彼が頸上だった頃の話 3
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異能に待ち受けているのは迫害か搾取か——。
ほんの数十年前までそれが当たり前の世界だったそうだ。
この場合俺は前者で、宝累くんは間違いなく後者だろう。
世の中善人ばかりではない。平気で人を傷付ける人間なんてごまんといる。
そう考えれば彼が他人を避けていた理由も頷ける。
家に帰ってからも申し訳ない事をしたと思う反面、どうか今日の出来事を誰にも話さないでくれと自分勝手な祈りをしていた。
食事と入浴を済ませ、本来なら勉強をしなければいけない時間なのだがとてもそんな気にはなれず、ベッドの上で頭を抱える。
ばれたらどうなるのだろう。
お祖父様は?
学校のみんなは?
どんな反応を見せる?
どちらにせよいい結果にならないのは目に見えていた。
だからそうならない為にも、彼には黙っていてもらわなければ。
既に誰かに話していたらそれまでだが、もし俺が明日の朝学校に来るまで誰にも打ち明けていなかった場合、きちんと謝ればこちらの願いを受け入れてくれるかもしれない。
そう思いながら勉強机の引き出しを開け、チャック付きの袋と小さな紙袋を置く。
次に通学鞄からハンカチでくるんだ宝石を取り出した。
あのまま放置していたら騒ぎになると思って持ってきたのだ。
これも机に置くと、縛っていたハンカチの端をほどく。
広がる布の中から露わになる青い石。さすがに部屋の中までカメラはないので隠す必要はない。一粒摘んでじっと見つめる。
——アクアマリンだろうか、これは。
宝石に関する知識がある訳ではないのに観察を始めたのは、一種の現実逃避だ。
◇◇◇
翌日。校内は特に変わった様子はなく、周囲もいつものように俺に接してきた。
その事に安堵しながら教室まで辿り着く。
同級生と挨拶を交わす最中、ちらりと見た窓際の席の彼も普段通り読書をしていた。
唯一いつもと違うのは、首の右側に大きめの絆創膏をしているという事だ。
「宝累くん」
近付いて声をかけると、相手は睨みつけるように顔をこちらに向けてきた。
「少し話があるんだ。出来れば人がいない所で話したいんだけど……」
俺がそう言うと本を乱暴に閉じて立ち上がる。
「場所は僕が決めてもいいですか?」
「え? ああ、うん。全然構わないよ」
話はまとまり、俺は宝累くんの後に続くように教室を出た。
やってきたのは美術準備室。先に入るよう促され、戸を開き部屋の奥へと進む。
室内の広さは自教室の二分の一程で、壁際にある棚と机にはいくつもの画材が収納、または置かれていた。
最奥には窓が一つある。外は吹雪いていた。
外程ではないがここも肌寒い。息を吐けば微かに白く見える。
窓の向こうを眺めていると、パチッと音がして薄暗かった部屋が明るくなった。
後ろにいる宝累くんの方へ体を向ける。
「それで、話ってなんですか?」
出入り口付近にある電気のスイッチから手を離すと、彼は数歩前に出た。
それでも俺との距離は結構ある。
「えっと、昨日の事謝りたくて。その……本当にごめんっ! あの時の俺はどうかしてたんだ」
深く頭を下げ謝罪を口にした後、持っていた紙袋を前に出す。
「宝石、あのままにしておく訳にもいかないから持ち帰ったんだ。このまま俺が持っててもしょうがないから受け取って——」
「あの時」
あまりにも唐突に相手が声を出したものだから、俺は伸ばしていた腕を引っ込めた。
「あの時の頸上さん、明らかに様子がおかしかったですよ。一体何があったんですか?」
「それは……」
まっすぐこちらを見つめてくる瞳からは、義憤と同時に不安といった感情が読み取れる。
「……それは言えない」
本当の事を言って恐怖心を増長させたら交渉が不利になってしまう。そう思い俺は口を噤んだ。
「言えない、という事は原因は分かっていると解釈していいんでしょうか?」
彼の問いかけに対するうまい返しが思い付かず、言葉を詰まらせる。
「誰かに口止めされているんですか?」
これに関してはYESだ。昔から祖父に特異体質の事は外部の人間に悟られないようにと念を押されている。
だからどうにかして穏便に済まさなければ——。
「言わないのなら先生に昨日の事を話します」
黙り込んでいる俺に痺れを切らしたのか、宝累くんはそう告げて部屋を出ていこうとした。
「ああ待って! 分かった言うから!」
出来ればこちらの事情は話したくなかったが、それで本来の目的が果たせないのなら意味がない。
観念して全て話した。頸上家の特異体質、それが魔力管と食事に関係がある事、家系魔法について——。
