第9話 五遁に通じる者は狗の如く走り、猿のごとく跳ぶ件
「むっ! この臭い?」
セイナッド城中で最初に異変を察知したのはドンであった。
風に乗って漂うかすかなきな臭さを感じ取ったのだ。
「わしは天守に上る。殿と若にお知らせせよ。走れ!」
「はっ! 直ちに」
いつどこの手勢が襲い来るやもしれぬ時節である。わずかな異変でも城の危機と考えて行動することを、城主マシュー・セイナッドは家中に徹底していた。
間違いなら訓練だと思えば良い。万一の時に動けなければ、後悔さえできないのだ。
「敵襲! 敵襲の疑いあり! 敵襲!」
小者は叫びながら走り出した。声を聞いたものはすぐさま防備の持ち場に走る。
何が起きたかは守りを固めてから確かめれば良い。
天守閣に上ったドンは、四方の窓を開け放った。外の空気が流れ込んで来るが、煙の臭いはない。
この高さまでまだ上ってきていないようだ。
周りの様子を見渡そうとした時、城門脇の物見やぐらから鐘の音が響き渡った。
「むっ、あれは火事を知らせる早鐘。やはり……火元は里か?」
目を細めてみると、里のあちこちから煙が上がっていた。
「煙の色が黒い……。また増えた。焼き討ちか!」
火元に目を凝らすと、駆け回る人影が切れ切れに見える。どうやらたいまつを掲げているようだ。
「おのれ、非道な! 敵の軍勢はどこだ?」
少人数で焼き討ちなどするわけがない。本体は里の外で待機しているはずであった。
ひひーん!
煙の臭いを恐れたのであろうか。里の向こうから馬のいななきが聞こえる。
「ぬう。南側の丘下に軍勢を置いたか。敵の様子がわからなければ打つ手が遅れる。斥候を出さねば」
言いつつ、ドンは城の四方を警戒したが目の届く範囲に敵勢はいなかった。
「おかしい。城攻めであればそれなりの軍勢で城を包囲してから里を焼くはず。これでは城ではなく、里が目的としか思えぬ」
「ドン、敵の様子はどうじゃ?」
セイナッド親子が梯子段を上って天守に姿を現した。
既に物見の鐘が鳴っている。マシューは敵襲を既成事実として受け止めていた。
「はっ。城の周囲に敵影がありませぬ。南の丘下に軍勢を伏せ、里を焼き討ったものと思われます」
「城を囲まず、いきなり里を焼いたと言うのだな?」
「野戦を誘っているのでしょう」
声を上げたのは窓に取りつき里の様子を見下ろしていたヨウキ・セイナッドであった。
「わざと道を開け、我らを誘っていると?」
「策士がいるのでしょう。城を囲めば、長期戦になる。我らの夜襲を嫌ったものかと」
「それにしてもいきなり里を焼くとは、性急な……」
城攻めを始めてからでも里を焼く作戦は決行できる。よほどセイナッド勢の奇襲攻撃を恐れているのか。
「……我らの戦い方をよく知る者が敵方におるやもしれません」
情報流通が乏しい時代のことである。直接渡り合った人間以外では、戦場での出来事など詳しく知る者は少なかった。
特に敗者は多くを語らないものである。
「かつての敵の生き残りか? それにしても無茶な……」
「この土地を通り道としか考えぬ輩でしょう。里を治めるつもりがあればこのような横道はできぬはず」
マシューの疑問にヨウキはよどみなく答えた。
「敵勢の様子が見えませぬ。斥候を出して探らせようと」
「それは順当だが……危ないな。敵は当然待ち構えているだろう」
ドンの進言にヨウキは眉を寄せた。
「足の速いものを選びます。ロクロウと……サイゾウではいかがでしょう?」
「どうじゃ、ヨウキ?」
マシューはヨウキの判断を求めた。彼ら「番衆」と呼ばれる小物たちはヨウキの手勢であった。ヨウキが大頭、ドンは小頭と呼ばれていた。
「あの二人なら……。しかし、今は昼間。隠形が効きにくい。俺が一緒に行こう」
「若、それは危のうございます。それならば、わたしが出ましょう」
「いや、武芸はともかく五遁の術では俺の方が上だ。生きて帰るためには、俺が行くべきだ」
ヨウキの言葉は掛け値のない真実であった。見栄や自慢ではなく、五遁の術の深奥をヨウキは誰よりも究めていた。
「うむ。お前に頼もう、ヨウキ」
「お任せを。急ぎますので、これにて」
言うが早いか、ヨウキは天守の窓から空中に飛び出した。
すうと重さがないようにゆっくりと瓦屋根に降り立ち、音もたてずに駆け下りて行く。
土遁、軽身の術。
呪文も唱えず練り上げた太極玉は頭頂で輝き第三の目を開く。呼び起こしたのは土行の因。体にかかる引力を五分の一に小さくし、疾走した。
人は言う。セイナッドに猿あり。隠形五遁の道を良くす。
容貌甚だ醜く、朱を帯びて赤し。狗の如く走り、猿の如く飛ぶ、と。
(土生金! 金遁、飯綱走り)
ばちっと足元に火花が散ったかと思うと、ヨウキは走ることを止めて甍屋根を滑り降りて行った。
瓦の表面と草履裏にそれぞれ渦電流を発生させ、反発しあう電磁気に乗って加速して行った。
たちまち、屋根の先端が眼前に迫る。
(木剋土! 木遁、ムササビの術)
気合も発せず、ヨウキは手足を大の字に広げて宙に身を投げ出した。引力を抑えたまま、風を操る。
背中を通る風を加速することで揚力を得て、鷹のように滑空して行く。
「セイナッドの猿が飛んで行く」
小屋根を超えて城門へと降りて行く姿を見て、マシューはつぶやいた。
「案ずるな、ドン。たとえ昼日中といえど、ヨウキの五遁、破れるものか」
「はっ。まことに見事な隠形にございます」
飯綱走りもムササビの術も、音を立てずに、隠れて行動するための移動法であった。
人が飛んでいるかもしれないと空を見上げる者はいない。
「ヨウキは怒っている」
「敵に対して、でございますか?」
マシュー・セイナッドは地面に降り立つヨウキを遠目に見て、その腕を組んだ。
「領地を奪い合うのは戦国のならい。襲われれば押し返すのみだ。だが、里を焼くのは戦ではない」
それは非戦闘員の生活を蹂躙する行為であった。
「猿神の祟り、おろそかに見るなよ」
低くつぶやいたマシューは、焼け出された里人を受け入れるための準備をドンに命じた。