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其の拾参

「善鬼殿」

典膳が善鬼の前に立って頭を下げていた。

「善鬼殿、御勘弁下され__」

「何の事じゃ」

分かっていながら、善鬼はしらばくれて答えた。

「この度の試合、善鬼殿の裁可を待たずして勝手な振る舞いに及びましたる事、何と詫びてよいものやら……」

「その事なら良い」

善鬼は無造作に言っただけであった。

「師匠殿がそなたに言い聞かせた故、これ以上わしが言うべき事など無いわ」

こういう時、後輩が先輩に負い目を作った時には優しい言葉の一つもかけてやるか、逆に叱り飛ばすくらいの事でもした方が後腐れが無い物だが、善鬼にはそういう気配りが出来ないらしい。否、出来ないというよりは意識的に蟠りを作ろうとしているかのようであった。善鬼とはそういう性格でもある。どちらかと言えば根に持つ、というより寧ろそういう禍根を抱く事により、己の発奮材料にする。陰険と言えば陰険ではあるが、そういう恨みっぽさが彼の原動力に成っている事も紛れもない事実であった。

「じゃが__」

善鬼も一つだけ典膳に言うべき事があった。

「昨日の試合を目の当たりにしてわしも考え方を改めたわ」

善鬼が何を言わんとしているのかが掴めないのか、典膳は黙って次の言葉を待っていた。

「典膳よ、わしは正直そなたを見くびっておった。その方がひ弱な、まだ試合など出来ぬ半人前じゃと思い込んでいた」

善鬼はこういう点で正直であった。

「だがあの試合に臨んでのそなたの振る舞い、些かの動揺も見せなんだ腹の据わり様にわしも改めて考え方を変えねばならぬと思うた」

「善鬼殿……」

「これからは、わしとそなたは対等の立場じゃ。今迄のように兄弟子面で見下すような傲慢な事はない」

「もったいなき御言葉にござる」

「ただし__」

善鬼は改めて語気を潜めて言った。

「代わって対等の敵とも見なす事にした。今迄わしの倒すべき目標は師匠殿のみと思い定めておったが、今日からはそなたもその一人ぞ」

「過分なる御言葉、身に余る栄誉でござる」

裏表のない善鬼の言葉に、典膳も心からの謝意を口にした。

このやり取りを蔭から窺っていた一刀斉が、安堵の想いを実感した。どうやら善鬼は今回の件については既に水に流すつもりらしい。粗暴で意固地だが、そういう点では潔い所もある善鬼だった。少なくとも、腹に何かを蔵して人を陥れるような性格ではない。寧ろそういう不正が許せぬ、度を越すほどに恨みを抱くような性格でもある。数年前に死亡した、織田右大臣がこのような人柄であったと聞いている。

これで、一刀斉が抱いていた不安の一つは解消された。だが、新たに別の危惧も一刀斉にはあった。馬鹿正直な善鬼の性格からして、典膳に言った事は只の激励や照れ隠しではなく、紛れもない本心であろうと察せられたからである。或いは、本心ではなくとも口にした以上はその言葉に責任を感じるであろう。



その後、善鬼と典膳は互いに腕を競い合うように修行に励み、益々技量を高め続けた。

一刀斉の両刀、無頼の凶剣小野善鬼、非情の剣辣神子上典膳の名は本朝に知れ渡り、今では一刀斉一門に挑戦する輩は真実命を落としても構わないという糞真面目な求道者か、余程身の程知らずな愚か者だけとなった。少なくとも軽い虚栄心からこれに挑もうなどと云う事を考える者は居なくなったようである。

「近頃試合から遠ざかっておりますな」

「油断するでない」

典膳の軽口に、善鬼は怖い顔で言った。

「世の中は広い。いつ何時我ら一門に勝負を挑む兵法者が出て来ぬとも限らぬ心して掛かるが良い」

「あい分かり申した」

凶悪無残な善鬼の恐剣、涼やかな眼差しで相手を斬捨てる氷の戮士典膳、この二人に巷の剣客どもは恐怖の噂を掻き立てた。

二人の稽古もおさおさ怠りなかった。

単に腕を磨いて一門の名誉を守り抜くなどという生易しいものではない。遅かれ早かれ何れは戦う宿命にある二人だ。稽古の中から、少しでも相手の弱点を見つけ出そうと必死であった。

