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放課後探偵満身創痍  作者: 緑乃箱
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正念場ってやつ

          ※     ※     ※


熊谷氏のいる部屋の前に立つと、水曜は閉じた扉の前にぴたりとてのひらを当てる。

数分目を閉じていたが、駄目だ、と力なく腕を下ろした。俺は傍から声をかける。

「あのさ、結界ってどうやって張ったの」

「御所で見たろ、蜘蛛の巣。あれを固定させた」

「固定って……」

 そんなことできるの? 理解できない俺に、水曜は扉の中央に貼ってある小さな薄い紙を指差す。シールか何かだと思って常日頃ろくに見てなかった俺は、目を凝らしてみる。

落書きみたいな蜘蛛の巣の絵の上に、丸っこく小さな字で『保持』って書いてあった。

「こ……こんなんで結界とか貼れるの!?」

言うと、水曜は頷く。

「命を継続させればいいだけだから」

「命じるって、何に?」

「前にも説明したろ。金曜の中の力に。金曜がいなきゃ私だけじゃ何にもできない」

 落ち込んでいる水曜を横に、俺は扉に貼ってある紙を剥がそうとしてみる。……はがれない。

「無駄だ。それは糊じゃなくて、金曜の力でそこにくっついてるんだから」

 水曜がため息をつきながら言う。俺は反論した。

「けど、これが金曜の力に方向づけをしてる命なんやろ。じゃ、これを剥がす程度の力さえあれば結界は解けるってことや。ここに働いてる力そのものには方向性がないんだから、命を取り消しさえすればばいいんやろ」

「まあ、そうだが、どうやって?」

水曜は不安げな顔をしている。

俺はそうだなあ、と天井を見上げた。踵を返す。水曜が慌ててついてくる。

「どこ行くんだよっ」

「水曜の部屋」

 どんどん進む俺に、水曜はええ!? と慌てふためき、部屋の扉の前に立ちふさがった。

「私の部屋で何するつもりだ!?」

「ちょっと思いついた事があって。あのさ、あの本見せて。ローマ字で書かれた古い本」

 俺はポケットからひめさんの書き置きを取り出す。水曜が屋敷の門前で自分の本の一部だと言っていた、あの茶色い紙片を人さし指で挟んで掲げる。

「これ、あの本の一部だって言ったろ? ホントに水曜の本に合致するか試そ」

さっきまで自信と落ち着きをなくしていた水曜の目の色が変わった。すっと冷静になり、目に澄んだ深みと力が戻ってくる。やっぱ水曜にとってあの本は特別な存在なんだ。

黙って自分から扉を開けた水曜は、部屋の明かりもつけずにまっすぐ棚へ歩み寄り、本を取り出した。テーブルの上に山積みになった白い紙を無造作に床へ払い落し、慎重な手つきで書物をひろげる。迷いのない手つきである頁を開くと、俺をじっと見据えた。

「欠けているのはこのページだ。その紙片を貸してくれ」

水曜がテーブルの上のランプをつけると、あたりが仄かに明るくなる。確かにその本には一箇所、破れがあった。俺が茶色い紙片を渡すと、水曜はそれをそっと破れた頁の上にのせる。

「ぴったりだ」

 俺は思わずそう呟いたが、水曜は驚きもせずうなずいただけだった。最初からわかってたみたいに。

「どこで見つけたんだ? この切れはし。お前が破ったんじゃないんだろうけど」

 水曜は、本が破れているのに気づいたのは、俺が来るずっと前で、およそ1年前だという。俺は口ごもった。

「いや、俺が見つけたわけじゃなくて」

 ひめさんの書き置きにくっついていたのだと話すと、水曜は眉をひそめながら聞き入っていた。静かに背後の水槽を振り返り、光るめるくりうす・びたえを見つめて言う。

「じゃひめが破ったのかもな。書き置きにひっつけたってことは、何か意図があったのかな。実はこの箇所、暗記してるけどずっと意味が解らなくて、めるくりうす・びたえにも適用できてないんだ」

 これが完成できないのはそのせいもあるのかも、と水槽を見つめて呟く水曜の横顔は寂しげだった。俺は何もコメントできず、無力に首の後ろをかく。あ、と思いついて言った。

「それにしても、このこきたない切れはしが本の一部だって、何ですぐわかった訳?」

 こきたないとか言うな、と水曜は嫌な顔をして紙を指差す。

「紙と字だ。これは和紙だろ。和紙にローマ字を印刷する例は少ない。それに本の内容は全部暗記してる。後は字間や字体が一緒。わからないほうがおかしい」

 それより、と俺を改めて見据える。

「思いついたことって結界を解く方法か? この本とどういう関係があるんだ」

 俺はうんと頷く。

「関係はないよ」

 何それ!? と叫ぶ水曜の抗議に俺は耳を塞ぐ。

「緊張続きやしブレイク入れようと思っただけやってば。ちょっとした思いつき」

 嘘だった。

 ほんとは水曜が大事にしてる秘伝書を確認したかっただけだ。この本の経歴にはちょっとひっかかるものがある。天草の乱で3人のキリシタンの3つの指輪と秘伝書を、由比正雪が奪った、と金曜から聞いた。水曜の持っているこの本は天草でキリシタンが秘密裏に印刷したものだという。赤ん坊の水曜の枕もとにその本がなぜ置かれたのか。由比正雪、天草のキリシタン、秘伝の書……これらは偶然というにはできすぎた符合に感じられる。

だから自分の眼でこの本の御魂を確かめたかったのだ。御魂を確認したけど、確かにこの本を巡って人が死んでる。そういう物の御魂には黒い染みができるのだ。それが《悪魔を呼びだそうとして天草で死んだ3人のキリシタン》かどうかはわからないけど。

 そうとは知らない水曜は疑わしそうな顔で俺にかみついた。

「この時間のない時に、一体お前何考えてるんだよ」

「だいじょぶ結界解く方法ならもう思いついた」

 え、と水曜は動きを止める。

「やっぱ水曜には御魂をげっとしてもらう。命を解くだけだから、何とかなる」

「で、でも、できるのかな」

 不安げな水曜の声を聴きながら、俺は机の上の書物をぱたんと閉じた。ひめさんのメモに添付してあった紙は水曜の本の一部だったわけだから、そのまま本の中に残していく。もう写しは取ってあるからだいじょうぶ。

「できる。ちょっと強引な方法を使うけど」

 水曜は緊張した面持ちで、だまって頷く。

「ところでこの部屋にノミとかとんかちとかある?」

 水曜は気を逸らされたかのように眉根を寄せた。何に使うんだよ、とぶつぶつ言いながら、それでも机の下から工具箱を引っ張りだす。ちゃんとあるとこがすごい。

「小さいけど」

「いいよ」

 言葉数すくなく受け取った俺はちっちゃな工具を手にとって重さを確かめると、窓辺に歩み寄る。しゃがんだ。漆喰の白い壁、それに少し掌を当てて目を閉じてから、ノミを当ててとんかちを振るった。ガン、と硬い音が響く。

「ちょっと!!!!」

 水曜が慌てて飛んできて俺の腕を引っ張る。

「何すんだ!!! 器物損壊!!!!」

「だいじょぶ、壁が欠けただけ」

 と俺は工具を2つとも窓枠へ置く。

「壁!! ぜんぜん大丈夫じゃない!!!」

 必死で欠けた壁を指差す水曜に向かって、俺は時間ないよーと棒読みで言った。

「騒いでる場合ちゃうよー。はい、あーん」

「へ? あ」

当惑した水曜が開けた口に、俺は指でさっき削った壁のかけらを押しこむ。

う、とすごく気持悪そうな顔で吐きたそうな彼女に、俺は言う。

「のみ込んで」

「うう」

水曜は無理矢理ごくん、と壁のかけらをのみ下した。俺は確認してからやっと指を外す。

「なんだよ今のっ!! ……じゃりじゃりする」

水曜は不可解な顔で俯き、右手で口を押える。その腕を掴んだ。

「行くぞ」

 どこに、って答える間も与えず部屋から引き出す。熊谷氏がいる部屋の前で立ち止まる。 水曜はまだ口押さえてた。涙目で俺とドアを見比べ、それからまた俺の顔を見上げる。目顔でどうするの? と尋ねる。

「家の御魂に手伝ってもらうことにした。見たところ相性も悪かない。っていっても、御魂を抜きとると寿命が残ってても家は命をなくして廃物になっちゃうから、一時的に力をお借りして、また家にお返しすることにする。いいか」

「わ、わかった。でもさっき食べたのはなに?」

「物理的に家の一部を体内に入れて水曜と家の御魂のリンクを起こりやすくする。普通御魂になってもらう物質とは時間をかけて交渉して馴染みになるんだ。今回はその時間がないから。水曜もずっと住んでる家だから、全く馴染まないってことはないだろうけど」

 当惑しながらも水曜はうなずく。

「私はどうすればいいんだ」

「これから俺は自分の持ってる土の御魂で家の御魂を起こす。出てきたら力をかしてくれるようお願いして。ドアの張り紙を外すの手伝ってって」

「お願いするだけ?」

「そう、そこが一番の勝負どころ」

 と俺は言って目を閉じる。土の御魂を掌のうえに呼び出して、小声で囁いた。

「土の御魂よ、この家の御魂を連れておいで」

 霞みがかった灰色の御魂がうなずくようにゆっくり明滅して、ふいと浮上すると天井の中へと消える。

僕は緊張しきって僕の背中に隠れていた水曜を前へ押し出す。

さあ、ここからだ、水曜。この家の御魂を味方につけられるかどうか。

水曜には家が廃物になるから一時的に借りてお返しするって説明したけど、まだ説明してないことがあった。

この屋敷は人死にが出てる。そういう由来のある物体の御魂は他の御魂より強力だが癖が強く、人に厄をもたらしやすい。常時体内にすまわせるにはあまりにも不向きな御魂だ。それでも、家の御魂はあの書物のそれよりはまだましだったから選ばせてもらった。

一時的に力を借りるだけにし、水曜に壁の一部を呑みこませて依り代にする。消化されない無機物にしか使えない荒技だが、これなら御魂となじみやすくなるし、力を行使しても内臓ではなく、依り代が破壊されるだけだ。

だがそれも、家の御魂が水曜を気に入ればの話だ。

もし水曜が相変わらず御魂の力を利用するだけのつもりでいれば、御魂は水曜を拒否するだけでなく、災厄をもたらすだろう。

あんまし初心者向けじゃない。でも、他にいきなり呼び出してお願いを聞いてくれそうで、しかも強力な御魂はいないのだ。絶望されると困るから、張り紙さえ剥がせばいいんだって言ってはみたけど、僕の持ってる土や木の御魂でも、金曜の力が護るあの扉の結界を解くのは無理だろう。

ここから先は水曜次第だ。

 ふうと廊下の電灯が翳る。数回のまたたきの後、ばちんと大きな音がして全ての明りが消えた。廊下に面したガラス窓にびりりと振動が走る。突風が来たときのような感じだった。だが最初は小さかった振動音が次第に大きくなり、次第に屋敷中を轟かせるような音になる。

水曜は最初、突然起こった変化に怯えたように目を閉じ、耳を塞ごうとした。だがその途中で動きを止める。固まったように見えた。そして、ゆっくりとその手を下ろし、背筋を伸ばす。

 顔を上げて、前を見た。

その水曜の前に、大きな暗く赤い光が浮かび上がる。不自然な死を経験した御魂には必ずある黒い染みが、斑点のように浮かび上がっている。その周りを小さく旋回しているのは俺の御魂だ。俺のもとに戻って来て止まり、これでいいですね、と言うようにそっと輝くと手に吸い込まれて消える。俺は数歩下がり、ようすを見守った。

じっととどまってこちらを観察するかのように光る御魂を、水曜は顎を上げて見上げる。

「御魂よ、お願いです。金曜を助けたいけど、私には力がない。貴方の力をほんの一瞬、お借りしたいのです」

祈るように水曜は目を閉じ、手を差しのべる。

暗い光は線香花火の火芯のようにじりじりと震えながらそこに留まっていたが、やがて水曜の手に近づいて、指先にふれた。

 水曜はびくっと体を震わせる。刹那、家の御魂は音もなく姿を消し、水曜ははっと目を開く。右手で胸を押さえ、結界の張られた扉に近づく。ためらいがちにその扉に両てのひらで触れる。

「お願い、この扉の張り紙を外して」

水曜の低く小さな囁きが聴こえた。命の書かれた張り紙に触れる。

僕には水曜の指先から赤く細い光が扉の上を縦横に走ったように見えた。

ひらり、と白い紙が舞い落ちる。足元へ落ちたのを俺が拾い上げた。クモの巣に保持の2文字。張り紙だ。

驚いたように1歩下がって扉を見つめ続ける水曜の前に、扉からぼうと鈍く光る御魂が現れた。しばらく水曜を見つめるようにそこに留まっていたが、やがて浮上すると、姿を消す。

ありがとうと水曜は呟いたようだった。

俺は止めていた息をようやく吐く。歩み寄って拾ったメモを水曜のてのひらに落とすと、ぼんやりと水曜は俺の顔を見る。

「成功したよ」

 俺がそう言った途端、水曜の大きな目から涙がこぼれ落ちた。

「何で泣くの」

「わからない。変なんだ。何も悲しいことなんかないのに、すごく悲しい」

家の御魂と同調したのだと思った。そう告げると、水曜はぽつんと言う。

「これは無力感だ。私と同じだ。助けたいけど、自分だけじゃ力が使えない」

 俺は黙っていた。水曜は目を拭って、俺を見上げる。

「でも不思議なんだ。悲しいのに同じ位の喜びも混じってる。何だろう? 何か大事なことがわかったような気がする」

「……もう夜が明ける。少し眠ろう」

 俺はそう言うことしかできなかった。うなずいて背中を向ける水曜を見送る。

扉を開けて布団に倒れ込むと、いつもの文机にいた熊谷氏が僕を見返る。

「わしが言うのも何だが。おぬし、無理をすると死ぬぞ」

 小声でそう言う。

ええ、と俺は枕の上で呟いた。

「でもまだだいじょうぶです」

 泥のような深い眠りが待っていた。

俺は夢も見ずに朝まで眠り続けた。


 第6章  正念場ってやつ


 俺たちが出雲大神宮に着いたのは朝早い時間だった。金曜を看るために火曜を一人残し、木曜と水曜、俺と熊谷氏の4人で出発する。電車を乗り継ぎ、亀岡駅で降りてそこからバスに乗った。駅前ロータリーを離れ、山道を上って行くと古びた巨大な鳥居の前にバスがとまる。

本堂にお参りしてから、探索に出かけることにした。熊谷氏が言うには、指輪を隠した磐座は出雲大神宮の背後に控えた山中にあると言う。この出雲大神宮は本堂こそ平地になっているが、後に神山を控えていて、上社のいくつかは山中にある。

 山中に点在する社に混じって磐座があるというのだ。

大きな社なのにもかかわらず、平日だからか、人けはほとんどない。中心街からかなり離れた立地のせいかも。鐘を鳴らして本堂にお参りし、上社に向かって道を上り始めた。

「ところで、どうしてここに指輪を隠そうと思ったんですか」

 僕が緩い傾斜の道を上りながら尋ねると、熊谷氏は笑った。

「理由は単純だ。おれの故郷は今で言う島根県。出雲大社があるだろう。馴染みがある名前を見るとほっとしてな。護ってくれるような気がした、それだけだ」

 熊谷氏の案内で山道を進む。鬱蒼と木々が生い茂り、頭上で緑の天蓋を作っている。途中には小さな滝も見かけた。

「ここだ」

熊谷氏が小川の流れる小道で立ち止まる。その小川の向う、煙るように生い茂る木々を背にして、それはあった。言葉数すくなだった木曜さんと水曜が吸い寄せられるように磐を見上げる。神が宿るとされる岩だ。

