体育祭 3
3
ウィザードデュエルの歴史は長い。ただ、スポーツとして確立したのはほんの数十年前の事である。
それまではその名の通り魔法使い同士の決闘という意味合いで使われていた。
競技用ステッキという安全装置などない時代。命を落としかねない。
そうまでして戦う理由。
諍いの激化。勝利して相手の魔法を己のものにする為などきっかけは様々。
この他にも高名な魔法使いを倒す事で自身に箔を付ける、という動機も少なくはなかった。
◇◇◇
「負けちゃった」
赤軍の応援席から聞こえる沈んだ声。
ウィザードデュエル女子の部準決勝が終わった直後の事だった。
先の試合で戦ったのは黄軍の鱗怪鈴歌、赤軍の葉月澄夏。軍配は鈴歌に上がった。
「まあそう気を落とすな。表彰台は確定したんだ。充分すごいと思うぞ私は」
落ち込んでいる澄夏をみずきが励ます。
「うーん、でもこのままだと総合優勝が……」
現在最も得点が多いのは黄軍、次いで赤軍、最下位は白軍である。
「大丈夫だって、まだ男子の部が残ってる。石角もいるし、なんてったって今年はお前の弟がいるんだ。充分狙えるさ」
喋っている途中にみずきがちらりと見たのは隣にいる石角。
距離的に会話は聞こえていただろうが相手からこれといった反応が返ってくる事はない。
「でも最近あの子どこか上の空というか……、だからちょっと心配なのよね。大丈夫かしら」
ここから少し離れた場所に座っている陽介を眺めながら、澄夏はため息混じりに呟いた。
一方その頃黄軍では、他のチームよりも盛り上がりを見せていた。
「魚なしでも強いんだなあ鱗怪は」
一年D組の生徒が集まっている場所を見つめながら感心する理緒。
そこでは試合から戻ってきた鈴歌がクラスメイトとハイタッチをしている。
「こりゃあもしかしたらいけるかもな、優勝」
「……さあ、どうだかな」
理緒の言葉に返事をするまことの声はあまり興味がなさそうだった。
ただその視線は白軍の応援席、そこにいる少女に向けられている。
「決勝戦を開始します。選手は準備をしてください」
アナウンスが次の試合の始まりを告げる。同級生から称賛を受けていた鈴歌は再びコートへと動き出した。
「そんじゃあ次も勝ってきます!」
「頑張ってこいよー!」
駆けていく背中に梶谷が激励を送る。
杭の中、金目が対面するのは白髪の上級生。
鈴歌が注目したのは珠口アコの魔力保有量。
霊眼が映し出すのは少女の体中に存在する幾本もの緑線。
——藍希さん程ではないにしても私よりは断然多いなあ。まあでも、今は関係ないか。
本種目で使えるのは人工魔力のみ。保有魔力の量は重要ではない。
「よーい!」
気持ちを切り替えて、ステッキを強く握りしめ気合を入れる。
笛の音の後、鈴歌はすぐさま行動に出た。
四つの魔法球を前方に放つ。内三つはアコめがけて、残りの一つはそれらとはだいぶ離れた場所に向かっている。
アコは自身に迫る三球を防壁で受け止めた。
間近で鳴る轟音。耳を塞ぎたくなるような音にも彼女は動じない。
冷静さを保ったまま防壁を消し、その最中ある事に気付いた。
距離的に考えて、とっくに杭が作り出した壁にぶつかっているはずの最後の一球。
それの着弾音が聞こえないのだ。
それもそのはず、球は壁の手前で止まっていた。
しかしアコはその事をまだ知らない。
球から発射されたレーザーが彼女の背中を狙う。
背後から聞こえる音にある程度状況を理解したアコは、振り返り攻撃が自身に届く前に防壁を張った。
結果攻撃を防ぐ事に成功。
しかし一難去ってまた一難。現在彼女は対戦相手に背を向けた状態。要するに大きな隙を作ってしまっている。
この絶好のチャンスを相手が逃すはずもない。
再び背後から何かが近付いてくる気配を察知する少女。素早く右に避ける。
間一髪のところでかわした魔法球は魔力の壁にぶつかり消えた。
回避の際に前へ向き直ったアコはそのまま反撃に出る。
ステッキを操作して出現させたのは八個の白球。輪を作るように並ぶ。
数秒後には自身へと飛んでくるであろうそれに警戒して鈴歌は前方に防壁を作った。
案の定、白球はアコの指示によって動き出す。
ただその動きは鈴歌が想像していたものとは少々異なっていた。
球は防壁を破壊するでもなく、彼女を囲うように着弾したのだ。
鈴歌は周囲を見渡した。白球が落ちた場所は白く変色している。
インクのような質感だ。
予想外な展開に困惑しつつも身構えていると、突如白いインクが波打ち始めた。
防壁を前以外の三方向と上に追加する。
現れたのは複数の手だ。
おそらくは鈴歌の動きを封じステッキを奪おうとしているのだろう。ステッキの奪取は特に禁止されていない。
白い手はひたすら壁を叩いたり引っ掻いたりしている。
その力は凄まじく、少しずつだがひびが出来始めていた。
——ああマズイマズイ!