組太刀稽古の最中、善鬼は密かに殺気を典膳に送る時がある。それは相手に察知されない、実戦で使用する殺気だ。典膳は気付かぬようである。それが芝居なのか本当に典膳は己の殺気に気づかぬのか、善鬼はしかと分りかねた。

「善鬼殿__」

露骨な殺気に対しては典膳も反応する。

「そのように恐ろしい気合いを込めんで下され」

苦笑いで典膳がやり過ごす。

「何を言うか、典膳」

善鬼も言い返す。

「実戦にあっては敵がどのように来るやもしれぬのだぞ。この位で怯んで居ってどうするか」

そう言いつつも、典膳がどこまで本気であるのか善鬼には測りかねる所であった。互いの手の内を探り合いながら、善鬼は典膳との組太刀を必死に続けるのだった。

しかし、苦楽を共にして修行に励む同門同士、益々目に見えない絆は深まって来る。だが、その絆が逆に彼らを破局に誘おうなどと、誰が予測し得たであろうか。

善鬼は、典膳が自分と同じ、兵法に全てを賭けた求道者であると信じていた。典膳自身もそうであると、無邪気に思い込んでいた。だが、その思い込みが幻想であると思い知らされる時が来たのであった。

時に天正十七年。九州をほぼ制圧した豊臣秀吉は天下統一を目前まで達成し、とうとうその矛先を関東の覇王北条家に向け始めたのであった。

典膳の主家である里見家も、否応なくその渦中に在った。長年の宿敵とも言うべき北条氏を討伐するというので秀吉と協定を交わしたのは良いのだが、その一方で以前の盟友で今では仲の悪い土岐家ともいざこざを起こし、里見一族は現在万喜城を攻めに掛っている最中であった。

「師匠殿」

一刀斉の前に、典膳がまかり越した。

「この度は暇を乞いに参りました」

「よい、皆まで申すな、典膳」

一刀斉にも事情はよく分る。

「そなたの気持ちはよう分かった。上総に帰るが良い」

「師匠殿__」

ここ数年、一刀斉の衰えは益々進行していっている。頬のこけた、はかない風貌で激励する一刀斉の心遣いに、典膳は感動を抑えきれない。

「行くが良い、典膳。ただし、事が済んだら必ずや戻って参れ。いつでもわしらは供に在るという事を忘れるでないぞ」

「師匠殿……」

典膳は声を詰まらせた。

「典膳」

善鬼も典膳に一言掛けた。

「分かっておろうな、貴様の帰る場所はここだという事を。わしと師匠殿の在る所がそなたの帰る場所じゃ」

「善鬼殿……」

典膳は、今にも涙を流さんばかりであった。

世間の、所帯の大きな流派には彼らの気持ちは理解できぬであろう。師一人、弟子二人の一門にあって、この三名は今や切っても切れない堅い絆で結ばれていると言って良かった。しかも、命を賭けて腕を磨き、一門の名誉を守り抜いてきた同門である。その結びつきも自然に強くなっていたのである。

「必ずや、戻って参ります」

「しかと約束したぞ」

善鬼は典膳の手を握り締めた。

「良いか、わしとそなたは師匠の跡目を争う宿命の間柄でもあるのだ。戻れ、戻って必ず他日雌雄を決しようぞ」

「はは__」

典膳はとうとう泣き出してしまった。

「典膳、そなたの命はわしのものぞ。わし以外の者の手に掛ってあい果てる事など、断じて許さぬ、然様心得ておけい」

「構えて__」

固い約束であった。そして最終的には悲劇の端緒ともなる約束であった。だが、この時三人の誰もがその結末を知る由もないのである。

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