謎解きと弟子
第5章 謎解きと弟子
昼間のひめさんの捜索の後、俺は部屋に戻ってひと息つく。熊谷氏がテレビに夢中になっているのをよそに、考え込んだ。
ひめさんの足跡をたどる捜索だったのだが、ひめさんの実家や出身などは誰も知らなかったのである。もちろん俺も知らない。プライベートについては全くの雲の中なのだ。
そこで水曜がいた尼僧院や火曜や金曜がいた施設などを訪ねて回り、彼女が姿を見せなかったか聞き込みをするしかなかった。だが、やはり何の収穫もなかった。
不思議だったのは、姉妹の引き取り手であるひめさんについてのデータが残っていないことだ。それは孤児院でも尼僧院でも同じだ。書類を調べてもらった揚句、それ、誰ですか? という顔をどこでもされて、俺らも顔を見合わせるしかなかった。
でも、一番驚いたのは俺のいた施設を訪ねた時のことだ。どうしても行かなければならないところがある、という木曜さんと途中で別行動になり、思いついて先輩にメールを打つ。玄関口へ出迎えてくれた先輩はよおと手を挙げた。俺を見て笑う。
「何だ、早くも舞い戻ってきたか」
「ちがいますよ先輩。養母が行方不明なんです。何か手掛かりはないかと思って」
先輩はあやふやな顔を見せる。てっきり、あの美人が、って言うかと思ったのに。
「養母……って? お前就職したんじゃなかったっけ?」
え。
「確か寮に住み込みで就職、そうじゃなかったか? いつ養子縁組したんだよ」
なんか変だ。俺はさすがに青ざめた。先輩はそんな忘れっぽい人じゃない。他に誰かその場にいたメンバーはいないか。しかし先輩に呼び出してもらった施設の仲間はどいつもこいつも、そんな美人の養母と養子縁組したなんて妄想が行き過ぎ、と笑うのだ。絶対おかしい。俺が彼女の養子になったのはほんの数日前のことなのに。
極めつけは事務所でおばちゃんにデータを照合してもらった時のことだ。俺は全然知らない会社に就職したことになっていた。つまり、日野ひめなんて名前は公的な書類のどこにも出てこなかったのだ。
日野ひめという人物は本当に存在していたのか?
ひょっとして俺の妄想だったのか? 昔精神科医が俺に言ったように、本当は俺は気がくるってるんじゃないのか。
そんな茫漠とした思いつきに俺は頭をぶるぶると振る。ポケットからひめさんの手紙を取り出して見つめた。地蔵祠に入っていた白い便箋。
そんなわけない。だってこの字はひめさんの字だ。彼女は確かにいる。……はずだ。
きっと何かの事情でデータが紛失したか、消されているか。
でも、消されているとしたら、なぜ? 先輩や仲間の記憶を書きかえるなんて芸当、一体誰がどうやってやったんだ? いや、そんなこと誰にだってできない、不可能だ。
てことは……やっぱり俺の頭がおかしいんじゃないのか。そうだろ、この状況なら、誰だってそう思う。
俺は悄然として施設の門を出る。
ほとんどどこをどう走ったかも記憶にないまま屋敷に着いたが、門を開けたらまた最初の時みたいに『あんた誰?』って追い出されるんじゃないか。そんな臆病風に吹かれて俺はしばらく門前に立ちつくしていた。
「タクトさん。どないしはりました」
後ろから声をかけられてびくっと飛び上がる。ん? と小さく首を傾げる木曜さんがいた。昼間は途中から別行動だったのだ。
「良かった……」
思わず心底のため息がでた。木曜さんが俺を知ってる。俺の妄想じゃなかった。
門を開けてくれながら、彼女は俺の話を聴いて無理もないと振り返る。
「うちらも同じ気持どすから。タクトさん、施設へ行ったはったんやろ? うちは区役所へ行ってました」
区役所……そうか、俺等の戸籍謄本だ。ひめさんの情報がそこにあるはずだし、もっと他にも何かわかるかもしれないんだ。俺が顔を輝かすと、木曜さんはうなずいた。玄関へ上がっていってから、ちょうど手に持っていた書類を俺に渡す。
「これが、それどす」
俺は勢い込んで覗き込み、ぼうぜんとする。確かに俺等5人の名前が養子としてそこにある。だが……。
「ひめさんのお名前、あらへんでしょ」
木曜さんは髪を後ろにまとめている。いつになく真剣な表情だ。黒縁眼鏡をかけていたが、それを外して玄関のチェストの上に置く。俺を見上げた。
「うちらの養母の名前、日野姓ではありますが、全くうちらの知らん人物の名前です。年は90代後半、夫は他界、本籍地と現住所は京都の烏丸丸太町。つまり、ここどす」
90代という年齢からして、それだけでもうひめさんと同一人物ではありえない。しかも、住所がここ、ってどういうことだ。
本籍地はあてにならへんから、と木曜さんは言ったが、それにしたって不気味なものがある。木曜さんは続ける。
「うちが思うに、この女性は既に存在しておられない可能性があります」
「どういうことなんですか」
木曜さんは言った。
「単純に、亡くならはったけど、死亡届が出てへん、ってことです。親族の特権で戸籍を遡って調べてみました。この女性の結婚前の家族は全員が他県、滋賀県ですな、そこで既に他界されてます。仮に独り暮らしされてたと仮定しますと、死亡届出す人間がいいひん可能性は、高いどすな」
この女性が生きているとしたら、どうなのか。木曜さんはしかし鞄から施設名の書かれたリストを出してきて俺に見せる。全部バツ印がついてる……。
「京都府内及びこの女性のご家族のおられた滋賀県内の高齢者施設リストです。しらみつぶしに電話をかけましたが、この女性と同姓同名で90歳代の方はいませんでした。これ以上は、調べるすべがありません」
あ、けど、そうするとこの屋敷の持ち主はどうなってるんやろ。木曜さんとちゃうって、前に言ってたけど……。
「それが、何の手続にも関与してませんから、わからへんの。うちらはただ越してきただけなんどす。家賃もありませんし。固定資産税は、勝手に払われてるみたいです」
「いったい誰が?」
木曜さんは頭を振った。今のところ不明だ、というのだ。
「明日調べる予定でいます。今後のことがありますから。ひめさんが存在しないとなると、うちらも宙ぶらりんなんどす」
※ ※ ※
書類上は存在しない人間、書類にしか存在しない人間……何もかもがへんちくりんだ。いったい《日野ひめ》ってほんとうは誰なんだろう。なんのためにこんなことをしてるの、ひめさん?
