子捨て虚
子捨て虚という木があった。
遠目から望めば何の変哲もない柘榴の木で、間近に来てようやく由来の端緒を知る。木の根元から大きな虚があり、その昏い穴は地面の下へと続いている。根の国に続いているとされ、石を投げても底には辿り着かない。
親の親から、そのまた親から語り継がれてきた。口減らしのために、また望まぬ子を産んだ母親の手によって赤子が投げ捨てられてきたという。七つになるまではこの世のものではない。ただお返しするだけだ。
この地はさまざまな災厄に見舞われてきた。飢饉、戦、疫病。子を養えない親が出るのも無理からぬことだった。この柘榴の木は罪悪感を養分にしてきた。だからどれだけ飢えても、枝に生った実を食べることは忌避されてきた。
今年は不作だった。冬を越すための蓄えが足りず、このままでは少なくない餓死者が出る。暗黙の了解だった。ある日突然、隣家の子を見なくなっても誰も口にはしなかった。
「俺たちも決めねばならん。生きるためだ」
幼い息子が眠る傍らで、夫が言った。妻は顔を伏せた。我が子の寝顔を見て、静かに涙が頬を伝った。
夜半、布団を抜け出して柘榴の木の下へ行った。眠っていた幼子が家を出る母親に気づいて、覚束ない足取りで追いかけた。
子捨て虚は別段遠くもなく、足を運べばすぐの場所にあった。乾いた風が吹き、闇夜に葉擦れの音が聞こえる。二間を超えるほどの樹影で、幹がよじれて枝わかれした枝葉には、赤い果実が幾つも生っているだろう。
その根元には昏い虚が広がっている。地面に空いた穴と繋がっており、まるで木が歪んだ口を開けている。底なしの穴に、母親は息を呑んだ。今まで何人の子供を呑みこんできたのだろう。愛しい我が子も、この穴へ捨てなければならないのか。
また涙がこみ上げてきた。その場にしゃがみこみ、嗚咽を漏らした。自分の子だけではなく、根の国へと通じるという虚に捨てられた子供たちを偲んだ。
木の虚から何か聞こえた。最初は風の音だと思った。違う。近づいてくる。穴の底から這いずってきて――。
夥しい数の白い手が一斉に伸びてきた。どれも年端も行かぬ子供のものだった。白い蛇の群れに似た手が、夜暗でもはっきりと見える。母親は悲鳴を上げて後ろに倒れた。そのまま後ずさる。親を求める無数の手が蠢き、一本の腕が突出して伸びてきた。返したその手の中には何か握られている。
短い指に握られていたのは、柘榴の実だとわかった。その果実が裂け、密集した種がさらけ出された。唇に似た裂け目が開閉した。
捨てたくないのなら、お前が鬼になれば良い。
幼い声音だった。手の群れに恐怖で身を凍らせながら、瞳に映る柘榴はひどく美味そうに見えた。震える手で、禁忌の果実に指先を近づけた。
暗い夜道で幾度も転びながら、幼子はべそをかいて母親の姿を追い求めた。やがて何かを貪る、濡れた咀嚼音が聞こえてきて、そちらへ向かった。
いつも近寄ってはいけないと言い聞かせられた木の根元に、人影がしゃがんでいた。空っぽな虚の前で、何かを夢中で食べている。甘く、饐えた臭いがした。
見覚えのある、長い黒髪を伸ばした女が振り返った。歪めた口を赤い液体で濡らし、両手に食い散らかされた柘榴を握っている。虚に似た眼窩で、我が子を見た。
幼子にはもう、それが母親だとはわからなかった。