綱をかけられた巨きな磐は口を閉ざして山中に座していた。

「この磐の裏手を掘れ。杉の箱がある」

熊谷氏が見張りに立つ。まず皆で磐に手を合わせて非礼を詫び、それから熊谷氏の指示を迅速に実行に移す。

掘り進めて半時間もすると俺のスコップがかちんと硬い音をたてた。

 3人で言葉もなく顔を見合わせる。

「どうやら当りだ」

 慎重に掘り進めると、変色した杉の箱が出てきた。最初は布にくるまれていたらしい。繊維が付着していたが、それらは全て腐食して取り出す時にははがれ落ちてしまう。それでも箱自体は腐食していない。箱を振ると、ことんと静かな音がした。

そっと蓋を開けると、黒い指輪が1つ、入っている。

木曜さんが軍手をはめた手で指輪を目線までもちあげた。黒くなっているのは銀製の部分が錆びたものらしい。しかし中央に嵌めこんだ黒い石の上には、まぎれもない土星の刻印がある。

「うちのと同じ指輪……ほんまにあるなんて」

「急げ、参拝客だ」

熊谷氏が急かした。急いで箱をビニール袋でくるむ。すぐに道を引き返す。

本数の少ないバスが幸運なことにタイミングよく到着したので、飛び乗った。

帰り道、皆がそれぞれの思いに沈んでいる。

「この指輪……なんで金曜は探せって言ったんやろか」

膝の上に置いた箱を眺めながら、木曜さんはぽつんと呟く。

「由比は自分が変貌することを予期しておれにこれを託した。奴を元の由比に戻すきっかけになるかもしれん」

 熊谷氏の言葉に、木曜さんは黙って頷く。

水曜は無言のまま窓の外をずっと見つめていた。

家に着くと水曜は真っ先に玄関の階段を駆け上がり、中に入って金曜の姿を探す。道中何もいわなかったが、水曜は金曜を置いて行動するのが不安なのだ。俺との外出時も落ち着かなかった。彼女は食堂や火曜の自室、事務室を見て廻り、1階へ向かう。木曜さんも後を追った。

「タクト、指輪を出せ」

 俺は熊谷氏に言われて慌ててうなずく。箱から指輪を取り出して指に嵌め、急いで2人の後を追って1階への階段を駆け降りた。が、逆に戻って来た水曜にぶつかる。

「ちょっとっ」

 かまわず駆け上がろうとする水曜の肘を思わずつかむと、彼女は真っ青な顔で僕を見た。

「いないんだ」

 何だって。

止まる俺の脇を木曜さんが無言の会釈と共にすりぬけていく。はっと見上げると彼女はもう壁穴を抜けていた。水曜と俺も後に続く。

「金曜! どこ?!」

「火曜!! 部屋にもいない」

2人が火曜の自室や事務所、トイレを見て回る中、俺は気がついた。熊谷氏がいない。

自室に戻ったのかな。俺は自分の部屋を軽く2回ノックして、返事を待たずに中へ踏み込む。

「ばあ!」

横からシーツを被った火曜が得意げに飛び出してきた。後ろから少しこまったような金曜がにこにこと顔をのぞかせる。

「驚いた? 驚いた?」

 金曜と2人シーツを被ったままわくわくと言う火曜に、俺は心底ため息をついた。

「……あのなー……。皆探しててんぞ!」

 俺は火曜の赤いあたまからシーツをむしり取る。まず外の木曜さんたちに声を投げた。

「いましたよ! かくれてた」

 熊谷氏が部屋の天井で居ない振りしてた。

「熊谷さんも教えてくださいよ! わかってたんでしょ」

俺の抗議に熊谷氏は、2人に内緒にしてって頼まれてな、とごちゃごちゃ言葉を濁す。

 俺がやりとりの傍らシーツをぐるぐる丸めていると、火曜は不機嫌になっていく。

「反応薄い。タクトつまんない」

「遊んでる場合ちゃうやろ。居なくなったと思って心配したんやから」

「どうせ金曜のことだけやろ」

「あほか。子どもみたいな事言わんといてくれる」

 俺が長いため息をつくと、火曜は唐突に言いだした。

「ほなその眼帯取って見せて」

 そう言って、またたきもせずじっと俺の眼帯を見つめている。

 ……火曜、お前の思考回路は一体どんなつながりかたをしているんだ。

「あのさ、それとこれとに一体どういう関係が」

「見たい。こないだ外出のこと黙っててあげたやん」

 火曜はそんなことまで持ち出して言い張る。

「他にタクトの左目見たことある人いないでしょ? 見せてくれたらもう悪戯しない」

「確かに誰もいーひんけど。そうじゃなくて。これは駄目」

 間髪入れず何で? と火曜は口を挟む。

「怪我? 片目がないとか? 怖くないから心配せんといて」

「でなくて……」

 俺は困り果てて助けを求めようと戸口を見た。木曜さんと水曜が顔を出す。2人の顔を見た途端、木曜さんの厳しい顔がほっとしたように和む。何もいわなかったけれど、それを見ただけで木曜さんの心痛が手にとるようにわかった。

「金曜! 火曜も。いた、よかった……」

 水曜が今にもへたりこみそうな弱り切った声で言うと、火曜は小さな声でつぶやいた。

「火曜も。うちはおまけ」

「ちゃうやろ。そういうこと言うな」

 見返って聞き咎めると、火曜の醒めた横顔が目に映った。しかし火曜は俺の言葉は耳にも入らなかったふりで、ぴょんと飛び跳ねて俺を見上げる。その時にはもう笑ってた。

「眼。見せて」

「だから駄目だっつの」

「恥ずかしいなら皆の見てないところで」

「やめろって! なんか変なもの見せるみたいだろっ」

 がなってると、あっけにとられたような顔の水曜と木曜さんが顔を見合わせる。

「何の話だ?」

「関係ない」

 水曜に聞かれた火曜が冷たく斬って捨てる。どういう姉妹関係なのだかわからないが、俺はさすがにいたたまれなくなった。

「とにかく、この話はなし」

 端的にそう言って手の丸めたシーツを棚に置くと、足早に部屋を出て行こうとして、その腕を掴まれた。

見返ると、火曜だ。なぜか今にも泣き出しそうな色の目で俺を引きとめている。

「みせて」

 小さい声でそう言った。

 俺の眼帯にそこまでこだわる理由がわからない。でもどういうわけかこれは装い通りの悪ふざけじゃなくて、火曜にとって重大なことみたいだ、と俺はその弱々しい目を見てやっと悟った。

 何かたずねようと口を開きかける。

 だが、その時だった。

「ばかばかしい騒ぎ」

くくく、と喉で嗤う低い声に火曜は振り返った。木曜さんが警戒を露わにして進み出、水曜がみけんにしわを寄せる。金曜が嗤っていた。

「その押し問答、必要? はっきり言えばいいのに、火曜」

火曜の顔色が変わった。金曜はかわいらしい口に艶やかな微笑を浮かべ、小さく首を傾げて畳みかける。

「言いなよ、タクトが好きだって」

「あんたうちに喧嘩売ってんの?」

火曜が低い声で静かに言う。表面上は冷静に見えるが、目を見ればわかる、キレてる。

「相手にするな、そいつは金曜じゃない、由比だ」

水曜が鋭く注意する。だが火曜は聞いていなかった。見る間に赤い豹に変身していく。

「火曜、下がれ! 金曜を傷つけるつもりか」

「あんたは下がってれば?」

 火曜は唸る。聞く耳を持たない。

 金曜、いや由比正雪は高く笑った。

「見上げたプライドですこと」

「挑発だ。火曜聞くな、耳を塞げ」

水曜は再度叫ぶ。その瞬間、木曜さんは何もいわず金曜の前に跳び込んだ。火曜に対面し、2人の姉妹たちの間に割り込むように立つ。だが背中ががら空きだ。

 金曜の体を使う由比が口の端で笑う。嫌な予感がした。木曜さんがやられる。

おれは咄嗟に金曜と木曜さんの間に割り込んだ。金曜の顔の前に指輪を掲げる。金曜、いや由比は突っ立ったまま憂鬱な目で俺の指輪を眺める。

「見覚えのある指輪がまた1つ戻って来た。ふむ熊谷、お前は俺を裏切ったな」

 熊谷氏は俺の横に立っていた。何もいわない。

「それでよい。人間など信じる価値も無いものだ、俺にそう悟らせてくれたことに感謝しよう」

 由比は俺を見た。1歩、歩を進める。俺は警戒する。指輪を掲げているのに動けるとは。

「どいて木曜」

火曜のするどい声に、木曜さんが答えるのが聴こえる。

「通れるものなら通っとうみ」

 微笑みを含んだ声には動かぬ意志が見えた。火曜から金曜を守りながら金曜を何とか遠ざけなくては。

どうしよう、どうすればいい。御魂を使って気絶させるしかないか。

由比は金曜の顔で天使のようににっこり笑う。心を読んだかのようなタイミングだった。

「タクト、金曜はお前が好きなんだぞ。奇怪な力を使って彼女を傷つけるのはもうよせ。金曜は見せない所で己の心を痛めているぞ。彼女を大切に思うなら、かよわい金曜に向かって横暴な力など使えないはずだ」

 俺は心がずきんと痛むのを感じる。金曜が隠れた所で傷ついていることに気付いていないわけじゃない、考えないようにしていただけだ。

 由比はまた一歩、俺に近づく。

「タクト、そいつの言うことを聴く必要はありまへんえ」

毅然とした声で木曜さんが言った。ふれた背中からあたたかさが伝わってくる。

「金曜の心は金曜にしかわからへんのどす。わかったふりとはしゃらくさい」

語調は静かだったが、凍りつくような怒りに裏打ちされている。俺は体勢を立て直し、背筋を伸ばす。由比は舌打ちをし、しかしもう俺のすぐ先までじりじりと近づいてくる。後ろは木曜さん、そのさらに向うに火曜がいて動けない。金曜はついに俺の懐に入ると、自分の胸をひかえめに指さして、微笑んだ。

「そんなに怖い顔しないで。由比はもう逃げたからだいじょうぶ」

え?

俺は戸惑う。本当に金曜なんだろうか。でも、金曜はいつも筆談のはずだ。由比が金曜を演じている? それとも本当に金曜なのか?

「疑ってる? でも、由比がいるなら指輪があるのに私が近付けるわけないでしょ」

 無言で彼女を見つめる俺に、金曜は困ったように言う。

木曜さんが判断しかねるようにこちらをちらりと顧みた。

「3つ目の指輪、見つけてくれたんだ。見せて」

そして彼女は俺に向かって手を伸ばした。戸惑い、避けようとした途端、彼女の眼が赤く光る。しまった!

金曜じゃない。これは由比だ!!

優雅なしぐさで、金曜の顔をした悪魔は俺の顎をひきよせる。

「タクトっ!」

 火曜が叫んだ。駄目だ、動けない! 金曜の唇がせまってくる。思わず目をつぶった。

ひゅん、と耳元を風音がかすめる。はっと目を見開くと、さっき顔の間近に迫っていたはずの金曜の姿が見えなかった。目の端に赤いものが映る。顔が動かせず確認できない、でも火曜だ。木曜さんはあっさりとすり抜けられて茫然とこっちを振り向いている。でもそんな事を考える暇もない。金曜はどこへ!? 

「火曜、やめて!!」

 木曜さんの悲鳴に似た声が響いた。駆け寄る足音、何が起きてる!?

ばちんとブレーカーが落ちたような音がした。薄暗い部屋の電灯が落ちる。固まってる俺の目の前にひょいと見慣れた顔が現れる。熊谷氏だ。真顔で囁く。

「固まってる場合かタクト。指輪はどうした? だらしないぞ。呪縛は解いた、動け」

再びばちんと音がして電灯がつく。動ける!!

俺は咄嗟にあたりを見回して愕然とした。赤い豹が床に倒れた金曜の肩に噛みついている。金曜の真っ白なブラウスは真っ赤に染まっていた。意識を失ってぐったりしている金曜から火曜を引き離そうとしているのは木曜さんと水曜だが、力では火曜に敵わない。

「火曜、離せっ」

俺はすぐさま火曜と金曜の間に体を割り込ませた。火曜の眼を見たが、金色に輝く眼は人の心を失くしている。目の前の俺を見ても俺だとわかっているのかいないのか、一層の力をこめて牙を金曜に喰いこませるだけだ。俺は火曜の口を懸命に両手で押し広げる。だが火曜の唸り声はいっそうひどくなるばかりだ。鋭い爪のある火曜の右脚が一閃し、熱い痛みが頬を走る。俺の頬から首筋にかけて、ざっくり切れたっぽい。血が頬を伝う。

「タクトさん、離れて!」

木曜さんが俺の肩を掴み、凄い力でぐいと後ろに引いた。思わず後ろに尻餅をついた俺の眼に、真剣な木曜さんの横顔が映る。彼女は唸る火曜の眼が自分を捕えている短い一瞬に、素早く何かを投げつけた。閃光!

煙が一筋部屋に走って、同時に何か香ばしいにおいが漂う。思わず鼻と口を腕で覆った。これって胡椒の粉だ!

 豹になっているせいで嗅覚が段違いに敏感な火曜は金曜を離して後退り、激しく咳き込み始めた。木曜さんは俺に鋭い視線を投げる。俺は頷いてすぐさま金曜を抱え上げる。

 だが、部屋からの脱出を図る俺の前に、咳き込みながらも火曜は立ちふさがろうとする。低い姿勢で前方へ廻り込もうとする火曜に、俺は絶望感を覚えた。

木曜さんが背後から低く囁く。

「うちが何とかします。そのまま動かんといておくれやす」

「何とかするって言ったって……」

俺が振り返ろうとするより早く、カラカラカラッと軽い音がした。見ると床の上一面に乾燥させた木の実のようなものがまかれている。木曜さんの仕業だ。でもこれが何になるんだ!?

頭を下げて唸っていた火曜が勢いをつけて跳ね上がった。戸口の前をふさぐように降り立つ。

だが、火曜は床の上の木の実に脚をとられた。たかが木の実程度に威力などなさそうなのだが、尖った星のような形をしているので靴を履いてない足で踏むと痛い。俺もうっかり踏んで飛び上がった。動きづらさにたたらを踏む火曜に向かって、木曜さんは鉄色の何かを投げる。

それはひゅん、と音を立てて旋回し、火曜の廻りを一巡してまた木曜さんの手に戻る。ぱしん、と小気味の良い音がした。短刀だろうか? いや、違う。三日月型の武器だ。大きさは掌より少し大きいくらいで、鎌の刃に似てる。

一瞬、置いて、火曜の右耳からふわりと毛が散る。かすかに血が滲み出ていた。

火曜はそれにも気付いていないようで、脚を滑らせながら足元の木の実を苛立たしげに蹴散らすと、再び前足と頭を低くして唸りながら木曜さんを睨みつけた。だめだ、これじゃ到底火曜を止められない。

俺は焦って御魂を出そうとしたが、木曜さんはふっと息をつくと構えた武器を下ろし、俺を振り返る。

「も、木曜さん、危ないっ!」

 俺は焦って空いてる右手のみをばたばたさせたが、木曜さんは微笑むだけだ。

「危ないて、何がどす?」

「何がじゃないですよっ、後ろ、火曜っ」

俺は戸口の火曜を必死で指差し、その瞬間、思わず絶句した。

火曜は戸口にぐったりと横たわり、すっかり眠り込んでいる。

 唖然とする俺に向かって、こともなげに木曜さんは三日月型の武器を掲げて言った。

「この手裏剣、水曜の作った即効性の麻酔薬を塗ったありますねん」

 そう言って手にした武器を腰に差す。手裏剣てこんな形のものもあるのか。それに、この木の実って忍者が使うというあのまきびしだったんだ……。もっと武器っぽいものだと思ってた。そう言うと、木曜さんは散らかったまきびしをさっと袋の中に片づけながら答えてくれた。

「消耗品ですし、見た感じが武器やと怪しまれますさかいに。回収できる状況なら、レゴの細かいのんやちいちゃい螺子でもかましまへんえ」

要は踏んで痛いものだったら何でもまきびしになり得るんだな。

しかし相手が靴を履いてない状況でしか使えない武器ではあった。忍者が活躍していた時代、日本人は靴底のない足袋やわらじ履きが普通だったため、こんなまきびしも役に立ったのらしい。主に追尾をあきらめさせるのに有効だったという。

「せやけど、咄嗟に胡椒爆弾を持ってなくて焦りましたわ。タクトさんが間に入ってくれた間に戸棚に取りに行けて助かりました」

 俺の部屋の戸棚にあったのか、胡椒爆弾……。知らなかった……。

忍者豆知識を授けてくれながら、木曜さんは火曜を軽く担ぎあげる。水曜は俺のそばに来て一緒に金曜の肩を支えた。

「タクト、血が」

水曜は心配そうな顔をしていた。片手でハンカチを首に当ててくれる。ハンカチをもらって首筋を押さえて、やっと痛みに気がついた感じだった。それどころじゃなかったっていうか。

 とりあえず金曜は応接間に寝かせたが、怪我が心配だった。出血からみて、自宅で手当てできるレベルじゃない。木曜さんがすぐ戻って来た。金曜の服を脱がせるからと追い出される。

「救急車を呼びますね」

 部屋を出際、俺は確認するように木曜さんの眼を見て言った。

救急箱を手にしていた木曜さんは思いに沈むような遠い眼差しで俯き、頷く。水曜が咄嗟に俺の腕を掴む。

「待て。怪我の原因を何て説明する? 医者は私が呼ぶ。警察には黙っててくれそうな奴を知ってる」

「水曜、まさかあの方?」

木曜さんははっとしたように顔を上げたが、水曜は振り切るように部屋を出た。

「警察に黙っててくれそうな医者ってどういう知り合い」

 追いかけて尋ねる。ロビーへ向かった水曜はすでに玄関口の電話を耳に当てていた。そのまま彼女はちらとこちらを顧みる。

「お前も会ったことあるだろ。蠍の持ち主だよ。あいつ医者なんだ」

 って、あの……水曜にプロポーズしてた奴!?