事務室を出た俺は夕食当番なのを思いだして食堂に入った。カレーを支度してると、水曜がやってきた。お粥を作りたいという。金曜が熱を出したそうだ。水曜の青い顔を見て、俺は黙ってその手から鍋をとりあげた。
「いいよ。座ってろ」
米を研ぎ始めた俺に、水曜はちょっと驚いた顔を見せる。言った通り座らないで、俺の横に並ぶ。生気のない顔だ。
「作れるのか?」
馬鹿にするなよ。料理は趣味だ。
ついでだし、と俺は水を切った。
「でもちょっと時間かかる。できたら1階までもってくけど」
そう申し出たが断られた。1階へは降りるな、と言う。
「万が一、あんたが憑依されたら、すっごくめんどくさいから。1階に用事しに行くのは基本的には私だけって決まりなんだ。私は安全だから」
「それ、変やろ。なんで水曜だけ安全なん?」
「一度とりつかれてるから」
え。
俺は思わず水道を止めて水曜を見る。水音が止んで静かになった。彼女は言う。
「あの悪霊はずっと1階にいたんだ。私より3年早くひきとられてた木曜は1階へ行くなってずっと言ってた。だけど私は初めて屋敷に引っ越してきたばかりで、探検してみたくて、階下に降りたんだ。あの悪霊はそこでまず私にとりついた。けど私には自分が棲むに足る容量が足りないって……それで金曜に乗り移ったんだ。キスで悪霊が他人に乗り移るなんて」
そんな簡単に、という言葉はかすれて聴こえなくなった。水曜は食堂を出ていく。
そんな事情があったのか。だからいつも水曜は金曜のことで必死なんだ、と俺は鍋を火にかけながら思った。黙って自分を責めていたに違いない。
そういえばあの悪霊を追いだせるような強力な霊を呼び出すつもりだ、とか言ってたな。
俺は嫌な予感がして眉根を寄せる。
どさくさに紛れてたが、あれが本気だとすればいつ、やる気だ。
さっきの水曜は金曜の不調にだいぶ動揺してた。早めの決行を考えるかもしれない。
いっそ木曜さんに相談しようかと思ったが、水曜は木曜さんには交霊で悪霊を追い出す計画について話していないだろう、という気がした。勘だけど。
食後の後片付けが終わると、俺はすぐ水曜を探した。だがなかなか見つからない。あきらめて風呂に向かうと、階段を降りたところでちょうど風呂場から出て来た水曜とばったり出くわした。さすがに尼僧服じゃない。濡れ髪をクリップでまとめ、薄いコットンのワンピースを着た水曜は、無防備な姿でも見られたようにはっと脇をしめて自分の体を抱きしめる。怯えてるようにも見えるその仕草に、俺はちょっと疑問を感じた。何も覗いたり襲ったわけじゃなし。
「次、入るのか? どうぞ」
水曜はそう言って小走りに階段へ駆け寄り、俺に背を向ける。
あ、ちょっと待って、と声をかけた俺に水曜は硬い仕草で振り返る。
「何か?」
「えっと、つまり」
視線が容赦なく突き刺さる。
俺は言葉に詰まった。言いにくい。すごく言いにくい。でも言わんとまずい。言い逃しで後悔するよりマシだ。俺は心を決めて言いだした。
「前、悪霊を悪霊で退治するとかって言ってたけど。相当危ないと思うで。本気?」
だったら何、という言葉が返って来た。
「お前に関係ないだろ」
階段を上がりだす水曜の手を俺は掴んだ。
「ちゃんと話聞けって」
びくっと身をすくめて振り返った彼女に俺は言う。
「俺も一応兄弟。関係なくはないやろ。あと、金曜はクラスメイト。ほっとかれへんし」
水曜は俺の顔をじっと見つめ、しばらく黙った。
「……そうか。金曜か……」
彼女は弱い微笑みを見せて目を足元に落とす。それから俺と目を合わせて、口の端を上げた。
「だったら教えろ、他の方法を。お前、1階の霊を全部除霊したよな。あの悪霊も浄化できるんじゃないのか。私にやり方を教えてくれ」
俺は黙る。除霊できるほど強い光の御魂を使えば、光の御魂の照応部位である心臓も相応のダメージを受ける。華奢な水曜に耐えられるだろうか。それに俺が咄嗟に出した光の御魂くらいじゃ、金曜の中の由比正雪は除霊されなかった。光の御魂をもっと強化するか、他の御魂と組み合わせたら可能かもしれない。でも、その場合、命の保証はない。
黙っている俺に、水曜は水曜は冷たい眼になった。俺の手をもぎ離して背を向ける。
「やっぱりな。口だけか」
「待てって」
水曜は振り向かなかった。階段を上っていく。だめだ、このままじゃ水曜は別の悪霊を呼んでしまう。
俺は庭の植物を見つめた。一見雑草に見えるが、縦横に生い茂るこれらの植物は、全て薬草だ。水曜が霊薬を作るために育ててるんだって聞いた。クリスマスローズ、菖蒲、メリッサにローズマリー。マヨラナにウェロニカ、ブグロッサ。苦心して集めたんだろう。
俺は小声で呼んだ。緑の御魂よ、庭の中へ入れ。
庭全体がかがやきわたった。
外界とこの屋敷を隔てて高くそびえ立つ塀の中で、植物はすきとおった金色に輝き、あたりはまるで昼のようにあかるくなる。
階段を上がりかけていた水曜が、訝しげに庭を見下ろした。息を呑む。
「これ……」
水曜ははっと俺を振りむいた。食い入るような視線で俺を見る。
「お前の能力はこれか!? 一体……まるで黄金の庭……」
俺は水曜に言った。
「悪霊に頼るくらいなら、俺に頼れ。この力を使いたければ、教えてやる」
そうしてその晩、水曜は俺の弟子になったのである。
※ ※ ※
《悪霊に頼るくらいなら、俺に頼れ》
って、言ったのはいいけど。
食堂のテーブルには朝の光が射し込んでいる。
あれからひと晩、俺は寝ていない。
「タクト! もう1回」
一向に 眠くなる様子のない水曜はテーブルを叩いた。はいはい。
昨晩から御魂を使う訓練を続けている。水曜は病身の金曜を看るため何度も席を外す。その度じっとこちらを見つめて『絶対にそこを動くな』と俺を食堂に留め置くのだった。
水曜は持ち前の記憶力で、御魂が座する照応部位や個々の性質については完璧に記憶してしまった。けど。
俺は掌の上に御魂を出して見せる。昨晩庭の中に入れたから、緑のやつはちょっとバランス崩してる。朝日に当てておこう。
水曜には御魂を差しだして見せる。
「俺の方からとりなすから、試しにお願い事をしてみて。光るように」
御魂には水曜のお願い事を聞いてあげてと頼んであった。しかしだ。
水曜は御魂を睨んで指差す。決死の形相で叫ぶ。
「光れ!!」
必死……。
だけど御魂は反応しようとしない。水曜に指さされると曇ったような色合いになる。浄化中で俺の体内に入れないので、俺の背中のうしろに隠れてしまった。
「……できない……」
水曜はテーブルの上に力なく突っ伏した。すぐ起き上がる。不屈だ。
「もう1回」
「あのなー」
と俺は言った。
「思うんだけど、このままだと、何回やっても無理」
「教えるって言ったはずだ」
あ、睨まれた。
だからさ、と俺は考えながらうーんと伸びをする。
「あきらめるとは言ってへん。仕切り直しや。方法を変える」
正直いうと、予想外だった。御所であんなにすごい蜘蛛の巣を張っていたのを見てたから。逆に水曜が御魂の使い方を習得するスピードが早過ぎると無茶するんじゃないか、ということを心配していたくらいだった。
金曜がいないと能力が発揮できない、という木曜さんの言葉を思い出す。そういう事か。
でも、ここは日野金曜の力なしでなんとかしなきゃいけない。
「そばに金曜がいる時はどういうふうに力使ってる?」
水曜はさすがに少し疲れたようにテーブルに肘をついて言う。
「私には力はないんだ。私は金曜の力にただ命じるだけだから」
俺が驚いた顔をすると、水曜は頷いた。
「金曜は能力をコントロールするのが苦手なんだ。能力で何かしたいって思った事がないんだって。むしろ能力いらないって思ってるみたい。だから私が代りに能力に形を与えてるだけ」
それって俺と御魂の関係にすごく近いような気がする。俺自身にも力とかはない。御魂の力を借りているだけだ。だったらなおさら、水曜にできないはずないって気がしてきた。
「水曜は金曜の力に命じるだけやねんな。命じるって木曜さんとか火曜にもできるん?」
水曜は俺の質問を不思議に思ったようで、できないよと答える。
「理由はわかんないけど、できない。木曜は相性があるって言ってたけど」
やっぱり。
それも俺と御魂との関係に近い。相性がよくないとだめなんだ。
