表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
放課後探偵満身創痍  作者: 緑乃箱
1/3

孤児の俺に初めて家族ができた。美少女が4人、だが全員恐ろしく凶暴で!?

   放課後探偵満身創痍

                        


   第1章   まずは訪問


 高校1年の夏休み、それは普通なら退屈なはずの日曜の午後だった。違っていたのは、いつもなら鬼のように散らかっている俺の机が片付いている事と、俺が荷造りをしている事、そして俺の部屋に8人もの野郎どもが集まっているという事。

孤児の集まるここ聖心養育施設では、高校生以下は8人まで同室と決まっている。16歳になるまで同室だった古い仲間は、高校生になると施設を卒業するか別の2人部屋に分散する。

バイトを始めた奴も多く、いつもなら日曜に全員が揃う事などないのだが、今日はどういうわけか全員いる。俺と同室で1つ年上の先輩1人を加えると6畳程の狭い部屋に実に10人もの野郎がいることになる。異様な人口密度ではある。

俺はクローゼットから残りの服を抱え出す。ため息をついて扉の裏の姿鏡を見つめた。

へたれたTシャツにてろてろのズボンを履いている貧弱な体格の自分が鏡に映る。背だけがひょろりと高い。ぼうぼうに伸びた色の薄い前髪の下から明るい茶色の目が覗く。そこはまだましだけど、左目を覆う市販の白い眼帯が顔全体に不健康な印象を落としている。 他はどうにもならないとしても、髪くらい切っとけばよかった。今日は特別な日なんだからさ、何しろ。

「おい、タクト、おいってば」

 ドアからロビーを覗いてこっちを手招きする奴らに俺はなに、と返事をする。

「すんごい美人が来てる! 見ろよ」

 ひそひそと囁かれ、無視しているとシャツのえりを掴まれて強引に引っ張っていかれる。

あ。

噂の美人と目が合った。

玄関口の観葉植物の葉陰に立つ彼女は、施設のおばちゃんと立ち話をしていた。薄青の着物を着こなしている。白い帯の上で翡翆の帯どめが涼しげだ。結いあげた黒髪と切れ長の瞳が美しい。年ははたち前後といったところか。暗い玄関の中で、光って見えるくらいの美貌だ。

彼女が俺に向かって笑って手を振ったので、にわかにその場は騒然となった。俺は手を振り返し、おばちゃんに早くしなさいよと急かされて生返事の上、へやに引っ込む。

 しーんとして見守っていた仲間達に知り合いか、と掴みかかられかわしながら俺は言う。

「養母だよっ、今日迎えに来るって言ったろ」

 今日は俺が養母に引き取られて孤児院を立つ日なのである。8人もの野郎どもがへやに集結しているのは、俺を見送ってくれるためなのだ。ちなみに俺の両親は幼時に病死している。

「何だと!? 里親は中年のおばちゃんがなるのが相場じゃないのか!? 今からでもいい、俺と代われ」

 後ろからかなり本気で首をしめられてうぐぐぐ、と俺は呻く。

「やめろよ」

すぱーん、という音がした。途端に呼吸が楽になる。咳き込みながら見上げると、同室の先輩が雑誌を丸めて立っている。その雑誌ではたかれたらしい仲間は頭を押えて唸る。そいつを足で追っ払いながら、先輩は少し笑った。

「よかったな。うまくやれよ」

 先輩はもうじき近くの工場に就職する。俺は黙って頭を下げる。ショルダーバッグに抱えてた服をつめこんでジッパーをきちんとしめ、肩にかけて立ち上がった。

 ちょっと緊張しながら玄関に顔を出すと、お養母さんは外で待ってはるわよとおばちゃんが教えてくれる。

俺はおばちゃんに挨拶をすませ、自動ドアを出かけて振り返った。施設の仲間どもが俺の背中に紙つぶてをぶつけたからだ。いって。

「最後の最後だぞ。泣いて行くなとか言っとけや、おまえら」

 あほか、とあきれたように先輩が言った。

「さっさと出てけ。とりあえず帰ってくんな」

 そう言って苦く笑う。

 遊びにこいや、ただしお義母様と一緒に、とか言っている仲間どもに、俺は手を上げる。

「じゃあな」

「色男!」

「二度と戻ってくんな!」

 騒がしい声を後にして俺は、施設の門を出る。外で待ってた美人は俺の隣でにっこりとほほ笑んだ。

「帰ろ」

 7月28日、16歳。俺に初めての家族ができた。


          ※     ※     ※


 施設を出てすぐ、俺は小さな地蔵祠の前で立ち止まり、手を合わせる。

気付いて歩みを止めた彼女が頷く。

「またいつか、わからないことがあったら、ここに来なさい。私はいつでも答えるから」

彼女の名前は日野ひめ。実は、かなり昔から俺と文通歴がある。文通っていつの時代だよというツッコミは聞かないでおきます。

 そもそも事の始まりは5年前、俺が11歳の時のことだった。俺は養護施設に入ったばかりで誰にもなじめず、裏庭の野菜園で1人遊んでいた。入りたてはそんなもんなのかもしれないけど、つまりかわいそうな感じの子だったわけだ。

昔から俺は植物、金属、石、その他の全ての魂が見える。当時、彼らは俺の唯一の友達だった。だがそんなこと一言でも言おうものならヤバいやつ指定を受けて病院行き必至である。一応それはわかっていたので、ずっと黙っていた。

信頼できそうなソーシャルワーカーにこっそり相談したことがある。彼は、君に見えているものは幻覚だと言った。その後速やかに精神科行きが決定したので、医者には何も見えないと言って逃げた。それでわかったのは、見えないのが普通だってことだ。これ程鮮明に見えるものが幻覚だというのならば、この世界が全て夢幻だとしてもおかしくない。でなければ、本当に俺がおかしいんだろう。

その日、菜園の魂たちといた俺に、彼女……ひめさんが声をかけた。彼女がいったいどこから入り込んだのかはわからない。最初は施設の関係者だと思った。

彼女は掌に朝顔の魂をのせている俺を見た。そして、言った。やっと見つけた、と。

 俺は何言ってるんだろうと黙って彼女の様子を見てた。その俺の横に、彼女はしゃがみ込み、俺の掌の上を指差してほほえむ。

『御魂が見えてるよね?』

彼女は、俺が友達にしている小さな精霊たちは御魂と言って、この世のもの全てに存在する小さな神のかたちなのだと言った。

『君のその能力のことでもし何か困ったことがあったり、知りたいことができたら私に手紙を書きなさい。書いたら外のお地蔵さんの祠に入れて。誰にも内緒で』

わけがわからないままだったが、俺は、彼女には俺と同じように小さな精霊達が見えている、ということが物凄くうれしかった。そんな人は今までどこにもいなかったからだ。 彼女も幽霊かもののけか、俺の幻覚かもしれなかったが、彼女の正体など何でもいいと思った。

俺は手紙を書いた。

数日後になって見に行くと、祠のすきまにひっそりと白い紙が挟みこまれている。それが彼女からの返信だった。幻では、なかった。

それからも彼女は度々俺の前に現れた。月に1回程度、水やり中の早朝の庭に、下校途中の通学路に、彼女はぶらぶらと気まぐれに現れた。そしてその度に御魂について教えてくれた。

俺は彼女が何者なのか知らない。浮世離れしたその格好から、どこかの財閥のお嬢様か何かかなと推測してはいた。でも尋ねてもはかばかしい返事がないのだ。しつこく聞くとうるさがられて彼女がいなくなってしまいそうで、ちゃんと聞けなかった。俺は携帯なんかもってなかったから、こちらから連絡をとるには手段が置き手紙しかない。待合せしたくて会ってる時に日時を指定してみても、彼女はまるで馬耳東風だった。たぶんその時間に現れるのは無理だとおもうわ、わからないけど。って笑うだけなのだ。そして俺がいいかげん怒って彼女を忘れた頃にまたふらっと姿を現す。彼女は本当になぜ俺にかまうんだろう。

出会ってからもう5年も経つのか。いつのまにか養子縁組の手続きも進んでいて、俺は彼女に引き取られることになったわけだけど。

何を話せばいいのかな。俺はそっと彼女を盗み見て眼を落とし、その右手に光るものを見つけて思わずあ、と言った。

「どうしたの?」

 振り返るひめさんに俺は慌てて口ごもる。

「指輪。……してはるなって。すいませんへんなこと言って」

 本当は正直がっかりしていた。指輪してるってことは、彼氏がいるのかも。

ひめさんはこれ? と手を差し出す。細い指に嵌った銀の指輪には黒い刻印がある。

「とても古い指輪なの。300年以上前のもの。これは土星の刻印」

 土星? と俺はぐねぐねした曲線の刻印を見つめる。ごつごつとしたシルエットのその指輪は、鈍い光を放っている。アンティークてことは彼氏のプレゼントじゃないのかも。

「あの、どうして俺を引き取ろうって思ったんですか」

 思いきって聞くと、彼女はまっすぐ前を見てにっこりした。

「君にはこれからしてもらうことがあるの」

 え?

