第30話 ハンゾウ、心を殺してねずみとなりたる件
横倒しになったサイバッタは、ハンゾウの呼びかけに反応しない。ただ事でないと気づいたハンゾウは主を抱き起して顔を覗き込んだ。
「こっ、これは?」
ぐらりと首を傾けたままのサイバッタは、喉笛を切られて死んでいた。
「と、殿っ!」
胸に耳をつけても鼻に手をかざしても、命の印を感じることができない。サイバッタは物言わぬ屍となっていた。
「こんな馬鹿な……」
呆然と座り込んだサイバッタは、突然、がばりと地に伏せた。
頭の上をうなりを上げて風の刃が通り過ぎる。
(猿ではない。違う方向からの攻撃……)
どがあん!
ハンゾウの周りから爆風が上がり、小石や土を周囲にまき散らした。
土遁、山嵐の術。
ぱらぱらと舞い落ちる土砂の中で、ハンゾウは闇に溶け込んだ。
主を討たれた心の衝撃を封じ込め、ハンゾウは無心となってその場からの離脱に専念した。
(敵は猿だけではない。2対1では分が悪い。まずはこの場を逃れること)
ハンゾウは戦国の忍びである。一瞬の判断が生死を分ける戦いの中で、己の心を捨てる修行を積み重ねてきた。
主を討たれた衝撃も、ヨウキに対する怒りも、すべてを心の底に封じ込め、生き延びることに全霊を振り向けた。
ハンゾウの頭の中で、「ヨウキを殺すこと」という目的が消え去り、「身を隠すこと」、「生き延びること」という目的だけが意識を占有した。
最早、勝ちも負けもない。ただひたすらに逃げ延びる。
ハンゾウは鴉のくちばしから逃れる「ねずみ」になった。恥はない。戸惑いもない。
心は無になり、夜と一体化した。
(む。ハンゾウの気配が消えた)
ヨウキは土の上に片膝をつき、心気の波でハンゾウを探した。しかし、これとわかる手ごたえがない。
(追いつめられて、ここまで心を静められるか。下手に動けばこちらが狙われる)
自らも心気を澄まし、空気さえ乱さぬようヨウキはゆっくりと動いた。
夜の闇に揺れる気配が1つあった。
サイゾウのものである。
サイバッタを仕留めたのはサイゾウだ。ハンゾウがヨウキと命がけの闘争を繰り広げる背後で、サイバッタに忍び寄り、その喉首をかき切った。
サイバッタは襲われたことに気づかず、突然喉元が冷やりとしたと思ったら、鋭い痛みが襲ってきた。
胸元が濡れる感触に不審を覚えながら、出血で意識を失い、そのまま死んだ。
サイゾウは少し離れた場所に退き、ハンゾウを待ち構えていた。しかし、あまりにも早いハンゾウの撤退判断に虚を突かれた。
攻撃の機を逸し、土遁山嵐の術に気を散らされてしまったのだ。
戦闘経験の少なさがサイゾウの弱点であった。
ハンゾウのように感情の全てを捨て去り、目の前の目的ひとつに集中する切り替えが、彼女にはまだできない。見失ったハンゾウを補足しようと、爆発の直後、動き出してしまった。
ハンゾウとヨウキが完全に気配を殺している中、意気込んだサイゾウの動きは夜の静寂の中で漁火のように目立った。当然、ハンゾウの心眼にもその気配は映っていた。
しかし、ハンゾウは目もくれない。
ひたすらに心気を夜の大気に馴染ませ、滑るように戦いの場を離れる。
サイゾウの存在に気づいていても、攻撃しようという意識すら浮かばない。完全に心を殺していた。
いくら心気の波を飛ばしてもハンゾウの気配を捉えられず、サイゾウは焦りを覚えた。
(これでは逃げられる。うぬっ!)
己の居場所を知られることも構わず、サイゾウは心気を練り、術を起こした。
(火遁、狐火!)
大気中の水分から燃気を作り出し、陰気で包んで着火した。後尾に開けた穴から赤く炎を吹き出しながら狐火は夜空に飛び上がった。
自らは身を伏せ、サイゾウは敵の姿を目で探した。
単発の狐火は決して明るいとは言えないが、暗視力を持つ忍びたちにとっては十分な照明弾である。だが、敵の姿が見えない。
(どこかに隠れたか? まだ、それ程遠くに入っていないはず)
狐火が消えて闇が戻る。サイゾウは地面から身を起こして、ハンゾウが去ったと思われる方向へ動き始めた。
(……来る)
ハンゾウはまだ目線の通る範囲にいた。狐火の術の起こりを察知し、そっと陽炎の術を使ったのだ。薄っすらと光を屈折させるだけの力で土行の気をまとった。
それだけでサイゾウの目視を誤魔化すには十分だった。
サイゾウ自身が術を使っていたため、ほんのわずかな土行の気に気づけない。
離れた場所で気配を探っていたヨウキにとっても同じことである。サイゾウの発した術の気配が強すぎて、ハンゾウの気配が飲み込まれてしまった。
(サイゾウ、気をつけろ)
どこかにハンゾウは潜んでいる。ヨウキはそれを知りつつ、サイゾウに警告を与えることができない。
ヨウキの存在が、ハンゾウの行動を制約している。もし、ハンゾウに居所を知られれば、ハンゾウはサイゾウへの攻撃をためらわないかもしれない。
(ハンゾウは強い。焦るな、サイゾウ!)
ヨウキは心の中で叫んでいた。




