其の拾四
典膳は旅立った。
後には善鬼と一刀斉が残された。
典膳が居なくなって、善鬼の心にぽっかり穴が開いたようであった。寂しさ、遣る瀬無さ、否、それだけではない。
矢張り、自分と典膳は違うのだ。善鬼はそれを噛み締めていた。典膳には帰る場所がある。故郷があり、彼を必要としてくれる主家が有るのだった。善鬼にはそれがない。自分を必要としてくれるのは師匠である一刀斉だけ、帰る場所は師の居る所だけなのである。
彼の生まれ故郷は貧しい農村である。八人兄弟の五男として生まれ、その激しい気性のせいで村の持て余し者であった。実家でも彼を疎んじ、家を継いだ兄からはいつも冷たい目で見られていた。利かん気で人の言う事を聞かず、村の暴れ者の善鬼は常に周りから疎外されていた。その腕っ節で身を立てるべく参加した戦場では思うようにならず、とうとう浮き世を離れて山伏になるしかなかったのである。いざ合戦となると役立たずの善鬼を、人は軽蔑した。
「見よ、生まれは争えんのう」
士分階級の侍達は優越感と安堵をもって戦場で震える善鬼を見下すのである。時代は下克上の真っ只中、実力さえあれば誰でも、幾らでものし上がれる御時世だった。上は室町将軍足利義昭が織田信長に追放され、下の方でも素性卑しけれど実力有り、を吹聴する成り上がり者が大手を振って横行する時代である。逆にいえば上に在る者にとっては常に引き摺り下ろされる恐怖を抱かねばならない不幸な時代なのである。それだけに、臆病者の善鬼は彼ら地侍にとって侮辱すべき格好の相手だった。善鬼を嘲ったのは侍ばかりではない。寧ろ同じ階級に属する者達の方が善鬼に辛く当ったのである。
「あのような臆病者が居るからわしら足軽が侍どもに侮られるのじゃ」
同じ下層階級出身だけに、善鬼の不甲斐無さは見るに耐えぬのであろう。それに、善鬼が怯えるのは合戦の時だけで、平素はその巨体と荒っぽい気性で周囲の者たちを平伏させていたから、その恨みを込めてここぞとばかりに誰もが善鬼の事を非難するのである。普段の心掛けが悪いと言えばそれまでだが、自尊心の強い善鬼としては耐え難い屈辱であった。
そして修験道に身を投じた善鬼は伊藤一刀斉に見出され、漸く自分の居場所を与えられたのである。
典膳も同じだと思っていた。だが、彼は違った。自分とは、生まれも育ちも、そして現在に至るまで何もかもが違う人間だという事を嫌というほど思い知らされたのである。
裏切られたような想いだった。
“典膳__”
「善鬼よ」
草原に寝転んで、満天の星空を見渡す善鬼に、一刀斉が声をかけた。
「また、二人だけになってしもうたのう」
一刀斉には善鬼の気持ちが良く分かる。彼もまた、善鬼と同じような階層に生まれただけに、気持の通ずる所はあるのだ。伊豆大島に生まれ、板子一枚にすがって伊勢まで流れついて以降、波乱の生涯を送った一刀斉である。矢張り、一刀斉にとって掛け替えのない弟子は典膳ではない。善鬼だった。
「典膳は、戻って来おるかのう」
「戻って参ります」
星空を見上げたまま、善鬼は力強く言い切った。
「そうか__ぐほっ__」
「師匠?」
またしても一刀斉が咳込んだ。
「心配いらぬ、いつもの事じゃ」
「師匠……」
「どうじゃ、善鬼よ」
咳の止まった一刀斉が、善鬼に言った。
「そろそろ、決着を付けぬか?」
「決着?」
「うむ__」
一刀斉は頷いた。
決着__一刀斉と善鬼の間の決着、それは当然刃を交えての師弟対決であった。
元々善鬼はその為に一刀斉についてきた筈だった。
「そなたの業前は既に申し分無い。ここらで一つ、決着を付けぬかのう」
善鬼は答えず、黙っていた。
今、一刀斉と戦えば十中八九、善鬼の勝ちであろう。一刀斉の言う通り、既に善鬼の腕前は一刀斉を凌ぐほどになっている。加えて今の一刀斉は年齢とともに体調を崩し、その力は目に見えて衰えてきていた。今試合えば間違いなく一刀斉に勝つ筈である。
だが__
「師匠の仰せなれど、慎んでお断り申し上げまする」
「ほう」
一刀斉も淡白に答えるだけであった。
「何故じゃ」
「それは……」
善鬼は答えに詰まった。
「それがし、未だ師匠殿に打ち勝つ自信が御座いませぬ故、この善鬼、その下知には従いかねまする」
「貴公の腕前は既に天下に鳴り響いておるではないか」
「されど、師匠と手合せするにはまだ自信が御座りませぬ。申し訳無う存ずるが今少しお待ち願えませぬか」
「__そうか」
一刀斉はそう言ったきり、何も言わなかった。
「さればこれ以上申すまい。そなたにその気が無いとあらば仕様の無い事よ」
「面目次第も御座りませぬ」
何故、善鬼はこのように当たり障りのない、というより見え透いた遁辞で一刀斉との対決を避けたのであろう。
当然の事ながら、一刀斉を斬りたくなかったからである。しかし、善鬼本人はそうは思わなかった。
“典膳との、約束が有る”
そう思っていた。いや、自分にそのように言い聞かせた。
“典膳__”
善鬼は星空を見上げた。
“戻って来い。必ず戻って参るのじゃぞ、典膳よ”
善鬼は思い出していた。
いつか交した、典膳との他愛ない会話である。
「善鬼殿」
典膳が善鬼に問いただした。
「善鬼殿の、小野という姓は如何なるいわれで御座るか」
「いわれか」
そう言われても、善鬼には困ってしまう。
「いわれなど無いわ」
「元からの姓にあられるや?」
「そのような訳はなかろう」
善鬼も、正直に答えた。
「わしに元々氏素性など無い。小野というこの名字も、師匠殿が勝手に付けただけの姓に過ぎぬ」
「左様か」
典膳も納得したようであった。
「何ゆえに、斯様な事を問うのじゃ」
「いや、小野という姓は__」
典膳が答えた。
「拙者の母方の姓と同じにござってな」
やや照れたように典膳は答える。
「それで、自分と善鬼殿は遠い親類筋にあたるのではないかと思い、伺いましたる次第」
「なんじゃ」
普段は常に顔を強張らせたような善鬼も、思わず苦笑いを洩らした。
「これは師匠殿がわしに与えてくれた姓じゃ。元々わしのものではない」
「師匠殿が__」
典膳は感慨深げに言った。
「考えてみますれば、我らがこうしてここに居りまするのも全て師匠を介した縁にござる。されば、矢張り師匠は我ら二人を合わせるべくしてお引き合わせ為さったので御在ましょうや」
「ふむ__」
善鬼は、その時何も答えなかったが、今となっては典膳の言う通り、全ては一刀斉が計らった物ではなかろうか。
「矢張り、師匠殿は我らにとって氏神の化身ではありますまいか」
「かも知れぬな」
善鬼も、典膳の言った事を今一度噛み締めていた。
全ては一刀斉を介して始まった。
そう、今ある全ては。