どういうことか俺はおずおず聞き返そうとしたが、彼女は突然立ち止まってしまう。タクシーが目の前に止まった。彼女は開いたドアを指差す。乗れってことらしい。

車に乗り込んだ後、ひめさんは俺に名刺を渡してくれた。日野探偵社、と書いてある。ここへ行くというのだ。探偵社? と頭にはてなが浮かんだが、寄り道でもするのか、その近くに家があるのか。それにしても日野というのは彼女と同じ姓だ。

俺らが到着したのは丸太町烏丸、通りの西向かいが京都御苑だ。俺はきょろきょろする。

「日野探偵社に行くんですよね、どこですか?」

「それなら目の前に」

 おっとりと言われて、言われるがままに目の前を見上げ、俺はうぇ、と呟いた。

「ここですか?!」

そうよ、とひめさんはにっこりする。

廃墟と見まがうばかりのおんぼろ家だった。2階建て庭つきの大きな屋敷ではあるけど、屋根はトタンで雨漏りがしそうだし、外壁は剥がれかかった木の板で、そこに蔦が縦横に這っている。窓枠には曇りガラスが嵌っていたが、ひびが入っていた。錠前つきの高い鉄門がある。その向うは雑草と花梨の木が丈高く生い茂っていて、迂闊に足を踏み入れられない感じである。

俺は嫌な事に気が付いていた。ここ、有名な幽霊屋敷だ。都市伝説のネットサイトで写真を見たことがある。これまで何人ものごろつきがこの屋敷に忍び込んだが、警察に捕まると一様に『あの屋敷には幽霊がいる』と訴えるらしいのだ。眉つばだと思いながらも、おどろおどろしいこの外観である。そんな話が広まっても無理はないようなかんじだ。

彼女はのんびりと言う。

「鍵を忘れた。中の人に連絡する電話もないし。開けてくれる?」

 門を指差し、じっと俺を見つめて、笑う。

鍵のない門を開けろとは無理をいう。が、彼女の無理無体はいつものことだ。

《テスト》と称して、彼女は会うと必ずとんでもない試練を俺に課すのだ。立ち入り禁止のビルに入りたいとか、枯れた木を持ってきて生き返らせて頂戴、とか、もうほんとに無茶苦茶である。だが無理です、なんて抗議してもむだだ。うそ、できるくせに、って笑われるだけだ。もう慣れたけど。

それにしても、幽霊屋敷か……。俺は伸び放題のぼさぼさ頭をかいた。

「まあ……やってみます」

 俺はまずインターフォンを探した。が、どこにもそれらしき物がない。表札すら出ていない。 屋敷の周りを一周廻って裏口を探してみたが、木塀がひたすら続くだけ。これはもう来客を拒んでいるとしか思えない。

 中へ電話するしかない。ひめさんに電話番号を聞くと、忘れた、ととんでもない返事が返って来た。そんなばかな。

そこでさっきもらった名刺を取り出したが、電話番号が書いてない。内側から開けてもらうのは無理か。俺は名刺を噛んでしばらく考えた。この門、よじ上る……のは、もっと無理。ぱっと見ただけでも、高さが俺の身長の2倍はある。

 まあでも、中に人がいるなら、気付いてもらえばいいんちゃうかな。

 鉄門には太い鎖がかけられ、大きな南京錠までついていた。俺はその門を10分近く揺さぶってみたが、何の応えもない。鎖が耳触りな音をたてるだけだ。通行人が俺を怪しげな目付でじろじろ見る。溜息をついて、俺は揺さぶるのをやめた。振り返ると、路上の花壇のふちに座って、ひめさんはにこにこ笑っている。膝に頬杖をついて、ふざけてるみたいに俺をせかした。

「早く早く。できるくせに」

 やっぱりな。これ、《テスト》だ。

しかし彼女はいったいなぜ俺に無茶ばっかり言うんだろう。そういう性格だと言われたら一言もないけどさ。

俺は静かに息をすう。自分の手のひらを見つめる。熱のない白光が掌の上にまるく浮かんだ。通行人には見えていない。皆振り返りもせずに通り過ぎていく。

この光を、俺とひめさんは御魂と呼ぶ。御魂は、もの問いたげに掌の上で上下する。俺は小さく囁く。

「金属の御魂よ、願いを聞いて。この門を開けたい」

 瞬間、御魂は渦巻くように回転すると、門の錠前の中に潜り込んでいく。しばらくしてかちっ、とごく小さな音がした。御魂は錠前から俺の掌に戻って来る。満足したようにぐるんと回転して、ふっと消えた。

 俺は門に両手でそっと触れ、少し押してみる。こともなげに開く。

よし。

俺は振り返ってひめさんを呼び寄せようとした。が。

あれ? ……いない。彼女の座っていた花壇には、初めから誰もいなかったみたいに大きなダリヤの花が揺れていた。しばらく塀の周りを廻ってみたが、ひめさんはいない。

困ったな。どこいっちゃったんやろ。

まさかもう中に入ったのか? 俺は門の中を覗き込み、ためらいがちにひめさーん、と呟く。楠木が陰を落とす庭には鬱蒼と下草が生い茂り、しんと静まり返っている。

俺はそっと門の中に足を踏み入れた。

それとほぼ同時だった。

「そこで何してる」

 背後から突き刺さる鋭い声に、俺は、一瞬かたまる。

 俺はゆっくりと振り向く。と、そこに立っていたのは、縦横に生い茂る雑草の中に立つ真っ白な尼僧服の女だ。長い髪を両肩にたらし、化粧気のない顔に唇だけが紅かった。

 大人っぽい顔立ちだが、年は同世代かちょっと上くらいか。青ざめた顔に威厳がある。鋭い瞳でなければ、綺麗だと見とれたかもしれない。

「どうやって入ったのかな。その門には鍵がかけてあるのに」

 女は無表情にそう言うと、「何にしろ不法侵入だ、出ていきなさい」と外を指差した。

「ちょっと待って、俺!」

「あなたの用など知りません」

女はにべもなかったが、それまで彼女の後に隠れていた背の低い少女がその袖を引っ張る。尼僧服の女は困ったように振り向く。

「なに、金曜」

 俺は見覚えのあるその名と姿に目を見開く。

尼僧服の後に隠れていた少女が姿を現した。白いシャツに黒いボウタイ、黒のショートパンツ。ふわふわした色の薄い髪は短く、真っ白なうなじにまとわりついている。中性的な顔立ちで、知らない人なら美少年、と思うだろう。と、いうよりも、その頭!

俺は目を見張った。頭の上に角がある! ねじれた山羊の角みたいだけど……何かのコスプレだろうか。贋物にしてもリアルな角だった。

彼女は大きな瞳で、俺を見る。一瞬だが笑ってくれた、みたいだった。手にしたメモに何か書いて、尼僧服に渡す。

「彼が、クラスメイトだって?」

 尼僧服は目をすがめて俺を疑わしそうに見た。俺は慌ててこくんこくんと頷く。

珍しい名前だから覚えてた。同じクラスの日野金曜だ。

「俺、枯野高校1年A組の日野タクトです。金曜さんも同じクラスですよね。確か、5月から、ずっと学校には来てない……」

 俺は言いかけて言葉を濁した。彼女がふっと暗い表情になり、再び尼僧服の後ろに隠れたからだ。そしてその時、重い金属音と一緒に、金曜の左手首に繋がれた鎖に、俺は気づいた。

咄嗟に尼僧服の女に飛び付き、彼女をおしのけた。

「何をする!」

 尼僧服の女が叫ぶ。鎖の先は尼僧服の女の服の下に繋がっている。金曜はあきらめたような表情で目を閉じた。俺は金曜の手首を掴む。

「これ、鎖やんか……!?」

 尼僧服の女は俺を見つめて、ひどく静かに少年、と言った。

「不法侵入のそこの少年。とにかく、中で話そう」


  第2章   面接


 俺らは庭から直接に粗末な鉄の階段を上がる。2階に玄関があり、玄関から入ってすぐ右の応接間へ案内される。俺は1階が気になった。1階は駐車場でもないし、見る限り窓はあるのに、ドアだけがないからだ。つまり庭からは1階に入れないのだ。居住スペースではないのか? そう何気なく尼僧服の女にも尋ねたが、倉庫だ、ということだった。だがそう答えた彼女の、警戒するような鋭い眼付が気になった。

家の中は暗く、廊下の電球の傘も年季の入った埃をかぶっている。だが通された応接間は比較的きれいに保たれている。調度品や家具も安物ではなかった。

 尼僧服の女は、俺を皮張りの立派なソファへ促す。

「それにしても少年。なぜ眼帯なんかつけてる? もらいものでもあるの」

 彼女は応接テーブルの前に立ち、俺の左の眼帯をじっと見つめた。俺の眼帯について初対面の人に突っ込まれるのには慣れてる。別に眼に怪我などがあるわけではないのだが、いつもなら面倒くさいから適当なことを言ってごまかす。どうせ相手も本気で聞いてない。だが今日はそんな気にすらなれなかった。

「少年ちゃう、日野タクトだ。俺が眼帯つけてる理由なんかあんたにはどうでもええやろ」

 日野金曜はいつのまにか姿を消している。俺は声を低める。

「あんた保護者か? どうして彼女に鎖なんか」

 女は思いがけずふっと笑う。とってつけたような丁寧語で言った。

「保護者ではない。それより、何か用事があってここに来たんじゃなかったんですか」

 あ、と俺は我に返る。そうだ、ひめさんと一緒に俺はここに来たんだった。しかし肝心のひめさんがいない。俺はこの人とひめさんにどういうつながりがあるかということすら知らないんだ。俺は警戒したまま彼女に話しかける。

「日野ひめさん、知ってますか?」

 その名前を聴いた尼僧服の女はかすかに眉を上げる。とりあえず俺は淡々と言った。

「俺、ひめさんとは昔から手紙でやりとりがあるんです。一緒に来たんですけど、彼女門前で急に消えてしまって。日野探偵社というのはここですよね」

「探偵社なんて表札は出してないはずだが」

 慎重な顔で問われ、俺はだまってひめさんの名刺を渡した。名刺に書かれた住所はここだ。尼僧服の女は名刺をつまんでじっと眺める。

「この名刺を持ってるとはな。ここは確かに探偵社だが、公には存在しない。紹介状がある人物からの依頼しか受けないんだ。この名刺はその紹介状代わりだ」

 そういって俺をじっと見つめた。

「この名刺は日野ひめ経由でしか流通させてない。確かにひめの知り合いではあるようだ。彼女がここのオーナーだってことは?」

 しらない……。探偵社のオーナーだなんて初耳だ。ただ者じゃないとは思ってたけど。

てことは、この尼僧服の人は従業員なんだろうか。あれ? じゃあ金曜は?