俺のもってる緑の御魂とは水曜は相性がよくないのかもしれない。改めて水曜と相性のいい御魂を探してみよう。
水曜は赤くなった目頭をこすりながら欠伸を噛み殺す。
「お前はどうやってその力に命じるんだ? もっと強く命じないと駄目なのかな」
力、と聞いた俺は何だか違和感を感じた。だがそれをすぐ言葉にできない。なんだろ。
俺のは命じてるわけじゃないから、と曖昧に答えると水曜はふうんと不明瞭に頷いてテーブルの上に組んだ手の上へ顔をのせた。だいぶ疲れてるみたいだ。
「とりあえず睡眠とってからまた」
俺は言いかけて口をつぐむ。
寝てる。
水曜はテーブルの上で電池が切れたみたいに眠ってた。
眠ってて毒舌を吐かないと、人形のような美貌だ。昨日水曜に迫ってた依頼人の気持が解らないでもない。彼に渡していた怪しい不老不死の霊薬について聞いたら、水曜はめるくりうすびたえではなく、少しずつ方法を違えて作っている薬の一種だと言ってた。命に別状は出ないそうだが、髪とかいろいろやばそうである。
でも、こんだけ綺麗なら、騙されてもいい気になっちゃうのかなー……。
俺はしばらく水曜の寝顔を眺めて、また背伸びした。瞼が下がってくる。
ちょっとだけ、とテーブルに突っ伏す。5分したら、水曜を起こして部屋へ送ろう。
そう思ったが、すとんと眠りの底に落ちてしまった。
「ちょっと、なにこの2人」
「仲良く一緒に寝たはるなあ」
のんびりした木曜さんの声と、不機嫌そうな火曜の声に俺は跳び起きた。慌てて目をこする。
向かいを見ると水曜はまだぐっすり眠り込んでいる。
「俺、このまま寝てました!?」
木曜さんは俺の勢いにあっけにとられ、こっくりとうなずく。
すっかり朝だ。火曜は水曜を揺り起こす。
「水曜! 朝食当番!」
「あかん、うごかへん」
木曜さんはむにゃむにゃしている水曜をつついた。無理に起こさず朝食の準備を始める。
「一体何してたん」
火曜がふくれっつらで俺に言う。
はっ、と水曜が顔を上げた。勢い余って椅子から立ち上がる。傍にいた火曜はよろめく。
「寝てた!? 金曜は!?」
うんうん、と木曜さんがうなずく。金曜の事はうちらに任せて、2人とも顔洗ってきよし、という言葉に押されるように食堂を出た。不満そうな火曜の視線が横顔に刺さる。
「不覚。まだ何も覚えられてないのに……いつのまに寝てしまったんだ」
水曜はちょっとふらふらしながら言い、洗面所の引き戸を開く。
食堂の隣の洗面所はやや狭い。洗った顔を拭く彼女に俺は言った。
「仮眠とったら外へ。再開する」
水曜はタオルに顔をうずめたまま黙って頷く。
※ ※ ※
「ところで、なんで鴨川?」
水曜は河岸を歩きながらぶっきらぼうに言う。
「わざわざ木曜に許可とって、金曜任せてまで。訓練たって、何にもないのに、ここ」
「ずっと屋敷にいると息が詰まる」
「そんな理由!?」
水曜は信じられないって顔したけど、俺さっさとベンチに腰かけて御魂たちを外に出す。
ほんとは訓練の為というより御魂たちの散歩の為……とか言ったら絶対怒るだろうな。
閉鎖空間にいると御魂が疲れやすい。しかもあの屋敷には独特の重たいパワーがある。
家にも御魂ってあるんだ。あの家の御魂のパワーは特に強くて中にいるものを疲れさせる。こうして広い空の下に出てみると、すごい解放感があった。ばきばき首を鳴らしてると、水曜は座ろうともしないで俺の前に立ちふさがる。
「とりあえず座って。気分に余裕がないと御魂も寄りつかへんし」
ここで水曜と相性のいい御魂を探すつもりだった。相性がよくて強力すぎない御魂だ。
だけど水曜は一向に落ち着こうとしない。
「時間がないんだ。訓練は!?」
殺気立ってるなあ。
「時間がないって言うけど、具体的にどう差し迫ってるん?」
「もう限界なんだ」
限界、という言葉、火曜からも聞いた覚えがある。どういう意味なんだろう。
水曜はぽつりと言った。
「これまでは、悪霊が出てきさえしなきゃ金曜も普通に日常を送れてた。でも最近、悪霊が出てない時でも、金曜の意識が混濁するんだ。人格の破片みたいのが時々ちらっと出てきて、すぐ消えてしまう。悪霊を追い出せても、金曜の人格を取り戻せなくなるかもしれない。その前に手を打たなければ」
それで、限界って言ってたのか。
「わかったけど、御魂と関係を築くのに急ぐのは禁物だから……」
俺は説明しようとして言葉をとぎらせる。だが水曜は眉をひそめる。
「関係を築く!? そんな悠長なことしてる暇ない。力さえ使えればいい」
俺はかちんときて思わず黙る。何か言おうとした水曜が俺の顔色を見てはっとしたように口を閉じる。
俺は御魂たちを回収してベンチを立ちあがり、歩き出す。水曜は慌てて俺の後をついてきた。
「ちょっと、怒ってるのか? 何で? 私、なんか言った?」
三条大橋の下でためらいがちに肘をそっと引かれる。俺はため息をついて振り返る。
「俺が何で怒ってるか水曜にはわかんないの」
わかんない……と寄る辺ない子どもみたいに小さい弱い声で水曜は答えた。俺はもう一度深いため息をつく。橋げたに打ち寄せる暗い水面を眺める。
「答えて。水曜は金曜の力を使えさえしたら、金曜との関係はどうでもいいの」
「そんなわけないだろ!? 侮辱するな」
暗がりの中で水曜は怒鳴った。だから、と俺は水曜の顔を見る。
「おんなじことだよ。御魂とのことだって」
今日はもう訓練にならないから解散、と俺はぼーっと言って、そのまま歩きだす。
まてってば! って水曜が後ろで呼び止めてたけど、振り返る気になれない。
昨晩の徹夜での訓練時、水曜との会話で何か違和感を感じていた。原因はこれだったか。
何だか気分がひどく落ち込んでいる。
俺にしてみれば、御魂たちは例えば妹とか弟みたいなものだ。兄弟なんかいたことないから喩えが合ってるかわからないけど、自分にとってすごく大事な存在ってことだ。相性悪いのもいるけど、仲が悪くたって大事なことに変わりない。それが人に軽視されてると知った、というのがショックだった。ナイーブすぎるな、おれ。
わかってても落ち込みは止まらない。
結局、しばらく歩いてから自転車を置いた場所に戻る。水曜が近くの路地に所在なげに座っていた。俺を見て立ち上がる。
知らないふりして自転車の鍵を入れてると、水曜が寄って来て小さい声で何か言った。
「なに」
「ごめん」
水曜の表情は暗い。
自転車を出しながら、俺は何がごめんなん、と淡々と答える。水曜は、だから、と言ってためらいがちに言葉を止める。
「わかってるんだ、私が御魂を使えないのも、霊薬を完成できないのも、お前が言ったことと多分関係あるんだ……。大事なことがわかんないんだ、だから私はずっと外道のおちこぼれなんだ、尼僧院にいっても尼僧になれないし、錬金術師になっても所詮似非。金曜がいなきゃ何の能力もないし、霊薬も完成できない。あの悪霊にも、お前の中には俺が棲む空間がろくに無いって言われた。どうしてなんだ」
自虐的に言い、俯く。俺は自転車を出しかけて止め、言った。
「才能なんか俺だってない。どっちかっていうと水曜のほうが才能あると思う」
水曜は噛みつきそうな顔で俺を睨む。
「慰めか? あんな黄金の庭を作れるような奴に私の気持が解ってたまるか」
俺はふかあいため息をついた。
「悪いけど水曜を慰めるような余裕は俺にもない。黄金の庭って昨晩のあれ? 言っとくけどあれ、俺の力ちゃうで」
「じゃあ誰のだよ」
水曜が毒づく。俺は自分の体を指差した。
「だから御魂の。水曜は御魂が見えるんだからそれ以上力とか才能とかいらんし。大事なのは相性のいい御魂を見つけて仲良くなれるかどうか。あと仲よくなった御魂を良い状態で維持できるかどうか。こっちのが難しいけど。それだけ、友達作りに近いやろ」
水曜はあっけにとられたように黙る。俺は止めていた自転車を再び動かしながら言った。
「何とかなる。だから短気起こすなや」
嘘ではなかった。どれだけ時間がかかるかまるでわからない話ではあるけど。
水曜は心を動かされたようだ。本当に何とかなるのか、と不安そうに尋ねる。
俺はできる、と言った。
「信じてもらわなあかんけど。だから焦らんといて」
信じる? と水曜はうさんくさい顔になる。
「微妙。お前男だし」
どういう理由!?