最初は先程と変わらずこちらを見据えて宝累くんは話を聞いていたが、段々とその顔は下を向いて表情はより一層暗いものに。
「——という訳なんだけど……」
やはり怖がらせてしまっただろうか。
血でしか腹を満たせない、と言うと新しく入ってきた使用人さんには大抵気味悪がれる。
「……頸上さん」
再び顔を上げた彼からは怒りの感情が消えていた。
その代わりに何か別のものが加わった気がするが、それが何なのかまでは分からない。
「今すぐ職員室に行きましょう」
「待ってそれだけは——」
「でもこのままだと頸上さん、ご家族から一生ひどい扱いを受け続けますよ」
「え——?」
予想だにしなかった発言に、思わずまた無言になった。
一体彼は何を言っているのだろう。
これじゃあまるで——。
「ま、待ってよ。確かに祖父は厳しい人だけど別に暴力を振われてた訳じゃ……」
「治療すればまともな食事が出来るようになるにも関わらず放置してたんでしょう? 充分虐待ですよ」
「でもそれには事情が——」
「私欲の為にあなたを利用しているようにしか聞こえませんけどね。……ともかく話を聞いた以上、このまま見過ごす訳にはいきません」
相手は聞く耳持たずと言った感じでまた引き戸に手をかけようとする。
焦った俺は急いで駆け寄り、宝累くんの腕を掴んだ。
「お願い少し落ち着いて、君は何か誤解している! お祖父様も親戚の人達も悪い人じゃ——っ」
振り返った宝累くんの顔はどこか不機嫌そうで、変なものを見るような目で俺を見つめていた。
「なんで自分を不幸にした人達を擁護するんですか?」
決して声量が大きい訳でもないのに、痛いくらいに耳に響く。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなっていくのを感じた。
昨日のどれとも当てはまらない。ぐつぐつと煮えたぎるような……。
「不幸……? 俺が?」
掴む手に力が入る。頭がじくじくと痛み出し、今すぐ何かを吐き出したい衝動に駆られた。
「違う……。俺は不幸じゃない」
全力で否定したいのに、声はあまりにも情けなく震えている。
それでもちゃんと言わなくては。
「俺は…………」
でないと今まで何の為に——っ!
「俺は幸せなんだ!」
◇
嫌な予感がして、藍希は幸人の手を振り払い距離を取ろうとした。
その直後、上から迫ってきたのはひし形の氷。それも一つではなくぱっと見ただけでも十は超えている。
生存本能からか、頭よりも先に体が動く。
防壁を生み出したのはほぼ反射的の事であった。
氷塊が魔力の壁に激しくぶつかり崩れる。
今の内に逃げようと考えていると、最後の一つが突如その動きを大きく変えた。
まっすぐに降下していた塊は回転を始め、刃物のように防壁を斬り裂いたのだ。
氷は壁を破壊しても尚止まらずに藍希に向かってくる。
回避は間に合わず、右の二の腕辺りを斬りつけられた。
学ランとワイシャツが破れ目を中心にしてじわじわと変色していく。
負傷した部分を押さえたまま前を見れば、目の前にいる少年がこちらを睨んでいた。
普段の穏やかさは完全に消え失せ、怒りの色を露わにしている。
藍希が彼のそんな顔を見たのはこれが初めてであった。
その事実に気付いたのも束の間、相手が次に出してきたのは雪。
強風とともに暴れ回り視界を遮る。
あまりの猛吹雪に腕で顔を覆う事数秒。雪が収まり、再び顔を上げるとそこは全くの別世界だった。
棚、机、そしてそこにあった画材はなくなり、部屋の広さは明らかに元いた場所よりも大きくなっている。
室内の壁、床、天井は全て氷で出来ており、そのせいか寒さが増した。息を吐けばはっきりと白く見える。
——異空間か? これは……。
異空間作成。それは数ある魔法の中でも必要な魔力の多量さに加えて高い魔力制御能力を求められる事から、高難易度の魔法に分類される。
現在最も一般に普及している腕時計型魔法発動装置の人工魔力容量では到底実現出来ず、またそれが成せる程の魔力を持つ人間も多くはない。
——まあ、彼にとっては造作もない事なんだろう。
凍える体を震わせながら、藍希はいつの間にか奥へと移動した幸人を見つめる。
急激な気温の変化に体は強張り、右腕が痛む。そして何より出口を塞がれてしまった。
状況は最高に悪い。相手の動きを見極めて、適切な行動を取らなければ待ち受けているのは——。
最悪な結末を想像していると、前方にいる少年に動きが見えた。
と言っても水の球を出しただけだ。攻撃をしてくる気配はない。
相手が何を考えているのか分からないが、何かを仕掛けてくる前に片をつけてしまおうと藍希は動き出した。
——あまり得策とは言えないがこうするしか……っ!