「奇妙だな。名刺は持ってるが何にも知らないとは? タクトとやら、君、何者なんだ」

「あんたこそなに」

 いつまでも詰問調の女にむっとして俺は言い返す。

「日野金曜が学校に行けないのはあの鎖のせいだろ。監禁してるんじゃないだろうな。説明次第じゃ警察に行く」

 尼僧服の女はかわせみのような鋭い眼を光らせる。ちょっと笑ったようだった。

「警察ね。行けるものなら行ってみな」

 ぴんと指で名刺をはじく。テーブルの上を滑って戻って来た名刺を俺は押さえて彼女を睨む。女も俺を睨み返した。

視線の火花が散る中を、すがすがしい声が通る。

「そのへんにしとき、水曜。タクトさん、ようこそおいでやす」

 びっくりした。カップを銀盆にのせて運んできたのは、惹きこまれるような美貌の人だったからだ。漆黒の髪に象牙のようなあたたかみのある膚の色、瞳は深い茶色で、彫の深い東洋風の美女だった。しかも、スタイルが抜群に良い。体にぴったり合う深緑色のスーツとショートパンツを着て、まっすぐな美しい脚に揃いの色のピンヒールを履いている。

 水曜、という名でよばれて振り返った女は、苦々しい顔で承諾の唸り声を発した。

「木曜は甘すぎる。不法侵入者の話を聞く義理なんかない」

「でも、紹介状はちゃんと持ってはる。ひめさんの」

 美女はテーブル上の名刺を指差した。水曜はそれを聞くと、ぷいとテーブルの前から立ち去って、奥の暖炉前の椅子に乱暴に腰かける。代わって木曜と呼ばれた女の人が、そっと俺の前に紅茶のカップを置いた。

滑るようにソファに腰掛ける。にっこり笑った。年は20代前半だろうか。緩く巻かれた髪は優雅な曲線を描いて肩にかかる。

「金曜と同じクラスのかたですよね」

 おっとりとした口調で、彼女……木曜さんはそう言った。優雅な仕草で、ポットから俺のカップに紅茶を注ぐ。

「心配してくれはって、おおきに。せやけど、うちらはあのこを監禁しているわけやありません。うちらにもそれなりの事情があるんよ」

ポットをことりと置いて、俺を見つめた。

「うちが話せるのは、金曜が今、苦しんでいるということだけです。考えとおくれやす。ある日たまたま飛び込んできた人に、あなたは自分の大事な人の悩みを話さはる?」

 俺は言葉に詰まって、彼女を見つめ返す。

話……さない、と思う。

ですよね、と木曜さんはほほえむ。

「せやから、金曜の事情も、聞かんといておくれやす」

見事だった。彼女は俺に、これ以上踏み込むな、と言っている。

しかし、ほんとうに日野金曜はほんとうに監禁されているのではないんだろうか。

 俺は差しだされたカップには手をつけないまま、木曜さんの顔を見すえる。

「お話はわかりました。細かいことはお聞きしません。けど、彼女が監禁されてるんじゃないってしるしを見せてください。それまで帰れません」

 困惑と共に、何か知性のひらめきのような光が木曜さんの眼の中できらめいた。彼女のかたちのよい唇に、形だけではない微笑みが浮かぶ。何か言いかけた木曜さんが、戸口の物音にはっとしたように立ち上がった。水曜もすぐに腰を浮かす。

「金曜!」

じゃら、と金属の鳴る音がした。

鎖に繋がれた重たげな手と角のある頭を戸口にもたせかけ、彼女は立っている。日野金曜だ。曇ったような眼でこちらを見据えていた。だけど何だか……何かが違う。雰囲気だろうか。

「なぜここに。火曜はどうしたんだ」

 水曜が低く鋭く呟いて金曜へ駆け寄る。しかし金曜に視線を向けられると、なぜか固まってしまった。金曜は水曜を置き去りに、まっすぐ俺の方へ歩み寄ってくる。

ソファに座ったままあっけにとられている俺を見下ろす。腕組をして遠慮のない視線で俺の顔をじっと見つめたかと思うと、木曜さんへ顔を向けた。

「男にしては美しい顔をした奴だ。お藤、こいつの顔は好きか」

 え!?

俺は目を剥いた。

木曜さんは立ったまま金曜をじっと見つめて慎重な物腰で答える。

「私はお藤やありません、木曜です。彼はかあいらしいお顔したはりますね。でも、なんでうちに尋ねはりますのん?」

「お前が気に入る顔を選んでやろうといっているんだ、お藤」

 金曜は微笑んだ。

あ、あのー。お藤って誰? 俺おいてけぼりにされてますけど、顔を選ぶとかって何の話?

 それにしても、日野金曜てこんな子だったろうか。学校では場面かん黙症だって聞いていた。詳しくは知らないけど、状況によって喋れなくなる病気だ。だから話は筆談だ。さっき庭でも筆談で話してた。なのに、喋れてるのも変だった。自分のうちでなら喋る事もできるのだろうか。

 だが一番違和感があったのは、威圧感のある態度だ。彼女はもっと、ふんわりした大人しい感じだったような。もちろん、5月から学校に来なくなってしまったのでその後の彼女をよく知っているわけではないけど。でも俺は日野金曜と接触したことがある。

 えっと、確かあのときは……。

思い出そうとして眉間をしかめた俺は、いきなり近づいてきた日野金曜の顔に度肝を抜かれた。彼女はためらいなく俺の後ろ髪をつかむと突然、下へ引っ張ったので、俺の顎は上がってしまう。その顎へ日野金曜は右手を添え、唇を近付ける。

ってこれってちゅうしちゃうんちゃうか!?

俺は慌てた。いや、あの、嬉しくないわけじゃないんやけど、何ていうか、……何で!?

俺は慌てて手をつきだした。日野金曜の細い顎はおしのけられる。彼女は抵抗せず、俺の後ろ髪から手を放してすっと退いた。俺はソファの上からずり落ちてしまう。

腰を角にぶつけ、慌てて起き上がる。と、物凄い至近距離に日野金曜の顔があった。俺は思わず彼女に向かって掌を突きだす。い、いつのまに近づいたんだ。彼女は囁く。

「逃がすものか。お前の体をいただくぞ」

 再び……えぇ!?

俺は日野金曜の顔を正面から見つめる。彼女の目が赤く光った。

あ、あれ? 体が、動かない。何だこの呪縛は。俺はやっと気付く。そうか、さっきの水曜も同じだ。この眼の光にやられたんだ。

俺は咄嗟に御魂を呼ぶ。

「風の御魂! この子を遠ざけろ」

蜜蜂が唸るような音と共に銀色の光が走った。渦を巻き、鋭い光を放つ。日野金曜の顔に訝しむような表情が浮かぶ。それが不愉快を含んだ驚きに変わり、顔を覆う。

が、そのときだった。何かとてつもなく素早いものが金曜と俺の前に跳び込んできたのは。漆黒の髪に深緑のスーツ、象牙色の背中……俺はハッと眼を見開く。

待って! その人は……!

俺の叫びは間に合わなかった。鈍い音ともに、日野金曜は部屋の壁にぶつかってぐったりとうずくまる。その上に折り重なるように倒れているのは木曜さんだ。

 金曜を守ろうとしたのか……?