そういう奴に頼みごとしたら後がやばいんじゃないか。俺は咄嗟に受話器を奪おうとした。が、水曜は素早く身をかわす。俺の眼をじっと見つめた。

「金曜の命がかかわる問題だ」

それ以上俺には何も言えなかった。水曜はプッシュボタンを押し始める。しばらく話して受話器を置き、すぐ来るって、とだけ言う。

「ちょっと待てよ。黙っててやるから結婚しろとか言われたらどーすんだ」

「お前が心配することじゃないだろ。彼氏ならいざ知らず。それより怪我の手当て」

 水曜は淡々と言い、俺の背中を押して食堂へ向かわせた。戸棚から救急箱を出してくる。

俺は食堂の戸口に立ったまま抗議した。

「いや、心配する! あいつはヤバい」

水曜はじっと俺を見つめた。

「じゃあ口説かれたらお前が止めて」

 お、俺!?

「嫌ならいい」

 水曜はすっと視線を逸らした。心を閉じるように伏せた長いまつげに、俺は動揺する。

「あ、ええええっと、嫌なんて言ってへん……けど」

 俺はうろたえながら言う。確かめるように水曜は俺を見上げる。

「ほんとう? 話そらしてくれるだけでいいんだ」

 俺はぎごちなく頷く。水曜はほっとしたように顔を和ませ、ありがとう、頼むと呟いた。

これって特別な意味とかないよな……。単に断りづらいから助けろってことだよな。

水曜は元気が出た様子でテーブルの椅子を勢いよく引き、やや乱暴に俺をどついて座らせる。

「襟が血でぐっしょりだ。脱げ」

「脱げって」

 女の子が言う台詞とも思えない。

だがシャツがひどい有様なのも確かだったので、俺はボタンを外そうとして気付いた。右手が使えへん。

まだ縫合したばかりで、包帯でぐるぐるまきなのだ。

 止まっている俺を見た水曜が、気付いて俺の前に膝をついた。

「あ、いや、こんくらい一人でやるって!」

「煩い」

 水曜は一言で俺を黙らせると、黙々とボタンをはずしていく。俺は何となく緊張して固まっていた。水曜はボタンをはずし終えると俺のシャツを丁寧に脱がせ、濡れたタオルで傷口を綺麗に拭く。消毒をしてガーゼを当ててくれた。

そのうえ着替え持ってくる、と立ち上がる水曜に俺は慌てる。

「いいよ、そんくらい自分でやる」

「いいからやらせろ。その方が気分がましなんだ。私には他に何にもできないんだから」

 水曜は微笑みに似せた悲しい顔で言って背を向ける。

その時、ジリリと電話が鳴った。俺と水曜は2人ともコール音の回数に耳を澄ませる。コール音は2回、こちらが受話器をとるのも待たずに鳴りやむ。

「来た」

水曜は俺の血がついたシャツを持ったまま玄関へ出ていく。蠍男を迎えに行ったのだ。

 俺はしばらくぼーっとしてたが、やっぱり1人であのうさんくさい男と会話させるのがどうにも心配だ。思わずガーゼをむしりとって席を立った。ロビーに出た途端、帽子を被った蠍男に出くわす。その後ろには玄関に鍵をかけてる水曜がいる。

「あ……どもこんにちわ」

 とっさに間抜けな挨拶しかでてこない俺。蠍男は俺を疑惑に満ちた視線で眺め、何も言わなかった。……なんかおかしなこと言ったかな俺。

 水曜が目を上げて俺を見た。

「あ、タクトごめん。服着せてやるって言ったんだった。待ってろシャツ持ってくるから。怪我人は応接間にいます、ちょっと様子を見てくるのでお待ちいただけますか?」

 後半は蠍男に言って、慌てたように駈け出す。それで気がついた、俺上半身裸だった。

 蠍男は一段と敵意のある目で俺をぎろりと睨みつける。

……俺、誤解されてそう。

男はつけつけと俺を睨みながら言った。

「君は何か? 子どもでもないのにいちいち彼女に服を着せてもらうのか?」

「あー……こっちの手が、使えないんで」

俺は怪我した手を見せて言いながらむかっと来た。事情も聞かないで責め口調か。

蠍男は俺の右手の包帯と俺の顔を交互に見比べて、あーそうあーそう、と全く心のない相槌を打った。無表情だがちょっとほっとしてるようにも見える。

どうもこいつとは気が合いそうにない。

俺は蠍男の顔を見たまま黙っていたが、しかし玄関口で男2人見つめ合っていても不毛である。応接間へ案内しようと踵を返す。背中に声がかかった。

「ちょっと待て、君に聞きたいんだが」

「日野タクトです」

「タクト君。なんで今ごろになって君は彼女らと暮らすことになったんだ? 見たところ全く似てないが、本当に血縁か?」

「そういうこと会って2度目で聞きます?」

俺は廊下でぐるりと振り返って彼を真顔で見つめた。蠍男はたじろいだように顎を引く。

「確かに血はつながってないですけどね」

蠍男は愕然とした顔で口を開いた。俺は前方に歩き出しながら思わず舌を出す。だがちょっと後悔してた。蠍男に無用なやきもちを焼かせても、いいことはない。

水曜が応接間からひょいと顔を出した。

「大丈夫です、怪我人が着替え終わりましたからお入りになってください」

俺は態度を改めて応接間の前に立ち、憮然としている蠍男を慇懃に中へ通した。ドアを閉めようとすると、水曜がぴょこんと飛び出てくる。ん、と見返すと、中の蠍男が俺を睨みつけている。怖ぇ……。

「タクト、シャツ!」

水曜は急いでそう言うと洗濯物から探してきたらしいシャツを見せ、俺の腕をひっつかむとぐいぐい引いて食堂へ連れて行く。目の中に恐れの色があった。応接室の中にいる木曜さんが頼む、というように目顔で俺に頷く。

俺の着替えのためと言ってたけど、それだけじゃないっぽかった。水曜は蠍男を恐れている。

木曜さんもそのことがわかっているのだ。

水曜は食堂の椅子に俺を座らせると、俺の頭からTシャツを乱暴にひっかぶせる。首筋の傷のひきつれに当って痛かった。俺はもがきながらやっと顔を出して、水曜に説明する。

「Tシャツだったら自分で着れる」

「あ、そうか……」

袖に腕を通している俺を水曜はぼんやりと見つめていた。

「何、見てんの。えっち」

 試しに言ってみると水曜は顔を真っ赤にする。

「みてない!!」

「いや、見てた」

「みーてーなーい!!」

「はいはいわかった、見てない見てない」

「お前ものすごくむかつくな!!」

 棒読みの俺の肩を水曜は思いっきり掴んでがくがく揺さぶった。

お、ちょっと元気出たな。

彼女のぼーっとした眼差しを見れば、考え事中でこっち見てない事くらいわかってた。

「わーかったよ。でも、まともにこっち見てよ」

ちゃんと、と付け加えて自分の鼻先を指差すと、水曜ははっとしたように俺の肩を離す。またぼんやりした顔に戻って、1歩、2歩と後じさりした。俺は話を変える。

「あの男もひめさんの紹介なん。この探偵社って紹介制なんやろ」

 違う、と水曜は唇をひきしめて言った。

「あの人は私が修道院にいた頃、偶然クリスマスのキリスト降誕祭に来たんだ」

 なんだって?

けげんな顔をした俺に、水曜は、クリスマスには修道女たちが合唱と劇で作る降誕祭が一般公開されるのだと説明してくれた。修道院への寄付金を募るために公開されていたらしい。

なるほど、それで一般客としてあの男が来てたのか。でも何故そいつが探偵社に?

「降誕祭で劇に出たら、あの人がすごくよかったと感想を言ってくれて。私をひきとりたいと申し出たんだ」

 ……それってなんかとてもヤバい気が。

「私はひめにひきとられる事が決まってたからお断りしたけど。それからずっと修道院の日曜礼拝に来ていて。修道院を出た後もなぜか連日ここの家の門前にいて」

「あのさ、それってストーカーって言わへんか」

 俺は思わず水曜の言葉を遮って言う。

「やっぱりそう思うか?」

 心許ない感じで水曜は言った。

「そう思うかじゃなくて、そうや」

俺は断定する。

「でも紹介制のはずなのになんで奴の依頼受けたわけ? 顔知ってるから?」

 水曜は寒気を感じたように自分の肘を自分で掴み、違う、と言って目を落とす。

「私が家に入る時に無理矢理入って来たんだ。運悪く金曜と私しかいなくて。角を見られないよう金曜を隠して、仕方なくお茶入れてたら事務所を漁られて、資料を見られちゃったんだ」

 俺は絶句した。ヤバい奴だと思ってはいたけど、こいつは本物だ。犯罪ですよ。

「で自分も依頼したいって……。断れなくて」

それ以来、ずっと依頼を通じて客としての付き合いが続いているという。

この毒舌で気の強い水曜があの蠍男を丁寧に扱う理由が何となく見えてきた。

 水曜は男性恐怖症、て木曜さんが言ってたな。修道院育ちで男に免疫がないところに、いきなりこんな危ない奴が現れたんじゃ、警戒するようになっても無理はない気がする。しかしさ。

「それなら尚更頼んだらあかん相手やろ」

俺がじっと水曜を見つめると、水曜はうん、と呟く。

「でも、あの人も表沙汰にできない案件をこちらに依頼しているし大丈夫だと思う」

「そゆことじゃなくて、あいつに借りを作るなって!」

 決めつけると、水曜はきっと俺を睨んだ。

「だったら誰に頼めばいいんだ」

 それにもう遅い、と呟いて目を逸らす。

そらそーやけど! 何かすごくむしゃくしゃする。もやもやするっていうか何というか。

「だー!! いらいらする! なんかものっそい嫌な感じするわあ!」

思わず立ち上がって頭をかきむしる俺であった。水曜はだいじょうぶだ、と自分に言い聞かせるように言う。

「心配ない。私は怖がったりしないぞ」

「そういう問題じゃないし!」

 自分でもなんでこんなにムカつくのやらわからん。俺は水曜の腕をつかんだ。

「自覚しろよ。あいつお前をあきらめる気はさらさらないぞ。結婚してやる気がないなら、つけこませるな!」

 痛い、と水曜が身をすくませた。俺はハッとして手を離す。俺、目の前の問題を自分がなんとかできない苛立ちを水曜にぶつけてたのかもしれない。

「ご、ごめん」

「いい。それより、火曜が目が覚めるまで、部屋でついててやってくれないかな」

 話がうまくのみこめない。咄嗟に俺は眉をひそめた。

「なんで俺?」

「木曜がそうしろって」

 水曜は少しだけぎごちない微笑みを浮かべる。俺はいーや、とかぶりを振った。

「あの男が帰ってからな。口説かれたら止める約束だし」

「あれは忘れて。つい弱気になって頼んでしまった。でも自分の身くらい自分で守れる。木曜もいるし」

 折しも廊下から水曜を呼ぶ声が聴こえて来た。蠍男だ。

「水曜さん、水曜さーん、どこですか?」

廊下に出て探しまわってるっぽい。木曜さんは金曜から目が離せないのだろう。

水曜は食堂の外を見やり、不安げな目になった。俺はどすんと椅子に座って首を振る。

「駄目っつったら駄目。そんなに俺を火曜の部屋に追っ払いたいなら、あの男に早く帰ってもらって」

「無理言って来てもらってるのに、そんなこと言えない」

 水曜はくちびるを噛んだ。俺も黙る。それから立ち上がる。

「じゃー俺が帰っていただくわ」

「ちょっと何言う気だよ!? こっちは秘密で来てもらってる立場なんだぞ」

 水曜は青ざめた。戸口に向かう俺を押しとどめようと必死で両手で押してくる。

「だいじょーぶ何にも言わないから」

俺は水曜の手首をつかんでそっと外す。するっと廊下に出た。すぐに蠍男にぶつかる。

「あ、水曜さん、ここにいた」

 蠍男は俺を見ない振りをして、食堂の中に勝手に入り込んだ。水曜がびくっとするのが見える。すぐ戻る、と目で合図して、俺はすばやく自室へ戻った。熊谷氏を呼ぶ。

「熊谷さん、すいません。ちょっと頼み聞いてください」

「一体何だ」

 熊谷さんは胡坐をかいた格好でぽわんと俺の目の前に現れた。

「困った客に帰っていただきたいんですが、人間が何か言ったんじゃ角が立つんです」

「ほほう。で、わしに手伝えと?」

「俺の部屋のテレビのチャンネル権は永久に熊谷さんのものです」

にやっと熊谷氏は笑った。

「乗った」

熊谷氏は言った途端姿を消す。俺が急いで廊下に出ると、水曜の手を掴んでいる蠍男が目に入った。うわ。

素知らぬふりで近寄り、ごほんと咳払いする。水曜が俺の姿を蠍男の肩越しに認めて明らかにほっとしたような目になる。

蠍男はけげんな顔でこちらを振り返った。俺を見て眉間に不機嫌な皺を寄せる。その瞬間だった。う、と白目を剥く。立ち尽くす彼の喉は、ぐぐぐと不自然な音をたて、やがて憑きものでも落ちたかのようにすっきりした顔になった。