逃げ道がない状況で壁を壊されるのは痛い、そう思った鈴歌は慌てて一匹の黄金魚を出した。
魚は大きく口を開けてインクと手を次々に呑み込んでいく。
その間、彼女はステッキの魔力残量を確認した。
下部分にある石はほぼ灰色。白い部分は全体の四分の一程しかない。
金の魚は鱗怪家の家系魔法である。利便性は高いがその分魔力消費量が激しい。その為少量の魔力で戦わなければならない今大会では使用を控えていた。
しかし退路を断たれた彼女は焦りから、ついいつもの癖で出してしまったのだ。
「こうなったら仕方ない、行けっ!」
鈴歌の声に応えるように、魚は地中に潜りアコのもとへと泳いでいく。
アコは球体の防壁を張った。一部分が地面に埋め込まれている為、外からはドーム状に見えるだろう。
下から音が聞こえる。魚が壁に体当たりしている音だ。
この防壁はそれ程頑丈に作られていない。壊されるのにそう時間はかからないだろうと思いながらアコは新たに魔力球を出した。
その直後、ザバンという音が後方から。
こちらへ飛びかかろうとしている魚に白球を投げる。
けれど攻撃は対象に届く前に魚の下に出来た防壁に当たり壊れた。
——よし今の内に——っ!
対戦相手と魚を接触させるべく鈴歌は壁を取り払う。
再び降下していく黄金魚。対象との距離は残りあと僅か。今相手が魔法を発動したところでこちらが先に到着する。
このまま体当たりをして体勢を崩し、その隙にステッキを奪えば自分の勝利だと、鈴歌はそう思った。
ところが——。
アコとの接触まであと数センチのところで魚はがくんと地面に落ちた。
——え……?
驚きと動揺を隠せないまま鈴歌はそこを見る。
土の上で転がる金の魚は苦しそうにもがいていた。
その体には覚えのない小さな文字が——。
——ちょっと待てそんなの書く時間はなかったはず——!
白球を退いてから現在に至るまで大体二秒。
たったこれだけの時間で術式を書いて対象物に付着させるなど不可能。仮にここまで出来たとしても、付着から発動まで多少のラグがあるのでどの道時間が足りない。
これを成功させるには魚が飛びかかる前に文字を書いておく必要があるが——。
「——あ」
ここまで思考を巡らせて、一つの考えに行き着く。
白球を出す際に一緒に書いたのではないかと。
あの時は球に隠れて文字に気付かなかったのだ。
——となるとあの魔力球は油断させる為のフェイク。本命はあの術式の方。まずいな、何か起きる前に消さないと……。
未だ地面で身じろぎしている魚の魔力を解く為にステッキを振る。
「……ん? あれ……?」
しかし何故か解除が出来ない。
何度も何度も試してみるが、魚はそこに残ったまま。
そうしている内に金色に輝いていた体が文字を中心にして黒く染まり出した。
一体何が起きているのか、得体の知れない恐怖が少女を襲う。
全身真っ黒になった魚はゆっくりと宙に浮いた。鈴歌の意思に関係なく。
そして——。
「行け」
アコの命令により、鈴歌のもとへと勢いよく前進し始めた。
うねる地面、迫り来る黒魚。
鈴歌は止まれと必死に命令をするが対象は全く聞き入れてくれない。
「あ、これもしかして……——」
頭の中で思い浮かべた最悪のパターンを胸中で呟く。
——乗っ取られた……?
