第一章 春の目覚め
早春の朝靄が庭園を優しく包み込んでいた。エリシェバ・ローゼンクロイツは、いつものように日の出とともに目を覚ました。八十二歳になる彼女は、半世紀以上もこの古い石造りの家で暮らしている。窓から差し込む柔らかな光に導かれるように、彼女はゆっくりとベッドから身を起こした。
「おはよう、今日もいい天気になりそうね」
誰もいない部屋で、エリシェバは小さく呟いた。寝室の窓辺には、昨年の秋に植えたスイートピーの新芽が顔を覗かせている。まだ花は咲いていないが、その生命力に満ちた緑の芽は、彼女の心を温かく癒してくれた。
朝食の準備を終えると、エリシェバは庭に出た。三月の空気はまだ冷たかったが、日差しには確かな春の温もりが感じられた。広大な庭には、早咲きのクロッカスやスノーフレークが、紫や白の可憐な花を咲かせている。
庭の奥には一基の十字架が立っている。夫のヨハネスが眠る場所だ。エリシェバは毎朝、この十字架の前で祈りを捧げることを日課としていた。
「おはよう、ヨハネス。今日も私の庭仕事を見守っていてね」
十字架に寄り添うように咲くムスカリの花々が、朝の風に揺れて彼女に応えているかのようだった。
その時、不思議なことが起こった。
「エリシェバさん、おはようございます」
か細いが、はっきりとした声が聞こえた。エリシェバは驚いて辺りを見回したが、そこには誰もいない。ただムスカリの花が風に揺れているだけだった。
「まあ……」
エリシェバは目を細めた。確かに誰かが話しかけてきたような……。しかし、それは気のせいだったのかもしれない。彼女は首を振り、いつものように庭の手入れを始めることにした。
春の庭には、やるべきことが山ほどある。冬の間に痛んだ花壇の手入れ、新しい野菜の種まき、雑草取り。エリシェバは一つ一つの作業を丁寧に、愛情を込めて行っていく。
「エリシェバさん、私たちの根元の土が少し固くなっているみたいです」
今度ははっきりと聞こえた。声の主は、花壇に咲くクロッカスたちだった。エリシェバは目を見開いた。
「あら、そうだったの? ごめんなさいね。すぐに耕してあげましょう」
自然に言葉が出た。不思議なことに、花たちと話せることが、さほど驚くべきことには思えなかった。むしろ、長年の友人とようやく言葉を交わせるようになった喜びのような感情が胸に広がっていた。
その日から、エリシェバの庭での時間は、さらに特別なものとなった。花々は彼女に語りかけ、彼女もまた花々に語りかける。時には昔話を聞かせ、時には今日の天気について話し合う。そして何より、ヨハネスとの思い出を共有した。
「ヨハネスさんは、本当に優しい方でしたね」
ある日、スイセンがそっと話しかけてきた。
「ええ、本当に……。あの人はね、毎朝私に花束を作ってくれたの。庭の花を一輪か二輪、その日一番きれいに咲いているものを選んで」
エリシェバの目に、懐かしさと温かな想いが浮かんだ。
「私たち、覚えていますよ。ヨハネスさんの手は、エリシェバさんと同じように優しかった」
春の日差しが、エリシェバと花々を優しく包み込んだ。庭の片隅では、新しく蒔いたホウレンソウの種が、土の中で目覚めようとしていた。