でも、一体どうやって。俺の御魂より早く2人の間に飛び込むなんて、並の速さじゃできないのに。

俺は咄嗟に駆け寄ろうとしたが、御魂は怒りに似た唸りを発しながら俺の前に立ちふさがり、元に戻ろうとしない。手をさしのべると、やっと掌の中におさまり、ふっと消えた。

戸口で固まっていた水曜がやっと呪縛を解かれたように駆け寄って来る。金曜を抱き起こそうとするが、金曜はその水曜を細い手で押しのけ、立ちあがった。俺を見つめる。

「お前も幻術を使うのか? ふん、よろしい……。しかしおれはもうお前の心を読んだぞ。保護者の女と一緒に来たな、青い着物の髪の長い女とな。そいつはもうじきいなくなる、お前の保護者は永遠に消えてなくなる」

そして日野金曜は大声で笑うと、糸がきれたように床の上に崩れ落ちた。

あまりにも不吉な予言のため、全員が無言になる。しばらく経ってから、やっと水曜が口を開いた。木曜を抱え起こし、俺を警戒の眼差で見上げる。

「さっき、お前は何をした? 触りもせず金曜をふっとばすなんて」

俺は床の上に倒れている金曜を見下ろしたまま、説明に窮する。御魂について知らない人に説明して信じてもらえるとも思えない。

 とりあえず俺はしらばっくれる。

「何って、なにが」

「とぼけるな。一体何の力を使ったんだ? あの状態の金曜を退けるなんて。そんなことができるのは木曜の護符だけなのに」

「護符?」

俺が訝しげな表情になると、木曜は咎める視線を水曜に送る。口をつぐんだ水曜の腕の中から木曜さんは漸く上半身を起こし、何か言おうとした。がそのままはっと戸口を見る。

 水曜も同じ方向を見て立ち上がろうという姿勢を見せる。戸口に何があるんだ? 

気づいた俺は後ろを振りかえろうとする。しかし遅かった。

ごう、という音とともに何かが飛び込んでくる。何だ……?!

 火曜、やめろ、と水曜が叫ぶ。俺の眼に入ったのは赤い獣だった。犬、いや違う。赤い獣は俺と木曜さんの間に跳び込み、俺に向かって歯を剥きだして唸る。俺は目を疑った。

赤い豹!?

考えている暇はなかった。跳びかかってくるその獣のスピードに、俺は御魂を呼びだす余裕もなく、ただ腕を交差させて避けようとする。思わず目を閉じた。

が、何かがぶつかって割れるような音とぎゃんという手ひどい悲鳴を聞いて俺は顔を上げる。

俺の前には木曜さんの背中があった。彼女はすっくと立ち腕を水平に伸ばしている。いつのまに飛び込んだ? それに今、いったい何を? 素手で弾き飛ばした……みたいだけど、まさか。こんなかぼそい女の人がそんなことできるわけないよな。

 俺は彼女の腕の先を目で追う。テーブルの上にあったはずの高価そうな紅茶のカップは無残に割れている。そしてその破片の中に、小さな女の子がいる。

あれ……? さっきの動物はどこへいったんだ。

「火曜、お客さんにおいたしたらあきまへんえ」

 木曜さんは腕を下ろし、少女に厳しく言った。火曜、と呼ばれた少女は破片の中に蹲ったまま、反抗的な目を上げて木曜さんではなく、俺を睨む。真っ黒な睫毛で縁取られた大きな瞳には悔しそうな涙が浮かんでいる。小さい子だ、12歳くらいかな。顎で切り揃えた真っ赤な髪の上にはふわふわした丸い動物の耳。俺はあっけにとられた。

こ、コスプレ少女? 

まさか俺、この耳を獣と見間違えた?

 いや、まさか。

少女は破片で傷ついた手を上げて俺をまっすぐ指差す。

「だってあいつ木曜を襲った」

「いいえ。襲ったんやない、この人は襲われたんよ」

 静かに説いて聞かせる木曜さんだが、火曜と呼ばれた少女は聞いてないみたいにただひたすら俺を睨んでいる。

「いったいどうしたの」

 そこへのんびりとした声がかかり、俺はびっくりして飛び上がった。

振り向くと、花を両腕いっぱいに抱えたひめさんが戸口で笑っている。

「ひめさん! 探したんですよっ! どこ行ってたんですか」

俺はあまりのことに声が裏返ったが、彼女は邪気なくにこーとほほえむ。

「お祝いの花を取りにいってきた。今日はタクトくんをこの家に迎える記念すべき日だし」

 ……えぇ!? こ、ここに住むの、俺!?

「だ、だ、だって……」

「改めて紹介するね。こちらは、木曜、水曜、火曜、金曜。皆私の養女です。こちら、先日私の養子になった日野タクトくん。これから一緒に暮らす新しい兄弟です」

 部屋がしんと静まり返った。俺を振りかえった木曜さんと目が合う。いま何て言った。水曜は眉をひそめ、火曜は信じられないという顔で俺を指差す。

「きょうだい!? こいつが!?」

 木曜さんはひめさんに視線を当てて言う。

「彼はひめさんの養子やったんですね。でも、よりによって、なぜ今?」

「いいえ、逆。今だからよ、木曜」

 ひめさんは抱えた花を木曜に渡す。おっとりとした口調だが、2人の間に鋭い緊張の火花が散ったように見える。

 え……ええーと……!?

 いきなり4人も姉妹ができた俺がパニックを起こしている間に、ひめさんは気を失った金曜を肩で支えて立ち上がった。手伝います、と駆け寄る俺に彼女は頭を振る。

「私だけで十分。タクトくんはここにいて。女の子の寝室に入るんだよ?」

 にっこり拒絶されて、俺は赤くなる。ひめさんはそのまま部屋を去っていく。

水曜は破片の中に強情にうずくまる火曜を無理矢理引きずり出す。

「火曜、人前で豹になっちゃいけないって言ったでしょ!」

 豹になっちゃだめって、どういう注意やねん。せやけどやっぱり、さっきの獣はこの子やったんや……。

しかし火曜は叱咤する水曜の手を振り払い、大理石の床に座り込んだ。俺を睨んだまま、血の出ている指を噛んでいる。木曜は静かに言った。

「子どもみたいやこと、火曜。金曜を見てるよう頼んだはずよ。今までどこにいたん?」

「木曜は金曜、金曜、金曜ばっかり」

 木曜は癇癪を起している彼女にかまわずまた俺に向き直る。ひめさんに伴われて部屋を出ていく金曜を見送り、真剣な眼差になった。

「タクトさん、貴方は金曜の同級生でしたね。ご存知でしょうが、金曜は場面かん黙症です。その金曜が喋った……貴方が不思議に思っても無理はありません。それに貴方はひめさんの養子。もう、隠しても仕方ないから言いますが、あの子は悪霊にとりつかれているんどす」

彼女は胸の上に嵌めた指輪を掲げて見せる。銀の指輪の上には土星の刻印があった。

ごついフォルム、黒いぐねぐねした刻印には見覚えがある。

これって……! ひめさんのと同じ。

「この指輪は私の家に代々伝わって来たもので、金曜の中の悪霊を退けることができる護符です。ひめさんもこれと同じものをもったはります。この指輪以外に悪霊を退ける方法はないと思っていました。でも貴方はその金曜を退けた。いったいどんな力を?」

じっと見つめられたが、俺は答えに窮する。この4姉妹も相当変わっているけど、俺は御魂についてひめさん以外の人に説明してわかってもらえたことは今まで一度もないのだ。

迷っていると、火曜がすっくと立ち上がってきめつける。

「どうでもいい、木曜こんなやつのこと気にしないで。どうせすぐに出ていく。出ていかないなら、あたしが追いだしてやる」

 シュン、と微かな音がした。木曜さんが腕を水平に薙ぎ払ったのだ。と同時に火曜の頬に一筋の血が流れる。俺は何が起こったのかわからなかった。

たん、と火曜の背後の壁に何かが突き刺さって止まる。あれ何だ……?

俺は眼を凝らす。ひし形の星のような形、金属製だ。まさか。

手裏剣!?

「火曜」

 すぐそばでおそろしく低い声がした。木曜さんだ、と気づいた俺はびっくりする。

「これ以上うちを怒らせたくないなら、出ていきよし」

 火曜はびくっと身をすくませる。血の流れる頬をぬぐいもせず、泣きそうな顔で木曜さんを見つめる。しかし、木曜さんは微動だにしない。救いを求めようとして拒絶された火曜は、涙をこらえ、それを怒りに変えた。俺の顔をはっきりと睨み、何にも言わずに駈け出して行く。水曜が目顔で木曜さんにうなずき、その後を追った。

「あの。よかったんですか、彼女、怪我したみたい」

「言ってもきかしまへんから」

 木曜さんは誰もいなくなった戸口を見つめながら、溜息をついた。

俺は壁に食い込む謎の武器を外し、木曜さんに渡す。彼女はおおきに、と呟いた。

「これ、手裏剣ですか?」

「そうどす。今では所有禁止されてる代物やし、他言せんといてな。うちは甲賀忍者の末裔どす。忍者は12歳で一人前、この指輪も手裏剣も、12の時親から譲り受けました。その3年後、自動車事故で両親はのうなってしもた。うちだけが生き残ったんどす」

木曜さんは独り言のように言って、気がついたように俺を見返り、説明してくれた。

両親の死後、彼女は引き取られた先の叔父に両親の形見の指輪をとりあげられそうになったのだという。そこで叔父をぶん殴って逃げ、川端で放心していたところをひめさんに拾われた、というのだ。