作製者を襲う理由などそれしか考えられず、しかしそれが分かったところで鈴歌には全力で逃げる事しか手がなかった。
…
「なんかすごい事になってんなあ」
黒い魚に追いかけまわされている鈴歌を見ながら大河はぽつりと零す。
一応隣にいる藍希に話しかけたつもりだったのだが、聞こえていなかったのか向こうからは何も返ってこなかった。
「あれ、幸人は?」
彼に目を向けた際に、向こう側にいた幸人がいつの間にかいなくなっている事に気が付く。
「トイレに行きました」
今度は耳に届いたようで隣から答えが返ってきた。
その相手は前方に一度視線をやると椅子から立ち上がる。
「ちょっと様子を見てきます」
そう告げる彼におう、とだけ返して大河は見送った。
今行われている試合が終わればいよいよ幸人の出番。
そしてそれは、刻一刻と迫っている。
◇◇◇
蛇口から絶え間なく流れる水。俺はそれをぼんやりと見つめていた。
出番が来る前に戻らなければ、そう思うが体が石のように動かない。
もし女子の部が終わっても、自分がこのままここにいたらどうなるのかと考えてみる。
見つかるまで探すのだろうか——。
誰かが代わりにやってくれたりはしないか——。
願うなら後者であって欲しい。
魔法が絡む事柄だとどうしても過去の自分と比較してしまう。
その度に劣化を自覚させられて、憂鬱な気持ちになる。
入学してから約二ヵ月、それの繰り返しだ。
——あの時だってそうだ、魔力さえあれば俺は皆の役に——。
惨めになるだけだと分かっていながらもタラレバの想像が止まらない。
そうして物思いにふけっていると、耳をつんざく程のカラスの鳴き声が外から聞こえてきた。
驚きのあまり肩が跳ねる。鳴き声がした方を見るとバササ、と飛び立つ音がした。
早く戻れと言われているような気がして、俺はようやくトイレを後にする。
しんとした廊下に響くのは自分の足音のみ。
当然だ、皆グラウンドにいるのだから。
玄関までやってくると、俺は何気なく下駄箱に貼ってある一枚のポスターに目を向けた。
『このぬいぐるみにピンときた人は先生、または風紀委員まで!』
下の方にそう書かれており、その上には黒いネコのぬいぐるみの写真がある。
石角先輩の一件の後、情報提供を呼びかける為にこれと同じ物を校内のあちこちに貼った。
しかし未だあのネコの詳細はおろか、目撃情報の一つも寄せられていない。
ふと、思い返す。
——君の願い、叶えてあげられるよ。
あの日、彼と交わしたやり取りを。
悪魔のような囁きを——。
◇
プラスチックの瞳、布の肌、綿が詰まった体。それらを魔力で動かして、黒いネコは幸人へと数歩近付く。
「宝累幸人、頸上だった頃の力が欲しくないかい? 僕達に協力してくれたら魔力管いっぱいの体にしてあげられるんだけど。もちろん特異体質のない状態でね」
耳に響く少年の声はあどけなさを感じさせるが、これが無機質なぬいぐるみから発せられているとなると途端に不気味さが溢れ出てくる。
「……そういうふうに鱗怪さんや石角先輩も唆したの?」
「うん、そうだよ」
鋭さを伴った声で問いつめる幸人に対し、黒ネコは悪びれる様子もなく答えた。
「僕の所有者は優秀でね。薬以外にも色々な発明をしているんだ」
——風見先輩も言っていたけど……。
相手の言葉に幸人は理緒が言っていた考察が現実味を帯びてきたと考える。自分達が相手にしているのは想像以上に大きな存在なのかもしれないと。
「俺達を捕まえようとしているのは君の持ち主さん? それとも別の人?」
「これ以上の情報は君がこっちの要求を成し遂げてくれたら教えてあげるよ」
「俺にその気はないよ」
「えー?」
短く拒絶の意思を示すとネコは訝しむように声を上げた。
「裏切り者だって思われるのが怖いの? 幸人、良識や周りの目を気にしてばっかじゃ君はいつまで経っても不幸なままだよ? いいじゃないか他人がどうなったって」
「よくない、皆大切な仲間だ。それに家族だってあの中に——」
「あっははっ!」
言い終える前に嘲笑が空間に反響する。
「家族かあ……、家族ねえ……。——そう思ってるのは君だけかもしれないよ?」
その言葉は氷柱のように幸人の胸に深く突き刺さった。
鞄を持つ手の力が強くなる。
「……その顔、やっぱり不安なんだね。宝累藍希に自分がどう思われているのか」
「ち、ちがっ……——」
