第三章 第1話:夜の違和感
それは、あまりに些細な異変だった。
王城の夕餉。
長卓に並ぶ料理は、いつもと変わらぬ温度と香りを保っている。銀器は磨かれ、給仕の足音も静かだった。
毒見係の青年が、王子の前に置かれるはずのスープを一口含む。
そして――ほんのわずかに、眉をひそめた。
「……?」
次の瞬間、彼は口元を押さえ、膝をついた。
銀の匙が石床に落ち、乾いた音を立てる。
場が凍りつく。
「医官を!」
近衛が叫ぶ。
王子は立ち上がりかけるが、リリアナが袖を掴んだ。
「動かないで」
低く、しかし冷静な声。
青年は意識を失ってはいない。だが呼吸が荒く、額には冷汗が滲んでいる。
医官が駆け込み、迅速に処置を施す。吐瀉を促し、解毒薬を投与。
「命に別状はありません」
やがて告げられたその言葉に、室内はわずかに緩む。
「食材の保存状態が悪かった可能性があります」
料理長が蒼白な顔で頭を下げる。
王子は困惑したまま頷いた。
「……大事にならなくてよかった」
だが。
その場で唯一、視線を細めていたのがレディアナだった。
彼女は何も言わず、床に落ちた匙を見つめる。
“保存状態”。
王城の厨房で、そのような初歩的な過失が起こるだろうか。
しかも、毒見係だけに症状が出た。
夕餉は中止となり、料理はすべて下げられる。
夜半。
王城の一室に、灯りがともる。
レディアナは医官の報告書を静かに読み上げた。
「強い毒性は検出されず。ただし、微量の神経刺激物の反応あり」
リリアナが眉を上げる。
「偶然で混入する類いのもの?」
「通常の厨房経路では考えにくい」
王子は椅子に深く腰を下ろした。
「……つまり?」
レディアナは一度、言葉を選ぶ。
「意図的である可能性が高い」
静寂が落ちる。
王城内で、意図的な混入。
それは、単なる嫌がらせでは済まない。
「でも、僕は食べてない」
王子が言う。
「ええ」
レディアナは頷く。
「今回は“試し”でしょう」
「試し?」
「毒見係にのみ反応が出る程度。警戒体制、医療反応、混乱度合い……それらを測った」
リリアナの瞳が鋭くなる。
「誰かが、城の動きを観察してる」
レディアナは机上の厨房配置図を広げる。
「食材の搬入経路、調理担当、配膳動線……接触可能者は限定されます」
「外部の侵入は?」
「痕跡なし。警備記録も異常なし」
王子の喉が鳴る。
「じゃあ……」
レディアナは顔を上げた。
その目に迷いはない。
「城の中にいる」
言葉は、静かだった。
だが重い。
リリアナが腕を組む。
「王弟派?」
「断定はできません。ただし、時期が一致しすぎています」
未遂に終わった政変。
地方での武装再編。
そして今夜の異変。
偶然が、重なりすぎている。
王子は拳を握る。
「また……内側から?」
前章で発覚した裏切り。
ようやく立て直しかけた信頼。
そこへ再び、疑念。
レディアナは静かに告げる。
「表立った捜査は行いません」
「どうして?」
「敵に悟られます。今は泳がせる」
リリアナが小さく笑う。
「やっと本気モード?」
「常に本気です」
だがその声は、どこか冷たい。
「厨房、医務室、近衛補佐、書記官。接触経路を洗います。記録は改竄される前に確保する」
「僕は?」
王子の問い。
レディアナは一瞬考え、答えた。
「通常通りに振る舞ってください」
「……平然と?」
「はい。相手に“効いていない”と思わせる」
王子はゆっくり頷く。
「わかった」
彼はもう、逃げないと言った。
その言葉は、こういう場面で試される。
夜更け。
王城の塔の上で、見張りが交代する。
石壁の陰で、ひとつの影が動いた。
ほんのわずか。
誰にも気づかれない角度で。
城内の灯りを、遠くから見つめる者がいる。
静かな夜。
だが王城の空気は、確かに変わっていた。
事故ではない。
それは、小さな針。
警告か、予告か。
レディアナは書簡を閉じ、窓の外を見た。
暗闘は、もう始まっている。
そして敵は――
壁の向こうではなく、内側にいる。