俺が男なのは生まれつきやし、どうしょうもないやろ!? そんなわけわからん全否定な理由で決められても。ええっという顔をしてる俺に、しかし水曜は小さく笑った。
「嘘。信じる」
う。そんな笑顔を見せられたら、どきっとするやんか。
「だって他に方法ないもんな」
そういうことかよ……。
俺は頭をかいて自転車を旋回させる。ゆっくり走り出した俺を水曜が追い抜いていく。
「責任もてよ。お前の言葉、信じたぞ」
びしっときめつけて笑った。全速力で追い抜かされて引き離される。必死にペダルをこぎながら、俺は気分が暗くなるのを感じていた。
必ず道は開けるなんて言ったけど、実のところ当てはない。水曜の能力開発に希望はあるが絶対に時間はかかる。それに悪霊を退治できるほど強力な御魂は、水曜には使わせられない。使えば命が危ない。とすると俺が自分の御魂で悪霊を退治する方法を編み出すしかない。
金曜の人格崩壊までに間に合うのか……。
門前に着いて屋敷内に電話をかける水曜の横顔を見ながら、俺は胸がつぶれる思いだった。だが何とかなると言ったんだから、何とかする方法を考えるしかない。
ひめさんに教えを乞えたらいいのに。そのひめさん探しも滞ったままだ。
とはいえ、手掛かりが全くないのも確かだ。書類上には一切ひめさんの痕跡がないのだから。
何か1つでも手繰り寄せるべき痕跡があれば。俺はそう思って、ふと動きを止める。
痕跡……? 待てよ。
俺はポケットの財布に折りたたんで入れてあるひめさんの手紙を出してきて広げてみた。
『タクト君へ。
ちょっとしたトラブルに遭い、当分帰れそうもありません。彼女達を助けてあげてください。それが貴方がそこにいる理由です。
kenjyagasyomotuwoyaburi,oborerumonokabewokiduku.
sisigakusarinitunagaresitoki
私は必ず戻ります。日野ひめ』
そうだ、手掛かりがあるとすれば、これだ。この書き置きの後半の部分だ。
後半部分は破り取った他の本の頁らしかった。茶色く変色した紙に活字、それを貼り付けてある。何の本から切り取ったものなのかはわからない。
ローマ字部分をひらがなに変えると『けんじゃがしょもつをやぶり、おぼれるものじょうへきをきずく。ししがくさりにつながれしとき』となる。これを適当に漢字変換したものを俺はもう1枚のメモに書いて持っていた。
『賢者が書物を破り、溺れる者が壁を築き、獅子が鎖に繋がれし時』
意味不明だけど、日本語にはなっている。ここに何か謎が隠されているんじゃないか。
ひめさんを示すヒントがこの言葉の中に隠されているとしたら?
きっとそうだ、なんで気付かなかったんだろう。俺はキーワードを思い浮かべてみた。
賢者、書物、溺れる者、城壁、獅子、鎖。何かないか、屋敷内のものと共通するものが。
鎖は金曜の手首についているよな。関係あるのかな……。でも、賢者とか獅子とか溺れる者って? 壁? あかん、わからへん。
「なんだそれ」
水曜が俺の手もとを覗き込んだ。あっと声をあげる。
「これは!!」
ひめさんの手紙を奪い取ろうとする水曜からメモを守ろうとして、自転車越しに無言のもみ合いになる。何かの拍子に2人の間に挟まれた車体が倒れてしまった。
俺の大事な自転車が! 貧乏学生には京都市内を走る貴重な足なんだぞ。
俺はとられないようにメモを宙高く差し上げる。
「ちょっと! これ俺の!」
「違う、それは私の大切な本の一部だ! 返せ!」
え?!
俺は水曜の顔に見入った。どういうことだ。水曜も俺を真剣な瞳で見つめ返す。
その瞬間、ぎぎぎいっと音をたてて背の高い門扉が開く。俺は無駄に高い門扉を思わず見上げて後ろに後じさる。
内側から錠を開けて顔を出したのは火曜だ。俺と水曜を見た途端、不機嫌な顔になる。門に手をかけたまま俺に目を合わせて言った。
「何、見つめ合ってんのん。デート帰りで色ボケしてんの」
あのなー……。
「デートじゃない」
水曜がすっと身を引いた。門内へさっさと自転車を引きいれながらあっさり切って捨てる。これはこれで何だかショックだ。火曜は何にも答えない。気まずい雰囲気だ。コケた自転車を引き起こしながら思わず呟く。
「色ボケって……」
「ひとんちの門前でラブシーン繰り広げんといて」
ウザそうに言い捨てる火曜であった。
ラブシーンちゃうわ! と、いうかさ……。何歳なんや、おまえ。俺は怒りも忘れて彼女をまじまじと見つめる。火曜さ、と話しかけた。
「前も思ったけど、キツいっていうか醒めてるっていうか。小学生とは思えへんなー」
物凄い勢いで火曜が振り返る。真っ赤な髪がぶん、と風を切る音が聞こえそうだった。
「うち、中学生やから!!! それも中学2年!!」
睨みつけられて、あ、そうなんや……と空ろに呟く俺だった。なにも中2をそんなに強調しなくてもいいと思う。でも、ほな14歳かぁ。ちーさいから年齢以上に幼く見える。
ずんずん庭に入って行く彼女の後から、自転車を引き入れ、しかし、と思う。
さっきの水曜のようすは何だ?
私の大切な本の一部、って、言ったよな。
大切な本って言われて思い浮かぶのは、最初水曜の部屋で見せてもらっためるくりうす・びたえの秘伝書だ。随分と古そうな本だった。でも、水曜は一見しただけで、あのただの切れはしを、本の一部だってどう判別した?