「口では言わないだけで君の事よく思ってないのかもしれない。嫌われてるのかも」
反論を思い浮かべては喉の奥で霧散する。
否定を躊躇する程に、心当たりがあり過ぎた。
「可哀想に。誰からも愛される事もなく、力も失ってしまった。せっかく今まで頑張って鍛錬してきたのに、全部水の泡になってしまったね。かつてなら簡単に倒せる相手にさえ手も足も出ない。何の役にも立てない君に周囲は愛想を尽かして、これからますます君の周りに人はいなくなるよ」
どこまで知っているのかと考えるよりも前に、心に沈殿していたドロドロとした感情がぶわりと浮上する。
「まあ別に今すぐ返事を決めなくたっていい。少しくらいなら考える時間をあげるよ」
何も言えずに俯いている幸人の横を通り過ぎ、ぬいぐるみは階段を下りていく。
「じゃあね、幸人」
「あっ、待て!」
急いで振り返るが、その時は既に黒い塊の姿はなかった。
◇
——本当にこのままでいいのかな、俺。
両腕に視線を落とす。
細く骨ばったそれは見るからに頼りない。
以前まではあった大量の魔力の管は一つ残らず取り除かれて、今ここに立っている俺はこの見た目に相応しく非力で脆い人間だ。
——こんな体で何が出来る?
——こんな体で何をすればいい?
——こんな体で残り数十年もある人生いきていけるのか……?
何度も何度も自問を繰り返す。前向きな回答は出てこない。
どう頑張っても未来の自分の真っ当な姿が想像出来ない——。
「やあ、どうしたの?」
不意に左から声がした。いつの間にか俺以外にも人が来ていたようだ。
急に声をかけられた事に驚きつつもそちらを向く。
相手は俺と同じ一年生の男子生徒だった。クラスが違う事もあってあまり接点はない。ハチマキの色から察するに所属チームは黄軍。
「大丈夫? 顔色悪いけど」
「えっ? ああ、はは……。もうすぐ自分の出番だからちょっと緊張しちゃってね」
半ば強引に口角を上げて答えると、彼が再び口を開く。
「そういえば白軍は選手が替わったんだっけ、君が代理?」
「うん、まあ……」
「そっか君が……、僕もウィザデュに出るんだよ。お互い頑張ろうね」
値踏みするような目つきがほんの一瞬——。
その後は爽やかな笑顔を浮かべ最後に右手を差し出してきた。
最初のあれは見なかった事にして、俺も手を伸ばし握手を交わす。
「それにしても災難だよな、僕達。勝ち目のない試合に出場させられるなんてさ」
手を離すと相手は辟易とした様子でそう述べた。
まるで心の中を読まれているようでドキリと心臓が跳ねる。
「ほんと、葉月くんも棄権してくれればよかったのに」
俺の心情をよそに彼は更に話を続ける。
聞いていて気持ちのいいものではないが、下手に指摘をして口論になるのも嫌なのでそのまま黙って耳を傾ける事にした。
そうしようと思っていたんだけど——。
「世界選手権のチャンピオンが学校の行事で優勝したって嬉しくも何ともないだろ。どうせ涼しい顔して表彰台に乗るに決まってる」
その言葉を聞いた途端、脳を支配したのは怒りのような、傷心のような感情。同時に急速に心が冷えていく。
言わなくては。
俺にそんな資格はないのは分かっている。
でも……だけど——。
このまま笑ってやり過ごしたらきっと一生後悔する——!
作り笑顔を取り払い、真剣な表情で目の前の相手を真っ直ぐ見つめる。
「決めつけはよくないよ、その人がどう思っているかなんて本人に聞いてみないと分からない。それに……やっかみを口に出すのもやめた方がいいんじゃないかな。相手に悪い印象しか与えないからね」
同意の言葉がくると思っていたのだろう。俺が話す内容を聞いた彼は目を丸くしていた。
しかしそれもすぐに引っ込んで、こちらを馬鹿にするように鼻を鳴らす。
「ステッキがあるとはいえ大技が直撃すれば怪我は免れない。そんなモヤシみたいな体なら尚更だ。せいぜい気を付ける事だね」
そう告げて俺の横を通り過ぎトイレへと向かっていく。
ぶつけられた肩に手を添えて、外履きを取る為に自分の下駄箱の前に移動する。
その際に、視界に藍髪が映った。
「……もしかして、今の話聞いてた?」
「ええ、まあ……」
玄関に佇む藍希が首を縦に振って答える。
肩に触れていた手が自然と額に向かう。
内容が内容なだけにあまり聞かれたくはなかった。
しかもよりによって従兄弟に……。
——そう思ってるのは君だけかもしれないよ?