水曜が恐る恐る声をかける。

「あの……?」

「おお水曜。おぬしこの男に邪恋をかけられているようだな。ところでタクト、こ奴を外に出せばいいのか?」

 彼はそう言いながら、絶句している水曜から俺に向き直る。そして自分を指差して頷く。

「念のため言うが、熊谷だ。邪道初体験だが憑いてみた」

「さすがです」

 俺はおごそかに言った。水曜が信じられないという顔になって俺を見る。

蠍男……いや熊谷氏は、さわやかに笑うと玄関に向かう。

「いや、これは愉快だ。久々に人間の肉体を得たぞ。いい機会だからちょっと散歩してこよう」

 俺は応接間へ走って蠍男の鞄を受け取り、熊谷氏に渡す。朗らかに笑う熊谷氏に、いってらっしゃいませ、と手を振った。見送りに出てきた木曜さんは面喰って俺に尋ねる。

「《いってらっしゃい》? それにあの方、何だか来た時と感じが随分違うような……」

「熊谷さんが憑いてます」

 ばたんと閉まったドアに鍵をかけながら、俺はきっぱりと言った。木曜さんは俺を驚きの目で見つめる。

「うちらには思いつけへんかったアイデアですわ。すばらしい」

「俺は頼んだだけなんです」

 実際かなり他力本願だ。若干情けない気持で俺は言う。戻ってスリッパを履いてると、そっと控えていた水曜が小さな声で言った。

「ありがと」

「お礼は熊谷さんに言って」

 お礼を言われるとくすぐったい。思わずそっけなくそっぽを向いて答える。

木曜さんは俺に尊敬の眼差を送り、はっと廊下の奥に耳を澄ませる。

火曜が起きたようです、と声を低めて言い、俺に向き直った。

「タクトさん、火曜を見てやってくれますか。きっとあの子、落ち込んでます。金曜に熱が出ていて手が離せないので。水曜、こっちを手伝って」

応接間に向かう2人を俺は唖然としたまま見送った。

見てやってと言われても、女の子の部屋に勝手には入りづらい……。

言われるまま火曜の部屋の前に来たけど、俺はしばらくためらって立ち尽くしてた。

だがずっとそこにいるのも変なのでえいっと気合いを入れてドアをノックする。

返事が聴こえたので中に入ると、ベッドに横になったままの火曜がいた。投げやりに枕に髪を散らばせたままだったが、俺の姿を見てぱっと体を起こす。

「入ってい?」

 火曜は声も出さずぶんぶんと横に首を振った。拒否されたんじゃしょうがない。

「んじゃ食堂で茶でも入れて待ってる。喉乾いてるだろ」

静かに外に出てドアを閉めようとすると、慌てたような声がした。

「あっ、まって!」

ドアノブをもった俺の手を、隙間から火曜の手が掴んだ。

「やっぱ入って。外はヤだ」

 引きずり込まれて、ばたんと扉が閉まる。

真っ黒な部屋だった。壁と床だけが漆喰と木で、カーテンやベッドの掛布類は全部漆黒だ。カーテンを止める黒いリボンとレースの飾りが見あたらなかったら、男の部屋だと思ったかもしれない。鉄製のベッドと鏡台の他に何にもなくて殺風景だった。カーテン閉まってるし……うーん、暗い。

思わず辺りを見回し、俺は火曜に目を落とす。彼女はまだ眠いのかだるそうに目をこすり、ベッドに腰掛けた。

「うち変身中に怒ると記憶が飛ぶねん。途中から覚えてへん、あれからどうなったん」

「どこまで覚えてる?」

「金曜がタクトにちゅうしようとしたとこ」

 そこか。

うーん、どう話そう……。俺が唸りながら首筋をかいていると、はっと火曜がベッドから飛び上がった。突然目が醒めたみたいだ。

「それっ……その怪我、うちが!?」

あ。しまった。

俺は思わず首筋を掌で押えたが、火曜は俺の手をべりっと引き剥がすと、まだ生々しい頬の爪痕に痛々しげにふれた。熱いものにでも触れたように、すぐに指先をひっこめる。

「そんな痛くないよ」

 俺の台詞を火曜は聞いていなかった。凍りついた顔でつぶやく。

「ごめんな。うち、また暴走したんや……」

「いや、これはほんまに大したことないから。それより」

 俺は金曜の怪我について言いかけて言葉を途切れさせる。きっと火曜は落ち込むし自分を責める。言いづらかった。

 火曜は俺を見上げ、言い淀む俺の顔を見つめる。みるまに顔色が悪くなっていく。

「うち、他にも何かした? もしかして、金曜のこと」

「大丈夫、医者にはもう来てもらったし命に別条ない」

 俺の拙いフォローは火曜を打ちのめしたようだ。

「もう二度と変身しない。力も使わない」

か細い声で言うとベッドの上に力なく座り込む。

「いや、金曜は大丈夫やったんやし、おかげで俺は憑依されずにすんだわけやし、それとこれは話が」

「だって」

 泣きそうだ。大きな目には涙がいっぱいたまっていた。でも慰めの言葉も思いつかない。

俺は必死で考えた。

「えっと、ちょっと落ち着いて聞いてな」

 俺はしゃがんで火曜と目線を合わせる。どっちかというと落ち着きたいのは俺のほうだったけど。

「金曜はほんまに大丈夫。せやけど、もし傷つけて悪いと思うんやったら、自分の衝動と自分を分けて」

「そんなんどうやったらいいか……」

「ムカついてきたと思ったら、そのむかつきを脳内で視覚化する。火曜は豹だから、豹の形でいい。そして暴走する前に、そいつに鎖をつける」

 火曜は絶望的な面持ちで俺を見つめている。

「自信ない。できない」

 うーん、と俺はしばらく考えた。自分の指に嵌めた銀の指輪を抜いて火曜の手を取る。

「これ、3つ目の指輪……?」

「うん」

俺は火曜の細い指に指輪を嵌め、その手をぎゅっとこぶしに握った。

「俺が嵌めたこの指輪をしてる限り、火曜は2度と激情に駆られない。不安になったらこれを見て」

「単なるおまじないやん」

「まあね」

 そう言うと火曜は少しだけ笑った。不安は少しだけ減ったみたいだった。

思いついて眼帯をちょっと引っ張って見せると、火曜は唇をひきしめる。

「これ。外せへんねん。たかが目くらい見せてあげたいねんけど。なんでかっていうと」

 火曜は黙って俺をじっと見つめ、聞いていた。

 俺は自分を落ち着けるように深く息を吸ってから、再び話し始める。

「小さい時は眼帯つけてなかった。両親が死ぬ少し前から、こっちの眼で見ると親の体の中の御魂が黒く病んで行くのが見えた。何となくわかった、2人とも死んじゃうんだって」

 で、と俺はもう一度息を吸う。

「本当に2人とも死んじゃった。俺は何にもできなかった。もしかしてこの眼で俺が見たから親は死んだのかもって思った。それからずっと眼帯つけてる」

 熊谷さんには腰抜けって言われたけど、と付け加える。

「馬鹿みたいって思うかもしんないけど、怖くて。そういうわけで、取れない。ごめん」

ふるふると火曜は首を横に振った。

「今、これ外すと何が見えるの」

「ずっと外してないから、わかんないけど」

「外すと誰か殺しちゃうかもって思うん? 見ただけで人殺せるわけないやん。ご両親が亡くなったのなんか絶対タクトのせいちゃうし」

 俺は曖昧に笑った。自分でも馬鹿げた思い込みだと思う。だけど、それがどうしても頭を離れないのだ。

「じゃ今、これ外してうちを見て。うちが死なへんかったら、実証できるっしょ」

火曜は俺の眼帯に無造作に手をかける。

俺は心臓が止まりそうになってその手をつかんだ。外れかけた眼帯と一緒に押え込む。悪寒がして冷や汗が流れ、手が白くこわばった。

「駄目……」

火曜の手をはずして床に座り込んだ俺は、膝の上に顔を伏せる。手が震える。

「ほんまにこれだけは勘弁」

火曜はベッドから床の上へそっと滑り下りた。しゃがんで俺を覗き込む。

「ごめんな」

小声で囁く。しばらく俯いて何か考えるように黙っていたが、思いきったように顔を挙げて俺に尋ねた。

「そのこと、他のひと知ってる? 水曜は?」

 なんでここで水曜の名前が。俺は戸惑いながら頷く。

「誰にも言ってへんけど。なんで」

 火曜は曖昧にかぶりを振る。

「これからも言わんといてくれる?」

「? まあ、言う機会もないけど……」

 火曜は満足げににこっと笑った。

「じゃあ知ってるのうちだけや」

うー……ん? 

俺は戸惑いがちにうなずき返す。火曜は興味深げに俺の眼帯に触る。目の上にそっと何かあたたかいものがふれた。

思わず目を上げて、火曜が俺の眼帯の上にキスしたのに気がつく。

「っ!??」

 い、今、一体何が……。

思わず飛びずさると、火曜は指輪を俺に見せた。

「ムカつき脳内視覚化コントロール、できる気してきた。ありがと」

指輪もらっとく、と屈託なく笑う。俺はマッハで立つと走って出ていく。

 どこいくの、と後ろから不満げな声がしたけど、なんかいろいろ限界です!!

すばやく自室に戻って扉を閉める。はあああ、と長いため息をついた。床に転がりたい気分だった。

でも今はそんな場合ちゃうし。平常心平常心平常心、と唱えながら深呼吸をしてみて思い出した。金曜の怪我、どの程度なんだろう。火曜には大丈夫って言ったけど、かなり出血はしてた。傷はひどいんだろうか。

見に行こう。

俺は廊下に出てそっとロビーの絵画を持ち上げる。が、その途端固まった。

正面に水曜がいる。そっちも驚いた顔をしている。

「何の用だ?」

「金曜の具合見に行こうと思っ……て」

俺はもごもごと言って、頭をかがめて出てくる水曜に道を空ける。

「金曜なら寝てる。心配ないぞ。出血のわりに傷は浅い。薬ももらった」

「そっか」

「角はコスプレってことにしてあるから話合わせといて」

うん、と俺は頷く。なんとなく一階へ見に行きづらくなって廊下で手持無沙汰にしてると、水曜は俺の顔をちらと見る。

「火曜は起きたか」

「うん、まだ眠そうだけど普通に元気」

 さっきの不可解なキスを思い出して若干挙動不審になりながら俺は言う。

「ふうん」

水曜は目を逸らした。

 そういえば水曜と火曜ってあまり仲良くないよな……。水曜はともかく、火曜が一方的に水曜につっかかってるっぽいけど。

考えていると、水曜が気を取り直したように俺を見上げた。

「そういえば見てもらいたいものがあるんだ」

水曜は服のポケットから栓をした小さなガラス壜を出す。中には無色透明の液体が入っている。なんだろう。

「これ、なに」

「めるくりうす・びたえ」

 ええ!?

 俺は思わず壜の中を覗き込んだ。水曜の部屋で見たのは銀色じゃなかったか?

「色がちゃうような気が……」

 水曜は頷いた。

「熊谷氏の部屋の結界を解いてから、眠れなくてめるくりうす・びたえをもう一度作りなおしたんだ。何かが解った様な気がしてたから、確かめたくて。そしたら違うものができた。完成したんじゃないかと思うんだが」

念願の霊薬の完成なら水曜は喜んでもいいはずだ。しかし水曜はとくに感情の色もなく淡々と説明し続ける。

「尻尾の切れた蜥蜴に使うと尾が再生した。死んだ動物には効果はなかったが、骨折したねずみに使うと治療効果があった。まだ試験段階だけど」

「まじかい、じゃあ金曜に使えるんじゃ」

称賛半分、疑惑半分で思わず叫んだ俺に、水曜はまだだ、と言う。

「まだ危険すぎる。人間に使えるか最低でも3回は実験しなくては。だが幸い怪我した人間が目の前にいる」

 真顔で見つめられ、俺はびっくりしたように鼻先を指さす。

「俺!?」

 俺、実験体!?

 くるりときびすを返し逃げようとしたが、ぱしんと腕を掴まれる。

「大丈夫! 大した怪我じゃない場合、副作用もそこまでひどくなんないと思う!」

 その根拠と信憑性の全くない力説はなんなんや! 《ひどくなんないと思う》って何、《思う》って!?

俺は前にあの蠍男のひどいはげ頭を見てるんだぞ。絶対にあの二の轍は踏むもんか。

それでも必死に引きとめられ、ぐいぐい食堂に連れてかれる俺だった。

水曜はがんこに戸口にへばりつく俺にあきらめたようなため息をつき、わかったと言う。

「そんなに嫌なら、無理矢理飲ませたりかけたりはしないよ」

 嫌とか嫌でないとか関係なく、よくわかんない薬を無理矢理のませるとかないわ!

水曜はぶつぶつ呟きはじめる。

「じゃあいつもの実験体に試してもらうしかないな。明日また金曜の傷を見に来るらしいから」

 いつもの実験体って蠍男か……え、明日!?

 うん、と水曜は俺に向かってうなずく。木曜から聞いたという。

「今日手当したばっかやん。明日来る必要ないやろ!?」

「そうか? 様子見に来てくれるんだって。親切じゃないか」

 いや、水曜に会うための単なる口実だろ……。

俺は微妙な顔で黙る。水曜はまだ見せたいものがあるんだが、と言葉を濁し、続けて何か言いたそうだったが、俺はさりげなくかに足で食堂を去っていくところだった。

「無理矢理飲ませたりしないって言ったろ! お前ってほんっとうに失礼だな。どこまで正直なんだよっ」

背後でなにか吠えてるのが聴こえたが、気にしない。俺は不老不死のはげにはならないぞ。

「あの人はもとから髪が無いんだって言ったろ!!」

 独り言を言ってたら全力の叫びが返って来た……。

俺は自室に戻り、時計を見る。もう7時だ。参拝前に出雲大神宮の近くの蕎麦屋でてんぷら蕎麦を食べたが、それきり昼ごはんも抜いていた。食堂に何か食べに戻ろうかな、と思ったが、まだいるであろう水曜が怖いので、空きっ腹を抱えて畳に横になる。

ちょっと休んでから飯作りに行こう。

俺は熊谷氏が戻ったのも知らず、眠った。


   第7章   悪魔儀礼と神様そして


 こんこんこん、と扉を叩くノック音がした。はっと目が覚めて起き上がる。

「誰か来たぞ」

 宙で胡坐を書いて何事か考え込んでいた熊谷氏が、俺を見降ろして言う。

「熊谷さん! 戻っておられたんですね」

 久々の京都見物、楽しかったぞ、と笑い、熊谷氏はドアに向かって顎をしゃくる。

俺が慌ててドアを開けると、そこには木曜さんが立っていた。

「タクトさん、簡単やけど夕ご飯ができました。熊谷さんもよろしかったらどうぞ」

 そうか、今日は木曜さんが食事当番だった。熊谷氏もこころよくうなずいた。やはり何ごとか考えているように首をひねりながら食堂に飛んでいく。

食堂には水曜が先にいてお茶をついでいた。俺をぎろっと睨んだが、後は何もいわない。

 隅の椅子には火曜がちんまりと腰かけている。俺を見て無言で手招きする。

「な、なに」

俺は腰が引けていたと思う。しかし火曜は気にする様子もなく、猫みたいに伸びあがると俺の耳に顔を近づける。小声で囁いた。

「さっき水曜と木曜にあやまった」

 うん、と俺はうなずく。

「後で金曜にもあやまる」

うん、と俺はまたうなずいた。金曜はすすすと席に戻り、控えめににこっとする。

木曜さんがごはんを持ってきて並べてくれた。熊谷氏はなぜか木曜さんの隣に陣取り、俺がじっと見ていると腕組みして照れたようににやにやする。……タイプなんですね。

こうして夕食が始まったが、皆がお茶にしはじめた頃、熊谷氏が声をあげた。

「ええとな、実は言いそびれたことがあるんだが」

「なんですか?」

 俺は首をかしげる。熊谷氏は火曜の指輪をさして言った。

「指輪を3つ集めて力を発揮するには、正確な3角形を地に書かなければならなかったはず。だがやり方がうろ覚えじゃ。貰った書は指輪と埋めたのだが、朽ちたのか箱の中には見当たらなんだ。どうするか」

一挙に場の空気が青ざめた。唯一由比をどうにかできそうな方法だったのに。

火曜は本当にないの? と言うなり指輪の入っていた杉箱の中を覗き込んだが、あきらめたように首を振る。

「何にもあらへん」

「熊谷さん、小さなことでも思いだせまへんか?」

木曜さんが冷静に提案する。思いだそうとはしとるが……と熊谷氏は渋い顔になる。だがそのときだった。水曜が正3角形、と呟いて席を立った。

「どしたの水曜」

俺が声をかけると、何も言わないまま目顔で全員に頷き、部屋を出ていく。

すぐに書物を抱えて戻って来た。水曜の大事にしている秘伝書だ。黙ってテーブルの中央に置くと広げ、頁を繰る。

「熊谷氏のいう正3角形の結界と指輪の配置、悪魔ベレトを呼び出す儀式の執り行い方。これじゃないか」

 悪魔ベレト?