俺が自転車をとめて階段を上がりだすと、すでに上にいた火曜が俺を見下ろす。
「どしたん? 待ってなくてもちゃんと鍵閉めるで」
火曜は階段を上がりきって訝しげな俺に小さな声で言った。
「……ホントにデートじゃないん」
は。
質問の意図がつかめず俺は思わず口を空ける。火曜は怒ったように俺から顔を逸らした。きつい口調できめつける。
「やっぱりデートやん」
「ち、ちが」
ってかなぜ俺が言い訳を。
水曜の能力開発を頼まれて、と説明を口にしかけたが、余計に変なので言うのをやめた。
「何だってええやん」
そう片づけると、火曜はびくっとしたように俺を見返った。何とも言えない目でこちらを見つめる。あ。え。なんか悪いことしたか、俺。
「あっそ」
火曜はそう言うなり駈け出す。でも全然あっそ、っていう顔じゃない。その目にはいっぱい涙が溜まっていた。俺は咄嗟に呼び止めようと手を伸ばす。が、呼び止めても何も言えることない……のに気づいて、力なく手を落とす。
「何なんだよ~……」
火曜のふわふわした耳が目に残る。
「おかえりやす」
俺はびくっとして心臓を手で抑える。外出着のままの木曜さんが応接室から出てきたところだった。その隣には金曜。今の一幕は見られちゃったみたいだ。
「なんか、泣かしちゃったみたいで」
「火曜は気にせんでええんよ。あのこは初恋でいっぱいいっぱいになってるだけやし」
「はあ……。初恋、ですか」
それで情緒不安定なんやろか。俺はあやふやにうなずいた。
木曜さんは一瞬、目を見開く。それから笑いだした。
「かんにんえ。タクトさん、気づいてへんのや」
気づくって何に。俺なんで笑われてんのやろ。
木曜さんは笑い止んで目尻をぬぐいながら言う。
「なんでもないんよ、気にせんといて。それよりタクトさん、火曜と急に仲良くならはったね? 最初は火曜もつっかかってたのに、どういうわけか」
ぎくっとした俺を木曜さんはわかっている、というような鋭い瞳で見つめて頷いた。
「そうやね、きっかけは多分初日の夜、一階で遭遇して以来……そうやね?」
「知ってはったんですか! ……ええと、いや、そうじゃなくて」
思わず口が滑った!!
木曜さんは慌てる俺を見ていたずらっぽく笑う。
「そんなん、あほでもわかります」
ど、どういうことや。
木曜さんは根拠を並べて見せた。
「うちの知らん間に南京錠が新しなってました。水曜に聞くと言葉を濁すから、問い詰めたところタクトさんの名前を吐きました。それから、あの日の朝、1階の部屋の中に豹の毛が落ちてました。常日頃、火曜は1階に出入りしませんから、あの子の毛なんて見かけたことないんどす。それで、もしかしたら初日の夜、タクトさんと火曜は1階で遭遇したんとちゃうやろか、と思ったんどす」
さすが忍者の末裔、情報収集のプロだ……。俺が舌を巻いていると、木曜さんは金曜を食堂へと促しながら俺を振り返る。
「でもわからへんのです。なぜ火曜は階下に降りたんやと思います?」
「それは」
俺は言葉を口にしかけて止めた。火曜は木曜にかまってもらいたいあまり、悪霊に自分の体を差しだそうとした。そんなこと知られたと知ったら、火曜はショックだろう。ていうか、俺、内緒にしろって頼まれたんだった。
「……俺は、何にも知らなくて」
俺は言葉を濁し、嘘をついた。木曜さんはじっと俺を見つめ、声を和ませる。
「そうどすか。ほな、ええんです」
突っ込まれたらきっと返す言葉がなかったと思う。
この暑い中、久々に冷や汗をかいてしまった。歩き出した木曜さんに、俺は思いだして声をかける。彼女は午前中は調査のため税務署へ行っていた。
「あの! 屋敷の持ち主の件、何かわかりました?」
木曜さんは顔をくもらせた。
「この屋敷の名義はどういうわけか私の名前になっていました。税金は私の名前の口座から引き落としで支払われているそうですが」
木曜さんは顔を曇らせて言う。だが口座を作った覚えもないそうだ。いったいどういうことなんだろう。
「つまるところ、何の手掛かりもないってことですね」
木曜さんはうなずくと、指輪の光る手を振って去っていった。
なら、やっぱりひめさんの謎の書き置きから何か手掛かりを掴むしかない。
とはいえ、あの文章、意味不明なんだよな。
俺は眉間にしわを寄せたまま自室に向かおうとする。その時、そっと俺のシャツのはじを引っ張る者があった。俺はびくっとして振り返る。
「金曜!? あ、いや、金曜さん」
思わず呼び捨てにしてしまって俺は焦った。後ろにひっそりと立っていたのは、日野金曜だったのだ。彼女はかぶりを振った。よびすてでいい、と携えたスケッチブックに書き、俺の手をおもむろに掴む。え、えええと、とうろたえる俺を自室に押し込み、後ろ手にドアを閉めた。内側から錠を下ろす。
え、えっと、なんだろう。
完全に意識しすぎで挙動不審になっている俺の手首を金曜は再びつかみ、手を開かせる。無抵抗に開いた俺の掌の上に、何かを載せた。銀色の、冷たく重い指輪。
「これって!?」
俺は思わず目を見開いた。土星の刻印がある。これは木曜さんの持っているのと同じ……つまりひめさんの指輪なんじゃないのか!?
「どうしてこれを!?」
金曜は俺を見上げてだまってうなずき、自分の右手を開いて見せる。人さし指の先にうずら豆大の黒い斑点がある。黒子かな、と思ったが、それにしては平坦で大きく、痣のようにも見えた。金曜の手にこんなのあったっけ?
金曜はスケッチブックをさっと開いて書き始めた。すごく急いでいるみたいに見えた。
『これはひめさんのゆびわ』
そう書いて俺の顔を確かめるように見て、続きを書く。
『初めてタクトくんが来た日一階で
悪霊はひめさんをつかもうとした。そしたら手が熱くなって焦げた
気がついたらひめさんは消えてて あとにこの指輪と手の黒い痣が残った
悪霊はこの指輪を隠しておこうとしてた こっそりもってきた』
俺は言葉をはさもうとしたが、素早く頁を繰って金曜は一気に書く。
『いられる時間少ないから聞いて 海の中みたいなとこにいてすぐに溺れるの 顔出せる時間があまりないの
この指輪と同じものがもう一つあるから探して』
《溺れる》……俺はその言葉に既視感を覚えて戸惑った。だがまずは指輪が気になる。
「それって木曜さんのじゃ」
俺の言葉に急いたように金曜はかぶりを振る。
『全部で3つあるはず これは天草の乱の時3人のキリシタンが戦に勝とうとして悪魔使役の為に作ったゆびわ 失敗して全員死んだけど
由比正雪は天草の乱に浪人として参加してた
こっそり3人の儀式を見てたの
そして死んだキリシタン達から秘伝の書と指輪を奪った
悪魔使役によって資金と大勢の人を集める力を得た 最終的に裏切られたけどまだ悪魔との契約は続いてる 由比が契約してる悪魔はベレト 悪魔ベレト
ゆびわ さがして』
「ちょ、ちょっと待って何でそんなこと知ってるの!?」
金曜はほほえんでスケッチブックに目を落とし、書いた。
『由比正雪ときおくを共有してるから』
「え……木曜さんは君に悪霊にのっとられてる間の記憶はないって」
金曜は再びかぶりを振って素早くペンを走らせる。
