだけ己のシックスセンスを信じてみたくなった。
――ぴぴぴ! ミッチィ、私からの電話だよ! 早く出て!
可愛らしいアニメ声で、オレのケイタイが鳴いた。
教室全体が固まった。
気まずい空気を通り越して、視線が痛い。
あんのバカやろう! なんつー爆弾を投下しやがったんだっ!?
そのままケイタイを窓から投げ飛ばしたくなった。
わざわざオレを名指ししているあたりが、なんとも痛かった。普段全く使わないテレビ電話の着信に設定してあるあたり、かなり計画的で悪質だった。
プルプルと震えているのは、羞恥ではなく怒りと絶望からだったと思う。
当の爆弾を投下した本人は、至って冷静にニヤリと笑って、小憎たらしい視線を送ってくる。
オレって今、叫んじゃってもいいよな?
止めるものは、もはや何もない。
オレの内に目覚めた妹属性は、わずか1分足らずで消失した。
ところで、あの声はいったい誰のものだったんだ?