16.夢の中の回想──カタリスト
ダグ・ディ・サンデール──。
サンデール王国の第二王子、ダグ少年は只今6歳。
まだまだ子どもなのに、そのまなざしは思い詰めていて……。
かしこすぎるのも、何だか切ない。
3歳くらいだろうか。
小さな男の子が、まぶしい日差しに照らされる庭にいた。
何の陰りもなく、思い悩むこともなく、ただそこにいるだけ。
でも、それだけで幸せだった。
その狭い離宮の片隅が世界のすべて。何も欠けることなく完結していた。
『何の陰りもなく? 果たして本当にそう思う?』
「……」
『だって、ほら。君の背後には黒々とした影が落ちていたじゃないか』
「……ああ。そうだったね」
五歳くらいだろうか。暗雲の垂れ込める曇天の下、男の子は黒い服を着せられ立っていた。
周囲の人間が慌ただしく動き回り、淡々と母親の葬儀を進めていく。
目元を赤く腫らす侍女が一人、泣き崩れた。でも、すぐに下げられ、姿が見えなくなる。
男の子は泣かなかった。
冷たい母の亡骸と対面しても、そういうものかと思うだけだった。
ただ、時折向けられる、哀れむような視線が居心地悪く、さけるようにうつむいていた。
その胸にあるのは、早く帰りたいという思い。
重苦しい空気も、向けられる意味ありげな視線も、どう受けとめたらいいか分からなかった。
『かわいそうな王子。哀れな第二王子。あの歳で、一人きりで、王妃に睨まれ、疎まれ、生きられるのか?
──周囲の大人たちは、そう言っていたね』
「……そう、だった。お母様は死んでしまった。
だから同じように、ぼくも死ぬんだと、そう思った」
『同じように、殺されると思ったんだよね。なのに、そうはならなかった。
あの男が現れたから。あの後すぐに、神殿へ連れて行かれたんだ』
離宮でのつつましくも自由な放任生活は終わった。
神殿での新しい生活が始まる。
それは神の御名の許、戒律に束縛された。忍耐と努力を強いられる、ひどく窮屈な生活だった。
グズって泣いても、戒律を盾に罵られる。こつき回され、ひっぱたかれ、イヤを許さない。
王子という身分も、ここへ連れてきた神官ゲルガーには効かない。
いや、王子だからこそ諭される。
権力を笠に着て、人を見下していると戒められる。
しきりに傲慢だ、高慢だ、尊大だ。謙虚であれ、慈悲深くあれと言い聞かされる。
存命中の母は、甘くはなかった。
王子なのだから、誇りを持てと。恥ずかしくない立ち居振る舞いをしろと、厳しく突き放す人だった。
少し悲しかったが、きっと母は正しかったのだろう。
王子であるという自覚が芽生え、幼いながら立派な王子になろうと思っていた。
誇り高くあることと、思い上がること。
人の上に立つことと、人を見下すこと。
それは似ていて異なり、境界がわかりにくい。
けれど母はもういない。
そしてここでは神官ゲルガーにより、誇りは傲慢に、地位は尊大に、王子は高慢へと、評価の天秤が傾いていく。
『どうして傲慢を受け入れるのさ。
自分が一番えらい人間だ、なんて思ってないでしょう。
君は礼儀知らずでもない。人を見下すこともない』
「……ちがう」
『ちがう? じゃあ、そうだってこと?』
「……心の中で、ときどき思ってる」
『思ってる? 何をどんな風に思ってる?』
それを口にするのは、ためらいがあった。絶対に口にしてはいけない本音だった。
だって神官ゲルガーが怒り、ののしり、叩くから。
なのに、これまでため込んでいた思いが、そうやってつつかれると内側から膨れ上がってきて、どうしようもなくあふれ出るのを止められなかった。
「……ぼくは、えらいんだ。本当はすごいんだ。おまえたちとは違うんだ。
きっと、いつかみんな後悔する。ぼくをおとしめて意地悪して、絶対に後悔するに決まっている……、って。
そう思ってる」
『そう──。そうなんだね。でも、それは悪いこと?』
「……だって、それは。傲慢だから」
『違うね。全然、違う。君だって本当は、よく分かっている』
「……」
『君はとても頑張っている。
だれもそのことを言ってくれないけど、とても我慢して辛抱強く周囲の要求にこたえている。
そのせいで君の心がぐちゃぐちゃになって、何が本当かわからなくなって、いっぱい傷ついて心で泣いても、みんなそのことを知ろうともしないけど──』
