第3話:凍土の記憶
――王弟視点――
風は、音を奪う。
白い大地の上では、怒号も、悲鳴も、やがて吸い込まれていく。
残るのは、凍りつく息と、沈黙だけだ。
あの日もそうだった。
まだ若かった私は、王の名のもとに北へと軍を率いていた。
北方戦争――それは地図の上では小さな争いに過ぎなかった。だが、凍土に足を踏み入れた瞬間、すべては“生き残るか否か”の問題へと変わる。
吹雪は三日三晩続いた。
焚火は消え、食糧は凍り、馬は立ったまま倒れた。
兵は鎧の内側で静かに凍っていく。
三千。
数として報告書に記されたその数字を、私は忘れたことがない。
三千の命が、戦わずして凍死した。
「殿下、撤退を」
副官のアルトゥスが、白くなった睫毛を震わせながら進言した。
彼は私より五つ年上で、戦場の現実を誰よりも知る男だった。
だが、私は退かなかった。
「援軍が来る。王都は約束した」
王都の判断は“慎重”だった。
兵站を整え、天候を見極め、機を待つ――それが最善とされた。
だが凍土は待たない。
援軍は来なかった。
四日目の夜、アルトゥスは私の天幕を訪れた。
「殿下」
彼の声は、かすれていた。
「兵が持ちません。せめて若い者だけでも南へ戻すべきです」
「それでは戦線が崩れる」
「崩れても、生きていれば立て直せます」
私は黙った。
その沈黙を、彼はどう受け取ったのだろう。
翌朝、前線の崖で敵軍の斥候を発見した。
少数だった。撃退は容易いはずだった。
だが、足場は凍りつき、視界は悪く、弓弦は凍る。
混戦の中、アルトゥスが敵の槍を受けた。
雪の上に赤が広がる。
私は駆け寄った。
「……殿下」
彼は笑っていた。
氷に閉ざされた世界で、不思議なほど穏やかな顔だった。
「甘さは……兵を殺します」
その言葉を、彼は責めるように言ったのではない。
ただ、事実として。
「王都は……殿下の優しさを好むでしょう。ですが……」
血が凍り、言葉が途切れる。
「戦場は、好みません」
彼の手が、力なく落ちた。
その日、さらに千を失った。
帰還したとき、王都は私を“勇敢”と称えた。
北の侵攻を防いだ、と。
だが私の耳に残っていたのは、称賛ではない。
三千の沈黙と、アルトゥスの最期の言葉だった。
――甘さは兵を殺す。
王は愛される存在であれと教えられてきた。
だが、愛だけで凍土は越えられない。
恐れられる決断。
非情な選択。
時に民に嫌われようとも、国を生かす判断。
それがなければ、優しさはただの無力だ。
雪原に膝をついたあの夜、私は誓った。
二度と、迷わぬと。
王都の温もりに甘えぬと。
たとえ“冷酷”と呼ばれようとも。
現在。
評議会の灯りが揺れる中、私は静かに目を閉じた。
王子は若い。
理想を語る瞳は澄んでいる。
かつての私のように。
だからこそ、恐ろしい。
優しさに寄り添う王。
だが戦が来たとき、その優しさが何を奪うのかを、私は知っている。
三千の凍土が、今も胸に積もっている。
「……甘さは兵を殺す」
誰にも聞こえぬ声で、私は呟いた。
そして目を開ける。
王位を望むのは、権力のためではない。
もう二度と、あの凍土を繰り返さぬために。
それでも人は、私を野心家と呼ぶだろう。
構わぬ。
雪は音を奪う。
だが記憶までは奪えない。
凍土の記憶は、今も私の中で燃えている。