氷の床を疾走する最中、思い出すのは交流会、そして授業中に見てきた彼の魔法。
——あの薄い布、おそらくは包み込んだ魔法と同質の魔力に反応して動くんだ。つまり魔法で遠距離攻撃を行うとかえって不利になる。そうなるとやはり——。
近付いて殴って止める。
あまりにも無謀なやり方だが現時点ではそれしか方法が思い付かなかった。
当然向こうが何もしてこないはずもなく、幸人は自身の髪に触れていた手を水球に置くと、三頭の蝶を出して藍希に向けて放った。
三頭はいずれもその身に冷気を纏わせている。炎を凍らせる程の冷気を。
——溶かす事が出来ないのなら!
前進する脚はそのまま、藍希は風の刃を複数出して雪蝶に投げつけた。
白羽を切り刻まんと迫る刃。しかし蝶に届くよりも先に、突如せり上がってきた床に阻まれてしまった。
崩れた氷塊を避けながら、残った柱の部分に乗ると、勢いが落ちる前に大きく跳んだ。
蝶を後方に置き去りにして着地した直後、彼を出迎えたのは青白い手とクナイめいた氷の塊。
氷塊は壁で塞いだが、床から生えてきた二本は藍希の両脚を掴んで離さない。
これも氷で出来ているのか、掴まれた部分が非常に冷たく悪寒が走る。
しかしこれに関しては触れられても氷になったりはしないようだ。
そうと分かると片方を風刃で切断し、残った方を自由になった脚で蹴って壊した。
その後も妨害は続く。
ある時は空間が隆起し、またある時は手に捕まり、そしてそれらと攻防している間にクナイと蝶が襲いかかってくる。
一向に先に進む事が出来ない。
急速に方向転換をしても、必ずその先に絶妙なタイミングで柱や手が現れる。
まるでこちらの動きを見透かしているような——。
この思考が脳裏に浮かんだと同時に、ばっと幸人の方に顔を向ける。
後ろで防壁に体当たりしている蝶と、それによって壁が凍結する音を煩わしく思いながら彼——否、その手前にある水の球を凝視した。
遠くてよく見えないが、そこに何かが映し出されている。
それは誰かの後ろ姿。髪型はポニーテールで、学ランを着ている。
そしてその人物の背後には、氷漬けになっている魔力の壁と白い蝶がいた。
——ああ、そういう事か。
ピンポイントな妨害、未だ投げてこない水球。
それらの理由、意味を理解して、同時に藍希は眉間にしわを寄せた。
防壁の魔力が波打ち出す。崩れる寸前、周囲に波紋状に風を起こした。
蝶達は風の刃が当たる前に上へと逃げていく。
防壁が壊れるとすかさずクナイが飛んできた。
突破口を見つける事に集中し過ぎて、左脚に新たな傷が。
この後も息を吐く暇もなく攻撃は続き、負傷箇所は増えていく。
傷を負うごとに血の匂いは濃くなっていき、血の匂いが強くなるにつれ忌まわしい記憶が鮮明に脳裏に浮かび上がる。
恐怖、憎悪、そして殺意——。
湧き上がる感情はどれも穏やかなものではない。
それは負の連鎖。
精神が摩耗すれば体にも影響が及ぶ。
結末、反射神経は鈍くなる一方で傷はどんどん増えていった。
けれども人間、窮地に立たされた時には普段とは比べものにならない程の力を発揮する事がある。
この時藍希は過去のトラウマに苦しめられながらも、一方で頭は妙に冴えていた。
◇
幸人は水球の光景に目を疑った。
水の中には一本の銀髪。映し出すのは自身の目の前で起こる数秒先の未来。
これで相手が次にどう動くのかを確認し、それよりも早く空間操作や攻撃を行なったりしてこちらに近付けないようにしていた。
途中相手の顔が険しくなった事に気付き、未来視を使っている事がばれたのだろうと推測するが焦りはしない。
分かったところでどうする事も出来ないのだから。
向こうが何かしようとしても防げばいいだけの事。そう思っていた。
映像内の異空間が崩れ始めるまでは。
自然と目が見開く。
無意味な事だと分かっていながらも、こんな短時間で壊れてしまう程自身の魔力制御能力は劣っていないと胸中で訴えた。
これだけでもかなり動揺していたが、この一つだけなら取り乱したりはしなかっただろう。
不可解な出来事はもう一つ。
藍希の姿が見えないのだ。
混乱している間に映像内の光景が現実に反映されていく。
魔力で構成された氷の天井、壁が溶けて滴り落ちる。
床には亀裂と水溜りが。
そして藍髪の少年が忽然と姿を消した。
——もしかして逃げたのか? でもどうやって……。
