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悪役令嬢は太って断罪を回避する  作者: 南蛇井


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13/30

夜の厨房(名場面)

裏厨房は、夜になると別の顔を見せる。


昼間は湯気と怒号と包丁の音で満ちている場所が、

今は冷たい石と、わずかな月明かりだけに支配されている。


戸口が、そっと開く。


まず入ってきたのはライルヒルトだった。


王子らしからぬ足取りで、忍び足。

周囲を見回し、誰もいないことを確かめる。


棚の上に置かれた布をめくる。


パン。


焼き立てではない。

少し冷え、表面は乾いている。


だが十分だ。


次に、別の扉がきしむ。


「……奇遇ですわね」


ユーフォミアが立っている。


髪はゆるくまとめられ、寝間着の上に薄いガウン。

完璧な悪役令嬢の装いではない。


さらに、小さな足音。


「……あの、私も、ちょっとだけ……」


リリエルが顔を出す。


三人、目が合う。


沈黙。


そして。


ユーフォミアが、静かに言う。


「……共犯ですわね」


ライルヒルトは、肩をすくめる。


「国家機密扱いだ」


リリエルが、ふっと笑う。


その笑いが、昼間よりも柔らかい。


パンを割る。


ぱさり、と乾いた音がする。


三つに分ける。


指先が触れそうで、触れない。


最初の一口。


静寂。


噛む音がやけに大きい。


冷たい。

少し硬い。


でも。


甘い。


小麦の甘さが、じわりと広がる。


肩の力が抜ける。


息が、深くなる。


まるで身体が「これだ」と言っているようだった。


しばらく誰も話さない。


ただ、かじる。


咀嚼する。


飲み込む。


その繰り返しが、妙に懐かしい。


やがて、ライルヒルトが小声で言う。


「太ってると、恋愛フラグ立ちにくいよな」


一瞬の静止。


それから、リリエルがくすっと笑う。


「階段で息切れする王子、ヒロイン争奪戦できませんからね」


「戦う前に座りますわね」


ユーフォミアが即座に続ける。


「私、ドレス入りませんから断罪壇上に上がれませんわ」


三人、吹き出す。


声を殺して、肩を震わせる。


厨房の暗がりに、湿った笑いがこぼれる。


本当に可笑しい。


絵面を想像すれば、完璧に滑稽だ。


だが笑いながら、全員わかっている。


太っていた頃。


王子は、誰にでも同じ温度で優しかった。


余裕がなかったからではない。


選ばなかったからだ。


ユーフォミアは、お菓子を分けていた。


甘さで場を丸め、棘を鈍らせていた。


リリエルは、“可愛い子”で止まっていた。


守られる存在ではなく、

脅威でもなく、

ただそこにいる少女。


脂肪は、緩衝材だった。


衝突を和らげる、余白。


物語が一直線に収束しないための、微かなノイズ。


ライルヒルトが、パンを見つめながら言う。


「……俺たち、太ってると主役になりにくいな」


笑いが、止まる。


ユーフォミアが、残りの欠片を指でなぞる。


「主役にならないということは、断罪もない」


静かに。


事実として。


リリエルが、小さな声で言う。


「でも、恋もないかもしれません」


その言葉が、空気を重くする。


月明かりが、三人を淡く照らす。


誰もすぐには答えない。


主役にならなければ、選ばれない。


選ばれなければ、傷つかない。


けれど、物語の中心に立つ震えもない。


ライルヒルトが、無理に笑う。


「いや、あるだろ。きっと」


言い切る。


けれど、その声には確信がない。


パンは、もうない。


指先に残った粉だけが、白く光る。


三人は知っている。


これは解決ではない。


ただの逃げだ。


物語から少し外れるための、甘い夜。


けれど今だけは。


その逃げが、どうしようもなく、あたたかかった。

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