ダグはようやく気付いたかのように隣を見る。
隣にはダグが立っていた。
さっきから自分と話していたのだが、自分とはどこかちょっと違う気がした。
『君はとても頑張っている』
こちらを向いた視線と合う。
額にかかる白金の髪のすき間から、琥珀色の瞳がこちらを見ている。
鏡に映したようだが、ゆらりと揺れる琥珀の瞳はキラキラとして、生きて存在していると感じられる。
自分と同じ顔が告げる。
そのくちびるが紡ぐ言葉は、ストンと胸の底に落ちてくる。
「ぼくはとても頑張っている」
その言葉に満足したかのように、自分がフッと笑みをこぼす。
するとダグの心もふっと軽くなり、知らずおなじように少しほほ笑んでいた。
『君はえらいんだ。本当はすごいんだ!』
「そう。ぼくはえらいんだ。本当にとてもすごいんだ!」
〈ボク〉である自分に続いて、ダグも言葉を繰り返す。
『おまえたち、絶対に後悔する!』
「神官ゲルガーは、もう絶対、すでに後悔してる!」
『それは──。君がいなくなったから?』
「そう。ぼくがいなくなったから」
神殿に来てからの男の子──。ダグが取り組まされたのは、書物の文字を書き写す作業だった。
革の装幀の分厚い書物は、とても古くて貴重な物らしい。
目の前にどんと置かれたが、古さもあいまって、どことなくあやしい雰囲気を漂わせている。
四歳から簡単な文字の読み書きを習い始めたダグだが、表紙に刻まれる文字は読めない。
うながされて重い表紙を開こうと、恐る恐る手を伸ばす。
すると触れてもいないのに指先から氷のような冷たさを感じて、全身がブルリと震える。思わず手を引っ込めてしまう。
体温を吸われるような感触だった。それは気味悪くて、もう触りたくなかった。
きっと魔物か何かが、本に化けているのだ。
だが、神官ゲルガーは「開けろ」と言う。
有無を言わせぬ強引な口調だった。
これはそういう類いのものだと理解しているのだ。
何か危険があるのに、隠してダグにやらせようとしている。
本は牙をむき、ガバリと喰いつくかもしれない。
恐いけれど、神官ゲルガーは逃げることを許さない。
仕方なく、開けることを覚悟する。
とにもかくにも電光石火の早業で、ピュッと表紙を開いて身をのけぞらせる。
何が出てきてもいいように、逃げたつもりだった。
ガタンとダグの座る椅子が跳ねる。本から飛びすさる。
だが、それだけだった。
本は本のまま。表紙が開かれただけで、ダグに噛み付いたり、飲み込もうとしたりはしなかった。
「開いたか。……これは! 何だ。何が書いてある」
神官ゲルガーの興奮を抑えきれない声に、ダグも少しだけ興味が湧いて、恐る恐る机上で開かれた本をのぞき込む。
だが、知らない文字で書かれていて、読むことはできない。
『ああ。エルフ文字だね。ふーん。神官ゲルガーには分からなかったんだ』
「何か書かれているのは分かるけど、読もうとすると、ものすごく魔力を使うんだって」
『単純な認識阻害かな。開くのだって魔力が要るなら、認証ロックがかかっていたのかもしれない』
「よく知らないけど、王族しか開けられない古代遺物は、ときどきあるものね」
『それで、読めない神官のために、普通の紙にその文字を書き写していたのか』
「うん。だけど……」
『そうだよ。あまり、意味はない。複写不可にはランダムなノイズとコード変換が発生して、意味をなさなくなる』
「そうなんだよ。なぜか見てる文字と、書いてる文字が違ってくる」
『それでもありがたがって、書き出させるんだ』
「必死に解読してるみたいだよ。全くのムダって事はないと思うけど……」
『解読はムリだね』
「ムリだね。そうだよ。ざまあ見ろ、だ」
くはははっ、と〈ボク〉が笑う。
あはははっ、とぼくも笑う。
ひととおり笑い合って、これは夢なのだな、と何となく思う。
でも時折見る、白いモヤのかかった世界とは少しちがう。
隣に立つ〈ボク〉は、ダグのことを何でも、ダグ自身が気付いていない事まで知っている。
同じ記憶を持っていても、より広い視点から物事を見ていて、より深く理解している。
「君は誰なの?」
『〈ボク〉はぼくさ。君の願いを叶えるために、女神の使徒によってここへ遣わされたカタリスト。知のワームとも呼ばれている。
