第一話 -ボクの日常-
それを最初に感じたのは、とある日の午後の授業中のことだった。
五月晴れのうららかな日差しの中、先生の宇宙語を子守唄に誰もが眠気に誘われる、そんないつもの風景の中。当然、ボクのノートへと写される文字は宇宙語からミミズ語へと変換され、その不可思議な魔方陣からはスイマという名の悪魔が召喚され続けていた。
その悪魔の名が、スイマからメマイへと変わっていたのはいつからだったのだろうか。
……あれ?
先生の有難い説法が日本語に聞こえないのは元からだったが、前の席の女の子のポニーテールが揺れているのは、眠気のせいでも風のせいでもなかった。
昼に、なんか変なモン、食ったっけ……?
校門前の定食屋で一杯五十円というどこぞのインスタントラーメンも吃驚の激安ラーメンに甘い練乳抹茶ミルクと、思い出しただけで胸焼けがしてくるランチセットを食べたということ以外は、至っていつも通りの昼食だった。その甘い甘い練乳抹茶ミルクを買ってきやがった友人ミッチィに誘われるがままに参加した食後の三十分間耐久リアル鬼ごっこは、軽い吐き気とともに、無断で学外へ出たことによる反省文というオマケがついたこと以外は、至っていつも通りの平和なお昼休みだった。もちろん、鬼は生徒指導の非常にリアルな鬼。
軽い運動をこなした後だったので、午後一番の授業はぐっすりと睡魔と戯れるはずだった。
吐き気ではなく、腹痛でもなく、何故だか脂汗のようなものが背筋を流れる。
突然、外からの衝撃によって、身体がビクリと揺れた。後席のミッチィに椅子の足を蹴られるとともに、「テメー、何フラフラ揺れてんだ、集中(←睡眠に)できねーじゃねぇか、テメーはコケシ(←電動)かごらぁ」という脳内メッセージが届けられたが、それはもちろんスルー。ボクの身体と視界は、風に揺れるポニーテールのごとくユラユラと揺れ続けた。
日差しはそれほど強くないのに、春のそよ風は心地よいのに、身体が芯から熱くなっていた。
まるで、身が内から作り変えられていくように。
気がつくと、ボクは両肘を机について、黒板ではなくノートの一点を定まらない視線で呆然と眺めていた。
机の上には、横からペンが転がってきた。隣の席の友人チルが投げてくれたらしい。先ほどまでボクの右手に収まっていたペンだった。視線を隣へ投げかけると、チルが心配そうな顔でこちらの様子を伺っていた。
「……大丈夫?」
普段はリアル鬼とタメを張れるほどのリアルナマハゲのチルが、人並みに心配している。むしろチルの方が心配です。何か変なものでも食べたんですか。
「バカ言ってんじゃない!」
消しゴムを投げられました。
確かに変なものを食べたのは自分の方だろう。賞味期限は大丈夫かと疑うような激マズラーメンだけでなく、その品質保証と舌を疑うようなチルの手作りお菓子を休み時間につまみ食いしたがために、激甘練乳抹茶ミルクを触媒にして、ボクの胃という試験管の中で化学反応を加速させ、出来上がった劇薬がこのような体調不良をもたらしたのだろう。
「勝手に食べたのはアンタでしょ!」
いやいや、お菓子から漂う、まるで食虫植物の甘い香りを思わせる誘うような危険な薫りがミツバチのようなボクの鼻を刺激し、まるでアリ地獄に引き込まれるがごとく――
「な、なぁ」
チルの殺気と、先生からのキミ達もう少しだけ授業に集中してくれないかなぁという控えめな視線を無視して、後ろからミッチィが割り込んできた。
「オマエ、なんか、変じゃないか?」
何を言う。この気品溢れる姿と凛々しい顔つき、仏を思わせる慈愛に満ちたこの――
「いや、オマエの頭がおかしいのは元からなんだが。そうじゃなくて、声とかが……」
言われてから気がついた。ボクの声は、まるでテンパった時のように裏返っている。心は非常に落ち着いているのだけど。
いつの間にか、眩暈も汗も引いていた。
しかし、どこか違和感がある。
「そういえば、顔もなんかいつもと違うような……」
ミッチィだけでなく、チルまでがそんなことを言う。
顔が違う。いや、ボクの違和感はそんな生易しいものではなかった。
芯から来るような熱が引いて、全身の指先の皮膚の感覚までを敏感に感じ取って、ボクの身体に起こった異常はそんな生易しい症状だけではないことを体感していた。
まず第一に、ボクの着ている制服がおかしい。いや、服がおかしいのではなく、どこも変わりないいつもの地味な学校指定の学ランなのだが、サイズがおかしい気がする。ボクの制服ってこんなにブカブカだっただろうか。
そして、次に股間がおかしい。妙に涼しい。いや、ボクの股間のブツが寂しいほど小……なのではなくて、サラリーマンにもおススメ蒸れないスッキリパンツを穿いているのでもなくて、何かが足りない気がする。
最後に、どことなく胸を圧迫する何かを感じていた。胸の奥からジンジンするような、意識するとまるで恥らう乙女のようにトクトクと鼓動を奏でる心臓へと繋がる何かを感じる。
学ランの上から、見た目は違いのない黒い服の上から控えめに膨らんだそれへと右手を伸ばす。
……はふぅん!
