第2話 天運、猿を引き寄せる件
左右に目を配りながら沢を上って行くと、叢が濃くなってきた。
「むっ?」
ドンが傍らの叢に近づいた。熊笹の葉に黒いものがこびりついている。見渡せば転々と血が飛び散り、血だまりの渇いた跡があった。
指を擦りつけて匂いを嗅ぐ。
「血糊が乾いたものです」
あたりを警戒した上で、藪の中に分け入っていく。
二人共脚絆で足元を固めていたが、そうでなければ笹に切られて傷だらけになっていたろう。
ここ数日雨が降っていない。ドンは転々と残る血の跡を頼りに藪を縫って進む。
やがて――。
武家の小者がうつぶせに倒れていた。体の下から広がった血が、黒く地面の色を変えていた。
深々と背中を斬り下ろされた上、右わき腹を後ろから突かれている。
「人斬りに慣れた輩に、念入りに止めを刺されております」
無駄な傷がない。袈裟懸けの太刀が滞りなく抜けていた。
「衣服はそのままですが、荷物は奪われたようです。おそらくは懐中物も」
腰の武器も奪われている。小者は丸腰で倒れていた。
衣服は切り裂かれ、血を吸っているために放っておかれたものであろうか。
「うむ。念のためじゃ。懐中を改めてみよ」
「はい。ただ今」
ドンは硬直した遺体に手をかけて裏返した。
「むっ! 何だと?」
「どうした、ドン?」
「こ、これは赤子です」
「何?」
小者の死体は体の下にかばうように赤子を敷いていた。
「止めを刺され、懐中を探られてなお、赤子を守ろうとかばったか?」
「産着の布は上等なものです。南無阿弥陀仏。……懐中には何も残っておりません」
状況から見て赤子は河原の妻女のこどもであろう。賊に追われ、小者に託して逃がしたものか?
結局追いつかれ、主従共に野ざらしとなったのだろう。
「赤子は無傷なようですが、二日も放り出されていては……。はっ、息がある?」
「何だと? 赤子が生きているというか?」
「はい! 弱っておりますが、生きております!」
「こちらへ寄越せ! わしが懐で温める。お前は水を用意しろ」
飲まず食わずで放置された赤ん坊であったが、小者の体の陰で仮死状態のまま生き延びていた。
脱水症状と低体温症に陥っていると思われた。
「早く、こちらへ!」
「若」は落ち葉の上に座り込み、懐を大きく寛げた。
ドンから手渡された赤ん坊を懐に納めて着衣で覆った。更にその上から合羽で自分ごとくるみ込む。
「水じゃ。竹筒とさらしを寄越せ」
「若」は竹筒の水でさらしを湿らせると、その端を摘まんで赤子の口に当てた。赤子には吸い付く力がなかったが、本能であろう、わずかに口を動かした。
「ドン、湯を沸かせ。湯を沸かして重湯を作ってくれ。急げ!」
「はっ! 直ちに!」
ドンは薪を集め、河原に走り出た。たちまちに石を組んで竈を作り上げる。
ぱっと四方を見渡し、人影がないことを確かめると、竈に入れた薪に手をかざした。
「小さき火よ」
口中で小さくつぶやくと、薪から赤い炎が上がった。乾いていた木の枝がパチパチと燃え始める。
「近くに竹藪は……ないか。ならば紙で」
ドンは懐から懐紙を取り出し、重ねた紙で舟形を作り、竹筒の水を入れて火にかけた。
水を満たしている限り、火にかけても懐紙は燃えない。
湯が沸くまでの間に、ドンは背中の荷物から干飯を取り出し、手拭いにくるんで石の上に置いた。山刀の腹でそれを押しつぶす。細かくなったものを、湧き始めた湯にパラパラと入れる。
干飯は乾燥させた飯である。そのままでも、炙っても食べられるうえ、湯で戻せば炊いた白米に近い食べ物となる。
今は細かく砕いて重湯にする。
赤子はまだ乳離れもできていない大きさだ。粥では飲み下すことができないだろう。少しでも糖分を補給するためにただの湯ではなく、重湯を吸わせようと「若」は考えた。
(あの児には天運がある。この山道、藪にうち捨てられた乳飲み子が人に拾われようか? しかも、セイナッドの若を引き当てるとは、何たる強運)
重湯を作りながら、ドンはその偶然について思いを致した。
十歳の少年が迷いなく救命行動を取っている。医師や薬師であるというならわかる。人の助け方を知っていよう。
しかし、少年にそのような知識があるわけではない。
(知るところを用いるは並の才。若は違う。知らざるところを推し量り、これを行う。紛れもなく天の才)
「若」は死にかかった赤子を見つけると、まずその状態を観察した。飲まず食わずで水分、栄養分が枯渇している。体温も低い。
(人は死ねば冷たくなる。冬に倒れれば凍え死ぬ。体が冷たいのは死に近づいている証しだ。ならば、先ず温めよう)
無理なく温めるために、赤子を懐に入れ衣服と合羽でくるんだ。
(さらに温めるには湯だ。湯を沸かそう。だが、赤子は湯を飲めない。乳しか飲めん。ここに乳母はいない。乳に代わるもの、乳に一番近いもの、手元にあるものは……重湯だ)
手早く支度するには自分が動くのではなく、ドンにやらせた方が早い。だから、自分が赤子を抱き、ドンに火を起こさせた。
それだけの筋道を一瞬でたどり、行動に移した。それが、「セイナッドの若」と呼ばれる少年である。
さぞや目元涼しき秀才かと思いきや、その面貌は皺の寄った猿そのものであった。