「火曜も施設に馴染めずにいてひめさんに拾われてるんよ。不器用やけど、悪い子ちゃう。うちに母代りを求めるばかりに、過激にもなるんやけど……赦したっておくれやす」

「俺、すごく嫌われた気が……。あ。ていうか」

 俺はハッとして木曜さんに向き直る。

「さっき、ごめんなさい。思わず一緒に吹き飛ばしちゃって」

 くすりと彼女は笑う。

「やっぱり、あなたの仕業やった」

あ。

墓穴を掘った俺は口を空いたまま眼を泳がせた。俺を見て笑い続ける木曜さんは目尻の涙をぬぐう。

「すなおなお人。部屋へご案内します」

そこへ水曜が血相を変えて駆け込んできた。

「木曜! 大変だ、ひめがいなくなった」

木曜さんはさっと顔いろを変えて戸口へ歩み寄る。

「どういうこと」

「さっき、火曜を寝かしつけてから金曜の部屋に行ったら」

 走って来たらしい水曜は息をはずませている。

「金曜しかいないんだ。意識は戻ってない。『お前らの保護者は消えた、永遠に消えた』って悪霊が……本当だろうか!?」

 膚が粟立った。さっき聞いた金曜の言葉が頭をよぎる。

『そいつはいなくなる、おまえの保護者は永遠に消えていなくなる』

 俺は水曜に詰め寄った。

「日野金曜の部屋はどこ」

水曜は警戒の色を見せる。

「そこは危険だ。お前さっきも襲われただろ。部外者は入れられない」

「俺は部外者じゃない。ひめさんは養母だ」

 木曜さんは声を高める俺の腕を押さえた。俺たち2人を制止する。

「待ちよし水曜、タクトさんも冷静になってください。ひめさんが突然消えるのはよくあることでしょう? 悪霊が嘘をついている可能性だってある」

 水曜はすこし落ち着きを見せてうなずいたが、すぐに言った。

「とにかく、屋敷内をくまなく探さなきゃ」

「俺も探します」

 俺はすぐに立ち上がる。底知れない不安があった。木曜さんの言葉は正しい、だが日野金曜の口を借りた悪霊の不吉な予言が耳から離れない。永遠に消えると悪霊は言ったのだ。

 しかし木曜さんは俺の腕を押さえたまま離さない。

「探すのはうちらの仕事。タクトさんが憑依されたらどうしますの。水曜、行きなさい」

俺は木曜さんの手を振り払おうとしたが、どういうわけかもぎ離せない。とにかくものすごい怪力なのだ。冷静さを失いかけた俺に、木曜さんは説いて聞かせる。

「悪霊の言う事をまともに受け止める必要ありまへん。ひめさんはもう屋敷の外かもしれない」

「いいえ、それはない」

俺は戸口を指差した。ドアは開け放たれ、玄関ロビーと廊下が見える。

「出口は玄関だけ。出ていったなら姿が見えたはずです。だけど誰もここを通らなかった」

木曜さんは反論できず口をつぐむ。しかし俺の手を離そうとはしない。水曜が再び息せき切って戸口にたどりついた。

「いない。どこにも」

 それだけ言って肩で息をしている。乱れた髪が肩に降りかかっていた。俺は木曜さんの手をやっとのことで振り切る。

「離して下さい。警察に行く」

 けいさつ? と、ゆっくりと木曜さんが繰り返した。俺は憤りを隠せない。

「だって人が1人突然行方不明になったんですよ!?」

「それで貴方は言うの、『悪霊がひめさんが消えたって言ったんです』って?」

 厳しい顔で木曜さんは言った。俺ははっとして口をつぐむ。

「大のおとなの姿が見えなくなったからといって、警察にすぐさま届け出る馬鹿はいない」

 水曜が真顔で言う。それに警察が悪霊の予言なんか信じてくれるわけないだろ、と呟いて背を向け、焦りを隠すように部屋を片付け始める。

「だけど……」

 それじゃこのまま放っておくのか。木曜さんは穏やかな口調になり、焦る俺に言い聞かせた。

「もちろんうちら全力で探します。伊達に探偵社やってませんえ。でも、ひめさんがいない今、貴方はこの屋敷におらん方がええ。近くにホテルをとりますから、今日はそこへ」

「なぜ」

 俺は不審の表情をうかべて言った。

木曜さんは硬い笑みを見せる。

「なぜって、貴方は狙われているから」

 狙われている? 何に。どうして。

俺は問い直そうとしたが、水曜がカップの破片をつまんでダストボックスに放りこみながらぶっきらぼうに口を挟む。

「空気読め。とりあえず出てけ」

 その口調に俺はかちんとくる。

「嫌だ」

 考える前に口が出ていた。

「まだ俺はひめさんを探してもない。ちゃんと確かめるまでこの家を出えへん」

 水曜が音を立ててダストボックスを置いた。

「出ていかないというなら、出て行かせるまで」

 そういって鋭い眼のまま立ちあがる。俺は言った。

「好きなようにすれば。俺はここを追いだされたらその足で警察に行く。行方不明のひめさんのことも、鎖に繋がれた金曜のことも、探偵社のことも話す」

 下策だった。追い出すなら警察に話すぞ、というけっこう卑劣な脅迫である。だが他に方法を思いつかない。探偵社については公的には存在しないことになっていると水曜は言っていた。やましいことがなくても警察に探りを入れられるのは嫌なはずだ。

今ここを出たら、もう屋敷に入れてもらえない気がする。そしたらひめさんを探す手立ては他に何も残っていない。

木曜さんが美しい眉をひそめる。そして水曜を手で制して下がらせると、俺に向かってゆっくりと言った。

「それは一言一句本気どすか?」

「本気です」

そう、と木曜さんは呟き、ふ、と目を伏せてため息をつく。次の瞬間だった。

俺には身構える余裕さえなかった。音もなく距離をつめ、喉元を強い力でつかまれて、足が中に浮いた。俺は呻く。

そんな馬鹿な、どう見てもかよわい木曜さんが、しかも片手で……!

細い指が、爪が俺の喉に喰い込んだ。

「困った弟やこと。大人しく帰ってくだされば、こんなことはせずに済んだんどすえ」

 木曜さんは囁いた。

「他のことはかましません。悪霊の予言? そんなこと話しても、貴方の正気が疑われるだけどすわ。せやけど、うちらの探偵業は極秘事項なんどす。うちのかわいい妹のことも、好奇の眼にさらさせやしまへん」

がちゃり、と重たい金属音が響いた。と同時に、床の上へ放り出されて俺は続けざまに咳き込む。立とうとしても足が、動かない。咳き込みながら足を見ると、日野金曜の手首にあったはずの、鎖のついた鉄の輪が俺の足首に嵌っている。

俺は信じられない思いで木曜さんを見上げた。彼女は平然と指の関節を鳴らしたかと思うと、水曜に指示して歩み去る。

「うちはもう一度屋敷内を探してきます。水曜はタクトさんを空き部屋へ」

水曜があきれた目つきで膝をついて俺を見下ろす。

「馬鹿」

 小さくそう囁いた。


第3章   仮採用


水曜は俺を廊下の奥のドアの前まで連れて行く。鍵を開けながらぶっきらぼうに言った。

「中に先客がいる。短気なお方だから気をつけろ」

「先客?」

 水曜は入ればわかる、とにっこりして、俺の背中を押した。両足首をつながれているのでバランスがとりづらく、倒れそうになって膝をついたところに、がちゃんと錠を下ろす音が聞える。振り返るとドアはもう堅く閉じられていた。内側から揺さぶっても開かない。

「鬼か……ここの姉妹は」

俺はあぐらをかいてぼーぜんと呟いた。まさか監禁されるとは。

しかし一体あの4姉妹、ほんまに何者だ。忍者の末裔・木曜さん。悪霊にとりつかれた日野金曜、赤い獣に変身する火曜……皆ただ者じゃない。口の悪い水曜がまともに見えるくらいだ。

木曜さんは探偵業は極秘だと言っていたが、極秘にすべきことはそれ以外にも山ほどありそうである。恐怖のあの4姉妹が、全員ひめさんの養子だというのは一体どういう訳なんだろうか。ひめさんがあの若さで俺を含めて5人もの孤児を養子にしているのには、何か理由があるはずだ。俺にもしてもらうことがある、と言っていた。単なるボランティア精神じゃないはず。

聞くべきことはたくさんあるのに、肝心のひめさんがいない。

彼女が消えたという金曜の部屋はどこにあるんだろう。早く探さなくちゃ。だが今動いたら確実に捕まる。気持ばかり焦るのを抑えようと、俺は深呼吸する。

さっきまで金曜の手首を繋ぎ、今は俺の足首を拘束している鉄製の枷が金属音を立てた。

こんな代物、普通の民家にはないだろう。どんな理由があっても、人を鎖でつなぐか?

ここまでして探偵社の秘密を守ろうとする木曜さんに、俺は不信感をもっていた。

悪霊の予言は、ひょっとして4姉妹のお芝居じゃないのか。そしてひめさんは悪霊のために行方不明になったのじゃなく、何か理由があって4姉妹に囚われているんじゃないか?

だがそうだとしても、何のためにそんなことをする必要があるんだ?