『きおくないことにしてる
おねがいないしょにし』
て、と続くのだろうと思ったがペンが止まった。白く細い手がスケッチブックの上でギッと音がしそうなほど強ばる。金曜の意に反して手がうごかなくなった、ように見えた。
金曜のくちびるが動き、俺をうったえるように見た。
ご め ん な さ い
声なき声がそう言った、と思った。俺は思わず叫ぶ。
「戻って! 押しのけられちゃ駄目だ、溺れそうになったら壁を築いて! 意志を持って悪霊にさがれって言って」
壁、そう口にした途端自分ではっとした。ひめさんのくれた秘伝書の言葉だ。
《溺れる者壁を築く》
無意識に覚えていて口をついて出たのか。
だがその瞬間ペンが折れる。スケッチブックが彼女の手からすべりおちる。
「さがれとな」
しわがれた声が俺に言った。折れたペンがごみ屑でも捨てるように床へ放られる。
「下郎がさがれとは? 小娘めやるではないか、わしに内緒で指輪を持ちだすとは」
金曜は消えた。鋭い眼の由比がそこにいる。由比は薄い微笑をうかべて手を差し出す。
「小僧、指輪を返せ。それはわしのものだ、お前に扱える代物ではない」
「これはひめさんのだ、お前のじゃない」
俺が低く言うと、悪霊由比は嗤った。
「わしのだ、わしが捕まる前に生家の裏の井戸に隠したものをあの女がとったんだ」
俺は眉をひそめる。悪霊由比はにやにやと笑いだす。
「お前、あの女が何者か知らぬのか?」
「ひめさんが何者だろうとお前から聞くつもりはない」
俺は冷たく言い放ち、金曜に渡されて右手に嵌めていた指輪を顔の前へ掲げる。手が震えた。由比は指輪に圧されて一歩下がり、笑い転げながら俺を指差す。
「こわいのか、若造、そうだ真実がこわいのだ。聞きたくないなら聞かぬがよい。だがあの女はわしが消してやった、永遠に消し去ってやったぞ」
その眼が赤く光った。俺は咄嗟に指輪を高くかざすが、由比は眼にもとまらぬ速さで戸棚から何か光る物を取る。
「! それは」
登山用の万能ナイフだ、と見て取れた時には由比はすでにそれを自分の胸に突き立てようとしていた。俺は咄嗟にその手に飛びつく。夢中のまま気がつけば刃を素手でつかんでいた。
だめだ。ナイフをつかんだままでは指輪が使えない。この部屋には熊谷氏がいるから光の御魂も使えない。
「この小娘はもう邪魔だ。足手まといだ。住み心地のいい器だと思ってせっかく愛用してやったのに、裏切るとは。惜しいが殺すぞ」
ナイフを離さない由比は平然と言う。俺はナイフを両手でねじ伏せる。
「何が裏切りや!? 金曜はもとからお前の味方なんかとちゃうわ」
どんどん、と外から扉を叩く音がする。
「タクト! 金曜がいない、そこにいるか!? なぜ鍵を閉めてる」
水曜の声だ。外に水曜がいる。部屋に入るとき金曜が内側から錠を下ろしたのを俺は思い出す。拳でドアを叩く激しい音に加えて、部屋の中で何か重いものが割れるような鈍い音がした。足元に黒い塊が転がってくる。割れた硯だ。はっとしたように由比は俺の背後を見つめる。眼を細めた。
「誰かいるな。誰だ」
「うら若き少女に憑依し殺そうとするとは霊の風上にも置けぬやつ。お前こそ何奴だ」
由比に返答して高らかな声がした。
熊谷直義だ。俺はさっと全身から血が引くのを感じる。由比正雪と熊谷直義はかつて慶安事件を共に戦った仲間だ。いくら俺とここ数日親交があったからといって、熊谷氏は俺の味方はしてくれないだろう。
だが熊谷氏も由比もお互いを認識できないようだった。由比は金曜の中にいるし、そもそも霊には互いの姿が見えず、認知できるのは声だけなのだから仕方のないことかもしれない。
「タクト、こいつはどこの誰だ。お主もなぜ早くわしに助力を頼まん!?」
ばしん、と破裂音が響く。熊谷氏の仕業のようだ。金曜の体は足もとのバランスを失ったように大きくよろめいた。俺はその隙に何とかナイフを奪い取る。中にいる由比は何の痛痒も感じていないようだ。平然としてにやりと笑う。
これ以上隠し通せない。
ぼたぼたと右手から血が滴り落ちる。床に血だまりができている。
俺は自分の血で血塗れのナイフを握ったまま言った。
「熊谷さん、この霊は由比正雪です。貴方の親友の」
一瞬、部屋が静かになる。なんだと、と低く熊谷氏の呟く声が聴こえた。由比を見ると何ともいえない奇妙な顔で凍ったように立ち尽くしている。そのくちびるから、ことんと無防備な声がこぼれた。
「熊谷。おぬし熊谷直義か」
今だ。俺は扉に向かって左の手を伸ばす。
「金属の御魂よ、扉を開け!」
ばんと暴力的な音を立てて扉が開いた。不意をつかれたように由比は背後で開いた扉を見返る。扉の向うにいた水曜が驚愕の表情で俺を見た。俺はナイフを投げ捨て、由比の顔に向かって指輪を掲げる。
固まったままの由比はまた一歩、俺から下がり、しかし牙を剥いた。無防備な水曜に跳びかかる。
「この女の中に入ってやる。こいつは金曜ほど器が広くないが、不器用者で俺に隠し事はできないだろうからな!」
赤い眼の呪縛にとらわれた水曜は抵抗もできない。俺は咄嗟に水曜との間に割って入ろうとする。が、それよりも速かったのは熊谷氏だった。熊谷氏はぼうっと発光している。彼は激すると発光して人間にも見えやすくなる。
彼は眼にもとまらぬ速さで水曜の前に回り込み、金曜の体を部屋の中に向ってつき飛ばした。
「由比! 何という変わりようだ。いつからおぬしは弱者を使い捨てできる身分になった。人間はおぬしの欲望のための道具ではないぞ。我らは幕府が使い捨てた浪人らを生かそうと必死に闘ったのではなかったか。それではおぬしは幕府と同じではないか、おれはそんな者に従っていたのではないぞ!」
彼はきびしい声音で叫ぶように言う。
由比は床に倒れて半身を起し、まだ水曜を狙っている。俺は戸口へ飛び出し水曜の肩をつかむと、由比の視界に入らないよう彼女を廊下の壁際に押しつける。
由比はゆらりと立ち上がると、再び部屋の戸口へ歩み出しながら低く呟く。
「熊谷よ、おれは生前の潔癖なおれではないのだ。おれは変わった。おぬしも悟ったはずだ。弱者である限り、物事は変えられぬ。敵を倒すには、敵と同じにならねばならない」
「違う、敵と同じになった者はすでに勝負に負けているのだ。見損なったぞ由比!」
青白い怒りに光る熊谷氏の姿は、由比にも見えたに違いない。彼の激しい口調に由比は憂鬱そうな顔を見せ、一瞬振り返った。
「おぬしは昔から堅物だったよ」
ぽつんと言い捨てるとこちらへ向かってくる。
戸口に立つ俺はタイミングを見計らっていた。傷つけずに動きを止めなければ。光の御魂は使わずに。
向うで足音がする。食堂へ行く足音だ、こちらには気づいてないようだ。あれは木曜さん、と気づいた俺は一瞬気をそがれた。その時だ。
喉元を掴まれた。息ができない、喉がひきつって変な音をたてる。細く白い金曜の左手が、俺の喉首を掴んで締め上げている。かよわい腕にこれほどの力があるとは誰も信じられないだろう。かかとが宙に浮いた。窒息しかける俺に由比が微笑む。
「好いた男をおのが手で殺めたとなれば、金曜の心も砕け散ることだろうな」
誰が、殺されるか、ってんだ!!
