終局
小野善鬼と神子上典膳__この二人の決闘は下総国、小金ヶ原で行われた。時に文禄元年。
「よいか__」
試合に先立って、師匠の一刀斉は厳かに言って聞かせた。
「この試合、どちらが勝とうが、敗れようが一切の遺恨を残してはならぬ__」
「心得て候」
「元より」
一刀斉の言葉に、善鬼も典膳も神妙に頷いた。
季節は晩秋、もう既に正午を過ぎて太陽は西に傾きつつあったが、時刻からすればまだまだ明るい。だが、空一面を分厚い雲が覆い、既に夕刻のような暗さであった。
善鬼と典膳は互いに向き合ってそこに立ち、お互いを見詰め合った。
「善鬼殿__」
典膳が声を漏らした。
「もう何も申しますまい。ここまで来た以上は逃げも隠れも致しませぬ。正々堂々と刃を交えましょうぞ」
「心得た」
典膳の言葉に、善鬼も小さく頷いた。
善鬼と典膳__この二人が、互いの胸中にどれほどの思いを抱いて今日のこの日を迎えたのか、余人に知る由はない。最早両者の間には彼ら二人にしか理解できぬ何かが生じ、そしてここにこうして立っていたのである。その何かは、誰にも分からない。師の一刀斉ですら、二人の強烈な思いを理解する事は不可能であった。
「よいか、くれぐれもこの試合によってどのような仕儀になろうと遺恨を残す事は相成らぬぞ」
一刀斉は今一度言い聞かせた。
遺恨など残る訳はないではないか。二人がこれから行うのは真剣勝負、名は試合と言えどその実は果し合いなのである。生き残るのはどちらか一方、生きて遺恨を残す事など有り得ないのだ。仮に運良く敗者が一命を取り留めた場合も、遺恨など残すつもりはどちらにもない。二人が自ら進んで臨んだこの試合、その結果がどうなろうとも恨みを残す事など断じて有り得ないと善鬼も典膳もしかと腹を括っていた。
善鬼は腰に帯びた粟田口をそろりと抜くと、中段の構えをとった。典膳も愛刀波平行安を鞘から抜き放ち、地摺り青眼の構えで善鬼に立ち向かった。
「されば__心して存分に試合うがよい」
一刀斉の承認を得て、ついに二人は決闘を開始した。
両者の全身から凄まじい気合いが迸り、互いを捕らえようと深く深く剣機を探り合っていた。空気が軋みを上げるのではないかと思えるほどの緊張が二人を捉え、一歩も譲らぬ気合いの攻防が続く。
雲の垂れ込めた低い空を、重い風が吹き渡っていた。
善鬼は動かない。
典膳もまた、微動だにしていない。
どちらも息を静めて必死に攻機を窺っていた。少しでも心を乱した方が負けである。動けば心に隙が生じる。かと言って、身を強張らせる事もまた許されない。居付いてしまえば敵の動きに対する反応が遅れて命取りになりかねない。浮船などとも呼ばれる、地を踏まない立ち方でそこに佇立していた。強風に煽られた、目も眩む断崖の上で綱渡りをするように、硬直せぬよう緊張を保つのは至難の業であった。煮え滾る溶岩を思わせる灼熱の気魄に包まれた、ささくれた様に凍て付く間合いが、否応無く善鬼と典膳を取り込んでいた。両雄、忍び寄るように用心深い足取りで、相手を自分の間合いに引き込もうと必死だった。まだ、どちらも地取りを制してはいない。僅かでも呼吸が乱れれば心も乱れ、勝敗は瞬時に決する。息を殺して懸命に呼吸を整える両者であった。
一刀斉は不思議な行動を取っていた。向かい合う善鬼と典膳の周りを、何かを窺うように行ったり来たりしているのである。その姿は善鬼にも典膳にも見えている。こういった決闘の最中、当事者の気を散らすような行為はご法度の筈だが、何かを探るように一刀斉は二人の周囲を歩き回っていた。その行動は善鬼も典膳も気にはなったが、今は目の前の相手が最優先である。そこまで考える余裕もなかったが、或いは試合の最中でも周囲に気を配れという、実戦の心得を試しているのかと師匠の行動を受け流していた。