ネコの言葉が脳裏を過り、胸にズキリと痛みが走る。
宝累家の養子になってから数ヶ月、ネコとのやり取りから大体一週間。これだけの期間があったにも関わらず、俺は未だに聞けずにいた。
「——ねえ、アイ」
靴を取りながら話を切り出す。返事はない。口を閉ざしたまま次の言葉を待っている。
——落ち着け大丈夫だ、愛称呼びが許されているんだからきっとそこまで好感度は低くないはず——!
自分がしでかした内容を考えれば絶縁されてもおかしくないレベルだが、現状は割と友好的に接してくれている。
「その……」
だからきっと大丈夫、そう自分に言い聞かせるがいざ尋ねようとすると声が上手く出てこない。
結局、実際に口にした質問は全く別のもの。
「俺、勝てるかな? 彼に」
自分の意気地なさに情けなく思いため息を吐く。
横に顔を向ければ、律儀に考え込んでいる藍希が見えた。
「現状のあなたでは厳しいと思います」
やがて僅かに俯いていた顔を正面に戻し、はっきりとした口調で告げてくる。
彼は寡黙だがこういった場面でも自分の意見をはっきりと言える子だ。
俺としても、心にもない事を言われて励まされるよりはその方がありがたい。
「はは……やっぱそうだよね」
「ですが——」
分かりきっていた事を聞いた恥ずかしさが遅れてやってくる。それを悟られぬように足早に玄関まで進んで靴を履いていると、まだ続きがあったようで藍希の声が再び耳に届いた。
「今回使用出来る魔力はステッキ内の人工魔力のみですから、交流会の時のように序盤から強力な技を出してくる事はないと思います。魔力が尽きたらその時点で敗北ですからね。それに過去に一度対戦してますからあの人の戦術はなんとなく分かるでしょう? それらを踏まえて上手く立ち回れば勝算は決してゼロでは——」
——あれ……?
何か会話が噛み合っていないような気がして俺は頭に疑問符を浮かべる。
俺が言った「彼」とは先程まで話していたあの人の事。だけど話の内容から察するに藍希は「彼」の部分を陽介くんと捉えているみたいだ。
——でもそうなるとこの子は——。
「アイは俺が一回戦を突破出来ると思ってるの……?」
信じられないといった表情で藍希を見つめる。
陽介くんがC枠なのはちゃんと理解しているはずだ。彼に挑む為にはその前の試合であの人に勝たなければならない。
「そんな……無理だよ。今の俺にはきっと誰が相手でも勝てっこない——」
「大丈夫ですよ」
ありきたりな言葉、さっきと声の大きさは変わっていないのに何故か耳に強く残る。
「ユキ、たとえ力を失っても、今まで培われた技術はそう簡単に消えません。梶谷先生もよく褒めてるじゃないですか。魔力制御力、魔法の精密さ精巧さ。どれもあの頃と変わらない」
言いながら彼は俺に近付いた。
二つの青い眼光は何かを必死に訴えるように力強さを増していく。
「確かにあなたにはもう魔力はありません。ですがだからといって今までの努力が全部無駄になった訳じゃない」
触れられた手から伝わる彼の熱。
こうして両手を包まれているだけで、心に刺さった氷が溶けていっているように感じる。
「今でもちゃんと残っているものもあるんですよ?」
「残っているもの……」
——ああ、そうか。
ゆっくりと目を閉じる。気持ちに区切りを付ける為に。
今まで失ったものばかり目を向けていたけれど、ようやく気付く事が出来た。
汚泥に似た感情はいつの間にかまた底に戻っていた。
再び目を開けて、彼の反応を伺う。
少しはましな表情になっただろうか。
藍希が見せてくれたのは笑顔。
小さく控えめなものだったけれど、決意を固めるのには充分だった。