其の拾壱
当日。
試合会場となった原野に介添えの者を三名ばかり引き連れ、井原五郎兵衛が姿を現した。
少し遅れて、一刀斉と二人の弟子達が到着した。
「井原五郎兵衛でござる」
見るからに涼やかな容儀の井原が、一刀斉に対して恭しく叩頭して見せた。
「伊藤一刀斉景久と申す__」
初対面の両名は、互いに名乗りを上げて礼を交わした。
「本日は試合を受けて頂き、この井原五郎兵衛、誠に恐悦至極に存ずる」
「いや__」
一刀斉が、判っていながら確認を取るように井原に言い返した。
「試合をお受けするはこの一刀斉に非ず、こちらの__」
「承知いたしており申す」
一刀斉に皆まで言わせず、井原は口を挟んだ。
「まずは、景久殿の前に御高弟の小野善鬼殿と立ち会う、それは重々弁えて居りますれば」
既に、一刀斉に挑戦する為には善鬼と手合せせねばならぬと言う評判は知れ渡っていた。
先程から善鬼は、井原の人を見極めんと必死に目を凝らしている。と言っても目を剥いてジロジロ眺めている訳ではない。井原の容姿、挙動、言動から気配まで、些細な事までも見逃すまいと微に入り細に渡って観察しているのである。
“わしが出るか、典膳を出すか__”
もし相手の見定めを誤れば大変である。うわべだけ行儀が良いからと言って試合まで正々堂々の勝負を仕掛けてくるかは分からないのである。もし、典膳を試合に出して後れを取る事になれば取り返しの付かない事になる。典膳が死ぬくらいなら兎も角、自分も含めた一刀斉一門の恥となるのだから真剣にならざるを得ないのである。無理に典膳に試合をさせずとも、どうしても見極めが着かねば自分が出れば済むだけの事だが。
“どうやら邪法使いではなさそうだが”
善鬼は一刀斉にも目配せで伺ってみた。どうやら師も自分と同じ考えらしい。
“典膳に、やらせてみるか__”
善鬼は踏ん切りが付かない。
傍らでは、典膳が顔を引き締めて控えていた。二人とも手には木刀、鉢巻きにたすき掛けの試合支度のいでたちだった。井原の供の者たちもいざという時に備えて、たすき掛けの用意は同じだった。
「さて__」
善鬼が逡巡している間に、井原が一刀斉から弟子の二人に目線を映した。
「早速試合を行いましょうず。小野善鬼殿は何れの御仁におわしますや?」
善鬼が答えようとすると、典膳が井原に向って口を開いた。
「小野善鬼にござる」
典膳の思わぬ言動に、思わず目を見開いて驚いたのは善鬼である。
「こちらが善鬼殿か、噂に聞いていたのとは随分違う御容貌なので勘違いいたした」
「斯様にひ弱な男とは思われませなんだか」
そのやり取りを、善鬼は呆けたように見守っていた。
「いやいや__」
井原が叶わぬと云う風に首を振った。
「話に聞いた所では善鬼殿は六尺豊かな偉丈夫で、その名の通り、顔付きも鬼のようであると伺っておりました故__」
と言いつつ、井原は善鬼の方を向いた。
「こちらの御仁かと思いこんで居り申した」
「いいえ__」
最初は緊張に顔を強張らせていた典膳も、このやり取りの間に開き直ったらしく、余裕をもって答えた。
「拙者こそが紛う事なき小野善鬼にござる」
善鬼は一刀斉の方に向き直り、指示を仰ぐような目で師匠を見た。
やらせてみよ__一刀斉の目はそう言っていた。
「されば__」
門人と思しき介添えの若者から受け取ったたすきで着物を締め、木刀を渡された井原は典膳の前に罷り出た。
「善鬼殿、尋常に勝負と参ろうや」
「承知__」
井原が典膳に相対した。
善鬼があれよあれよと見守る中で、試合が始まってしまった。
井原は木刀を中段正眼に構えた。典膳は一刀流の基本である、地摺りの青眼。
典膳は静かに呼吸を整えている。
両者、間合いを計っているようである。どちらが相手を己の間合いに取り込むか、それが勝負の行方を左右する。修験者上がりの善鬼はその気合いでもって相手を押し退ける様に自らの間合いをねじ込ませるが、師の一刀斉は静かに忍び寄るように取り込んで行く。初めて一刀斉と刃を交えた__真剣を手にしていたのは典膳だけだったが__時、典膳はまるでその姿を捉えることが出来なかった。善鬼との組太刀稽古では、その凄まじい気合いに押しまくられ、手を出すことも叶わぬ典膳だった。
そのいずれと比しても、目の前の井原は組みし易い相手である。
典膳は前に出た。気配を殺して静かに、まるで忍び寄るように井原に接近する。その姿は目の前に在りながら、殆ど手応えのない典膳に井原は戸惑っていた。
一刀斉も善鬼も、そして井原の門人たちも固唾をのんでこの試合を見守っていた。
もう、互いの太刀が届く寸前まで距離が狭まっている。井原は奇妙な感覚に捕われていた。理性では既に敵がすぐ近くまで接近していることは承知している。しかし、まるでその実感が湧かないのである。まるで、目の前に立っている相手が蜃気楼か何かのように感じられ、まともに目付ができないのだった。そして__
典膳が静かに間合いを詰めた。
木刀を掲げて太刀打ちの動作を思わせた。
その瞬間。
典膳は井原とすれ違う様に動いた。その時には、井原がその場に倒れていた。蹲った時には頭から血を流し、既に致命傷を受けていた。まだ息はあったが、恐らく手遅れである。すぐに手当てを施しても一命を取り留めることはかなうまい。
その場の一同、井原の弟子たち、一刀斉、そして善鬼も固唾をのんで硬直していた。
顔色一つ変えず井原を見下ろしていた典膳は、まるでとどめを刺した事を確認したかのように一つ頷くと、一同に涼やかな表情を向けた。
その姿を目の当たりにした善鬼に、幽かな戦慄が走った。