第38話 ニオブ・ヨーダ、猿に会いたる件
「うぐっ! 何奴?」
「騒ぐな。騒いでも誰も来ぬ」
振り向こうとしたニオブの首筋に、ぴたりと鎧通しの刃が当てられていた。
「貴様……」
「殺してもよいが、話を聞く気があれば生かしておく。どちらにする?」
「――話とは何だ?」
「ふむ。やはり馬鹿ではないか。ならば、セイナッドから手を引け。他領のことは知らぬ。ヨーダ家が好きなように版図を広げるがいい」
すうと鎧通しがニオブの首元から離された。
思わず大きなため息をつきそうになるのを、ニオブは腹に力を入れて堪えた。
「セイナッドを攻めなければ良いのか?」
「そう言ったはずだ。攻めてくる馬鹿をいちいち殺すのが面倒だ。ヨーダ家を残しておけば、他の大名はセイナッドに寄りつけぬだろう」
「わしが約束を破るとは思わぬのか?」
ニオブは相手の考えを探る。
命を元手にした賭けではあるが、言われっぱなしではすまされない。少しでも相手のことを知り、こちらに有利な条件を引き出さねばならなかった。
「さあな。五分五分というところか。別に破っても構わんさ。その時は問答無用で殺すだけだ」
「次も同じように忍び込めると思うのか?」
「まあ、苦労はするだろうが――お前一人を殺すくらい蚊を潰すよりも容易いことだ」
世間話をするような声には、何の強がりもない。当たり前のことを語る響きがあった。
第一に、何の騒ぎも起こさずにニオブの寝所まで入り込んでいる。警護の侍や近侍の者たちをどうしたのか?
「お前の頭が固いと困ると思ってな。この屋の者には可哀そうなことをした」
「何だと?」
「警護に当たっている者は全員命を奪った。これも戦だからな」
だから、騒いでも無駄だと言ったのか。
三人、五人の警備ではない。十人を超える腕利き相手に、血の匂いどころか争いの音もたてずに命を奪ってきただと?
ニオブはあまりにも平然とした相手の様子に、改めて恐怖を覚えた。
「貴様、『猿』か?」
「猿は祟る。覚えておけ、ニオブ・ヨーダ。猿は求めぬ。猿は追わぬ。ただ、祟るのみ。必ず祟るぞ?」
その声が最後となった。
やがて、夜が明けて辺りが明るくなるまで、ニオブは座ったまま動くことができなかった。
その日初めて、ニオブ・ヨーダは「恐怖」の意味を知った。
◆◆◆
「いやあ、話には聞いてたけんど、初めて見たわあ。ありゃあ、たまげたもんだねぇ」
「ああん? お城のことか? お前さん、だいぶ遠くから来たようだね。セイナッドは初めてか」
「そうそう。やっぱりあれがお城かね? こんもり霧がかぶさってて、何があるのかわかんねえもんな」
大きな城ではないがそれでも天守閣を備えた城である。それがすっぽりと白い霧に包まれていた。
旅の行商人は、額の汗をぬぐいながら口を開けて霧の頂を見上げた。
「他領の人が驚くのも無理はないがね。あれは城を隠しているわけじゃないんだ」
「違うんかね? まあ、あんだけ大きな雲みてえな塊があったら、おらみてえなモンが見ても城があんのはわけるけんど」
「そうだろう? アレはむしろ城を見せつけているんだってよ。これを攻める馬鹿はいるかってな」
「そうなんけ? ははは、そりゃあ豪儀な話だ」
まあ、ちょっと荷を下ろして休んで行けと、里人は行商人を庭先に招いた。
荷物の中身は何だね? 食当たりの薬があるなら、少し分けてくれ。
漬物でも食うかね? もうちょっと日影に入りな。麦焦がしで良ければ、飲んで行きなよ。
この里の名物だって? そんなもの、お前さん。決まってるだろう。
うん? 本当に知らないのかい? 「セイナッドの猿」を聞いたことがない?
「お前、それはいくらなんでも物を知らないにもほどがあるぜ! いいかい? 『猿』というのはなあ――」
セイナッド城は今日も霧の中にあって、不落の伝説に守られている。
「世に一つ、落とせぬ城はセイナッドの城――」(了)