俺は聞き覚えのある名前に記憶と重なるものを感じてはっとする。

金曜が言ってた。天草の乱の時、3人の破戒キリシタンが3つの指輪を使い、悪魔を呼び出して戦に勝とうとしたと。そしてこうも続けた。

《由比正雪は天草の乱に浪人として参加してた

こっそり3人の儀式を見てたの

 そして死んだキリシタン達から秘伝の書と指輪を奪った

 悪魔使役によって資金と大勢の人を集める力を得た 最終的に裏切られたけどまだ悪魔との契約は続いてる 由比が契約してる悪魔はベレト 悪魔ベレト》

 全員が覗き込んだ。そして息を呑む。俺は急いで熊谷氏を見た。

「間違いない……だがなぜこれがここにある」

熊谷氏は茫然と水曜を見つめて言う。

「同じような内容の別の本なんとちゃうん?」

 本を覗き込んでいた火曜が顔を上げて言う。が、熊谷氏は語気を強めた。

「全く同じ書物だ、英字も図も」

 とすると……どういうことなんやろ。本当に秘伝書だとして、江戸時代に熊谷氏が埋めたはずの書物が、現代の水曜の手へどうやって渡ったんだろう。

水曜自身、どういうことなのかわかってはいないみたいだった。戸惑いがちに熊谷氏を見つめ返して言う。

「私が産まれた時から一緒の書物だ。それ以外はわからない。正3角の結界とベレトについての記述があるから、もしやと思って持ってきただけだ。再版された別の本なのかも」

 だが偶然の一致にしても、話ができすぎてやしないか。悪魔ベレトという名前が共通する。由比が熊谷氏に渡した書物とはきっと天草の乱で死んだ3人のキリシタンから奪った秘伝の書だろう。そして由比が同じく彼らから奪った3つの指輪が、今ここに揃っている。

 皆がテーブルの上の書物と水曜をじっと見つめていた。

 どういうことなのかはわからない。

だけど、とにかくもこうして由比を退ける唯一の方法はわかったわけだ。……安全かどうかは、別として。

「急ぎましょう。時間がない」

 木曜さんが顔を上げて言うと、俺たちはは無言のうちに頷いた。


 俺たちは1階に移動する。広い空間が必要なのだ。床の上にあるものを取り払い、掃き清める。金曜の眠るベッドを中央に置いたまま、その周りにハシバミの杖で結界を描く作業が始まった。杖は水曜のコレクションの中にあったものだ。

「実際に使うことになるとはな」

水曜はぼそりとそう言う。

結界は南東に向かって描かれた正3角形だ。水曜はまず床に釘を打ち、釘に紐をくくりつけて円を描く。円の中に南東に向かって垂直に交差する直径を2本描く。南東で直径が円と交差する点をチョークでチェックする。その直径を半分にして中心から北西側の線にたいし垂直二等分線を描き、2箇所できる円とのチョークでチェックする。最後にチェックした交差点を全て結ぶと正確な正3角形の出来上がりだ。小麦粉を水に混ぜたものに杖の先を浸して、線を引いていく。慎重な作業である。

結界を描き終わると、誰もがため息をつく。ひと息入れることになった。火曜はぺたんと床に座って、素朴な疑問を口にする。

「せやけど、悪魔ベレトって何者なん。由比正雪と契約してるっていうのはわかるけど、見たことないし。呼び出せたとして、倒せるん? うちが噛みついても無駄っぽいよ」

「そういえばそうどすな。普通に交渉できる相手とは思われへんし」

 紐を片づけていた木曜さんが首を傾げた。俺ももちろん、悪魔の扱いなんてわからない。

 床から釘を抜いていた水曜が起き上がって質問に応える。

「悪魔ベレトはソロモン72柱の魔神の1柱で、地獄の85軍団を従える序列13番の大王だ。この悪魔は人間に呼び出されるのを極端に嫌う。今まで姿を現さなかったのはそれでだろ。召喚された時点で既に激怒していると思え。怖気づけば殺される。だが王者に対する礼儀を欠いても殺される。護符の指輪を嵌めているな。ベレトの顔に向かってかざし続けろ。ベレトは指輪を嵌めている者の命令しかきかない。ベレトはもともと人間界にはいない存在、倒すのは不可能だ。由比との契約を切るよう交渉する方向でいく」

水曜はそう全員に厳命した。そして俺を見返ると、つかつかと歩み寄る。

「お前は上に上がっててくれ。私の大事な実験体がやってくるから、応対をお願いする」

「!? この期に及んでなんで仲間外れなんだよ」

 拒否する俺に水曜は冷静な眼差を向ける。

「儀式では正3角形の結界の3点に3人が立つと決まっている。護符もないしな」

 そこに木曜さんの声が重なった。

「水曜の言う通りにしてください。この件はうちらの問題どす。貴方を巻きこんだら、ひめさんに合わせる顔がありまへん」

 火曜もこっちを見て、落ちついた顔で頷いた。なんでこう修羅場慣れしてるんや、ここんちの姉妹は!! 冷静すぎるやろ。っていうか。

「もうとっくに巻き込まれてます。俺あの人の応対はできそうにないし」

 ここで事態を放置したら俺のほうこそひめさんに合わせる顔がない。だが3人の姉妹たちは困ったように顔を見合わせた。

「ちなみに、わしも参加するぞ。由比を見届ける義務がわしにはある。それから、痩せ我慢せんとタクトが参加できる方法を考えろ。1人でも多けりゃ勝機も増えるってものだ」

 熊谷氏がさらりと言って俺の肩にもたれかかる。

 結界を変更できないの、と水曜の本を覗き込んでみると、水曜は困惑顔でだめだってばと言った。

「五茫星の結界も使える。だがその場合5人が参加しないと。熊谷氏は肉体がないからカウントできない」

「肉体ならこれからやってくるではないか」

素知らぬ顔で熊谷氏は言って、上を指差す。……それって蠍男のことか?

水曜ははっと口を閉じ、すぐに俯いて考え込むように手を顎に当てる。

「それなら不可能ではない……」

 そしてすぐに顔を上げると木曜さんの手から紐を奪い、メジャーで測り始めた。もう一度結界を描き直すのだ。火曜も手伝い始める。そんな中、木曜さんは危惧を隠せない面持ちで俯いて、床に描かれた修正前の結界線を消していた。

水曜は途中で俺のところにやってきてじっとこちらを見据える。

「結界を五茫星に変更する。言っとくけど、賭けだぞ。死んでも文句ないな?」

 ないよと俺が言うと、それなら決まったと水曜はぶっきらぼうに呟く。さっと釘を打ち始める。とにかく行動が素早い。あの本の事になると水を得た魚だ。

熊谷氏はそれを眺めながら俺の耳元で言う。

「わしはもう死んでるからいいが、お前もよく命を賭ける決心をしたな」

 俺は苦笑いして黙っていた。

 相談し合いながら作業する火曜と水曜、ベッドに眠る金曜、そして常になく項垂れるようにして考え込んでいる木曜さんの姿を、俺は眺める。

 彼女たちは、俺がここにいる意味だ。

 巻き込まれたつもりはない。水曜にとって秘伝書が運命なのと同じように、ひめさんも俺の師で、たぶん運命の人だ。

ひめさんが与えた試練から逃げるという選択肢ははじめからない。

でもそれだけでもない。うまくいえないけど、彼女達のことを他人に思えないのだ。人に言えない過去、人に言えない能力をもっているからなのか。書類上はきょうだいだけど、きょうだいよりも近く感じる。

見たいものがある。尼僧服で身構えてる水曜じゃなくて、角の重さに押しつぶされそうな金曜じゃなくて、いつも何か我慢してる木曜さんでもなくて、わけも理解できないまま空気に圧されてもがいてる火曜でもなくて、みんなが普通に笑ってるとこが見たいんだ。

階上で電話の鳴る音がした。2回のコール音の後、すぐに切れる。蠍男だ。

水曜と木曜は顔を上げたが、どちらも作業中で手が離せない状態だ。俺が挙手した。

「迎えに行く」

 さっさと腰を上げると、熊谷氏もついてくる。

「肉体がやって来たか。では早速」

 そして熊谷氏は俺が門を開けると同時に蠍男の体を乗っ取ったのだった。1階に降りる前に憑依してもらおうと思ってたからちょうどいいけど。

 再び1階へ降りると、結界を描き終わった3姉妹は思い思いに休憩をとっていた。

「さあて、始めるか」

熊谷氏が努めて明るく言って体をほぐし始める。そこへ水曜が飛んできた。……まさか。

「熊谷さん、儀式前にちょっと。私、この実験体に髪が生えるか試したいのです」

「一旦禿げたものに髪が戻って来た例は見た事がないぞ」

 冷静な熊谷氏に、水曜はなおも推して言う。

「それは江戸時代の話でしょう。現代の新薬を試してください。ぜひ!」

まあ異存はないがときょとんとしている熊谷氏を椅子に座らせて、水曜は懐から無色透明な水の入った試験管を取り出す。《めるくりうす・びたえ》だ。

「ちょっと待って、万が一霊薬が成功してたら熊谷さん成仏してしまわへん!?」

 俺が止めると、ええっと熊谷氏はのけぞり、するりと蠍男から抜けだした。俺の耳元で文句を言う。

「成仏は由比の始末がついてからでなきゃ困るぞ、おい」

一瞬抜けがらのように力なく椅子にもたれかかった蠍男の頭上に、水曜は素早くめるくりうす・びたえを振りかける。お前、意識のない相手にそれはちょっと。鬼だろ……。

ぶるぶるぶるっと犬のように頭を振り、蠍男が体を起こす。まだ辺りのものもきちんと見えてはいないようで、目をこすろうとして額に垂れた未知の液体に気付く。掌をまじまじと見て、濡れた頭の上に恐る恐る触れる。

「何これっ……え!? 髪がっ」

蠍男は今や両手で確かめるように頭じゅうを撫でまわしている。生えて来た髪の感触に、狂喜のあまり立ちあがって叫ぶ。

「髪が! 髪が生えて来たああああああ!!」

「煩い」

熊谷氏の一言と共に彼はことんと前に首を落とした。俺は思わず頭を眺める。確かに、後退した生え際あたり特に、ざらざらした質感に変わっている。しかも……見る間に生えてきてないか。すごいスピードで頭が黒くなっていく。俺は目を丸くしてそれを見つめる。

「知らなかった。禿げに効く薬があるとはな」

元通り蠍男の中に戻った熊谷氏は、ぺんぺんとひょうきんな手つきで頭を叩く。水曜は曖昧に笑って、新薬は成功のようですねと言った。

そうだ、つまり《めるくりうす・びたえ》がほぼ完成したってことだ。まだ実験段階だとしても、それって……。

「まあ、とにかく儀式に移ろうではないか」

飄々とした熊谷氏の言葉に従って、俺達は部屋の中央に集まってゆく。床に描かれた五茫星の結界、その5つの点に1人ずつが立つ。火曜が尋ねる。

「金曜はどうする?」

「そのまま起こさないで。タクト、熊谷さん、絶対にベレトと口をきかないでください。相手は喋らせようとするでしょうけど、護符を持っていない人間がひと言でも話したら殺されます。全員、配置を動かないように。その位置を動けば、護符があっても身は守れない。私はこの杖で結界を維持する。私も動けない事を忘れないで」

厳しい顔で水曜はそう言った。ハシバミの杖を足元に置いている。

「始めるよ」

そして、儀式が始まった。


          ※     ※     ※


水曜が低く何かをつぶやく。ラテン語らしき言葉の連なりは、音楽のように繰り返し平坦に続く。その流れの中で、俺と熊谷さんは時々目を見合わせる。金曜が起きる様子は無かった。由比正雪が金曜が裏切ったと認定して以来、金曜はこん睡状態から目覚めていない。由比は俺たちと接触させると危険だと思っているのだろう。

 水曜の呪文が続くにつれ、金曜の左手だけがこまかくふるえ始めた。

 ベッドから垂れた左手は助けを求めるようにぴくっと動き、苦しげに何度も痙攣する。

 5分と経たないうちに、今度はのけぞるように顎が上がり、継いでシーツのかかった脚が跳ね上がった。息を呑んで見つめている俺達の目前で、金曜はゆっくりと体を起こす。ただ、普通と違うのは、起きる時に両の手をどちらも使っていないということだ。上半身の体重を支えるために手をつくこともなく、風のように背中が浮きあがる。

「お前らのすることなどわかっている」

 由比正雪はしわがれた声でそうつぶやき、我々の顔を順番に見まわした。

「3つの指輪を集めたとあればたやすく想像がつくわ。ベレトとわしの契約をつぶすつもりであろう。だが身をわきまえろ、ベレトがお前らごときの召喚に応じるものか」

誰も何も答えを返さない。水曜、木曜、火曜が黙って指輪を掲げる。俺らの目的はベレトだ。由比正雪は3つもの指輪を掲げられ、鎖のついた手首を目の前にかざして身をすくめる。しかし、その手の隙間から熊谷氏のほうを透かし見て言う。

「熊谷、お前は他の奴らとは違う人間だった。肝もあり思慮深い、口も堅くて正直だ。わしはそれを見込んでいたのだ。だから大事な指輪もお前にだけ渡した……なのになぜ裏切った?」

 熊谷氏は俺の横で少しだけ身じろいだ。小さくしわがれた声で言う。

「由比、わしが変わったのではない、お前が変わったのだ」

「変わらぬ者などない。今からもよい、戻ってこい。忘れはすまい。わしがお前にだけ不死の霊薬を呑ませた事を。お前がそうしてここにいられるのも、霊薬のおかげなのだぞ」

熊谷氏は黙る。迷っているのか……それとも。

 しかし、その時だ。水曜が口をひらいた。

「霊薬。それはめるくりうす・びたえか? 体が死んでも霊だけが永遠に生きるというのが、あんたの言う不老不死か。単なる不幸な大失敗じゃないか。それの一体何がありがたいの。あのレシピ通り作ったんだろ。失敗作ができた原因が何かわかるか。あんた自身だ」

「魂さえ生きていれば器などはいくらでも手に入る。小さな事で鬼の首を取ったように騒ぐのは小物の印だな。失敗作すら作れない似非錬金術師は言葉を慎むがよい」

 侮蔑の表情で由比は言う。俺は思わず水曜のポケットを見やる。めるくりうす・びたえがそこにあるはず。だが水曜はそれ以上言い返さなかった。

 熊谷氏は背筋を正し、由比に言う。

「由比、己の信じたお前の姿は今のようではなかった。お前はわしに指輪を託した目的を覚えていないのか? わしは裏切っていない。お前の命通り動いている。今も昔も」

 由比は舌打ちした、そして熊谷氏から顔を逸らす。熊谷氏の離反を誘うのは無理だと悟ったのだろう。今度は火曜の方を向いた。

「おや、お前もここにいたのか。もうこの男をものにしたのか? 金曜もこの男を好いているぞ、うかうかしていいのか? 金曜を殺したいならわしが協力してやるぞ」

「下劣……」

 火曜が軽蔑したように低く一言言い捨てると、由比は大声で笑った。

「下劣とな。お前は自分の下劣さに気付いていないだけさ。お前はあの時金曜を殺そうとしたではないか。都合のいい時だけ上品ぶるのはよせ」

 火曜が自分を落ち着かせるように、すうっと深く息を吸い込むのが聴こえる。自分の左隣にいる彼女を俺ははらはらしながら見つめる。

「そら、そこの下劣な女。わしを殺したいだろう、金曜を殺したいだろう。今がチャンスだぞ」

 由比は火曜を煽るように嘲ったが、彼女はただ手に嵌めた指輪をじっと見つめている。

 無言のままだった火曜は、ゆっくりと由比に目を移した。

「うちが下劣だとしても、うちの下劣さはうちのもの。あんたの下劣さは、あんたのもの。他人の下劣さをあげつろうても、あんたの下劣さは消えへん」

 由比は一瞬黙った。低く言い返す。

「もっともらしい言葉で誤魔化すつもりか、獣女風情が理屈を言うとはな」

「ああ、そう。廻りくどかったな。ほなはっきり言うわ。黙りや」

 俺は火曜がついにキレたかと寒気を覚えて素早く左隣を振り向く。

 だが火曜は横顔に冷たい笑みを浮かべているきりだ。変身する兆候は……まだない。

「うちは自分の下劣さが結構好き。金曜も好き。せやけど、あんたの安っぽい下劣さにはどうも我慢できへんの」

 これだから女は……と由比は身を引きながら呟く。火曜は顔を変えない。

「言うとくわ。うちはあんたが大嫌い。あんたを始末するためなら自分の感情も殺せるわ」

 そしてにっこり笑うと、俺を見た。大きな黒い瞳の中に凍りついた怒りがある。

俺は背筋がぞっとするのを感じた。この子、感情が暴走しなくなった分、前より凶悪になったんじゃないのか。いや、そうするよう教えたのは俺なのだが。

敵でなくてよかった、と肝を冷やす俺だった。由比はこちらを睨みながらも、気圧されたように無言で後じさる。そして黙って指輪を掲げて立っている木曜さんに向かって、隙を突いて襲いかかろうとした。手錠についていた鎖はベッドの柵につながれている、だがそれもかまわず、ベッドを引きずったまま木曜さんに向かって走り出す。そんな馬鹿な、指輪があるのに!

