其の拾六
「__という次第じゃ」
一刀斉は善鬼、典膳の両名を呼び、上座から仕官に当たって推薦状を用意したと、その旨を伝えた。戦場往来の荒武者ならば旧主から戦働きに応じて感状が下されるが、兵法者の場合それが無いので師匠が推薦文を書き上げるのであった。
善鬼も典膳も、顔を伏せたまま師の話を聞いていた。一刀斉にも、彼らの気持ちは痛いほど良く分かる。
“そなたらの為じゃ”
この年まで住居も定めず家庭も持たず、世間に背を向けてひたすら孤高の身の上を貫いた一刀斉が実感した、痛切な世間智であった。若い彼らに同じような苦労をかけたくはない。一刀斉の親心であった。しかし、親の心子知らずと云う諺の通り、善鬼も典膳も納得しかねるようであった。
“致し方あるまい”
彼らの意見も聞かず勝手に話を進めるのは気が咎めるが、こういう事は時期を逸してはまとまる話もまとまらなくなってしまう。余り待たせると、里見家の方で別の誰かを推挙するかもしれない。事は迅速な方が良いのだ。いつかは感謝してくれるであろうと一刀斉も思った。別に感謝せずとも良い、正直な話、彼自身が疲れてしまったのだ。
「典膳、それで良いか?」
すぐには答えず、典膳は顔を伏せたまま黙っていた。
善鬼は傍らで典膳の次なる言葉を、耳を澄ませて待っていた。
勿論、断る事を期待して。
「__承知仕りました」
苦しい決断を下した、典膳の回答である。
善鬼は目の前が真っ暗になった。
“矢張り、違うのか__”
善鬼は思った。
典膳は自分と違う。所詮、主持ちの侍なのだ。仲間だと信じていた典膳に裏切られた気分であった。善鬼には、一刀斉と典膳しか居ないのだ。単に身分や素性の事だけではない。善鬼は凡そ人から好かれる性格ではなく、自分から積極的に心を開く事もない。その自分を兄弟子と押し立て、胸襟を開いた友垣が典膳であった。それだけに、仲間として共に闘ってきた典膳と袂を分かつのは身を切るように辛かった。しかし、本人はそれを自覚できていない。認めるのが辛かった。只、自分でも説明のつかない憤りが全身に駆け巡っていた。
典膳が一刀斉の命に従ったのは、単に師匠の指示であったと云うだけではなかろう。矢張り彼は代々主に仕えてきた武家の出なのだ。
同門、というより戦友に近い善鬼より、主家の命を優先したのである。
“典膳よ__”
己自身、意識せざる善鬼の心の内は、恐らくこのような言葉になったであろう。
“典膳、貴様は行くのか。俺をおいて一人行ってしまうのか”
もしかしたら善鬼の典膳への想いはある種、衆道のそれに近かったのかも知れない。
「典膳__」
一刀斉が妙な巻物を手にした。
「これは我が流儀の秘伝じゃ」
秘伝の巻物__そのようなまやかしを最も嫌ったはずの一刀斉が、今では斯様な代物を用意して世間を謀るとは、その変貌ぶりにも善鬼は凄まじい怒りを覚えた。
「何、世間ではこのような小道具が珍重されるでな。わしの教えはこのような紙切れには入ってなどおらん。そなたら二人の血となり肉となって脈々と息づいておるわ」
一刀斉は笑ったが、善鬼も典膳も一言もない。
「ついては典膳、仕官に当たっての推薦状じゃ」
一刀斉は読み上げた。
「右の者、神子上典膳、この者技輛抜群にして数多の他流試合に臨み尽く勝ちを得たり。その兵法天下に並びなく、我が一門においても第一等と認める……」
「御待ち下され」
口をはさんだのは善鬼であった。
「我が一門において第一等とは如何なる事におわしますや?」
善鬼の疑問に、一刀斉は凍り付いた。