 わからない。彼女達を信じていいのか、悪いのか。思考が停まる。

水曜が先客がいるって言ってたのを、俺は思い出した。先客って誰なんだろう。まさか、ひめさんじゃないよな。

部屋の中を透かし見る。部屋の中は真夜中のように暗かった。窓がないのか、雨戸を閉めてあるのか。何にも見えない。かびくさい匂いが鼻をつく。

「暗いな……誰か、いますか?」

 おそるおそる声をかけてみたが、応えはない。

「ひめさん……?」

 しんと静まり返っている。俺はそろそろと立ちあがり、電気のスイッチを探してみた。それは扉横に見つかった。しかし、押してもつかない。電球が切れているのかもしれない。

目が馴れるまでしばらくじっとしていてみよう。俺は壁に背をもたせかけて上を向いた。

「蝋燭なら向かいの戸棚の一番上にある」

 重々しい声に俺は跳び上がって辺りを見回す。男の声だ。30代後半くらいか? 

「あの! 貴方は」

「明りが必要なんであろうが」

 覆いかぶせるように声の主は言った。あ、はい。

俺は立ち上がる。手探りに戸棚を確かめ、本当にあった蝋燭をつかみとった。

ラッキーなことに、横にライターもおいてある。俺は急いで蝋燭に火を灯す。

あたりがぼんやりと明るくなった。畳敷きの和室だとわかる。狭い。6畳もないだろう。壁際の棚には工具の箱や古い小型テレビが雑然と並んでいる。そのほかは硯と筆、何か書きかけの和紙を置いた文机があるだけで、物置同然だ。窓もない。

俺はお礼を言おうとして先の声の主を探す。

しかし、どこにも姿がない。

俺はおかしいな、と死角を照らすように蝋燭を掲げる。誰かいるはずだ。まさか後ろ!?

振り向いた俺だが、そこにも誰もいない。半ばパニックになったところに、さっきの声がまた聞えて来た。

「何を独楽みたいに廻っておる。おぬし名前は何だ」

「あ、貴方は」

「おぬしの名を訊いたんだ。質問に質問で返す奴があるか」

むっとしたような声が返って来て、俺は慌てて言う。

「あ、俺は日野タクトといいます。ど、どこにいたはるんですか?」

「目の前におるわ。そうか、タクトか。おれは熊谷直義という。以後よろしく頼む」

 いや、よろしくされても、目の前ってどこやねん!?

と、俺は、眼の前の文机に何か動くものを見つけて目を疑った。

筆が、ひとりでに動いて紙の上にさらさらと墨で文字を書いている。

この屋敷が幽霊屋敷だっていうのは……本当だったわけだ……。

俺は蝋燭を持ったまま壁にへばりついた。声は「蝋燭をもっとこちらへ」と強いたので、へっぴり腰で差し出す。

「おれも明りがなくて困っておった。おぬしが来てくれて助かったぞ」

「あのう、何してはるんです?」

「見ての通り写経」

 幽霊が写経……。

俺はすごく何かをつっこみたい気持になったが、思いとどまって彼に尋ねる。

「いつからここに?」

「そうだな、かれこれ360年ほど日本中を自由に放浪しておったが、つい1年ほど前、水曜という女に呼び出され、それからここにおる。どこへ行ってもつまらんしな。おぬしやあの女のように、おれの声が聞える人間がいれば別だが」

霊を呼び出すって、水曜にそんな力があるのか?

俺が驚いた顔をすると、熊谷直義と名乗る声の主は笑った。

「何だ、知らなかったのか。あの女は錬金術師でな、おまけに交霊術の勉強中だそうで見境なく霊を呼びこんでいる。おれは煩いのは嫌いだ。それで水曜に結界を張らせてこの部屋に隠居している。住民をやたらに増やすなと、今度あの女に言ってくれ」

 はい……。

俺はこっくりうなずき、はっとした。彼にひめさんの行き先を訊けないだろうか。

尋ねてみたが、熊谷直義はあっさりと何も知らんと言った。水曜の結界で外の霊も入れないが、自分も出られないというのだ。それって閉じ込められてるんちゃうやろか、と俺は思ったが、熊谷氏の面子の為に黙っていた。どこにも行けないんじゃ、知るわけがない。

彼は金曜にとりついている悪霊についても何も知らないという。どうやら幽霊は、他の霊については姿が見えず、声を聴くことができるだけなのらしい。

俺は情報を得るのはあきらめて、床に座り込んだ。熊谷直義という人……いや幽霊さんは、360年も放浪していたという。すると江戸時代の人、ということになるのか。

「生きておられた時は、何をしたはったんですか」

「おれか。浪人だ。仲間と討幕を企てたんだが、仲間どもは皆つかまって斬首の刑よ。おれも指名手配されてもはやこれまでと自決した。知人に介錯を頼んだが、首が落ちてしばらくは意識もあり、目も見える。斬られた後、地面に転がって見たその時の夕日が実にきれいでの」

……はい。なんだかすごいことをさらっと聞いているような気がします。

「そこでおれは思ったのだ。あの落日はおれの功名心も、討幕も改革も屁とも思っておらん。おれは阿呆じゃ。次に生まれ変わったら、あの太陽のように大きく生きようとな」

しかし、と熊谷直義は溜息をついたようだった。

「おれはいつになっても生まれ変われないのだ。360年彷徨っているが、転生の兆しは一向に見えてこん。もう霊生活にはあきあきじゃ。現世で殺生をしたせいかと思って写経にいそしんでおる。見ろ、この手を。筆だこができたわ」

それで写経していたんだな、と俺は腑に落ちる。何というか心正しい幽霊である。しかし、見ろと言われても見えない。

「あの、拝見したいんですが、実は俺、お姿が見えへんのです」

「何だ、見えとらんのか。なぜそのような眼帯で己の能力をごまかしている。外せば見えるわ」

 思わず俺は自分の左目に触れる。

だが、外そうとしてためらい、手を下ろした。熊谷直義は俺の躊躇いを見て取ったように言った。

「成程。見えすぎるのはつらいことよな。だが腰抜けと言われても文句は言えぬぞ」

 俺は黙っていたが、まあいい、と熊谷氏はあっさり言う。

「おぬしは明りをつけてくれたしな。片目でも見やすくしてやろう」

机の前がぼんやりと発光したように見えた。男が姿を現す。痩身に灰色の着物を纏い、帯刀している。性格通りの一文字眉で、凛々しい顔立ちだ。年は30代後半だろうか。こちらを振り向いて筆を置く。

俺は姿が見えたことでほっとする。見えない相手とは話しにくい。

「しかしおぬし、これからどうする。あの4姉妹は普通のおなごどもではないぞ」

 熊谷直義は、もしおぬしが兵糧攻めで命を落としたら、霊の先輩として指導してやろうと真顔で言う。笑えない。

「夜を待って何とかここを出ます。俺、調べたいことがあるので」

 俺は熊谷直義にそう言った。屋敷内にひめさんがいないか確かめなければならない。

夜まで時間がある。携帯で知人に連絡をとろうと思ったが、携帯を入れたはずの後ろポケットの中は空っぽになっていた。とられたんだ。いつのまに。

携帯がないんじゃ時間もわからない。ドアのすきまの光でおよその時刻を測るしかない。

舌打ちする俺に紙がつきだされた。

「おぬし退屈しておらぬか。いや、退屈しておるに違いない」

 つまり熊谷直義は写経でもして待てというのだ。

「ほれ、おれの成仏を祈ってせっせと書け」

 俺は仕方なく熊谷直義と共に写経して夜を待つ。

 写経というのは丁寧に書くものだと言われたがとてもそんな気分ではない。どれも走り書きのような速記になった。こうしてる間もひめさんはどうなっているか……。

時間と共に積み上がる般若心経の山は、俺の焦る気持そのままに部屋に舞い散る。

 熊谷直義は横目で俺を見て笑ったがそれ以上何も言わず、気づくと姿が消えていた。

 俺ははっとしてドアの隙間を覗く。

夜だ。


          ※     ※     ※


 俺は金属の御魂を呼び出す。足枷とドアのカギを開けてもらい、外へ抜けだした。

廊下はしんと静まり返っている。天井灯はついているのだが、白熱灯なので朧ろで暗い。

狙いは初めから1階だ。1階は倉庫だと水曜は言ったが、その目には警戒の色があった。

そこにひめさんが閉じ込められているかもしれない。

 俺がいた物置は奥の角部屋で、隣には2つほど空き部屋らしきドアがある。隣室のドアは開けてあるが中は真っ暗だ。俺のいた部屋の向かいは事務所だった。扉が開いていて電話ののったデスクが見える。書類や膨大なファイルが整然と棚に並んでいるのが見えた。事務所の隣は、最初俺が通された応接間。広いな、この屋敷。

俺は忍び足で玄関ロビーへたどりついた。

壁の右手に大きな絵がかけられ、正面奥の飾りテーブルには豪華な彩色の壺があった。花が投げ込んである。ロビーの向うは食堂らしく、ドアが開いていて明りが廊下へ洩れ、ささやかな食器の音と話し声がしている。

 応接間にも事務所にもひと気がなくてほっとしていたが、ここで見つかったらおしまいだ。俺は息を殺す。食堂のドアが開いているから、食堂より向うには行けない。向うにもいくつか部屋があるみたいではあるけど。

しかし、1階へ行く階段なり抜け道なりがどこかにあるはずだ。あるとしたらこのロビーのあたりやと思うんやけど……。

だがロビーには見た通り絵と飾り机、花を活けた壺しか見当たらない。あとは壁だ。

おかしいぞ。じゃあここの4姉妹はどうやって階下へ降りるんだ?

