其の七
新たに神子上典膳を加えた一刀斉一門は、修行の為に全国を周遊しいていた。
「良いか、典膳」
新弟子の典膳を相手取り、善鬼は一門の心得を諭していた。
「我が一門は世上に群がる有象無象の輩とは違う、命懸けの兵法を模索する流派ぞ。常に己が一命を死地に曝し、その窮地から生を掴む、左様心得るがよい」
「はは__」
典膳は一本気で純粋な青年である。先輩の善鬼の言葉に、真摯に耳を傾けて聞き入っていた。
「師は仰せられた。わしから技を盗み、その技を持って師を斃す者、それが我が一門の後継者なり、と」
先輩風を吹かせて新入りにあれこれと教え込む善鬼の姿を、一刀斉は何かしら安心したような気分で眺めるのだった。
「当然、わしとそなたも同じ、何れは師の後を争うて刃を交える宿命にある。その覚悟は据えておかねばならぬぞ」
「承知いたして候」
“これで、善鬼めも変わるやも知れぬ”
一刀斉は、内心秘かな期待を抱いていた。
近頃めっきり鋭気が失われた一刀斉は、正直善鬼の生一本な情熱に疲れを覚えていた。元はと言えば自分自身が吹き込んだ事であったが、その一刀斉自身が最早その荒ぶる闘争心を失いつつあった。
“善鬼と、典膳が手を携えて我が流儀を継いでくれれば__”
堕落と言えば堕落だが、今の一刀斉は既に昔の彼とは何もかもが違っていた。かつて自らの手で己が弟子達を切り殺した無情の剣師伊藤一刀斉も、五十を過ぎて考え方が守りに入ったようである。
因みにこの当時、一刀斉は自らの流儀を一刀流とは称していない。流派の名すら余り吹聴する事も少なく、その流名を無元流と称していた。無元__何やら仏教風、と言うよりはどこか東洋思想、それも何かインド哲学の匂いが漂うような言葉である。この頃、日本には様々な外国文化が流入していた。ポルトガル商人の手で種子島に齎された鉄砲を始め、キリスト教、更にコペルニクスの地動説に至るまで、様々な新思想が入って来ている。インド文化はそれに遡る事千年、仏教伝来とともにこの国に渡来しているが、この時代には更に多くの異文化が入り乱れ、ポルトガル船に乗って商人や宣教師だけでなくアフリカ人(正直この言い方は好きではない。人類発祥の地はアフリカであり、厳密に言えば全ての人間がアフリカ系と言えるはずではないか)やバラモン僧までが亡命したらしい。それまで中国を経由地として資料のみの存在であったインドの現物が、とうとうイスパニアの交易船に乗ってゴアから本邦に遙々直輸入された訳である。古くからの日本語の中にも外国語は入り込んでいるらしく、首級の事を“しるし”と呼ぶのは、インドで頭を意味する“シールシャ“に由来すると言う説がある。個人的には、かまどを意味する”へっつい“も、ギリシア神話に登場するかまどの神ヘスティアから来ているのではないかと思うのだが。法隆寺の柱はパルテノン神殿の影響があるとも言われているから、満更あり得ないとは断言できぬであろう。
話が大分脱線した。一刀斉が称した無元流と言う流名がインド思想の影響であると言うのは只の個人的な直感であるが、有るとも無いとも言い切れないであろう。一刀斉自身、別にインドを意識した訳ではないのかも知れないが、関連を疑っても良さそうだとは思う。何せ、江戸初期に隆盛を極めた異端の流派、無住心剣術こと夕雲流などはその伝書の内容から、前時代に入ってきたキリスト的一神教の思想から影響を受けたのではないかとの説を唱える研究者も有る位だから、天竺のヴェーダンタ哲学位ならばまだしも可能性があると言って間違いではあるまい。