君が認めてくれるなら、〈ボク〉は君の一部になる』
琥珀の瞳をきらめかせ、向かい合う〈ボク〉は「君の望みは、何」と、ぼくに問いかけてくる。
心の奥底まで探し、その問いに対する答えを見つけ出す。
それは漠然として、形にならないほどあいまいで、カスミをつかみ取るような不確かな思いだった。
「ぼくは……、×××に会いたい。×××をずっと探していて、でもどこにも見当たらなくて、絶対に見つけたいのに、どこを探せばいいのかわからない。
だけど×××は、きっとどこかにいるはずで、どこにいようと絶対に見つけ出したい。
ぼくはどうしても、×××に会いたいんだ……」
『うん。そうだね。その執念はすごいと思うよ。きっと魂にまで刻み込まれる執着だね。もはや怨念といってもいい。
リセットしてこれだもの……』
「リセット?」
〈ボク〉は答える代わりに、まぶしいものでも見る様に目を細め、ぼくを見つめる。
『その願いが、かなうかどうかは分からない。きっと君次第だ。
〈ボク〉はその願いを叶えるために、君を手伝うことができる。君の考えることを助け、君を少しだけ強くすることができる。
でもそれだけだ。だけど──』
「だけど?」
『一度混じってしまえば、これまでとは少し違った君になってしまい、後戻りできなくなる。もう元には戻れないんだ。
それでもいいと言うなら、〈ボク〉を受け入れて──』
琥珀色にゆらめく知的な瞳を見つめながら、ダグは当然のように手を差し出す。
自分の心の奥底にある、この衝動の正体はまだわからない。
何を探しているのか、何を求めているのか。×××が人なのか、思いなのか。
この時代にあるのかすらも分からない。
それでも一歩でも近づけるなら、可能性があるのなら、手を伸ばさずにはいられない。
「受け入れるよ。だからどうか、ぼくを助けて。ぼくが探しているものを、いっしょに探して。
そしてぼくら、いっしょに会いに行こう」
ぼくと〈ボク〉の指先が触れあい、固く手が握りしめられる。
そこから流れ込んでくるのは、圧倒的な情報だった。
すでに入り込んで馴染んでいた生命のワームとの相乗効果で、この世界の理の情報が体の中を駆け巡っていく。
命の発生と系統と複雑な連鎖。さまざまな生き物たちの歴史と進化。エルフ社会の歴史。発展とその衰退。
この惑星の成り立ちと、巡る衛星。同じ太陽を巡る惑星系列。さらに広がる広大な宇宙。他の星々が渦を巻く壮大な銀河……。
想像もしない広大なマクロの世界から、見えないほど小さなミクロの世界。
悠久の時間の流れをさかのぼり、また未来へと視線を向けたとき──。
世界の片隅にある小さな王国。今のちっぽけな自分がいた。
何も知らないダグ・ディ・サンデール。
自分が何なのか、何のためにここにいて、何を探しているのかも未だ分からない。
それでも、いままで囚われていた世界の小ささを知り、自分の幼さを自覚する。
不条理を受け入れて自分を責めて嘆くだけの優しさを、進歩のない思考なのだと客観的に眺めることができた。
暴力による隷属。偏った思想の圧力。一切の抵抗を許さず、自我を剥奪して、あきらめと素直さだけを強いて制御する。
すがりついていた女神への盲信も、考えることをなかば放棄した、現実逃避だったのだ。
「そうだね、カタリスト。ぼくは少しだけ強くなったみたいだ。
だけど君の知識を手に入れても、世界の理をたくさん理解しても、×××が何なのかは、わからないままなんだね」
『それは君次第さ──』
ダグは消えてしまったもう一人の自分が、胸の底からそう語りかけてくるのを感じた。
そしてそれは、その通りなのだと思う。
自分で探し求め、自分で答えを見つけなくては意味がない。心が納得できないだろう。
いつか、出会える日が来ると信じて──。
いっしょに探しに行こう──。
ねぇ。×××……。君は本当に、どこにいるの──?
ただでさえ賢いダグ少年が、さらに賢くなりました。
けれどその心は、欠けた何かを強く求めているようです。
次回『17.その神殿に住まう者たち』
女神様とゆかいなその仲間たちの、ご登場!
ダグ少年は、その個性的な面々に、チョットびっくり。
の、はずだったんだけど……。