善鬼は気合いを増した。
強烈な、押し込むような気に、典膳は思わず後退しそうになった。このような、間合いの押し合いは当然物理的な力ではない。人間同士なればこそ通用するのである。実際に経験した者ならば分かるであろうが、向き合って間合いをやり取りすると、現実に前に出られなくなるのだ。それに加えて恐ろしく体力を消耗し、汗は流れる息も乱れる、現実に疲労が蓄積するのである。特に修験者上がりの善鬼の気合いは言語に絶する物がある上に、いわゆる不動金縛りの術か何かでも心得ているのかも知れない。金縛りと言えば、兵法では二階堂流の松山主水が有名だが。
典膳に、この凄まじい気迫を押し返すすべはない。ひたすら耐え、勝機が訪れるのを待つ、これ以外に今は為すべき事はない。こうなれば持久戦だ。受けに回った典膳だが、善鬼もそう容易くは攻め込む事は出来そうにない。典膳が容易に崩れぬと見て、善鬼は更に底響きのする気合いを込めた。
二人の周囲を徘徊する一刀斉は、さらに奇妙な行動を見せた。なんと、腰に帯びたる自慢の差料、一文字の名刀“瓶割り”の太刀を引き抜いて、剣を片手に歩き回るのである。
流石に善鬼も典膳も不信を覚えたが、それでも今は気を散らす訳にもいかない。ただ、目の前の相手だけに意識を集中する以外に無いのである。
剣を携えた一刀斉の姿が、典膳の肩越しに善鬼には見える。一刀斉が刀を両手に持って、今にも斬りかからんとするようにすら見えた。
それでも善鬼は気を殺がれぬように必死で己を抑えていた。
そのまま歩きだした一刀斉は、今度は善鬼の背後に回った。その姿に、典膳も気を散らさぬよう集中力を保っていた。
不意に__善鬼の背後に回った一刀斉が歩を進めた。まるで善鬼に後ろから一太刀浴びせんとするようであった。否、太刀を構えた一刀斉は、今にも善鬼に斬りかかる所であった。
流石に典膳の意識が途切れた。
一刀斉の太刀が疾り抜けたその時__善鬼は素早く前に動いていた。典膳が集中を解いた瞬間、背後の殺気に身体が反応したのである。
「何を為さいます!?」
叫んだのは典膳であった。
振り返った善鬼は、咄嗟には今起きた事を把握できず、暫し__否、時間にすればほんの一瞬だったが__茫然と太刀を振りぬいた師匠の姿を眺めていた。
もし、一刀斉が善鬼の生死などに頓着せず、無心に斬りかかっていれば恐らく逃げ切れなかったであろう。一刀斉は善鬼の足を狙ったのである。その迷いがわずかな隙を生み、善鬼を取り逃がしたのであった。
「善鬼……」
一刀斉は声を漏らした。なんと言おうとしたのかは分からない。何やら済まなそうな表情が、間の抜けた印象を与えていた。
「……そうか……」
血の気を失った顔で、善鬼は呟いた。
「そう言う事であったか……」
太刀を握りなおした善鬼が、改めて物凄い形相で一刀斉に対した。
「おのれ一刀斉、そこまでわしが憎いのか__」
「ぜ、善鬼……」
この期に及んで一刀斉が何を言わんとするのか、今になって如何なる弁明を口にするのか、そのような事は今の善鬼にはどうでも良い事であった。
「こ、これは……」
善鬼が一刀斉に斬り付けた。一刀斉が辛うじてそれをかわす。
典膳は何をして良いのか分からず、そこに佇んでいた。だが、今は取り敢えず善鬼を止めねばならない。
「善鬼殿__」
典膳が力無く声をかけたが、それくらいで善鬼の怒りを止める事など出来るものではない。
「善鬼殿、待たれよ__」
「ええい、邪魔立て無用!」