ここから出るには空間の破壊しか方法がない。しかし、異空間は歪んではいるものの壊された形跡はどこにもなかった。
どんな手段を使ったのかは分からないがここにいないのは確か。
ならば急いで見つけ出さなければならない。
藍希を探すべく幸人は異空間を形成している魔力を崩そうとした。
しかしここでまた思いがけない事が起こる。
空間が一向に消滅しないのだ。
制御はもう解いたはずなのに歪んだ箱は残ったまま。
消したという手応えは感じたのに実際には消えていない。
——……まさか、これは。
嫌な予感がして、振り返った時にはもう遅かった。
幸人が体を動かす直前、映像の中の彼も振り返っていた。
その後すぐに異空間がひとりでに壊れる。
天井と壁が崩落し、その後ろから顔を出したのは美術準備室。
そして床が完全に消え失せると、探していた少年が目の前に現れてこちらに飛びかかってきた。
◇
——ああそういえば、彼は俺よりも魔力があるんだっけ。
薄れゆく意識の中、今となってはどうでもいい事を思い出していた。
意識が遠のいているのは首を絞められているからだ。
馬乗りになっている宝累くんの顔は逆光でよく見えない。
怒っているようにも、怯えているようにも感じ取れる。
呼吸は荒かった。感情が昂っているようだ。
首に絡みつく両手は本気で殺しにかかっている。
そのまま握り潰されてしまいそうな程に力強い。
苦しさから声が漏れ、脚は無意味にのたうち回っていた。
実際の時間は数十秒しか経っていないだろうけど、もう随分と長い間こうされているような感覚に陥る。
感覚に合わせるように恐怖もゆっくり、そして着実に近付いていた。
このまま続けられたら確実に死ぬ。
そう思っていた俺の予想とは裏腹に、相手は手の力を緩めた。
呼吸をせき止めていたものがなくなるとすぐさま勢いよく息を吸う。そしてむせて咳が出た。
俺が咳込んでいる間に、宝累くんは気持ちを落ち着かせる為か深呼吸を繰り返している。
「——殺さないの?」
咳が落ち着くと、平常心を取り戻した彼に聞いてみた。
「死にたいんですか?」
——……どうなんだろう。
逆に聞き返された質問に答えられずにいると宝累くんが続けて喋る。
「僕はね、別にあなたを殺したい訳じゃないんですよ。ただ不安要素が残ったままなのが我慢ならないだけ」
その言葉に、もう噛みつかない、襲わないと出来れば返したかった。
だけど自信がない。人を襲ったのはあの時が初めてだったが、この先の未来、タイミングが悪ければまた同じような事をやってしまうかもしれない。
魔力管を手放せばこの悩みからも解放される。けど——。
「俺は……皆が食べている物を見ても美味しそうだと思えない」
ようやく出した声はやはり震えていた。
「どんなに難しい魔法も出来て当たり前。称賛、憧憬を送られるのは当然の結果。——分かってるんだよ、俺の在り方が異常だってのは」
相手は一言も言葉を発さず、真剣な表情で話を聞いている。
「でも俺はこの環境に馴染み過ぎた……。魔力管を取ってもきっと、食に対する拒絶は消えない。それに……——」
喋っている途中に流れ始めた涙は止まるどころかどんどん量が増えていった。
「今まで出来た事が出来なくなるのが……辛い、怖い……」
なんとも情けない話だ。
それだけ自分の力と他者の感情に依存していたのだと今になって思い知った。
「……価値観の変容も、喪失感に折り合いをつける事も、容易い事ではないでしょう」
泣きじゃくっていると宝累くんが口を開く。
「だけど——。そこを乗り越えればきっと今よりは楽になれる」
先程までとは違い、幼な子に話しかけるような優しい声音だった。
「まあ、今すぐ楽になりたいならそれでも僕は一向に構いませんけどね」
そう言うと首に軽く触れる。
手は傷口から流れ出た血によって所々赤く染まっていた。
「だから、今ここで決断をしてください」
宝石のような、宝石を生み出す瞳は心の内を覗こうとしているように俺を真っ直ぐ見つめてくる。
「ここで人生の幕を閉じるか、それとも新たな道に進むか——」
その声、その言葉は鼓膜のみならず脳までも震わせ、記憶に深く刻み込まれていくようだった。
「さあ、選んで」
過去編はこれにて終了です。
三章自体はもう少しだけ続きます。引き続き楽しんで頂ければ幸いです。