俺はしばらく辺りを見まわした揚句、壺の後ろをのぞいてみたりする。まさかなと思いながら絵の額縁をそっともちあげてみた時、俺は心臓が止まりそうになった。

絵の後ろは真っ暗な空間だったからだ。抜け穴だ。俺は動悸を押さえながら、急いでそっと潜り込む。頭を突っ込んでから、明りがないのに気付き、ポケットに入れて持ちだしてきたライターに火を灯す。

ライターの火を頼りに絵の後ろの空洞に入り込んだ俺は、やっぱりな、と呟いた。階段がある。ごく狭いコンクリートの階段が。

たかが倉庫に行くのに、こんな仕掛をするものだろうか。やはり何かあるとしか思えない。俺は慎重に階段を降りはじめた。

 最後の1段を降り終えた時、目の前に重そうな灰色の扉が見えた。引き戸だ。扉に札らしきものが張ってある。俺はライターの火を札の1つに近付けてみた。土星の刻印だ。木曜さんが護符と呼んだあの指輪にあるのと同じ紋様じゃないか。なぜここに?

俺は引き戸に手をかける。力をこめて引き開けようとして、

「どうやって部屋を出た?」

 自分の右肩にかかった手に硬直した。気配はなかった、さっきまで確かに。

振り向くとそこに尼僧服のフードだけを外した水曜が立っている。表情は堅い。

「やさ男みたいな顔して、油断できない奴だな。ここは立ち入り禁止だ」

 水曜はどこかにあった電灯のスイッチをつけ、俺を押しのけると、扉の前に立ちふさがった。顔色が青い。必死、に見える。

「なぜ? ここにひめさんがいるから?」

 俺は引かないつもりで言う。

「そうじゃない。ここは金曜の寝室なんだ。寝込みを襲う気か?」

 俺は一瞬ひるんだ。せやけど、おかしないか? 2階には空き部屋があるのに、なぜこんな地下牢みたいな1階の部屋で寝る必要があるんだ。それに事実かどうかも疑わしい。

だがその俺の顔を見た水曜は、辛抱強く理由を説明する。

「金曜に憑依している悪霊は、接吻することで相手にのり移る。それを防げるのは木曜のあの指輪だけだ。あの指輪には悪霊から人を守る力がある。悪霊の顔に向かって指輪をかざさなきゃならないがね。昼間はいい、だが夜間は? だから金曜の意識があるうちにここに寝かせて、夜は絶対にここから出ないようにしている」

「それじゃ……」

 俺は唇を噛んだ。日野金曜はそれじゃ、まるで悪霊の囚人じゃないか。

「金曜が学校に来れなくなったのも、そのせいか」

「あの角じゃ行けってのが無理だ。それに学校であの悪霊が見境なく接吻すると困る」

 水曜はあの角は5月あたりから生えて来たと言う。厳しい顔だった。

「悪霊の狙いは木曜。適当な男に乗り移って、木曜と結婚するつもりだ。だからこの扉を安易に開けないでくれ。お前自身の安全の為にも」

 そう言って後ろを振りむいた。階段を下りてきた木曜さんがそこにいる。

「言ったはずどす、貴方は狙われていると」

 そう言って、木曜さんはじっと俺を見つめる。

俺は、むしろ狙われているのは木曜さんだと思ったが、黙っていた。

「それにしてもどないしてあの足枷とドアの錠前を開けはったん。足枷は百歩譲って部屋の中の工具を使って外したとしても。部屋は外部からしか開かないようにしてあったはず」

 俺は黙っていた。木曜さんは俺の顔を見つめていたが、ややあって諦めたように頷く。

「わかりました。水曜、タクトさんを他の部屋へお連れして。タクトさん、うちら貴方を探偵社所属の住み込みアルバイトに雇おうと思うんですが、いかがどす」

 バイトか、なるほどと俺は思った。契約を結べば、探偵社と俺は無関係ではなくなる。警察にもチクりにくい。それで秘密を守る気だ。

「ちょっと木曜!!」

 俺より前に水曜が叫んだ。

「こいつを屋敷に置く気なの」

「他にどうしようがありますのん。この方は錠前かけても自由に出てきはるんよ。そしてここから出ていく気も毛頭ないご様子ですわ。タクトさん、どうなさいます」

 俺は頷く。願ってもない。

「お願いします」

 木曜さんはほほえんだ。

「決りどすな。ほな、立話もなんやし。上で詳しいお話しましょか」

 そう促して踵を返し、階段を上がっていく。水曜は納得のいかない顔で俺を見ていた。

俺は1階に心を残しながら木曜さんの後に続く。いつか機会があれば中に入ってやる。

 木曜さんは応接間ではなく食堂へ俺を連れて行く。テーブルにつくと、アイスティをグラスに入れてくれた。気がつけばのどが渇いている。ごくごく飲んだ。

やっと人心地がついた頃、ぽんと俺の手に携帯電話が返された。はっとして見上げると、木曜さんが微笑んでいた。彼女は席に戻ると、契約書と書かれた紙を俺へスライドさせてよこす。

「ほな、雇用条件を確認の上、サインを。第1、この屋敷で見たものについては口外禁止。第2、当座は仮採用どす。第3、就寝時間厳守。ちなみに21時どす。第4、21時以降は自室から決して出ないこと。第5、1階への立ち入りは絶対に禁止。第6、この屋敷から仕事以外での外出は基本的に禁止」

 それってほぼ軟禁状態なんじゃ……。

 言いたいことはわかっている、というように、木曜さんは俺を見て静かに笑った。

「やめはります?」

「いえ、やります」

 俺はぶっきらぼうに言った。俺にほかの選択肢はない。

 水曜は俺をちらっと見て暗い眼をそらす。

 どういった仕事をすればいいのか木曜さんに尋ねると、明日わかると返事が返ってくる。

「火曜はもう寝た?」

「うん、起きれないみたいだ。昼間能力を使ったせい」

 2人の会話を聞くともなく聞きながら、俺はどうも自分の体が支えられないのに気づいた。必死で背筋を正して姿勢を保とうとするのだが、どうしてもだめだ。目の前が白くなってきた。

 俺は前のめりになり、とうとうテーブルに手をつく。それでも頭を支えられない。

「すいません……ちょっと俺……おかしいな」

慌てたように水曜が立ちあがり、木曜さんに鋭い声を発する。

「まさか彼のお茶に薬を?」

 いいえぇ、と木曜さんのおっとりした声を頭上に聞きながら、俺はもうテーブルにつっぷしてしまう。はっとしたように2人が息を呑む。

 一瞬、しんと静まり返った部屋の中に、ものすごい音が響き渡った。

 腹…………へった…………。


「お前さあ、腹が減ったんなら倒れる前に言えよな」

 水曜がおむすびを作りながらぶつぶつ言った。俺の眼の間の大皿におむすびが積まれて行く。

 貧血と空腹で倒れた俺はおむすびにかぶりつきながら、状況的にそれどころちゃうかったでしょ、ともごもご呟いた。俺監禁されてたし。

 よく考えたら朝から何にもたべてなかったんだが、色々ありすぎてそんな事忘れてた。

 それでなくとも昔から貧血体質ではあって、時々倒れるのである。特に御魂を使った後は体力消耗が激しく、倒れやすかった。御魂に頼み事をするのは、体力的に1日3回が限度だ。

 木曜さんは火曜の様子を見に行き、水曜が食堂に居残って食事を作ってくれている。

 俺は思い出して顔を上げた。

「あ。忘れてた、熊谷直義さんから水曜さんに伝言」

 え? と水曜はごはんつぶだらけの手できょとんとする。

 これ以上住民を増やさないでほしいってさ、と俺は言っておむすびをまた1つ消費する。

「熊谷? じゃ、あの幽霊と話したのか」

 水曜はよっぽど珍しい事でもあったような口調だ。とりあえずうんと頷くと、水曜は俺をしばし見つめ、戸惑ったように瞬きした。

「あのな、彼と一緒にすると大概の泥棒は泣いて出してくれって頼むんだぞ」

「なんで。わりといい人やん。死んでるけど」

 変なやつ……と水曜は手を止めたままぼーっとしてつぶやく。

 ていうか、泥棒を彼と一緒に閉じ込めてたんかい。

 この洋館が幽霊屋敷と名高くなったわけがわかったぞ。噂の根源はここやな……。

「それはともかくさ。交霊術習ってるんだって聞いたけど」

 水曜に尋ねると、まあねと水曜は手を洗いに立つ。背中のまま低い声で俺に言った。

「金曜の中の悪霊を倒せるような強力な奴を呼びだすんだ」

 だけど、それってやばいんちゃうのか? 強力な霊を呼び出し、日野金曜の中に今いる霊を駆逐できたとして、その後どうする。呼び出したその危険物を水曜は扱えるのか。

いい案だとは到底思えない。だが他にどうしたらいいという代案もなかった。俺は話を変える。

「錬金術もやってるって聞いた。錬金術てどんなことすんの?」

 水曜は水をとめて俺を振り返り、しばらく黙っていた。ややあって言う。

「見るか?」


          ※     ※     ※


 水曜は食堂を出ると向かいの部屋に入った。振り返ると扉を開けて俺を待っている。

 無表情でビジネスライクな態度に徹していたが、彼女はちょっと緊張して硬くなっているようにも見えた。ぶっきらぼうに早くしろ、と言って電灯をつける水曜に促され、俺はおそるおそる1歩踏み込んであっと言った。