だが、火曜ともめた時も由比は指輪があったのに、動くことができた。由比は喚く。

「たかがキリシタンの指輪などベレトの力の下では微力! 思い知れ」

木曜さんは穏やかに由比を見つめていた。結界の5点に各々1人ずつ、この配置は動かせない。このままでは木曜さんが由比の赤眼に呪縛されてしまう!

俺は御魂を使おうとしたが、水曜が目顔で俺を制し、ハシバミの杖を拾い上げた。

水曜は由比正雪が出てきて隙を見せるのを待っていたのだ。両手で抱えた杖を垂直に掲げ、結界に向かって振り下ろす。

とん、という軽い音と共に、結界を描く白い線が赤く濡れたように滲み始める。みるまに血が溢れ出す。線のはじを踏んでいた俺は驚いて飛びずさる。

水曜は顔を伏せ、杖の先をじっと見つめている。その先からごぼっ、と音がして、たちまち血が湧き出した。結界から、水曜の杖の先から、溢れ出すその血は内側に向かって流れ出し、由比に向かってすごい勢いで伸びてゆく。ぶきみな眺めだった。

由比も気付いた。そして死に物狂いで急ぎ、木曜さんに手を触れようとしたその瞬間、木曜さんの足元の結界から流れ出す血が由比のはだしの爪先にふれる。

ぎゃあとおそろしい声で由比は叫んだ。それが金曜の体から発する声だったから、俺は耳を塞ぎたくなる。だが耐えて見つめる。結界から流れ出す血は由比の足を捕えていた。

由比の爪先に触れるたその血は瞬時に形を変えた。手、の形だ。それも1つではない。血に塗れた3本の手が由比の足首を捕えている。俺はそれに気付いて全身に鳥肌が立った。

「たかがキリシタン、か。貴方は死んだ3人のキリシタンから指輪と秘伝の書を奪った。彼らの霊と血はまだ指輪と共にある。道半ばで死んだ死者から盗んだ罪、本人達に裁いてもらおう」

そうだ、水曜は交霊術をも学んでいたんだ。

淡々と言う水曜の言葉を聞いているのかいないのか、由比は結界の描かれた床の上をのたうちまわる。足にしがみつく手を必死に払おうとしながら叫んでいる。その足は3本の手に掴まれたところから青く燃え出している。

「熱い! 熱い!! よせ、金曜の体がどうなってもいいのか!」

「それは地獄の業火、罪を焼き滅ぼす火だ。死者にしか関わりのない火だよ。生者には痛みも傷も与えない」

 水曜はつぶやいて右の手を上げた。由比の全身が青く燃え上がった。

由比は人間のものとは思えぬ咆哮を上げ続け、やがて静かになる。

「さて、これからだ。タクト、熊谷さん」

 水曜は厳しい瞳で俺と熊谷氏に視線を投げ、無言で口にチャックする仕草を見せた。ベレトが出てくるのか!?

 うつ伏せに倒れている金曜の体は痛々しく、生者は傷つかないのだと知っていても助け起こしたい気持になる。だが金曜の背中を注視していた俺は眼をみはった。

 金曜の体からぼうっと光るものが浮かび出たのだ。黒く大きな染みに覆われた御魂……これは由比だ。金曜の体から抜け出た御魂は心細げにふるえながら金曜の体の周りをうろうろと一周する。中に入ろうと試みるようだが、できずにしばらく宙に停止する。

金曜は黙ったままむくりと起き上がる。木曜が声をかけた。

「金曜?」

 金曜は木曜さんに目を合わせて黙ったままうなずく。その頭にまだ悪魔の曲がった角こそついているものの、静かな色の瞳は金曜のものだ。

 彼女は立ち上がるとベッドの布団の下から何かを取り出した。彼女の小さな手の中で鈍く光っているのは、短刀だ。水曜は眉をひそめる。不安の滲む声で言う。

「霊刀? 私の収集品だ。いつこんなものを持ちだした。これは贋物で効力がないんだぞ」

 金曜の顔色はひどく悪かった。もともと透き通るような膚の金曜だが、今やその頬には全く血色がない。だが、彼女は霊刀を手に下げたままむりやりほほえむ。

「贋物じゃないよ」

「金曜! 声」

 俺は思わず叫んだ。途端に全員から睨まれ慌てて口をつぐむ。

 だって金曜が話すなんて初めてじゃないか。由比にのっとられていた間、話すのを聞いてはいた。だけど、これは全く違う声だ。声の高さ、間のとりかた、やわらかさ、まるで別人の声だ。ほんとの金曜は、こんな声だったのか……。

 金曜はまっすぐ立って俺を見る。

「今まで話すのが怖かった。でも、もう怖くない。貴方が教えてくれた。壁を築けって」

 えっ…………。

 そんなこと言ったっけ、と俺は絶句したが、そういえば由比が出てくる間際に何かそれらしきことを急いで叫んだような気がする。

 金曜に再び由比の御魂がまとわりつく。中に入ろうと隙を窺い、金曜の体の周りを回転する。

 俺たちが息を呑んで見守る中、金曜はほほえんだまま俺をみつめていた。自分の周りを巡る由比のことは気にとめてもいないみたいに。だが由比が金曜の胸に侵入しようとした時だった。

 金曜の顔はすっと無表情に戻り、色の薄い目で由比の赤い御魂を見据える。由比はまるですくんだかのように動きを止めた。金曜はゆっくりとただ発音した。

「去れ」

 何かが割れたような音がした。頭上で輝くシャンデリアのガラス球が一つ破裂したのだ。鋭い音をたてて床で砕け散る。降り注ぐガラス片に俺は腕を上げて目をかばったが、すぐに目を上げる。部屋が暗くなっている。由比の御魂はどこへ!?

 俺は目を走らせる。熊谷氏が無言のまま指さす先に、金曜の体から30mほど離れ、凍りついたように動きを止めている御魂がある。由比だ。

「金曜……いま、いったい何をした」

 水曜がわななく口調で問うと、金曜は見据えている由比の御魂から目を離し、その視線を姉に移す。

「《命じた》だけ。これまで私は世界で、世界は私だった。世界を傷つけることは私を傷つけること。だから、どんな小さな力も使いたくなかった。でも、《壁》を築いた時にわかった。世界は私じゃない。私は世界じゃない。私は自分の意志と力を使って、私の大切なものを守る」

 金曜の静かな声に凛とした響きが宿る。

俺は驚愕していた。人間の御魂は扱いづらい。しかも良好な関係性でもない御魂、悪霊、をいきなり従わせるなんて俺にはできない。俺にできるのは《お願い》をすることだけ、なのに金曜は《命》じて、力づくで従わせた。そんなことができるなんて桁外れの力だ。水曜が最初に試して失敗していたように、半端な状態での《命》は御魂を従わせることなどできない。

俺のそれとは性質が全く違う。金曜の能力って一体……!

茫然と金曜の言葉聴いていた水曜はしかしはっとしたように顔を上げた。

「守る? まさか! その刀を何に使う気だ」

 確かにそうだ。由比の御魂は金曜に《命じ》られてもう動けない。

ならその刀は何の為に?

 金曜はふたたび少し笑った。どこかはかない微笑だった。霊刀を持ち上げて見せる。

「これ、贋物じゃないよ。使い方が違ってただけ。水曜、本当は知ってるね。依り代の肉体ごと破壊しなければ、中にいる悪魔を追い出すことはできない」

「待って金曜!」

 木曜さんが叫んだ。叫んだのは俺も同じだった。駆け寄った、だがもう遅かった。金曜は霊刀で自分の胸を突いている。鮮血が床を染め、結界を真っ赤に濡らす。

 水曜は凍りついたままハシバミの杖を必死に結界に突き立てている。

金曜は床の上に膝をつき、前屈みに倒れ伏す。その背中に手をかけたものの、何もできずに俺はその顔を覗き込んだ。刀を抜くべきなのか、抜いたら余計に出血するのか。

金曜は激しい息遣いを抑え込みながら俺の方へ顔を向け、言った。

「ベレトは呼び出すのが難しい悪魔なの。結界と指輪だけじゃ駄目、霊刀で依り代を破壊しなきゃ。水曜、皆を結界で守って。私、もう皆の重荷でいるのが嫌だ。だから」

 甲高く引くような息が金曜の言葉を遮る。俺の向い側で金曜の手から刀を取り上げようと必死だった木曜さんがやめてと悲鳴のように叫んだ。投げ捨てた霊刀が床の上を転がって行く。

「重荷はうちや、あんたちゃう!」

一瞬、時間がとまったかのようだった。金曜は俯いて動きを止める。

呼吸までもがとまって……いる?!

熊谷氏が部屋中がびりびりするような声で怒鳴った。

「早く配置に戻れ、タクト、木曜もだ! 《来る》ぞ」

 そしてすごい勢いで俺の腕を掴むと引き戻し、さらに金曜にすがりつく木曜さんを引き剥がして所定の位置に突き飛ばした。

 その時だった。

 シャンデリアの照明が全て落ちる。室内は突然真っ暗になった。俺は瞬きして闇に目を凝らす。ぼうと青白い光が浮かび上がる。金曜の体全体が光っている。

寒気がした。

 別に家が鳴動したわけでもない。だが部屋の中の空気が変わった。耳が高音で鳴り始め、空気中に無数の微小な針がばら撒かれているかのように、膚や目がピリピリする。

金曜の体は音もなく起き上がる。襟首をつまみ上げられて宙に吊り上げられてでもいるかのようにがくりと首を前に落としている。その唇だけが動く。由比のそれとも違う、異様に低い声が言った。

《この体はもう使えんわぁ、死んだぁ》

 杖に両手ですがっている水曜の体がびくっと反応し、こわばる。

どさりと鈍い音がして金曜の体は血塗れの床に落ちた。光は失せ、金曜の頭にあった角は消えている。なぜそれがわかったかというと、倒れている金曜の体のちょうど横に、発光するものがあったからだ。それは。

どう見ても二日酔いの疲れた中年男性だった。よれたスーツにネクタイ、靴は履いておらず、めんどくさそうな半眼で片膝をたてて床に座っている。顔色は青白く、目の周りが黒ずんでいて、頭にはかしいだ王冠をのせ、手には鞭を持っていた。

《オレ忙しいんだけど、よっぽどの用なんだろうなあ》

 声は聴こえなかった。頭の中に言葉が直接這うような低音で響く。のんびりと語尾を伸ばす癖の中に不機嫌そうな響きがあった。

ぱちぱちと音が響いた。金曜の体のそばで火が燃え始めている。俺は急いで水の御魂を放ち、金曜の体を包ませる。馬上の悪魔ベレトは俺を見た。

《ふーん、半端者の集団だあ。お前はただの人間のくせに、なんでここにいるわけえ》

半端者? 意味を掴めない俺は思わず口を開きかけ、隣から熊谷氏に睨まれ口をつぐむ。

《恐くて口もきけないてかあ》

 地響きのような笑い声に俺は思わず頭を押さえた。割れるような頭痛がする。結界の中で火は燃え盛っている。この火の勢いではいくら御魂に守らせても金曜の体の無事が危ぶまれる。

そこに木曜さんが声を上げた。

「無礼は承知しております。我々はお願いを聞き届けて頂きたいだけなんどす」

火の雷が木曜さんに向かって走った。しかし結界のところで見えない壁に弾かれて戻る。

木曜さんは指輪を掲げる。火曜も、水曜も同じく手を挙げる。木曜さんはもう一度繰り返す。

「王よ、貴方は結界の中にいらっしゃいます。貴方の強大無比なる力をもってしても、ここから出ることはできません。お願いさえ聞き届けていただければ、すぐに御戻りいただけます」

 ベレトはふと木曜さんから目を逸らし、彼女の背後にある何かを凝視した。

《懐かしい本があるなぁ。それ、300年前にオレが殺した3人の男のもんだろぉ。由比という男もこの本を使ってオレを呼び出したなあ。己の命と魂すら差し出さず、他人の血を代償に天下を取らせてくれとか言ってたから、手痛い目に遭わせてやったけどぉ》

 ベレトは長い爪の先で何かを手繰り寄せる仕草を見せた。凍りついた由比の御魂が吸い寄せられるように近付く。

《こいつ処刑当日、やっと考えを変えたなぁ。己の命と魂を捧げて願いを叶えるってさぁ。末路はこれえ。人間に不幸をもたらすたのしいオレのオモチャだあ。オレを呼び出す者は、同じ目に遭うよお。お前も命、差し出すかあ?》

 ベレトはひとさし指のかぎ爪をかざすと、無造作に由比の御魂へ一筋の傷をつける。隣で短く息をつめる気配があった、と思うと、ぶんと熊谷氏が腕を振る。

俺が彼の横顔を見返ると共に、刀のしなる低い音がした。見ると向いの壁に霊刀が刺さっている。

 熊谷氏が投げたんだ、と気付くまで少しかかった。速すぎて動きが見えなかった。霊刀はベレトの体を完全に貫通している。そうか、悪魔には肉体がない。

 ベレトは熊谷氏を見据えたままにやぁと笑う。

《友人を裏切ったり守ったり忙しいなぁ? 地獄に堕ちたら誰が自分の処遇決めるか知ってんのかなあ? オレなんだけどなぁ。名前言ってみい?》

熊谷氏は悪魔ベレトの問いかけに答えず、黙っていた。と、壁から霊刀がひとりでに抜ける。熊谷氏に飛んでいく、と見た俺が咄嗟に風の御魂を飛ばしてはじき返すと、ベレトはつまらなさそうに膝上で頬杖をついた。木曜さんは落ち着いた声で続ける。

「王よ、我々の願いは、貴方様の由比との契約解除です」

《それはないわぁ。こいつの魂はすでにオレのだぁ。やっとまともな悪魔的思考を身につけさせたとこだしさあ。これから大いに社会と人心を荒らしてもらうつもりだしさぁ。ただで手放せとは言わないよなぁ》

笑い声が響き、頭痛をこらえながら俺は木曜さんを見つめる。魂を引き渡せとベレトは言う。だけどそれじゃ本末転倒だ、そんな取引には乗れないとはっきり言ってくれ、木曜さん。

だが木曜さんはこう答えた。

「魂は無理でございます。でも、命でよろしいのなら」

ベレトがひややかな笑みを浮かべるのが見えた。駄目だ木曜さん!! それじゃいったい何のために金曜が……!