善鬼が一喝した。
「典膳、貴様との決着はこの老いぼれを黙らせてからだ!」
典膳の制止など聞く耳持たぬ善鬼は更に一太刀、一刀斉に浴びせた。
「典膳__」
一刀斉が典膳に呼びかけた。
「善鬼を倒せ!」
典膳には、師が何を言っているのかが理解できなかった。
「善鬼を倒せ、早うせぬか、典膳、典膳!」
典膳は動かない。師である一刀斉の不条理な言動に、何をして良いのか判断できないのであった。
しかし、今は善鬼を止めねばならない。他に何も考えが及ばなかったが、それだけは判る。
「__うお__!?」
善鬼の太刀打ちを受け切れず、一刀斉が手にした得物を撃ち落とされた。
典膳が茫然と佇む前で、怒り狂った善鬼の太刀捌きに見る見る一刀斉は追い詰められ、手にした瓶割りの太刀も取り落とし、逃げる事もままならぬ有様であった。
「善鬼殿__」
漸く典膳は声を上げ、善鬼に呼びかけた。しかし典膳の制止などに、善鬼は全く応じない。
「善鬼殿、お気を鎮められよ!」
鎮められよと言われて鎮められるものではなかった。
「善鬼殿!」
ついに典膳は善鬼に駆け寄った。
「善鬼殿!」
「ええい、黙れ!」
「うわ__!」
戦意の無い典膳は憤怒に燃えたぎる善鬼の狂気じみた太刀打ちに手にした刀を飛ばされ、自身も草むらに転がった。
「善鬼殿……」
典膳は、ただ力無く呟くのみであった。
ふと__
「__」
典膳の手に、一振り刀が触れた。自分の差料、波平行安ではない。たった今、一刀斉が取り落とした瓶割りの太刀であった。無意識にそれを握ると、典膳は立ち上がった。
「ま、待て、善鬼。話を……」
「この期に及んで見苦しい!」
無手になった一刀斉に、善鬼は更に真一文字の一太刀を放った。
「うっ!」
とうとう一刀斉はその場に尻もちを付いて座り込んでしまった。一刀斉の懐から巻物が零れおちた。例の、秘伝書であった。
「ここまでですな、師匠殿__」
一刀斉を見降ろしながら、傲然と善鬼が立ちはだかった。
「姑息な手を弄して嬉しう御座るか?」
その場に座り込んだ一刀斉は、恐怖の色を浮かべたその目で善鬼を見上げた。歯の根も合わぬほどに震えたみすぼらしい、見るだに哀れを催すその姿に、善鬼は言い知れぬ怒りを覚えた。
“師匠殿……”
善鬼は、何と言ってよいのか自分でも分からぬ激情に駆られていた。
世に剣聖と名を知られ、本朝数多在る武芸者から畏怖と羨望の目で仰がれた、伊藤一刀斉の無残な姿に善鬼は目も眩むばかりの憤激を、悲哀を、そして屈辱を覚えていた。
卑怯な手段を用いて善鬼を仕留め損ね、逃げ回った挙句に草むらに座り込み、今にも命乞いでもしかねないその老人は最早名人でも剣聖でもない。
これがあの一刀斉なのか。
かつて大和川の辺で己を打ち据え、今の今まで師として限りない尊敬と感謝の念を抱き、いつか倒すべき目標と目指してきた、あの一刀斉とは信じられなかった。
許せぬ__善鬼の偽らざる想いだった。
一刀斉は全てを裏切った。
これまで一刀斉を信じて従ってきた自分を、典膳を、そして彼の名を高らしめる為に散っていった武芸者たちを、流儀の継承という美名の元に斬捨てた嘗ての門弟たちを。
そして、何より過去の一刀斉自身を裏切ったのである。
“全てに決着を付ける__”
善鬼は、何かを振り切るように今一度大きく息を吐くと全身に気合いを漲らせた。
ふと__善鬼の目に、秘伝の巻物が映った。