自分の思わずもれた声に驚きましたよ。
慌てて、もらした声を誤魔化すように、手を挙げて先生に自己申告する。
「な、何ですか……」
先生、気分が悪いので、保健室へ行ってきます。
友人達が唖然とする中、ボクは教室を飛び出した。
保健室に行くと言って素直に行くバカがいったいどこにいるのだろう。
サボりのお約束である屋上へは向かわずに、とりあえずトイレに駆け込んだ。
いや、待て。マジで待て。
これはいったいなんだ、ワケが分からない。
脳内変換された宇宙語の魔方陣によって召喚されたものは、本物の悪魔だったのだろうか。
駆け込んだ薄汚い男子トイレの鏡の前、映る自分の姿は女の子に見えた。
冗談でもなく嘘でもなく、夢でもなく、本当に女の姿だった。
遠目に見れば気づかないかもしれない。仲の良い友人ではなくて、たまに話す程度のクラスメートくらいなら誤魔化せるかもしれない。毎日見ている自分の目は誤魔化せない。夢とも思えない、悲しいけどこれ現実なのよねって感じにもうマジで笑えない。
ボクは女の子だった。
チビなところも、小生意気な目つきも変わらない。なのに、ボクは女になっていた。どこがどう変わったとは見えないが、口元が、頬が、パッチリとした瞳が、女の子していた。小汚い男子便所には似合わない、ブカブカの真っ黒な学ランが似つかわしくない女の子がそこにはいた。顔を真っ青にして、この世の終わりにきたような、彼氏にふられてしまってもう生きていけない産まれてきてスミマセンみたいな顔をして、鏡の前のボクを見つめていた。ボクの口とは裏腹に、内心では相当に動揺しているらしい。
鏡の向こうに悪魔でも見えたのなら、何かを納得してしまいそうだった。
何の変哲もない、その静かな鏡面世界が、かえって不気味で身震いしそうだった。
恐る恐る両手を胸に近づけた。妙にリアルな胸を締め付ける圧迫感に、ボクの心の臓はバクバクと早鐘の警告を鳴らす。手には控えめな弾力と、胸には生々しくかつ感じたこともない感覚に気が遠くなりそうだった。
上着を脱ぐことまではできなかった。
学ランまで脱いで調べる、観察する、云々ではなくそこまでの発想を思いつく前に、頭から離れない大きな一つの懸案事項があった。確かめずにはいられない。
固まっていた両手、そこへ伸ばすことは本能が拒絶しているがそんな情けないヘタレなボクの両手に喝を入れ、胸から下へと移動させていく。
ベルトに左手をかけると、右手を一気にズボンの中へと押し込んだ。
…………キャ〜!!