「ただし」

木曜さんは続ける。倒れている金曜に手を述べる。

「この子に命を戻す事を約束してくださるのなら」

《それで決まりい》

ベレトは火の中から金曜を2本指でつかみだすと、木曜さんに向かって投げつけた。

木曜さんは金曜の体を両腕でしっかりと抱きとめる。その重さに床に崩れ落ちた、かに見えた。そのまま力をうしなって床の上に仰向けに倒れてしまう。

「木曜! 木曜」

 火曜は結界を忘れて駆け寄ろうとしたが、水曜の杖がそれを阻んだ。火曜はギッと水曜を睨みつける。

「邪魔しないで水曜! 木曜がっ」

 しかし火曜は水曜の顔を見て黙った。水曜の顔は真っ白だ。

金曜は2人のきょうだいの声に目を覚ます。ハッと体を起こし、自分の下敷きになってぐんにゃりと倒れている木曜さんに気付く。その肩を揺さぶった。

「……木曜!? どうして、息をしてない!」

ベレトの割れがねのような笑い声が響く。

《魂は渡さないとか、己の命と引き換えに妹の再生をとかどうでもいいしさあ。魂をくれないならあ、由比の魂はオレの所有だしなあ。さあ由比、女をくれてやるぞお、望み通り死んだぞお。願いと違う? 結婚がどうとかそんな契約はしてないからなぁ》

俺は信じられない思いで目の前の光景を見つめていた。まるで……玩具でも扱うみたいに、あの木曜さんが。

金曜はベレトの言葉で事態を悟ったらしい。姉の肩を揺さぶるのをやめ、そっと床へ下ろした。木曜さんの指からそっと指輪を抜き取り、自分の指に嵌める。

 ベレトはじっと耐えて立ちながらふるえている水曜を見ていた。

《似非錬金術師、今度はお前だなぁ。願いをきこうかぁ》

 棚に置かれていた秘伝書が宙に浮き、水曜の目の前で止まる。

 水曜は宙に浮いている秘伝書を片手に掴み取る。瞬間、俺は肝が冷えた。急いで彼女の横顔を見やったが、水曜の顔はポーカーフェイスのままだ。何の表情も読み取れない。

《あんたの大好きなこの本を前に誓うといいよお、命と魂をオレに捧げるってえ》

水曜は火曜を抑えていた杖を素早く俺に押しつけた。目を見開く俺に低く囁く。

「何があっても離さないで」

 そして水曜は秘伝の書に手をかけると、一気に引き裂いた。結界の中の火に投げ込む。本は一瞬ぱっとひときわ大きく輝くと、みるまに燃え始める。

 俺は驚いて叫びそうになる。

 あれだけ大事にしてた本なのに。あれは水曜の《運命》じゃないのか。

「どういうつもりかなぁ、似非錬金術師。あの書物はお前の誇りだったはずだろお」

 ぼりぼり背中を掻きながら聞くベレトの問いに、水曜は答える。とても低い声で。

「私は勘違いしてた。秘伝書に習熟する事こそ私の運命なのだと。でも万能の霊薬を完成させても、死んだ姉を助けることはできない。地獄の王を呼び出せても、それが何なの。役立たずの誇りなど私にはもう不要です」

ベレトは飽きたような顔で爪先の由比の御魂を眺める。そして言う。

《御託はどうでもいいけどさぁ、魂と命の両方を捧げる覚悟が無いなら呼ぶなよなぁ》

 水曜の《運命》は火の中で燃え尽きようとしていた。

最後の一片が舞いあがり、空中で金色にきらめく。と同時に、部屋中が電気でもついたようにぱっと明るく輝いた。

目を開けていられない程の光に目がくらみ、俺は思わず目を瞑る。

何が起きてるんだ!?

再び目を開けた時、俺は目を疑った。

ひめさんがいる!?

結界の中に立っている。確かにひめさんだ、だけどどこから出て来たんだ!?

「やっと出られましたわ」

ひめさんはにこにこと言った。

「出られた……ってあんた今までどこにおったん!? そこにいたら危ないからどきっ」

火曜が叫ぶが、ひめさんは頓着せずうん? と首を傾げている。なぜか悪魔ベレトはどう見てもかよわいひめさんを見てあとじさった。

《話が違う。神は人間どもに手を貸してはならないはずだぞお、これはルール違反だあ》

 え? か、神?

 耳慣れない言葉に聞き間違いかと首をひねっている間に、ひめさんはにこにこと答える。

「ですから今までひっこんでましたわ。金曜のほくろの中に。貴方が人間の揉め事に神が出張ってくるのはずるいって言ったから。でも、貴方? 私がいないのをいいことに木曜との取引でズルしたわね。悪魔ベレトの名折れですわよ。もしこの5人が貴方に勝てたら、木曜に命を返しなさい。それから、5分間黙っていなさい」

 毅然として笑うひめさんに気圧されたように、ベレトは沈黙する。

な、なんの話……? ベレトを黙らせるなんてこの人、何者……!?

俺と同じく茫然としていた金曜ははっとしたように自分の手を広げる。そこにあったはずの大きなほくろが今は消え失せている。

ひめさんは笑う。

「そう、そこにあったほくろの中にずっといたの、貴方たちのそばに」

そしてひめさんは俺たちを振り返ると、言った。

「私の本当の名前は淡海の川枯姫。本来は油日神社の中に棲んでいる神です」

 えええええ。

か、神。

うそだろと思うが、悪魔がいるんだから神がいても不思議じゃあないような。

「油日神社は甲賀の総社。360年前、甲賀忍者の血をひくお藤という名前の1人の処女が社を訪れました。自分は由比正雪の怨霊に狙われており、自分の弟や家族が怨霊によって殺されて行く。己の命と引き換えに親族そして子孫の身の安全をと願って命を断ちました。これにより私とお藤との間に契約がなされました。ですが私は神、ベレトの言う通り人間に干渉することはできません。そこで油日神社の祀る3つの大御魂を人間の中に移しかえたのです」

 待て、360年前? ひめさんは360歳以上ってこと!? いやそんなことより。

ひめさん……いや淡海の川枯姫は淡々と言った。

「簡単に説明します」

その説明によると、油日神社に祭られているのは火、日、ヒの3つの大御魂だという。最後のヒは霊を意味する。3つの大御魂をまとめて油日神という。

油日神の力でお藤の子孫守護をと川枯姫は考え、大御魂の力を弱めて人間の器に入れた。火曜、水曜、金曜を完成するのにかかったのが3日半、その間由比の魂を眠らせておいたという。俺は3日半? と首をひねったが、神の1日は人間の100年に価するのらしい。火の大御魂は火曜に。太陽の大御魂は水曜に。そして霊なるヒの大御魂は金曜に移しかえられた。

しかし、これって火曜と水曜と金曜の3人は正確には人ではないということで。

ぶっとんだ。彼女ら3名は神を人の器に入れたもの、つまり神人だと川枯姫はさらりと言う。もうわけがわからないよ……。

でも、ベレトが半端者の集団と言ったのはそのことだったのか。

川枯姫が言うには、3人に人としての社会性や協調性を身につけさせるため、孤児院に預けたのだという。そして成長してからひきとった。水曜は瞬きもせず聞いていたが、尋ねる。

「じゃあ秘伝書を私の入っていた箱に入れたのは……」

「私です。あれは熊谷が指輪と共に地中に埋めたものだけど、取り出して油日神社に保管していたの。あなたならそれを持たせておくだけでいい。太陽の大御魂は光と知を求める者、自力でめるくりうす・びたえについて探求するだろうとわかっていたから。どの子にも能力開花について教えてない。私では教えられないのです。そこで」

 びっしとひめさんは俺を指差す。

「大御魂を調和させる稀有な資質をもった人間を探しました。この力は神である私には持てない。神は創出し与え、奪うのみ。調和は人間の仕事なの。そこで見つかったのがタクト。彼は御魂に好かれやすい。貴方がた3人に教え、御せるのは彼しかいない。人間のタクトには厳しい宿題を課しました。でも、立派にやり遂げてくれた」

 川枯姫はやさしい瞳で俺を見る。でも宿題って何だろう。俺、何かやり遂げただろうか。

同じく疑問符を浮かべたままひめの言葉に聞き入っていた水曜が、ポケットからメモを取り出した。俺の顔をひめさんの顔を見比べる。

「もしかして、これか?」

あ、それ! 俺が水曜に渡した秘伝書の切れはし。そうだ、ひめさんの置き手紙に添付してあったあの謎の文章だ。

《kenjyagasyomotuwoyaburi,oborerumonokabewokiduku.

 sisigakusarinitunagaresitoki

私は必ず戻ります。日野ひめ》

川枯姫はうなずく。

「賢者はすなわち水曜、獅子は火曜、溺れる者は金曜。書物を破く事とは、知識の殻を破り、心を開く事。鎖をつけるとは激情の制御。壁を築くとは、他者と自己の境界線を築く事。全ての能力は己を乗り越えなければならない、でないと貴方達は大御魂としての力を自己制御できない。今やそれらは成し遂げられた。そう、水曜があの本を火中に投じた瞬間に」

 えと、獅子は火曜? 火曜は豹のはず、と俺は考え込みかけて、はっとした。熊谷氏が言ってたじゃないか。江戸時代の日本にライオンはいなかった、昔の日本人は豹を雌獅子だと思い込んでいた、と。つまりこの文章は。

川枯姫は俺を見て微笑む。

「これは江戸時代のキリシタンが書いた予言でもあり、全ての錬金術師への教訓でもある。このメモをよく見つけたね。期待姿を隠す事になりそうだったから、近所の人に頼んで置いてもらったの」

 ベレトが動き出すのが見える。川枯姫はじき5分経つ、とひとりごちる。

「最後の試練です、タクト。眼帯を外しなさい。彼女たちの本当の姿が見えるはず。そうしたら、3つの大御魂を調和させるの。できるでしょ?」

にっこり笑う川枯姫だが、俺は息をつめる。

眼帯を外す……?

火曜が心配げに俺の顔を見返った。

「そんないきなり無茶だよ、タクトの眼帯には事情が」

そう言いかけて言葉を呑みこむ。水曜と金曜が訝しげに俺を見た。

俺は掌にじっとりと冷たい汗をかいていた。川枯姫は返事のない俺にかまわず、手を上げる。

「5分経った。じゃ、任せます。タクト、昔の貴方には見えても何もできなかった。でも、今は違うわ」

そしてふっと消える。もう川枯姫の姿はそこにない。

床に寝ころんでいたベレトが起き上がる。3人の姉妹達は息をつめ、身構えて指輪を掲げた。

木曜さんをかばうように立つ金曜、水曜、そして火曜。

俺は結界の上に立ち、じりじりする気持ちで彼女たちを見つめている。熊谷氏は黙って俺を見返った。眼帯をとれ、と?

俺は握りしめたハシバミの杖から右手を離し、眼帯に触れる。もしこれを外してみんなを傷つけることになったら?  それに大御魂を調和させるといっても、どうやって?

《楽な条件だなぁ。人間がオレに勝てるわけないだろお》

ベレトは手を上げる。

 その指から、火曜に向かって火柱が走った。だが火は結界の壁に阻まれて火曜には届かない。

ベレトの攻撃は結界を崩さない限り防げる、だけどベレトに由比の契約を解かせるにはそれだけじゃ無理だ。

《秘伝書通り正確無比なる結界というわけかぁ》

 ベレトがつまらなさそうに手を下げると、小さなその肩の周りに青い火が2つ灯る。ベレトの唇に微笑が浮かんだ。

《日野タクト。親の御魂の腐食が見えていたくせに救えなかった人間。お前の両親は地獄でお前を恨んでいるよお。親の声が聴きたいかあ? 顔も見たいだろお》

ベレトの肩の周りにか細く燃えている青い火が真っ黒な口を開く。

『タクト、お前がその眼で私たちを見さえしなければ、私たちは死ななくて済んだ』

『お前のことを思って言う、その忌まわしい眼を潰してしまえ。その眼はお前以外の者を殺してしまう。真実など見るな、それがお前の幸福のためだ』

『私の名前を呼んでおくれ。そうすればお前に私の姿を見せる事ができるから。ただ一言』

 俺は俯いて目を閉じた。手にじっとりと冷たい汗をかいている。

 ベレトの囁くような声が頭に響いた。笑いを含んだ冷たい声だ。

《罪滅ぼしに名くらい呼んであげたらどうだぁ。たった一言だぞお》

 おかあさん。喉の奥からその言葉を絞りだそうとしたその時、火曜が叫んだ。

「タクト、聞かないで! 耳を塞いで。そいつら贋物だよ、ご両親がそんなことを言うはずないやろ」

《それはどうかなぁ? それにしても日野タクトは親不孝だなぁ》

 ベレトは他人事といった顔で言う。俺は胸を押える。心臓が痛くて息ができない。胸が痛む、なんて台詞はただの決まり文句だとずっと思ってた。でも文字通りリアルに痛い。どうして。

火曜は舌打ちする。

「やっぱりあの時あの時外しておけばよかった、無理矢理にでも! タクト、そいつらがご両親だろうが贋物だろうが関係ない。あんたの眼が誰を殺そうとうちはあんたが好き。その邪魔な眼帯を外して、うちを見て」

『タクト、その女の言うことを聞くな! その女は半分獣で信用ならない』

 ふと俺は違和感を感じた。半分獣? 俺の両親は火曜を知らないはずなのに。前屈みになってた俺は目を上げた。ベレトは舌打ちする。火曜は真っ直ぐに俺を見ている。

「うちを殺してもいいよ。外して! 今」

俺は眼帯に触れた。しかしためらう。火曜は足を踏み鳴らす。

「早く! タクトが怖いやつはさっさと部屋から出ていくといい、誰かいる?」

 水曜、金曜はそんな火曜を見て笑い、目を合わせ、微笑んで俺を見た。一緒に声を合わせる。

「こわくない」

 俺もだ、というように熊谷氏がうなずく。

「取って!」

 火曜の声が飛んだ。俺は苦しい息をつめ、眼帯をつかむ。呼吸を妨げているものを振り払うように、過去を振り払うように、俺は外した。

皆が笑った。

火曜。

水曜。

金曜。

熊谷氏。

はっきり見える。皆、笑ってる。皆の御魂……俺はまだ息をひそめたまま、眼を凝らした。主に恐怖から。俺が視ることで皆の御魂が黒くはならないか、腐食していかないだろうか。

ならない!

それがわかったとき、やっと俺も笑った。誰の御魂も黒くない。一点の曇りも無い!!

それどころか、火曜、水曜、金曜の御魂は金色を帯びた強い輝きを放っている。熊谷氏の御魂も真っ白で美しいけど、まさに桁違いだ。こんな凄いものが今まで自分に見えてなかったなんて、不思議なくらいだった。それだけじゃない。何だか世界じゅうのものが透きとおって輝いて見える。

何て綺麗なんだろう。音楽の響きみたいに。本当に何て美しいんだ。

すごくきれいだ!!

俺の左目を長い間覆ってきた眼帯は、ひらりと結界の中に舞い落ち、ベレトの火に燃え尽きる。ベレトはひるむように顎を引いた。両肩にいた青い火は消える。

俺は言葉を封じたまま、自分の体内に宿る御魂に話しかける。

御魂たちよ、おねがいだ。ここにある響きに共鳴してくれる全ての御魂を呼んできて。そしてここにいるみんなと……。

みなまで言わないうちに御魂たちは俺の体からすうと立ち上り、俺が見上げる前で輝きだした。息をするように点滅する。俺は数をかぞえる。1、2、3。

4を数えた時、御魂たちは流星のように駈け出していった。俺はかぞえ続ける。5、6、7。

そして8。

 御魂たちは戻って来た。今まで俺が出会った全ての御魂たちを連れて。かれらは天井に集まり、へや中が輝き、明りもないのに眩しいほど明るくなる。熊谷氏や3姉妹は瞬きし、頭上を見上げた。ベレトはただ眉をしかめる。

黒い染みのついたこの屋敷の御魂が、いる。

庭で水曜が育てた薬草たちの御魂もいる。京都御苑にいた萩の木の御魂も。

 御魂たちはそれぞれの輪郭を持っている。その輪郭の凸凹によって反発したり弾きあったりする。色の相性もある。だけど眼帯を外した今、見えるのは、輪郭の凹凸や色とは関係のない地点だ。大御魂を調和させるって、どうやって? ってさっきまで考えてた。でも今はわかる。

 好きになればいいだけだ、この美しいものたちを。

 3姉妹の輝く大御魂を囲むように御魂たちは円を描く。共振が始まる。

御魂たちの輪郭は融け始め、一瞬にして無色になる。すきとおる御魂たちは3姉妹の御魂に触れる。金曜、水曜、火曜の御魂が透き通りはじめる。

不思議とうまくいくかどうかは考えなかった。集まる御魂全体の姿に、慎重な注意を払い続けてはいた。でも、それだけだ。いつもなら、種々の御魂たちが俺の狭い体内で調和を保てるか気を遣いすぎるくらい考える。御魂の力を借りる時、自分の体にどれくらい負担がかかるかも計算する。でも、もう計算しない。集まった御魂たちを体内にお行儀よくおさめる必要はもうない。御魂の反動がどれくらい自分を破壊するかも、もう考えてない。

命を失うかもしれないのに、今の俺がかつてないほど幸福なのは何故なんだろう?

