夜の厨房(名場面)
裏厨房は、夜になると別の顔を見せる。
昼間は湯気と怒号と包丁の音で満ちている場所が、
今は冷たい石と、わずかな月明かりだけに支配されている。
戸口が、そっと開く。
まず入ってきたのはライルヒルトだった。
王子らしからぬ足取りで、忍び足。
周囲を見回し、誰もいないことを確かめる。
棚の上に置かれた布をめくる。
パン。
焼き立てではない。
少し冷え、表面は乾いている。
だが十分だ。
次に、別の扉がきしむ。
「……奇遇ですわね」
ユーフォミアが立っている。
髪はゆるくまとめられ、寝間着の上に薄いガウン。
完璧な悪役令嬢の装いではない。
さらに、小さな足音。
「……あの、私も、ちょっとだけ……」
リリエルが顔を出す。
三人、目が合う。
沈黙。
そして。
ユーフォミアが、静かに言う。
「……共犯ですわね」
ライルヒルトは、肩をすくめる。
「国家機密扱いだ」
リリエルが、ふっと笑う。
その笑いが、昼間よりも柔らかい。
パンを割る。
ぱさり、と乾いた音がする。
三つに分ける。
指先が触れそうで、触れない。
最初の一口。
静寂。
噛む音がやけに大きい。
冷たい。
少し硬い。
でも。
甘い。
小麦の甘さが、じわりと広がる。
肩の力が抜ける。
息が、深くなる。
まるで身体が「これだ」と言っているようだった。
しばらく誰も話さない。
ただ、かじる。
咀嚼する。
飲み込む。
その繰り返しが、妙に懐かしい。
やがて、ライルヒルトが小声で言う。
「太ってると、恋愛フラグ立ちにくいよな」
一瞬の静止。
それから、リリエルがくすっと笑う。
「階段で息切れする王子、ヒロイン争奪戦できませんからね」
「戦う前に座りますわね」
ユーフォミアが即座に続ける。
「私、ドレス入りませんから断罪壇上に上がれませんわ」
三人、吹き出す。
声を殺して、肩を震わせる。
厨房の暗がりに、湿った笑いがこぼれる。
本当に可笑しい。
絵面を想像すれば、完璧に滑稽だ。
だが笑いながら、全員わかっている。
太っていた頃。
王子は、誰にでも同じ温度で優しかった。
余裕がなかったからではない。
選ばなかったからだ。
ユーフォミアは、お菓子を分けていた。
甘さで場を丸め、棘を鈍らせていた。
リリエルは、“可愛い子”で止まっていた。
守られる存在ではなく、
脅威でもなく、
ただそこにいる少女。
脂肪は、緩衝材だった。
衝突を和らげる、余白。
物語が一直線に収束しないための、微かなノイズ。
ライルヒルトが、パンを見つめながら言う。
「……俺たち、太ってると主役になりにくいな」
笑いが、止まる。
ユーフォミアが、残りの欠片を指でなぞる。
「主役にならないということは、断罪もない」
静かに。
事実として。
リリエルが、小さな声で言う。
「でも、恋もないかもしれません」
その言葉が、空気を重くする。
月明かりが、三人を淡く照らす。
誰もすぐには答えない。
主役にならなければ、選ばれない。
選ばれなければ、傷つかない。
けれど、物語の中心に立つ震えもない。
ライルヒルトが、無理に笑う。
「いや、あるだろ。きっと」
言い切る。
けれど、その声には確信がない。
パンは、もうない。
指先に残った粉だけが、白く光る。
三人は知っている。
これは解決ではない。
ただの逃げだ。
物語から少し外れるための、甘い夜。
けれど今だけは。
その逃げが、どうしようもなく、あたたかかった。




