17.その神殿に住まう者たち
ようやく目を覚ましたダグ少年。
しかしそこにいたのは一体の精霊とトカゲの置物。
異文化交流のしょっぱなは、なんだか雲行きがアヤシイようで……。
ダグの意識がふわりと浮上する。
真新しく切り取られた樹木のような優しい香りが、吸い込むたびに胸をスッと心地よくさせる。
近くで小鳥が鳴き、わずかにやわらかな風が吹く。
ここは森の中なのだろうか──。
ダグは転移門をくぐり抜けたときのことを、ぼんやりと思い出す。
黎明の賢人アスタリオと慈愛の聖人マロウエの、その偉大さを示すような巨大な像の前を、畏怖に身を縮めながら通り過ぎた。
そうして振り返ると神官ゲルガーたちの姿はなく、本当にあのジュリアロスの森へと、ダグは足を踏み入れることができたのだ。
雨が降り出し、それは次第に激しくなる。さらに周囲は夜の闇に沈んで、じきに進むべき方向も分からなくなった。
気持ちだけは前へ前へと進んでいたが、きっと体は追いつかなかった。
多分どこかで力尽きたのだ。
ずぶ濡れの泥まみれのまま、森のどこかの冷たい地面に倒れているはずだった。
ついに、死んでしまったのだろうか。
そのせいなのか、長い夢を見ていた。自分によく似ただれかと、思うことを語り合って、たくさんの恩恵をもらったような気がする。
そう。だから死んでいる場合じゃ、ないはずだった。
冷たい森の中のはずなのに、ここはとても暖かい。やわらかなさわり心地のよい布と、気持ちのいい気配に包まれている。
夢ならば、ずっと目覚めたくはない。なのに、何かの気配が近づいた気がして、ふっと目を開いてしまった。
目に入ったのは、不思議な色彩を持った女の子だった。
思わず「はっ」と、息を呑む。状況が分からず動揺するが、その美しい顔立ちに目が離せない。
やわらかな若葉色の髪と瞳──。そんな人間など、見たことがなかった。
白く透き通るような肌色の中、宝石のような輝きを秘めた若葉色の大きな瞳と、自然に赤く色づいたくちびる。あまりにも愛くるしい顔立ちは、とても人間とは思えなかった。
いや、人間ではないのだ。妖精──。ちがう、精霊だと、新しい知識が教えてくれる。
「……精霊? どうして?」
驚いて身を起こし、オドオドと周囲を見渡す。
そこは石造りの無骨な感じがする部屋の中だった。
小さな机と椅子が置かれただけの開放的な部屋で、ダグはふかふかのベッドの上にいた。
広い窓の木戸は開けられていて、薄い布がゆらりと風に揺れている。
その外は明るい。時間は分からないが、雨は止み、日が射しているらしい。
「セーレー。ドーチテ……」
カタカタと硬い音がしたので、思わず目をやる。
女の子の腕のなかには、しっかりと大事そうに抱えられている人形があった。
その人形は、羽の生えた木彫りのトカゲ……のように見える。その口が動き、言葉らしき「音」を発したのである。
「えっ。しゃべるの、それ……」
女の子は小首を傾げる。その腕の中で、さらにトカゲ人形が「セーレー、カ、タカチテ、カタ、ニンゲンカタ……」と音を発する。
その、どことなく言葉に似ているが、意味の分からない「音」を聞いて、ダグの背筋にゾワリと寒気が走る。
思わず上掛けの布団の端を握りしめ、鼻の上まで引っ張り上げる。
さらに意味不明な声……、というか硬い木を打ち鳴らしたような、甲高い音が連続して打ち出され、赤い目がチカチカと光りながら、ダグを見据えている。
固まって息をひそめていると、不満に感じたのか「ギイィッー」と、うなり声をもらして、尻尾をカタカタと不気味に揺らし出す。
ダグはびくっと身を震わせると、どういう状況かと、そっと女の子に視線を向ける。
だが、女の子はしゃべる木のトカゲを抱えたまま、ずっと黙り続けている。
「あ、あの……。それは何? 君は精霊だよね? そのトカゲは魔物? あ、いや、妖精なの? 何を言っているのか、分からないんだけど……、君は分かるの?」
精霊と話したことなどなかったが、人と同じかたちをした女の子に、つい救いを求めてしまう。
しかし女の子は、その吸い込まれそうなほどキレイな瞳を、不安になってくるほどジーッとダグに固定したままだ。