指輪を掲げようとしたが、指輪を嵌めた俺の右手を由比はぐっと掴んだ。
動かない。まずい。
俺は唯一開いている左手をわずかに動かす。掌を由比に向けて、かすれ声で叫ぶ。
「か、ぜ!」
由比は顔をしかめた。吠えるように口を開く、が言葉を発する間もなく轟風に煽られて背後の壁に叩きつけられる。風を使った俺も間近にいただけに煽りをくらい、後ろへふっとんだ。
俺は咳き込みながら戸口へ戻り、金曜の体が崩れ落ちたのを確認する。眼を閉じている。
意識はなくなったようだ。
安心するとふっと視界が暗くなる。自分が床の上に座り込んだのだ、と気づいて、俺は頭を振る。水曜を助け起こして木曜さんを呼ばなきゃ。由比が金曜の体を破壊する恐れが高い、ほっといたらあかん。
「タクト、怪我が」
呪縛のとけた水曜が俺に駆け寄る。
けたたましい足音がした。
のろのろと眼を上げると、木曜を後ろに連れた火曜だ。火曜は血相を変えて走り寄る。
「その血!! どないしたん」
「ちょっと色々。それより金曜を隔離して。危険だ」
木曜さんがうなずいて金曜を抱えあげる。事情は後で聞きますさかい、と短く言ってすばやく一階へ向かっていった。火曜は血がこわくてなかなか近寄れないようだ。おそるおそる距離を縮めている。水曜は自分のハンカチを俺の指に当てようとして、ナイフに裂かれて肉の見える傷口を見てしまい、びくっと身を縮めて目を閉じた。俺の手首を掴み、包帯しようと必死に試みているが、水曜自身の手が震えすぎていてできない。見る間にハンカチだけが赤く染まっていく。
「自分でやる」
そう言って反対側の手を出した俺の手首を水曜はぎゅうっとすごい力で握った。泣きだしそうな目をしている。
痛くないから別に泣く事ない、大したことない、と言おうとして目を上げ、俺は驚く。
部屋の壁一面に血飛沫が飛んでいる。俺のシャツも血でずっしりと重くなっていた。指の怪我だけでこんなに血が出るとは驚きだ。いつも冷静な水曜が動揺するのも無理はない。
俺は思いついて自分の右手の薬指から指輪を抜いた。水曜は止めようとしたが、怪我してるのは人さし指だ、問題ない。
血塗れになっている指輪を俺はシャツの汚れてないとこでごしごしふくと、水曜に差しだす。
「え……? これ、木曜のと同じやつ」
水曜が涙のたまった目で戸惑ったように俺を見上げる。
「ひめさんの指輪。金曜が渡してくれた。持っといて。お前が一番無防備やし」
受け取らない水曜に焦れて、俺は水曜の手を掴むと無理矢理指に嵌めた。正直、自分でももう限界で、貧血なのか、御魂を2回使ったせいか、目の前が真っ白なんだけどどうしよう。木曜さんが戻って来たら事情話さなあかんのやけどもうやばい、と思った瞬間ごとんと頭が前に落ちた。大理石の床が冷たくて顔に気持いい。
「タクト! タクトっ」
水曜が悲鳴を上げる。騒がなくてもだいじょうぶと言おうとしたが言えない。水曜が抱き起こそうとしてくれているが、その時火曜が割って入った。俺の肩を起こして覗き込む。真剣な瞳が言った。
「もしかして能力使った!? 体の中のエネルギーが極端に落ちてる。怪我のせいだけでこんなにならへんし。タクトの能力はうちらのと違う。使いすぎると命なくすでっ」
「あい……」
手を挙げて見せたつもり、だったがその手が血塗れだったので、俺の肩を掴んでいる火曜はひっとこわそうに身を縮める。
「命なくすってなぜ?」
水曜が蒼白な顔でいうと、火曜が見返ってぶっきらぼうに答える。
「知らんかったん? タクトの能力は使うと内臓にダメージがあるねん。うちは眠れば回復するけど、タクトは無理。タクト、救急車呼ぶから待ってて」
「いやここに呼んじゃ駄目。大したことないし自分で行くから」
俺は体を起してもらったのでそのままのっそりと立ち上がった。
「あー着替えなきゃ……」
果てしなくめんどくさいけど血塗れのシャツで外に出たら通報されそう。
ふらふらと着替えを探してると決死の表情で火曜が俺の部屋に入って来た。
「て、手伝う。手、使えへんやろ」
確かに指がきかなくてシャツのボタンが外せない。
水曜は俺の嵌めた指輪に左手で触れながら、ぼうぜんと床の上に座っている。やっと立ち上がって戸口まで来た水曜に、火曜は噛みつく。
「水曜は金曜を見に行って! 水曜が金曜を見張ってないからこんなことになったんやろ」
「駄目、水曜は悪霊のそばへ寄るな」
俺はぴしゃりときめつける。さっきの由比は水曜を狙っていた。
「今は危ない。それに金曜は自分で抜けだして来たんやで。誰のせいでもない」
火曜はなぜか俺を睨んだ。ボタンをはずしてくれようとして目を伏せる。その目に涙が溜まっていく。透明なしずくが長いまつげの先からぽたりと床へ落ちた。
予想外のことが起こりすぎて神経が昂ぶってるのかも。この状況じゃ誰でもそうなる、と俺は部屋の天井を見上げる。
あ。
熊谷氏。
熊谷直義が天井で腕組をしたまま厳しい顔で俺を見下ろしていた。
「おぬし、由比のことをだまっていたな」
俺は彼を見上げたまま黙っていた。事実だから言い訳しても仕方がない。
火曜は目をぬぐうと天井を見上げる。熊谷氏のいるあたりを見つめ、眉をひそめる。
「タクトが言えるわけないやん。あんたあの悪霊の仲間なんやろ」
「獣女はだまっておれ。タクト、おぬしはわしがあの由比の変貌ぶりを見てなおも由比に味方すると思ったか。この熊谷直義を甘く見てくれたものだ」
俺は目を伏せる。熊谷氏は天井から俺の目前へふっと移動してきて、真剣な眼差で俺に言う。
「由比はあのような男ではなかった。女子供にも優しかったのに。あの少女、ほっとくと殺されるぞ。見過ごしておけぬ。由比は一体何を目的にあんなことを? おぬし知らぬか」
「獣女とかやめてくれる。由比正雪なら木曜と結婚するのが目的」
火曜がむっとしたように答える。熊谷氏はのけぞりそうなほど驚いた。
「何だと!? いや確かに彼女はお藤にそっくりではあるが……霊の身でそんなことを」
「木曜さんはお藤さんの子孫なんです」
と、俺は付け加える。由比正雪がお藤さんの家系にずっと祟ってきたこと、代々子孫を殺してきたことなどを説明すると、熊谷氏は深いため息をついた。
「なるほどな……。では奴が変貌したのはお藤の裏切りのせいか?」
「じじいの性格の悪さを人のせいにせんといてえや。それよりおっさん、タクト病院行くんだからじゃましないでくれるっ」
火曜が苛立ったように声を荒げたが、熊谷氏はふんと鼻を鳴らして聞き流している。
俺は新しいシャツに血がつかないようそおっと袖を通しながら言った。
「熊谷さん、金曜が言ってた指輪について何か知りませんか。全部で3つあるという指輪です」
熊谷氏はちょっと黙る。ややあって答えた。
「……実は、知っておる」
「えっ!?」
俺は色めき立つ。ボタンを止めようとする火曜の手を振り切って熊谷氏に向き直った。
「それってどこにあるかわかりますか?!」
「ちょっとタクト! 早く病院行かなきゃその顔色!」
火曜が苛立って俺の肘を引っ張る。だがそこに張りのある声がした。
「3つめの指輪ですて?」
木曜さんだった。振り返る俺を見てかたちだけ笑みを浮かべるが、その顔は蒼白だ。
「えろうすんまへん。話聴いてしもた。タクトさん、早く病院へ。熊谷さん、お話はうちが代りに承ってもよろしおすか」
「冗談ちゃうわ、俺の質問ですよ。病院なんかいつでも行けます」
俺の即答に木曜さんは困った顔をしたが、熊谷氏は頷いた。
「お藤……いや、木曜だったな。この程度の怪我で騒ぐでない。江戸時代ならこんなのは日常茶飯事だ。無理に連れて行くとこいつは脱走しかねんぞ」
今は江戸時代ちゃうねん! と火曜はかみつくが、木曜さんはためいきをついて納得したようにうなずく。熊谷氏は俺に向き直る。
「先ほどの金曜という少女が言ったとおりだ。計画では江戸と大坂組が放火で浪人の決起を誘い、駿府組の由比が久能山に眠る徳川家の埋蔵金を奪取。京都組は天皇を御所から我らの用意した隠れ家へお移しし、政権交代を公に認めていただくという予定だった。おれは京都組だ。打合せは江戸だが、そのとき由比から指輪をあずかった」
「それはこれと同じものですやろか」
木曜さんが自分の手にある指輪を熊谷氏に見せる。熊谷氏は一見してすぐ頷く。
「全く同じものだ」
「由比正雪はなんでこの指輪をあなたに預けたんやろか?」
木曜さんの質問に、熊谷氏は指輪へ目を落とす。
「由比は言っていた。計画成功後、もし自分が変貌し、世間を乱して困るような事があったら、この指輪を顔の前にかざして本来の道へ立ちかえるよう命じろと」
続けて熊谷氏が言うには、由比は他の2つの指輪がある場所を全て教え、非常時には志を同じくする者と3つの指輪を集め、正確な正3角形を描いて命じろ、と別れ際に告げたのだという。
「正確な正3角形」
思いに沈んだように水曜が呟いた。熊谷氏はうなずく。
「書物も一緒に渡された。今思えばあれが由比の遺言だ。意味が全く解らんのだが、由比も同じ指輪を持っていたし、口の軽い者や不徳の者には渡せない、と言っておったから、大切な物なんだろう。おれはどこで殺されるかもわからん身だから、持ち歩けない。扱いに困って、京都潜伏中に地中に埋めた」
「どこへ埋めたんですか!?」
ぼくらは色めき立った。3つ目の指輪が見つかるかもしれない!
