其の拾七
「いや__」
一刀斉は善鬼の顔色を窺うように言った。
典膳も何事かという面持ちで善鬼を見詰た。
「只の書付じゃ。大した意味はない。これから随身するに当たって典膳の為を思ってじゃの……」
「納得行きませぬ」
善鬼は堅い声で、断固として言い切った。
「師匠は、この善鬼めが典膳に劣ると申されるのか?」
「善鬼……」
一刀斉にも、善鬼が何を言わんとするのかが理解しかねた。
「落ち着かぬか善鬼。これは世間へのはばかりに過ぎぬ」
「と、なれば世間では一刀斉一門において第一等の使い手は神子上典膳、小野善鬼はその下に在ると噂致しましょうぞ」
「善鬼……」
一刀斉も言葉に詰まった。普段ならばこのように些細な事柄など皮肉な薄笑いでやり過ごす筈の善鬼が、何故ここまで食い下がるのか理解できないのだった。
今回の件は完全に一刀斉の勇み足だった。
一時、典膳が一行から離れた際、善鬼に決着を付けぬかとカマを掛けたことがある。善鬼は詭弁を立ててその申し出を曖昧に誤魔化した。既に善鬼の心は変わり、全ては穏やかに運ぶ物と一刀斉は期待していたのだ。否、内心は反発しても敢えて最後まで抗すまいと高を括ったのである。確かにもう少し慎重に事を運べば善鬼も反対の理由を見つける事は出来なかったであろう。一刀斉の軽率な推薦文は、善鬼に絶好の口実を与えてしまったのである。加齢による焦りか、病が齎した衰えのせいで気働きもおろそかになったのか、この一刀斉の拙速な行動が最終的には取り返しのつかない悲劇の幕を開けてしまったのである。
「……分かった。善鬼、そなたがそこまで言うのであらばこの推薦状は破棄しよう」
「今更斯様に仰せられた所で面目は立ち申さん」
「善鬼……」
善鬼の執拗さに、一刀斉もほとほと疲れてしまった。
「さればどのようにすれば、その方は得心致すのか」
「ここに居る__」
善鬼は典膳に目線を据えた。
「典膳めと一対一で尋常の勝負を致し、どちらが我が一門第一等かを証明したいと存じまする」
その一言に、一刀斉は茫然となった。
「ぜ、善鬼……」
力無い声音で、一刀斉は呟くように言った。
「そなた、己の言わんとする事の意味が分かっておるのか?」
「無論、言われるまでも御座らん、全て、重々承知の上__」
くどいまでに善鬼は念を押した。
元々、善鬼は一刀斉と、更に典膳に対していつかは決着を付けねばならぬと思い決めていた。しかし、一刀斉は老いと病にすっかり衰え、既に善鬼の相手は務まらなくなっている事は一座の誰もが承知している事であった。
そして__典膳との勝負も、避ける事の出来ない宿命であると善鬼は堅く信じていた。元来思い込みが激しい善鬼は常にそれを意識し、典膳本人の前で口にも出していた。その信念は強烈な暗示となり、自らの言葉に束縛されて自分で自分を追い込んでいった。そして今、行きがかりとは言えこの場で口にしてしまった以上、最早善鬼にも引っ込みは付かないのだ。
「無論、典膳が承知すればの話でござるが」
善鬼の一言は一刀斉にとって最後の望みであった。
「て、典膳……」
一刀斉は、救いを求めるような顔を典膳に向けた。
「お受けいたします」
典膳の回答に、一刀斉は奈落の底へ突き落され、善鬼は歓喜に打ち震えた。否、その震えが必ずしも喜びだけだったのかどうかは分からない。本人にも、その震えの意味するものが何であるのか、しかとは理解しかねた。只、己が身の内に強烈な震えが一瞬走り抜けた事だけは実感できた。
「善鬼殿がそこまで仰せられる以上はお受けする他ございませぬ。ここで善鬼殿の申し出を断ったとあらば善鬼殿に対する非礼であるばかりか、この典膳にとっても面目を失う事になり申す。謹んで、この勝負お受けいたしましょうず」
最早一刀斉の頭は完全に思考を停止していた。
「典膳」
善鬼は何かを噛み締める様に言った。
「よくぞ申してくれた。これでわしも兵法者としての一分が立つというものじゃ」
「善鬼殿__」
典膳もまた、感無量という気色で答える。
「もう、何も言う事は御座いませぬ。常日頃、善鬼殿が申されておった通り我ら二人はいつの日か刃を交えて雌雄を決せねばならぬ身でありました。どちらが勝ったとて遺恨を残さぬよう、尋常に試合いましょうぞ」
盛り上がる二人をよそに、一刀斉は顔色を失って狼狽していた。