やがておもむろに、可愛らしいその口を開く。
「カ、カタカ、カカカタカタ、ニンゲン、カナカラナ……」
女の子までも「カタカタ」としゃべり出したことに、ダグの胸に絶望的な思いがわいてくる。
トカゲよりもやわらかな音だが、抑揚のない平坦な音の連続は、とても人の言葉とは思えない。
しかも見ていて気付いたが、一度もまばたきをしないし、その表情は先ほどから全く変わらない。
この子も、呪いで動く人形かもしれない。あまりにも美しく作り物めいて、得体が知れなかった。
しかも言葉が違う。というか、通じるものがあるように思えない。
本当にどうしたらいいのか分からない。
なんだか、どんどん恐くなってきて、しだいに泣きたくなってくる。
すると、女の子とトカゲ人形が「カタカタ」と会話し始める。何を話し合っているのか分からず、不安ばかりがどんどんつのっていく。
それから無機質で冷淡な赤と緑の視線が、そろってピタリとダグに向けられる。
グッと奥歯を噛みしめてその圧に耐えていると、口を開いたのはトカゲのほうだった。
「ニンゲン……。カタ、タラ、テラカナ……。ハラガヘッタ……」
ダグは思わず「えっ?」と乾いた声をもらす。
今、聞こえてきた言葉は空耳だろうか。「腹が減った」と聞こえたような気がしたのだ。
「ハラガヘッタ。ウマイモノ、クイタイ……」
空耳ではなかった。急に意味のある言葉を話し出したトカゲだが、どうやらお腹が減っているらしい。
何を食べるのだろうかと考えて……。
「クイタイ……」
開いた口元から覗く、小さくともギザギザとしたナイフのように鋭利な歯列……。こちらを逃がすまいと、にらみ据えるような赤い視線。
ダグは「ああ」と内心でうめき、イヤな想像がふくらむのを止められない。否定したい気持ちもいっぱいあるが、現実はいつもままならないものだ。
だから悟ってしまった……。
小さくても凶暴な肉食の魔物はたくさんいる。
このトカゲは、きっと人を食らう。羽の生えた木彫りの人食いトカゲ……。そういう魔物だったのだ。
「クイタイ……」
やわらかな声がつぶやく。今度こそ、サーッ、と全身から血の気が引く。
思わず、そうつぶやいた女の子から目をそらす。いやパニックに陥り、目が回っていた。
ハクハクと粗く息をくり返しながら、ダグはグルグルと視線をさまよわせる。
必死で距離を取ろうと、座ったまま無意識に背後へ、背後へと後じさる。
だが、そうしてベッドの端に突いたはずの手が、ズルリとすべって体勢を崩してしまった。
そのまま視界が反転し、後ろへひっくり返ってしまう。
ダグは派手な音と共に、床へと落ちていた。
だが、痛みよりも何よりも、今にも食らいつこうと襲いかかってくる精霊とトカゲを想像し、恐怖に体が跳ね上がる。
チラリと見えた通路の方へ這いつくばるよう進み、なんとか立ち上がって、ロクに前も見ずに走り出す。
しかし、すぐ何かに勢いよくぶつかって、また転びそうになる。
その体を、ガシッと力強く受け止める手があり、危ういところでコケることはなかった。
「す、すみませんッ!」
ダグは反射的にあやまり、ぶつかった黒い服の男を見上げる。
とても大きな男だった。ダグが小柄な子どもなのもあるが、これほど大きな人間は今まで見たことがない。
そうしてゆっくりと仰け反るように顔を上げ、遙か高みにあるその顔を見た途端、絶句した。
あまりの衝撃に、全身がぞわりと総毛立つ。
「…………っ!」
その顔はガイコツだった。
ピカピカと光るガイコツの、黒々とした眼窩がダグを見つめてくる。その奥にチラチラと灯る赤い光は鬼火だろうか……。
「……うわあっ!」
と声を上げて、思い切りその腕を払いのける。勢いで尻餅をつくが、そのままタジタジと後じさる。
ダグがぶつかった相手は、見上げるほどに大きなガイコツの魔物だった。
そうだ。これは生きる屍というやつだ。生きている人間を呪い襲い、食べるという──。
全身黒ずくめの巨体なので、まさに死神と言ってもいい雰囲気だ。
けれど、ピカピカとまぶしいほどに光っているせいか、どこか神々しくもある。