指輪を掲げる3姉妹が俺を見て笑ってた。熊谷氏が黙って静かにうなずく。

俺は杖を握りしめ、目を上げる。


さあ、

行け!!


 すきとおる御魂たちは一つになる。俺の体を蹴って、飛び出した。

へや中が不思議な光に輝きわたった。輝いているのに眩しくない。特定の光源はないのにどこもかしこもくまなく明るい。

ベレトは身の置き所をなくした子どものように、強張ったまま立っていた。水曜は指輪を掲げて告げる。

「地獄の王よ、お帰りになりたくないなら、私たちと共に」

光はベレトに触れた。浸食し、ベレトをも透明にしようとして……しかし、ベレトは大きくよろめき、光を避けた。

水曜はそうですか、と小さく呟く。瞳をあげてベレトを見上げる。

「共生はできませんか。では由比正雪との契約を解約し、木曜に命を返して、貴方の世界へ御戻りください。下賤な人間の欲望や魂に係るのは王たる貴方には相応しくありません」

《偽善者め、共生だとお、そいつでオレを消す気満々のくせにい》

ベレトに水曜は無表情に答える。

「お願いを聞いて頂けないのなら、我々はこの指輪の力において、貴方を去らせない」

《しつっこいやつらだなぁ、もう飽きたわぁ》

 ベレトは嫌気がさしたように言うと、由比の御魂をしっと振り払うように投げ捨てた。

「ではお帰り下さい。お送りします」

水曜は掲げていた指輪をそのままに、なにごとかつぶやいた。結界に白い光が走る。

ベレトが手にした鞭を床で打つと、真っ青な馬が結界から現れた。ベレトは馬に飛び乗り、結界の描かれた地面の中へ飛び込む。消え際、ベレトはにやぁと笑った。

《お前らの名前ブラックリストに載せとくからなぁ。死後をお楽しみにい》

そして悪魔ベレトは消えた。あとに何も残さなかった。

へやを輝かせていた光はうすれ、ゆっくりと翳る。そして、ついには割れたシャンデリアの薄暗い光だけが残った。

「木曜は!?」

火曜が叫んだ。金曜は倒れた木曜に向かってすでに屈みこんでいる。首の下に腕を入れて差し上げ、ぱっと笑顔を見せる。水曜は歓声をあげる。

「息がある! 木曜、木曜!! 起きて」

俺も駆け寄ろうとして、気付いた。

動けない。

力という力が全て抜け出ていったみたいだった。

あ……そっか。俺さっき……御魂全部、全力でつかった……。

能力のキャパはとっくに超えてた。

 俺は泥の袋みたいに床に倒れた。熊谷氏が血相を変えて俺に走り寄る。手を差し伸べてくれたのが見えたが間に合わなかった。

倒れたら天井が引き延ばされて高くなっていくように見える。そして俺は果てしなく沈んでいく。酔っぱらっているような、不思議な感覚浮遊のなかに、心配そうな熊谷氏の顔がのぞく。

「タクト、どうした!?」

 俺はちょっと笑って手を振る、っていうか振ったつもりだけど振れてなかったみたいだ。熊谷氏は必死な顔で俺の手をつかむ。

このひと何だかんだいってやさしいよな。侍をやっていくのは大変だったんじゃないのかな。

「大丈夫。由比は?」

平常営業のつもりの声は低くしゃがれた。

 由比、と聞いた熊谷氏の顔がはっと悲痛な色にひきつる。

「おれ、貧血。心配ない。そっち行って。由比……」

 言いかけて呼吸がつまった。咳き込みたいけど咳き込む力がなくて丸めた背中に熊谷氏の手が触れる。あたたかい。でも困る。気が弱る。

 由比の契約は解かれたけどその後どうなったのか。金曜のコンディションを見る限りもう憑依の心配はないんだけど、由比の後処理は熊谷氏とそのほかの4人に任せるしかない。

 正直、俺の体、もうだめな気が。

目が開かない。

「あっち行って」

 指差せないで小さく言った俺を張り飛ばすような声が飛んだ。

「阿呆!!」

火曜の声だった。この声は本気で怒ってる。それ以上言わないで俺のそばに飛んできた火曜は、熊谷氏を押しのけると俺の首根っこをつかまえて揺さぶり起こした。

「瀕死じゃなかったら5回は張り倒してる!」

「5回は張り倒しすぎでしょ……」

 木曜さんの細い声に俺はかなり必死に目を開けた。金曜の手に抱き起こされて微笑んでる木曜さんがいた。なんか木曜さんすっごく綺麗に見える。あと声がでなかったけど同じツッコミがしたかったんです、ありがとう。

「うっさい木曜、こいつほんまに何でこんなにうちを心配させんの、許さん!」

 あったかいものが頬にあたった。見上げた火曜の目に涙がたまってた。

あ、あ、あららららら。

 ごめん、泣かした……。

て思いながらも視界が暗くなっていく。瞼が下がって行く。

「火曜、タクトを揺さぶるな! 今私が……」

 水曜の声と足音だ。でももう見えない。

柔かいものが唇にふれたような気もしたけど、夢だったのかもしれない。

世界が暗転した。

  

 最終章   放課後探偵、正式採用


 そして気がつくと俺は自室のふとんに寝ていたというわけだ。

なぜか横には仏頂面の蠍男が正座で座っているという不思議な事態だ。

俺、生きてんのかな。蠍男がいるってことは、生きてるみたい。

 俺は寝床に寝たまましばし無言で蠍男と睨みあったが、それも不毛なのできちんと質問することにした。

「なんでここにいるんですか? あと、今って何時ですか?」

蠍男はいやそうに身じろぎして言う。

「いま朝4時だ。俺はあんたの看護を頼まれたんでね。でももういいだろう」

 さっさと立ち上がる蠍男を見上げながら、俺もよっ、と気合いを入れて起き上がろうとする。

あ、あれ……?

へなへなと布団にたおれこむ俺をしり目に、蠍男はふさふさ生えた髪をじまんげに撫であげて皮肉な笑い方をした。

「寝てろ。水曜さんたちのことは私に任せてもらおう」

 いや、それ一番心配なんですけど……。

熊谷氏はどうしたろう。由比は? 蠍男には聞けないし。

 出ていこうとした蠍男の目の前でばん、と扉が開いた。火曜、水曜、金曜、木曜さんがなだれこんでくる。

「タクトっ!! 起きたっ!?」

輝く火曜の笑顔がまぶしい。そしてそのかたわらで鼻の頭を押えて倒れ伏している蠍男が1名。

「あ、あの、起きたけど……」

 俺は蠍男が気になりながらも、スライディングして飛びこんでくる火曜の重みを布団越しに受け止めてうっ、と息をとめる。こ、呼吸が。

「火曜、病人に乱暴したらあきまへんえ」

 木曜さんがにこにこと火曜をたしなめる。金曜がお盆を持ってきて火曜の横に座った。

「おかゆ作ったの。食べて」

「うん、顔色もいい。私の霊薬の効果は絶大だ」

水曜はさっさと火曜の反対側を陣取ると、俺の顎をぐいと持ち上げて顔色を確かめ、満足げにうなずいた。

ん? 霊薬って言った今?

「そうだ。めるくりうす・びたえ完成形。お前死にかけてたんだぞ。感謝しろ」

 胸を張る水曜をおいといて俺は青ざめ、急いで頭を両手で撫でまわす。髪! 髪!!

「……あった。髪」

 ほっと安心のため息をつくと水曜が俺の首をしめ始める。

「失礼だなお前! 禿げないって言ったろ!!!」

「ちょっと水曜タクトを殺す気!?」

 火曜の怒号と金曜の悲鳴も入り混じってよりカオスな事態に……てかリアルにぐるじい。

蠍男がひょろひょろしながら起き上がる。

「あの、水曜さん。私は……」

「お世話かけました。もうお帰りになれます。お礼としては何ですが、以前のご依頼の代金を全額お返しするということでよろしいですやろか」

木曜さんがにこにこと蠍男を戸口に誘導する。

 まだ居座りたい蠍男をぐいぐい玄関口に押し出しながら、木曜さんは、戸口で俺を見返って左目でウィンクした。

「あのさ、熊谷さんは?」

 苦しい息の下から尋ねると、水曜はふと真面目な顔に戻って手を離す。

「彼は……」

「っていうかさ、水曜どさくさにまぎれてタクトの上にいるんだけど! どいて!」

 火曜が水曜をおしのける。水曜ははっとして気まずそうに俺の上をどいた。

 黙って座ったままだった金曜がぼそっと呟く。

「火曜だってどさくさでタクトにちゅうしたし」

「……ちょっと金曜それは内緒やって言うたやろ!?」

 ひそひそ声で火曜が金曜の胸倉をつかむ。金曜は平然と火曜に揺さぶられている。盛大に丸聞えだよ。もう何がなんだかわかんないけど、気を失う前のあの柔かいのは夢じゃなかったってことか?

とりあえずややこしいから今のは聞かなかったことに。

布団の上で無我の境地をさまよう俺の手を、水曜が引っ張る。

 あっち、と指さされて首を上げると、戸口に熊谷氏が立ってた。その隣には、肩までの長髪に白い着物を着た男。

熊谷氏は笑って言う。

「タクト。俺たちはもう行く。世話かけたな。最後だ、見送ってくれ」

「熊谷さん。行くって? 隣の人は」

 由比だ、と彼は隣の長髪男を笑って見やる。長髪の男は口を右側だけゆがませてむりな微笑のかたちを作った。だまって俺を見る。

いつも金曜の中にいたのは、この人だったのか。

この人が由比正雪なのか。

丸い大きな眼は眼光鋭く、薄いくちびるが冷たい才気を顕わしている。虚無と寂しさを鋭い知性の下に隠し持っているような、悲しげな顔だった。

「ベレトが御魂に傷をつけたんで口がきけないんだ、勘弁してやってくれ」

熊谷氏がそう補足したところに、木曜さんが戻ってくる。

木曜さんは熊谷氏と由比正雪を見た。2人を見比べる。そしてなにもいわずほほえむ。

由比正雪は木曜さんを見て鋭い眼光を切実な色に変え、目を伏せた。ただ、深く一礼する。

そこへ何の前触れもなくささやかな光とともに川枯姫が現れた。

「な、何しに来たのよ」

火曜が驚いて毒づくと、川枯姫はにこっと笑う。

「お見送り」

熊谷氏は威儀を正し、由比正雪とともに一礼した。

「わしは願い叶って転生することになった。由比は……」

「地獄の業火で罪は清められました。彼は御魂の傷を癒してから転生します」

川枯姫は、そっと2人の背に手をかける。気真面目な表情でうなずく由比正雪は、さらりと溶けて雪一ひらの大きさの御魂になった。熊谷氏は咄嗟に飛び出てくると、俺の手を取る。

「またいつか会えるといいな、タクト」

にっ、と笑った。

そして瞬時に溶け消える。

川枯姫は彼らの御魂をてのひらにのせ、着物の胸元にしまう。俺に向き直る。

「私は油日神社に戻ります。それから、あなたがた姉妹とタクトは」

 そうだ。ここの3姉妹は神人だという。もともとの姿は油日神社に祀られる大御魂なのだ。まさか、川枯姫といっしょに神社に戻る、のかな……。

「勿論ここで生活するんだろ? みんな一緒で」

鋭い口調の水曜に、川枯姫は苦笑した。

「そうでなきゃ納得しないでしょ?」

無言のまま金曜、水曜、火曜がガッツポーズをとる。木曜さんは事情がよくわかってないみたいだったけど、にこにこしてた。

 せやけど……。俺ひとり男なんだけど。

「俺もいていいのかな」

ぼそっと呟くと間髪入れずに火曜が俺の後ろ頭をどつく。

「何言ってんのよ」

 いや、でもこれまでは非常事態だったから強気に徹して居座って来たけど、日常生活を送るってなるとほんとにいいのかなと。

川枯姫はかまわずに言う。

「タクト。今回の勝負はあなたにかかっていた。あなたがいなければどうなっていたかわからない。……感謝します」

 そうして彼女は大きなその瞳で俺を見つめた。俺は何もいえなくて黙ってかぶりを振る。

川枯姫はにっこりする。

「後を頼みます。あなたがいないと私もこの子たちを制御できない」

「ええええ!?」

 目をむく俺に、まじです、と川枯姫は真顔で言った。

そんな神様のせりふとも思えないお言葉……。

では、と背を向けた川枯姫の手を俺は急いでつかむ。振り返った彼女にちょっと待って下さい、と慌てて言って、ポケットに手を突っ込む。

出したものを川枯姫のてのひらの上に置いた。大きな緑色翡翆がころんと転がる。

「これは」

川枯姫は俺を見上げる。

「帯どめです。落ちてた」

俺は咳き込みながら言って一歩下がる。急に動くとまだよろめく。

川枯姫はにこっとしてありがとうと囁く。金曜がひっそりと左側にやってきて俺と手をつないだ。

「ぬけがけ!?」

見咎めた火曜に金曜はしらない顔で、タクトはまだ本調子じゃないからと言った。俺を見上げて笑う。火曜が突進してきて俺の右側の腕にしがみついた。そしてなぜか俺を睨む。

……えーと。

水曜を振り向くとそっぽを向いてた。こっちに気付くと鼻の上に皺を寄せてやけくそなまでに《いいいい》って顔する。子どもかよ。木曜さん、笑ってるけど。

「仲良き事は美しきかな。じゃ!」

横顔で笑って川枯姫は消えた、現れた時と同じく前触れもなく。

俺は立ち尽くしてた。川枯姫……いや、俺にとってのひめさんにはもう会えないのかもしれない。

 ひめさんが俺にかまい、御魂について教えてくれていたのは、木曜さんたちを助けるためだ。わかってる。神様にただの人間の俺1人を見ろっていうのは無理な話だ、淡海の川枯姫を振り向かせるために江戸時代のお藤は命を賭けたのだから。

 初恋のあいてが神様だったなんてさ……。

「なに虚脱してんのよ」

 火曜が俺の脇腹を肘でどつく。思わず我に返る痛さだよ。

も~。やめてくれ、火曜の暴力、素で痛い。淡い失恋の感傷がぶっとぶわ。

木曜さんは思いついたように振り返った。そういえばうちらの戸籍の世帯主になってる見知らぬ女性のこと、川枯姫に尋ねましたとまじめに教えてくれる。

「やはりお亡くなりになって戸籍だけ残ってる方どす。世帯主、私に変えとくって言ってはりました」

 いったいどうやって。聞くと木曜さんは苦笑する。

「区役所の人の記憶はてきとーに操作しとくから大丈夫! ……だ、そうどす」

 想像を超えてるな、と火曜が真顔で俺の顔をのぞきこむ。

 そういや施設の事務所の人や先輩の記憶も変更されてたっけ。もうさすが神様としか言えない……。

「さ、今までセーブしてた分、夏休み終了までにがっつり稼ぎますえ~」

木曜さんが思いっきりのびをして歩きだす。火曜が鼻歌うたいながらそれに続く。

「私はめるくりうす・びたえをさらに開発する。毛髪再生の新薬として売りだせば大金持ちに」

水曜が私利私欲にまみれた野望をつぶやいている。実験体にされませんようにと心から祈る俺を後ろから三角眼でどつく。どうしてここの姉妹はこうも暴力的なのか。

 ぶつぶついってる俺を木曜さんが振り返る。

「わが探偵社は慢性の人手不足なんどす。何しろ全員学生で、しかもこれから復学予定なんやもん。タクトさんも放課後探偵としてがんがん働いてもらいますえ。正式採用決定!」

 覚悟してな、と木曜さんは笑う。


つまり、俺もここにいていいって、木曜さんは言ったのだ。

言っとくけど人使い荒いぞ、と水曜が肩をすくめ、金曜と火曜はつかんだ俺の手を無意味にぶんぶんと振り回す。

木曜さんは俺を見て笑った。

廊下から見える窓の外は薄青く白みかけている。

長い夜が明けようとしていた。


                                     (終)


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