5.問う俺
誰かが呼んでいる。
真っ暗な空間だった。前後左右、上も下も黒一色。どこまで広がっているのか、外なのか屋内なのかもわからない。
なんだここ? しばらく顎に手をあてて思案して、思い出した。
山賊から助けられたあとアルたんたちと町に戻って、もう日が落ちそうだったからすぐに宿に入ったんだ。色々あって疲れてたから、すぐに眠くなって──そうか、これは夢なんだ。
呼びかけは、ずっと続いている。いや、名前を呼ばれているわけじゃないし、聞き取れる言葉ですらない。だけど、不思議と呼ばれているとわかった。
声は微かで、酷く遠くから聞こえてくるようだ。かと思うと、耳元で囁かれたように近くに感じることもある。
暗闇の中を声の方向に向かって進むと、小さな光が見えた。
「そっちか」
小走りでその光に近づくと、見知らぬ女がそこにいた。息をするのを忘れてしまいそうな美女だ。しかも、全裸の。
ラッキー! こんな夢めったに見られないよ。しかも夢だってわかってるから、うへへ──んん?
間違いなく見覚えのない女だ。こんな美人、一度でも会ったら絶対に忘れない。けれどその体の一部には、はっきりと見覚えがあった。そのはち切れそうな豊満な胸に。
あぁ、これは鏡だ……。これが、今の俺の姿なんだな。なんとなくがっかりした気分になって、自分の胸を揉んでみる。
「あぁ……」
これはこれで、いいかもしれない。柔らかさが癖になるし、ずっと揉んでいるとなんだか……。
「どうやら転化は、失敗したようね」
声は鏡の中から聞こえた。
「え?」
不意を突かれて胸に手をあてたまま呆けている俺とは対照的に、鏡に映る姿は冷たく落ち着いている。
「精神の上書きは、特に問題ないと思っていたのだけれど。やっぱり実際に試してみないとわからないものね」
「なにを言ってるんですか……?」
言ってることの意味がわからなくて、つぶやいてしまう。夢なのだから、意味など通ってなくてもおかしくはないのだけど。
「肉体と能力は、ほぼ完全。それだけに惜しいわ」
こちらの声が聞こえているのか、いないのか。鏡像は俺の姿をじっくりと観察して、言う。
精神が失敗で、肉体は完全……えっ、もしかして。
「これは、あなたの姿なんですか!?」
「ええ、そうよ」
今の俺の体──金髪巨乳の美女の体を手で示して問うと、それと瓜二つの鏡の中の美女は誇らしげに頷いた。
「あなたは誰なんだ?」
当然の疑問を口にするが、
「それは教えられないわ、個人情報ですもの」
素っ気なく拒否されてしまう。素っ裸を惜しげもなく晒しているのだから、名前くらい教えてくれてもいいのにな。
「それにどれほどの仲でも、美人には秘密があったほうが素敵でしょう?」
心を読まれたのかと思って、ドキりとした。ふふっ、と小馬鹿にしたように微笑むけど、嫌な感じは全然しない。むしろ言いなりになって、騙されたいと思ってしまう。それくらい魅惑的だ。
「こんなこと可能なんですか?」
「わたし、天才ですもの。まぁ、今回は失敗だったけれど、失敗は成功の種だわ」
他人の体を自分と瓜二つにして乗っ取るなんてことができるのなら、間違いなく大天才だろう。付け加えて、とても前向きな思考の人のようだ。
「なんでこんなことを?」
「わかるでしょ? この美貌を維持するためよ」
胸を張って言い切る、天才美女。あぁ、揺れてる。
彼女の言っていることが真実だと仮定すると、あの崖の下にあった祠から噴き出した黄色いガスが、俺が女になってしまった原因なのだろう。
「なんであんなところに?」
「さあ、わからないわ。わたしには、その時までの記憶しかないもの。破棄したのか、一時的な保管か、実証実験のための罠か、ただの悪戯心かもね」
ずいぶんと迷惑な話だなぁ。俺が不用意だったのもあるけど。
「このプランは失敗だったけれど、わたしのことだからきっと別の、もっと確実な手段を見つけたかもしれないわね。あの時点でも、他にもいくつか候補はあったし」
「え? じゃあ、あなたはまだどこかで生きてるの?」
「あの時からどれくらい時間が過ぎているのかわからないし、お世辞にも安全な生き方はしていなかったから、あっさり死んでいる可能性もあるわね。けど、わたしはわたしを信じているわ。必ず美しい姿のままで、わたしらしく生きているって」
空──真っ暗な黒一色だけど──を見つめて決然と言い放つ彼女の姿は、さらに美しさを増していた。
「さっ、〝この〟わたしはもう消えるわ。あなたは精々、その姿と力を使って楽しめばいい」
「えっ、ちょっと待って!」
薄っすらと消えかかる鏡の中の彼女に手を伸ばそうとするけど、突然浮遊感に襲われて俺は深い闇の中に落下していた。