何だかよく分からないが、人ではない者に違いない。
ここにはふつうの人はいないのか──。
もう涙目である。
ズリズリと尻で移動しながら混乱していると、コツコツと足音がしてくる。
パッと振り返ると、背後に続く反対の通路から、また新たな人がこちらへと歩いてくる。
白く長い服を着た、赤い髪をもっさりと伸ばした人だった。
前髪が長くて顔はよく見えないが、後ろに手を組みながらゆっくりとこちらへ近づいてくる。どう見ても人だった。
精霊でも、魔物でも、ガイコツでもない。なぜかイヤな予感はするが、ふつうに人間だ。
その口の端が持ち上がり、ゆったりと弧を描いている。その人が優しくほほ笑んでいることに気づき、ダグは思わずありったけの声を張り上げていた。
「た、助けてください! あのトカゲに、ぼく、食べられてしまいそうで、それにガイコツが……」
しかしその声を、途中で途絶えさせてしまう。
すでに青息吐息のダグは、「はぁ、はぁ」と粗い自分の呼吸を聞きながら、さらなる悪夢の出現に、もはや呆然とするしかなかった。
赤い髪の人は後ろで組んでいた手を、だらりと横にたらしたのだ。
その左右の手には、大小の刃物が一本ずつ握られていた。包丁だろうか。
そうしてニンマリと口元だけで笑い、どんどん近づいてくる。
そんな人物に、誰が助けを求められるだろう……。
正面には精霊と人食いトカゲ。左手には巨体のガイコツ。右手には両手に刃物の赤髪。
背後の壁にすり寄りながら、ダグはガタガタと恐怖にふるえるしかなかった。
そうして追いつめられるダグの頭上で、ふわりと薄い布が揺れる。
彼らの視線がそちらに向かったことに気づき、ダグものろのろと上を仰ぎ見る。
すると、少し高い所に開いた窓があり、黒い人影がその窓枠に足を掛けて立っている。
やわらかな風と共に、その人影はタンッと目の前に降り立った。
ちょうど両手に刃物の赤髪と向き合うように立ち、ダグにはその黒衣の背中しか見えない。
すらりとした長身で、灰緑色の長い髪がサラリとその背に流れている。
男か女かも分からなかったが、淡々とした声で赤髪に向かって何か話している。
赤髪はピタリと足を止めると、何か反論しているようだ。けれどやがて、ひょいっと肩をすくめると、しかたないといった様子で両手の刃物を白い服の内側にしまい込む。
続いて黒衣の人がガイコツに向かって何かしゃべると、ガイコツはさっと膝を折ってその場にひざまずく。
長身の黒衣の人よりも、ガイコツはさらに一回り以上も大きかったが、ちゃんということを聞くようである。
誰だか分からないが、この人は赤髪やガイコツよりも偉い人のようだった。
もしかして、助かったのだろうか──。
見ると、女の子とトカゲもおとなしく、ダグに襲いかかるような気配はない。
本当に、助かったのかもしれない──。
そう思っていると、黒衣の人がゆっくりとこちらを振り返った。
その顔を見て、ダグは「あぁ……」と小さく絶望的な声を漏らす。
そこにあるのはうす黒い、緑色の顔だったのだ。
同じような顔をした生き物を、絵本で見たことがある。
おとぎ話の中に出てくる、その悪逆非道な生き物に、まさか本当に出会うことがあるなんて……!
頭の中に、獰猛で残忍なソレの名が、いやがおうにも浮かんでくる。
「ゴブリンキング……」
思わず声が漏れる。声に出すとそれは現実味を帯びてくるが、かえって本当のこととは思えなくなってくる。
まだ夢を見ているような、全てが遠い世界の出来事のような……。
〈ボク〉……カタリストの理解力を得てみても、事は理解力の許容を超えていた。
体から、力が抜けていく──。
そうして自分の太腿から座り込んだ床の辺りが、ほんわりと生暖かくなっているのも、どこか遠いことのように感じていた。
コワイですねぇ。おびえてますね。かわいそうですねぇ。
災難としか言いようがない出合いは、まさにトラウマものです。
ええ。ホントにいろんな意味で……。
次回『18.ここへいたる各々の弁明』
ショックだったのは女神様も同様のようで……。
それはともかく、それぞれの「言いわけ大会」が始まるよ!