見つかってどうなるのかはわからない。でも、金曜は指輪をさがせって言ってた。
でも、と俺は熊谷氏の顔を見てはっと気を引き締める。どうあっても熊谷氏は由比の仲間だ、教えてくれるかどうか。
だがあっさりと熊谷氏は言った。
「丹波の出雲大社だ。杉箱に入れて埋めた。詳しい場所は明日案内しよう。だが条件がある。明日の朝までにこの部屋の結界を解け。いい加減ここにいるのも飽きたのでな」
熊谷氏は俺を見てほほえむ。俺は信じられない思いで彼を見つめた。
「協力してくださるんですか」
「勘違いするな。おれは由比の遺言を守るだけだ。あれは本来の由比じゃない。何か別物があいつを操っている」
熊谷氏は厳しい表情になって言う。そして詳しい話は後だ、おぬしは医師に診てもらえと追い払うように俺に手を振った。ぞろぞろと俺等は部屋を出る。
何か別物が由比を操っている……?
そういえば金曜が由比はベレトとかいう悪魔と契約してると言っていた。
考え込んでいる俺のシャツのボタンを止め終わり、火曜が俺を見上げては睨んだ。
「わかった、病院行くって」
俺は忘れてた怪我を思い出した。火曜は安心したように頷く。
タクシー呼んだぞ、とだけ水曜が言ってその場を去った。火曜が病院についてくると言ったが木曜さんはかぶりを振り、火曜を金曜の見張りに残した。
自分が俺と一緒に病院へ行くと言う。
「怪我したはるところ申し訳ないんですけども、道中お話を聞かせていただけますやろか? お怪我のことも、金曜に何があったのかも」
明日3つ目の指輪を探しに行くとなれば、それまでに情報共有をしておかなきゃまずい。異存はなかった。病院の待ち時間を利用して話そう。
だが未成年者が何針も縫う怪我をしたというので病院が通報したらしく、俺は病院で警察からの事情聴取を受けるはめになり、実際にはあまり時間はとれなかった。俺は誤ってナイフの柄と刃を逆に握ってしまったということで警官に納得してもらう。
救急で両手を5針ずつ縫い、痛みどめをもらったらすぐ帰宅できたので、木曜さんと水曜、火曜、ぼくの4人で食卓に集まって会議する。
金曜から聞いたことを話すと、木曜さんは深いため息をついた。木曜さんへは、のっとられている間の記憶はないということにしておいてくれと金曜が言っていた。だから金曜はあくまで由比の江戸時代の記憶を共有しているだけだと話したのだが。
「うちは能天気でした。金曜は何も知らないからと、かばっているつもりでおったんです。逆や。金曜がうちをかばっていたんどすな。悪霊がする事で、自分自身も傷ついてたはずやのに」
唇をかみしめて目を落とす木曜さんに、俺はなんともコメントできない。だってそれは本当の事だからだ。
俺じゃ木曜さんに隠し事は無理だった、ごめん金曜……。
「丹波の出雲大社ってどこ?」
火曜が携帯でネット検索しながら難しい顔で唸る。
「出雲大社なんて京都にあれへんもん」
「ひょっとして出雲大神宮のことじゃないか? 亀岡の」
水曜が言う。火曜は調べ直して、あった! と叫んだ。
「江戸時代末期まではここが出雲大社て呼ばれてたんやって」
じゃあどんぴしゃだ。朝には出発しよう、ということになったが、水曜はずっと浮かない顔だった。ついに言いだす。
「ちょっと皆聞いて。金曜の力がないと熊谷のいるへやの結界を解けないんだ」
火曜が冷たく眉をひそめる。
「自分でかけた結界を解くくらいできるんちゃう? さっきあのおっさんの話を聴くのかってできてたんやろ」
「声が聴こえただけだ」
水曜は可哀相なくらい落ち込んでいた。
「タクトたちが病院に行った後、1人で結界を解こうとしたけど、全然だめだった」
「朝までに金曜の意識戻るかな?」
火曜は木曜の顔を見る。だが木曜はひっそりとかぶりを振る。
「由比は金曜と記憶を共有しているって、タクトさんが言わはったやろ。金曜が由比に内緒にできる部分もあるとはいえ、同じ体と心を共有している以上、それがどれだけ意志の緊張と努力を強いる事か想像を絶するわ。ましてさっき由比は金曜が秘密をもてることに気付いた。警戒を強めてるはずや。金曜に計画を話せば、由比にうちらの計画を知らせる事になりかねない。指輪を集めようとしていることを由比に知られたら、熊谷の結界を解かせるはずがないし、解かせたとしても3つ目の指輪を奪う画策をするはず」
つまり水曜はどうしても1人で熊谷氏の結界を解かなければならないのだ。しかも明日の朝までに。
「どうしよう……」
水曜はテーブルの上に肘をつき、手を祈るように組み合わせて顔を寄せる。絶望したように目を閉じた。
木曜さんは弱く笑って隣の水曜の頭をなぜる。
「だいじょうぶ、熊谷はんに場所だけでも教えていただけないか頼んでみるし」
ダメだって、と水曜は力なくかぶりを振る。
「熊谷は指輪の場所を教える条件として、結界を解けって言ったんじゃないか。条件も満たせないのに、場所だけ教えてくれるかな。せっかく協力的だったのにこれで水差して、あの堅物がへそ曲げちゃったらどうしよう」
水曜はテーブルにつっぷしてしまった。
うちが何とか話してみるからと木曜さんがとりなすが、つっぷしたまま起き上がらない。もともとすっかり自信を失くしていた水曜だ。ここで何とか出来なかったら、熊谷氏が頼みを聞いてくれたとしても、本当に自虐的になってしまいそうだ。
「悩んでる暇ないよ」
と、俺は言った。水曜は、え、と蒼白な顔を起こす。火曜や木曜も何を言い出すかという顔俺を見る。
「明日の朝までに結界を解くんやろ。時間ないから俺も手伝う。やる? 水曜」
やんないとか言ったらぶっとばす、というオーラを視線にこめてみる。
水曜は眼を見開いた。
ややあって、立ち上がる。蒼白な顔のまま頷く。
「やる」
俺も席を立った。
「ちょっと、明日の朝までって! タクトは怪我してんのにっ」
火曜が言いかけたが、木曜さんが黙って制する。
「うちらには時間がない。タクトさん、お願いします」
俺は頷いた。水曜と部屋を出る。薄暗い廊下を歩く。
「何とかなるって言って」
水曜が振り向かないままぽつりと言った。