其の六
ここは関東、俗に言う関八州である。時に天正十五年、関白に叙任され豊臣の性を賜った旧羽柴秀吉が九州征伐に軍勢を上げている頃である。関東の大領主北条氏は信長在世中にすぐ隣の徳川家と不可侵条約を締結しており、中央の覇権争奪戦とは直接関わりないが、豪族同士の小競り合いが未だに続いているのが関八州である。しかし現在は小康状態にあり、今の所平穏な八州に姿を現した一刀斉と善鬼の師弟は上総の国で宿を取っていた。
“師は変わられた”
最近の一刀斉に、善鬼は不満を抱いていた。
この八州行脚の最中、一刀斉は古藤田俊直なる人物を門人に加えていた。それも主持ちで旅に同行もせず、数日の逗留中に手解きを受けただけで単に名義上師弟の契りを交わしただけの関係だった。以前の一刀斉ならばそのような腑抜けた約定など一蹴したであろう。
「これも世渡りぞ」
兵法者と言えど、只腕前を誇って踏ん反り返って居れば良いという物ではない。矢張り世知辛い浮世を生き抜いて行く為には有力者に取り入って何かしらの利益に有りつかねば食ってはいけないのが悲しいかな現実なのである。長い放浪生活で一刀斉はその方面の手管も心得ていた。
その古藤田から、推挙したい若者がいると聞いた一刀斉はこの上総にやって来たのだ。古藤田の仕えていたのは北条氏、上総の領主はその北条一族とは仇敵の間柄ともいうべき里見氏である。だが、元々古藤田家は北条家の家臣ではない。と言うより、後北条氏自体がここ半世紀ほどの間に台頭してきた、俗に言う出来星大名で代々の家臣など殆どいないため、別段この両家の家臣同士が親交を持っていても不思議ではない。現に古藤田家は江戸時代には美濃大垣戸田家に仕えている。
「神子上典膳でござる」
一刀斉の前に現れた若者は頭を下げた。それほど大柄ではないが、何かしら秘めた物を感じさせる気配を漂わせている。
「古藤田殿より御尊名は伺っておる」
一刀斉も如才なく答えた。
「なるほど、話に聞いた通りの利発そうな若者じゃて」
如何にもこちらを小僧扱いした一刀斎の言い方に、典膳は少し不満を抱いたらしい。
「古藤田殿からの要請では、貴公に手解きするよう頼まれたが……」
「いえ__」
典膳は首を横に振った。
「拙者が願いたき儀は試合にござる」
「試合、とな」
典膳の大胆な発言に、一刀斉は内心を糊塗してひょうげて見せたが、善鬼は一遍に顔色を変えた。
「左様__」
恐れを知らぬ不敵な態度で頷いた典膳に、一刀斉も苦笑いを洩らした。これで察せよ、と言う一刀斉側の信号だったが、やや震えを伴った典膳は、覚悟を決めたと言わんばかりに押し黙ってそこに踏み止まっていた。
「試合とあらば__」
そんな身の程知らずの青二才に、善鬼が身を乗り出すように言った。
「師匠の前に門弟たるそれがしが御受け仕ろう」
内心に怒りを燃やした善鬼が目の前に立ちはだかると、流石の典膳も蒼褪めて足が竦んだ。彼も伊藤一刀斉の高弟、対戦相手を必ず血の海に沈める情け無用の殺人狂、無頼の凶剣と呼ばれた小野善鬼の評判は聞いている。平然としていられる方が異常である。
「これ、善鬼よ__」
相も変わらず余裕の苦笑いを含んだ一刀斉が、弟子の短慮な言動を戒めた。
「典膳殿はこの一刀斉との立ち会いを所望との仰せじゃ。弟子のそなたを立たせては不敬と申すものじゃて」
善鬼が試合に出れば典膳を叩き殺すであろう。そうなっては折角の後援者を失いかねない。一刀斉は善鬼を制して典膳の前に罷り出た。
「神子上殿、弟子の非礼は御詫び致す。これこの通り、伊藤一刀斉が貴殿の御相手致すゆえ、ご容赦願えまいか?」
「かたじけのうござる」
善鬼の怒気に煽られてすっかり自分を見失った典膳が、救われたような思いで一刀斉に答えた。
「試合は何にて致そうや」
「真剣で御願い申す」
「ふむ__」
折角一刀斉の配慮で取り留めた一命を再び放り捨てるような言動に正直呆れたが、同時に何か感ずるものが有ったようである。
「承知致した」
一刀斉も頷いた。
「貴公は真剣なと何なと御随意に使われるがよい」
そう言うと、一刀斉は薪雑報を一本拾い上げた。
「それがしはこれにて__」
怪訝な顔でこちらをうかがう典膳に、一刀斉は言った。
「仕る。御遠慮無う参られよ」
再び典膳の顔色が蒼褪めた。今度は恐怖ではなく、怒りと屈辱である。年若いとは言え、三神流という余り聞いたことのない流派とは言え、彼も一応一端の兵法者である。それをここまで正面切って侮辱されたのでは我慢ならぬ所だ。
その脇では善鬼が、小気味良さげにこのやり取りを見物していた。
「いざ__」
一刀斉は一尺の薪を手に半身に構えている。
典膳も度を失って愛刀波平行安二尺八寸を引き抜くと、右脇に構えた。だが、それは構えたと言うよりは刀にしがみ付く様な姿だった。本人も何をやっていいのか分らない。今や、自分が何をしているのかすら把握できなくなってしまっていた。無我夢中で一刀斉に向かって行った。何をどうやったのかも、どうされたのかも全く理解できない。只、気がつくと得物を奪われ、一刀斉が手にした刀を静かに薪を並べる棚に置くのが見えただけであった。
「__」
「今一度、仕ろう」
一刀斉に促され、まるで操られるようにその言葉通り刀を手にするとまた同じように斬りかかって行った。
結果は同じであった。
まるで勝負にならず、薪を手にした一刀斉を相手に真剣で立ち向かった典膳は只々いいようにあしらわれるだけであった。
「御得心かの?」
そう言うと、一刀斉は奥に引っ込んだ。しかし、典膳は真剣の代わりに三尺の木刀を手にすると一刀斉に懇願した。
「い、今一度__」
姿を見せた一刀斉は再び薪を手に、典膳と向かい合った。何度繰り返しても、結果は同じであった。
「なかなか良い太刀筋でござる」
一刀斉は目を細めた。
「若いうちは修行が肝心であるゆえ、何度でも御相手致そうず。貴君の身に傷を付けるような事は致さぬ、存分に掛って来られよ」
流石に向こう気の強い典膳もこれで完全に毒気を抜かれてしまった。
一度帰宅して夜も眠れず考え明かした典膳は、これはまさしく氏神の化身かと思い決め、彼もまた一刀斎の門下に入ったのである。
善鬼に取っては破滅の始まりであった。