第6話 セイナッドの猿、寄せ手の本陣を騒がせる件
「どうした? 何も見えんぞ」
「今、火をつけ直します!」
篝火の近くにいた足軽が手探りで近づき、燧石を打つ音が聞こえました。
手元が暗くて苦労しておりましたが、やがて何とか火が灯り、ぼんやりと明るさが戻ります。
「おお、ようやくついたか。他の篝火も急いでつけ直せ! 槍備えを乱すなよ」
火が消える不思議があったものの、敵兵の気配はありません。それでも油断なきよう、当番隊に声をかけておりました。すると……。
「ぐわあっ!」
「殿! ぬっ、貴様何奴っ! 曲者じゃ!」
「殿っ、殿っ! お気をしっかり!」
「あっ! 逃すな、囲め!」
陣幕で覆った主の寝所から飛び出したのは、真っ黒な影でございました。その顔のみが真っ赤に染まっておりました。まるでたった今人を食い殺し、血を啜って来たかのような……。
「あの顔? 猿か!」
正面から斬りかかろうとした守備兵を手も触れずに弾き飛ばし、猿は地を蹴って跳びました。その距離はおよそ十メートル。
囲んでいた兵はおろか、近づこうとしていたわしの頭まで越えて、猿は地に降り立ちました。そこで右手を天に向けると、手のひらから火の玉を撃ち上げたのです。
火の玉は真っ直ぐに立ち昇り、二十メートルの上空で轟音を立てて弾けました。
敵方への合図でした。
「うおーっ!」
陣地の外側から鬨の声が上がり、矢が射かけられてきました。槍備えの守備隊を狙ったものです。矢はまばらで、ほんの数名で放ったものと思われました。夜の闇を突いて飛んで来る矢は恐ろしく、守備隊は盾を掲げて矢が尽きるのを待つ構えになりました。
ようやく味方も落ち着き、こちらの弓兵が矢を射返し始めました。百人ほどで斉射する矢数は敵のものとは比べ物になりません。しかし、矢の行方は夜の闇に吸い込まれて、当たっているのかいないのか、まったく手ごたえがない。
こちらはこちらで火の玉を放った猿を追い始めたのですが、その身軽さは正に猿という名にふさわしく、数秒で見失ってしまいました。部隊を分けて捜索に当たらせつつ、わしは主のおわす本陣に戻りました。
戻ってみると、主は倒れ、首から血を流して死んでおります。鎧通しで喉笛を切られたものでしょう。刀を抜く暇もなかったようでした。
動顛した小姓が遺骸に取りすがって揺さぶっておりましたが、埒もなく。
わしはその場を離れ、猿を追いました。
そこかしこで苦鳴や混乱の声が上がっており、それを頼りに走りました。倒れた者、傷を負った者。
その指さす方向でまた声が上がるという有り様。
駆け回っておると、やがて火の手が上がりました。
「あれは……兵糧所?」
あっという間に天を焦がすような炎が立ち上がり、兵糧の荷を包んで燃えております。
「いかん! 水だ! 火を消せ!」
わしは大声で指図しながら、猿の居どころを探しました。
何と、猿は傍らの木の上、頭上五メートルの枝に立っておりました。一瞬舞い上がった火の粉に照らされなければ、奴の存在には気づかなかったでしょう。
「いたぞ、猿だ! 木の上だ! 弓兵! 矢を射かけよ!」
しかし、弓兵は全面の敵に貼りついていて、周りに残っておりません。焦れた兵が手槍を投げつけても、とても樹上には届かず。
「寄せ手の頭領は既にこの猿が討ち取った! 兵糧も焼いた、本陣も焼いた! これ以降の争いは無益。疾くセイナッドから立ち去れ!」
「何をっ!」
振り向けば、先程離れたばかりの本陣から火の手が上がっておりました。一体、いつ火を放ったものか?
「おのれっ、逃がさぬぞ! ええい、木を囲め! 薪を積んで火をつけよ! 弓兵を呼べ!」
わしの声を、猿は樹上でせせら笑うように聞き流しておりました。
「無駄無駄無駄! セイナッドは求めず。セイナッドは追わず。我らに害なさぬ者を我らも害さぬ。しかし、セイナッドを脅かす者あれば、たとえ鬼神たりともこの猿が討ち滅ぼす!」
「糞っ! 降りてこい、化け物め!」
わしは手を出せぬ悔しさに、地団太を踏みました。
「はははは! 無理無理無理! セイナッドを害さんとすれば……猿が祟るぞ? 見よ!」
その声に皆の目が集まった時、奴の掲げた手に真白き炎が生まれ、一瞬で広がりました。
「うわあっ!」
その明るさは真昼の太陽を直視したごとく、誰もが目を焼かれ、視力を失いました。
「糞っ! 奴は、奴はどこだ?」
ようやく目が見えるようになると、樹上に猿の姿はなく、跡形もなく消え去っておりました。
残されたのは我ら守備隊のみ。虚しく奴が上っていた木を囲んでおりました。
駆けつけた弓兵を引き連れてもう一度陣地正面に戻ってみれば、またも篝火が消え、漆黒の闇に包まれておりました。
「うぬぅ! 重ね重ね猪口才な! 灯りを、灯りを持ってこい!」
新たな灯りを掲げて見れば、辺り一面に霧が立ち込めておりました。照らした灯りですら三メートルも届かない。
「くっ! これでは戦にならぬ……」
わしは唇を噛みしめました。
「はははは。疾く去れ! 去らねば、猿が祟り殺すぞ! 土遁『山嵐』!」
その声が届いた瞬間、我らの前で大地が弾けました。
どどーん!
地鳴りを立てて土が震え、土砂や石くれがあたりかまわず飛んできます。鎧の上から当たる分にはさして堪えません。しかし、顔や手足に当たれば骨を砕き、肉を裂きました。
「ぎゃあ!」
「ううっ!」
胴当てくらいしか身に着けておらぬ雑兵たちは、石くれをまともに受けてのたうち回っております。
「はははは。覚えたか? 祟りが欲しくば猿を呼べ。猿はどこにでも参るぞ。わははは……」
その言葉を最後に霧はすうっと引いて行きました。