何を思ったか善鬼は、巻物を拾うと口に咥えた。修験道には巻物を咥えて印を切り、精神を集中する行がある。その時の習性が自然に出たのかも知れない。巻物を口にして一刀斉を見降ろす善鬼の姿は妙に芝居じみて、後世の人間が見れば歌舞伎の児雷也を連想したかもしれない。その、ある意味では滑稽な姿は却って不自然な凄みを醸し出し、この世の者ならぬ壮烈な違和感を漂わせている。恰も一刀斉を冥土に引き摺り下ろす為、別世界から立ち現れた異形の存在のようにも見えた。
巻物を咥えた善鬼は、刀を構えて振り被った。
一刀斉は死を覚悟した。恐怖も感じてはいただろうが、この瞬間まで善鬼に命乞いだけはしなかったのは、一刀斉に残された最後の矜持だったのかも知れなかった。
“さらば、我が師よ__”
上段に掲げた刀を振り下ろそうとした、その時__善鬼の背中に、冷たい衝撃が疾り抜けた。
「!」
善鬼が振り返ると、そこに典膳が立っていた。
その手に、血の滴る“瓶割り”の太刀を携えて。
信じられないものを見る目で、善鬼は典膳を見つめていた。
一刀斉は、未だ何が起こったのかを把握できないでいる。
ぜえぜえと、息を乱したまま、典膳が善鬼と対していた。典膳が、何かを言おうとした。どんな言葉を口にするのかまでは頭が回らない。只、善鬼に何かを語りかけようとした。
が、その目に憎悪の炎を湛えた善鬼は今一度、手にした剣を大上段に振り被った。
重低音のようにあからさまな殺気に、典膳の身体が無意識に反応した。
「__!」
典膳の一太刀が、善鬼の左肩に食い込んでいた。典膳の脇すれすれを、善鬼の太刀打ちが疾り抜けたのと同時だった。
「__ん__ぐう__」
鮮血を噴出した善鬼は、仰け反ってその両眼をくわっと見開いた。巻物を咥えたままの口から、くぐもった叫びが漏れていた。
典膳は、喘ぎながら茫然とその姿を眺めるばかりだった。一刀斉は、漸く状況を悟ったのか、眦を見開いて事の成り行きを見守っていた。
その時、天から雨粒が落ちてきた。
「……善鬼……殿……」
断末魔の善鬼に尚も、典膳は何かを語りかけようとした。
「……ぜ、善鬼……」
一刀斉の口からも、思わず言葉が漏れた。
だが、彼らの呼び掛けは善鬼の耳には届いてはいなかった。肩から噴き出す自らの血しぶきで赤く染まった善鬼は、前へ後ろへ、おぼつかぬ足取りでヨロヨロと揺れたのち大地に倒れ込んだ。大きく見開いた両目が、無念げに天を睨み、その口には依然巻物が挟まっていた。
「……善鬼……ど……の……」
仰向けに倒れた善鬼は暫らく痙攣していたが、やがて最後の蠢動を止めたのである。
重苦しい風が、小金ヶ原の草原を吹き抜けた。
善鬼はその場に倒れて絶命していた。
典膳は放心状態で立ち竦んでいた。
一刀斉が、脱力感とともに座り込んでいた。
「……う……」
やがて、典膳の口から嗚咽が漏れ出した。
「うおーっ__!」
典膳は絶叫した。
善鬼は身動ぎもせず、そこに倒れていた。
「典膳……」
その姿を、救いようもない罪悪感にさいなまれた一刀斉が見守っていた。
雨足が更に勢いを増してくる。本降り間近の雨垂れである。
「__善鬼殿ォーー!」
天に向かって、典膳は叫んだ。
「何故__何故え__!」
典膳の頬に、滴が滴っていた。
刻々と雨を降らす雲のかかった曇天を仰ぎながら、典膳は悲憤と、そして恨みの絶叫を放っていた。
「善鬼殿、善鬼殿―__!」
何に対する恨みだったのだろう。
無二の友と言うべき兄弟子を葬らねばならない自らの運命か、対決を迫った善鬼にか、卑劣な手段でこの決闘を穢した師匠一刀斉にか、それとも、誰でもない、己自身の存在を恨んで声を上げたのかも知れない。
「善鬼、殿ォー!」
雨の降りしきる小金ヶ原に、典膳の号泣が鳴り響いていた。
この物語もいよいよ最後です。
御付き合いいただきました読者の皆様、ありがとうございました。