放心していたのは一瞬だけだったと思う。
目の前が真っ白になった。
あぁボクってこんなに高い声が出せたんだ、と人事のように考える第三者的な自分がいた。そして、無意識という名の第四者的な自分はいち早く我へと返り、手でボクの口を慌てて塞いでいた。
少し時間が立って、冷静な自分が警告を発する。
ヤバイ、今の悲鳴はマジでヤバイ。
廊下に聞こえたのだろうか、トイレのドアの向こうからは、ザワザワとした生徒達の声が少しだけ聞こえてくる。
ボクは迷うことなくトイレの端の個室に飛び込み、窓枠に足をかけた。ここが二階だなんて気にしない、うん、三階じゃなくてホントに良かったです。
っていうか、女の子の声ってよく響くんだなぁ。
そんなことを考えながら、思考回路はすでに現実逃避を起こしながら、ボクは窓から飛び出した。
本日はこれにて早退させていただきます。
と、こんな感じに体調変化が起こり始めて、はや数日。
人間とは非常に高い順応性を持ってこの地球上の王者になったんだなぁと奇跡のような生命の進化に感謝しながら、ボクは何事もなく生活を続けていた。
あの最初の日の女体化は、走って慌てて自宅に駆け込んで、ムラムラとする心と期待を打ち砕くかのように、服を脱ごうと手をかけた時、気づいた時には男の姿に戻っていた。
いったいいつの間に元に戻っていたのか、全力で走っていたために気づきもしなかった。このやり場のないモヤモヤ感はいったいどこにぶちまけてやろうか。
それと同時に、ちょっぴり安堵を感じながら。
その日以来、ボクの身体は度々変化を起こしていた。
授業中であろうが、電車の中であろうが。家族で夕食を取っている時に変わった時は本気でどうなることかと思った。
病院へは行けない。行く気がしない。何より、行かなくても誤魔化せているという悲しい現実がある。
変身した身体は、何もしなくとも数分で元に戻る。
不規則な変身ルールの中で、これだけが唯一の救いであり、確定的なただ一つの法則だった。
なんか涙が出てきそう、神様ボク何か悪いことしましたか、悪魔様ゴメンナサイもう寝ぼけて召喚なんかしませんから。
「ついに頭がわいてきたの?」
これはヒドイ。ボクが人生について本気で悩んでいるというのに。ブツブツと呟くボクに、呆れた顔でチルは話す。
「アンタが悪魔を召喚したとか言い出すからでしょ」
おやしまった、いつの間にか思いのタケがのど元過ぎて外にまで飛び出てしまっていたようだ。まぁ、そんな些細なこと気にするほど器の小さいボクじゃありませんが。
そう、一番困るのがこれ。友人と会話の最中に変身が起こってしまうこと。
授業中なら、黙っていれば誤魔化せるが、遠目に姿は騙せても声までは隠しようがない。そんな時に変身してしまったら……。
それはもう、もちろん逃げます。全力で逃走します。おかげで、最近、なんか変なキャラが定着しつつあります、涙。
お願いです、ボクはそんな電波な子じゃないですよ。
「何言ってるの、アンタが変なのは元からじゃない」
ヒドイ言われよう。
「まぁ、そのキャラのおかげで、この仕事はなりたってるわけだけど」
だから、ボクはそんな子じゃ――
「ほれ、さっさと始める!」
あの、今日はひいひいおじいちゃんが危篤なので、もう帰っていいですか?
無言で殴られました。
何かいや〜なフラグが立ってしまっているので本気で逃げたいのですが、そういうわけにもいかないので、現状を詳しく説明ならば、今ボクとチルがいるのは校内一防音設備の整った密室に二人きりでいるわけです。このままいや〜んであは〜んな展開に進めば万々歳、チェリーくんさようならようこそ大人世界へな道へ進むわけですが、そんな吐き気のするようなフラグは立っていません、冗談です。スイッチ一つでそのいや〜んであは〜んな会話が校内全体へと流れる部屋に、ボク達はいます。何故いや〜んであ(略)部屋にいるのかというと、ボク達が昼休みの仕事を行うためです。ここは、放送室という名の愛の巣、ごめんなさい自分で言っていて気分が悪くなってきました。
「アンタ、なに独り言で顔色悪くしてるの?」
やめて、そんな汚れた野良犬を見るような目で見ないでください。自己嫌悪中。
つまり我々は週に一度のお昼の放送という名の責務、兼暇つぶしを行うわけで。
「そりゃあ、アンタにとっては暇つぶしだろうけど」
なんかバカにされてる気がします。
ほらほら、なんか嫌なフラグがビンビンに立ってませんか。朝立ちも目じゃないくらい、ギンギンにテント張った昼立ちが――
「下品なこと言うな!」
スリッパ投げられました。
このお昼の放送では、当たり障りもなく音楽をかけたり、リクエストに答えて手紙を紹介したりする番組だったはずなのですが、いつの間にか我々の漫才を楽しむ放送になっているようで、意外に人気があったりします。おかしいですね、ボクはいつも通り話しているだけなのに。
「いいから、さっさと放送始める!」
はいはい、どうなっても知らないよ。皮肉を込めて言い返すと、ボクは放送のスイッチを入れた。