 何だこれ。

 女の子の部屋、といった感じじゃなかった。天井から数多の拳大のガラス球が吊るされており、それぞれに見た事もない生物の眼玉、浮遊する透明な羽虫、蜥蜴、ハツカネズミ、小鳥が入っている。そしてこの球体は呼吸でもしているように刻々と明滅し、色を変えるのである。広い壁一面の棚には古い書物とガラスの壜がぎっしりと並ぶ。

 栓がしてある小さなガラス壜をまじまじと見つめていると、水曜は解説してくれた。

「それは聖水。出身の尼僧院に頼んで取り寄せた」

 そして引き出しから古い十字架、ぼろきれやナイフを次々に取り出す。

「これは聖骸布、これは霊刀。贋物かもな。どれも効果なかった。でも手錠は活用してる」

 そうか、このコレクションは金曜の悪霊憑きのために入手したものなんだ、と気づくまでしばらくかかった。俺はなおも部屋を見渡す。反対側の壁面は蒸留機や干した薬草らしきもので埋まっている。木の杖まであるので魔法の杖か? と持ち上げてみると、違う、と水曜がげんなりした顔でそれを取り返す。テーブルの上にはフラスコや香炉らしきものがあった。

物珍しそうな俺に、水曜はこんなのはこけおどしだ、と言った。

「こけおどしって何。すごいコレクションやぞ」

 どれも市販品ではなさそうだ。これほど集めるのには骨が折れたはず。

だが水曜はかぶりを振った。

「大半は客の眼をくらますために集めてるだけさ。使ってるのはごく一部。迂闊な奴が奥義を入手しないよう、複雑な道具で見た目ややこしくしてあるけど、これも錬金術師の仕事なの。ハッタリも大事だしね。ともかく、現実はもっとシンプルなんだよ。錬金術ってのは、金を造るのだけが目的だと思うだろ。違うんだ。目的は大まかに2種類ある。現実に効用のある物質を造ろうとする錬金術と、内的な自己変革を求める錬金術。中国じゃこれを外丹と内丹って呼ぶ。真の錬金術は内丹だ。これは魔法でもなんでもない、心理的技術だ。内丹には器具は1つも必要ない。昔は錬金術って化学の走りだったけど、今じゃ錬金術と化学はほぼ分離したしな。外丹続けてる奴は今や外道扱いだよ。つまり私は外道者ってわけ」

 なんか自虐的だなと率直に言ってみると、水曜は淡々と返す。

「外道で結構。それで金曜を救えるなら」」

 彼女は1つの水槽を指差す。

窓際にある小さなガラスの水槽だ。その中には銀色の水が満たされている。

「これ何。水銀……?」

「めるくりうす・びたえ」

 ぶっきらぼうに水曜は言い、じっと水槽の中を見つめる。聞き取れなかった俺は眉間に皺を寄せて聞き返した。

「め、める……? それ呪文? どこの言葉?」

「ラテン語だ。mercrius vitae。生命の水銀という意味だ。生命の水、不老長寿薬、金丹、霊薬……他にも色んな名を持つ。錬金術師パラケルススは万能薬アルカナとも呼んだ。変幻自在の液状で、どんな病も癒し、隠し持つ願いを叶え、悪霊を浄化する。古来から錬丹術、錬金術が目的にしてきた最終物質の1つだ」

「これが?!」

 俺は水曜を振りかえった。

 いや、と水曜はかぶりを振る。

「駄目なんだ。後一歩というところでずっと完成しない。完成したら、金曜を救えるのに」

 そう言って爪を噛む。俺は銀色のその水に触れてみようとして手を伸ばした。が、すごい勢いで水曜が俺のその腕を掴んだ。その爪が俺の腕に喰い込む。

「触るな!!」

 いきなりのことに言葉も出ない俺を水曜は睨みつける。

「これは猛毒だ。触れればたちまち死ぬ」

「霊薬、て言ったやんか」

「未完成だとも言った」

 水曜は天井のガラス球を吊ってある針金からひとつもぎとった。球の中にいた蜥蜴の尻尾を掴み、静かに水槽の水に浸ける。

 蜥蜴は見る間に黒く染まり、苦悶の痙攣を見せたが、すぐに動かなくなった。

 水曜はだまって片手で死んだ蜥蜴を掲げてみせる。手を離すと、蜥蜴の死体は床に落ちて粉々に砕けた。

「レシピ通りに作っているのになぜかこうなんだ。これじゃ使えない。金曜は弱っている。交霊術でもなんでもいい、早く救わなければ……もう手がない」

 水曜はてのひらを開いたまま、床を見つめて苦しそうに言う。

 俺は水槽の中の銀色の水を見つめる。この世の物質には必ず御魂があり、御魂にはいろいろな色がある。めるくりうす・びたえというこの銀の液体の御魂は黒色だ。輝きのない黒色は御魂が死の直前に見せる色、だがこの御魂は死ぬような様子がない。これが常態のようだった。この黒い御魂は疵のない完全な球体で、全く動きを見せない。こんなのは見たことがない。

 俺は一種不吉な予感に捉われた。

「どうやってこんなもの作ったん。レシピって何?」

 俺がつぶやくと、水曜は書棚から一冊の本を抜きだす。手作りのような糸綴じの本で、表紙も中身も茶色ばんで破れが目立つ。相当古い書物のようだ。彼女は一種誇らしげな態度でその本を俺に見せる。表紙には『sinnreisyuugyou』とローマ字のタイトルが印字され、中央に六茫星が描いてある。心霊修業、と読むのでいいんだろうか。

「これがめるくりうすびたえのレシピを書いた秘伝の書だ。活字を調べてわかったんだが、これはキリシタン版といって、天草のキリシタンたちが秘密裏に印刷したものだ。自費出版みたいなもので、江戸幕府の認可なく少ない部数で印刷していたらしい。私の唯一の財産だよ。めるくりうすびたえは幼い頃からの私の運命で、夢なんだ」

 そう言って本をそっと撫でる。俺は何かその活字に見覚えがあるような気がした。中を見ようと手を伸ばしたが、水曜は小さく悲鳴を上げて後ろに飛びずさった。

「触っちゃ駄目だ。これは私の唯一の財産だっていったろ」

 俺はあきれて言った。

「大げさ。唯一のってことないやろ」

「いや、唯一のだ。私が段ボールに入れられて尼僧院の前に捨てられていたとき」

 唐突な言葉に、一体何の話だ、と俺は目を見ひらく。

「その段ボール箱の中にこの本も一緒に入ってたんだ。私が生まれながらにして持っているものは、これだけだ」

 ちょ、ちょっと待ってくれ。今のを聞くと、水曜は捨て子ってことか。火曜も木曜さんの話からすると施設で育ってるし、全員血のつながりがないのかな。

「じゃあ、君らって血の上では姉妹じゃないんや」

 水曜は唐突に口をつぐんだ。手にした本をそっと書架に戻すと、俺に向き直る。

「喋りすぎた。もう時間も遅い。部屋へ案内するはずだったな」


            ※     ※     ※


 水曜は応接間の斜め向かいの空き部屋で寝るようにと言ったが、俺はもとの物置でいいと言い張った。水曜は訝しげにしていたが、毛布を持ってきてくれた。俺に念を押す。

「本当にここで眠れるのか?」

「心配?」

 水曜は無表情のまま俺の下腹に蹴りを入れると、毛布を投げ捨てて走り去った。

いってえ……。物凄い脚力だ。何も蹴らなくても。

予想外の衝撃に屈みこむ俺に、声がかかる。

「からかったらあきまへんえ。あのこ、男性恐怖症気味やの。そう見せないよう気張ってますけど。迂闊にかまうと怪我しますえ」

 事務所の扉にもたれかかり、木曜さんが立っていた。

いつのまに?! 足音もドアの開く音も全く聞えなかった。はっと立ち上がる俺に、木曜さんは微笑む。彼女は少し疲れて見えた。

「お風呂は離れなんどす。言い忘れてましたさかい、ご案内します」

 木曜さんはロビー、そして食堂の前を通りぬけ、廊下の突き当たりのドアを開ける。

玄関とは別に小さな屋根付きの階段があり、そこを降りていく。

「入り組んだ造りの建物ですね」

 俺は木曜さんの背中に向かって言う。

「そうどすな。ずいぶん訳のある物件だそうですが」

 木曜さんが教えてくれたところによると、元の家主がここの1階で自害しているという。その後霊障が続くので1階が使えなくなり、玄関の扉を壁に塗り込めて2階を玄関にしたそうだ。

 家主の家族はやがて他へ移り、屋敷には買い手がついた。だが越してきた新たな家主は続く霊障に恐れをなしたらしい。すぐに不吉な屋敷を売りに出した。買い手のないまま歳月が過ぎ、4姉妹が棲み始めたのが5年前だという。なぜそんなに詳しいのか尋ねると、木曜さんは、こともなげにその自害した家主がうちの祖父ですねん、と答える。俺は思わず言葉につまった。

 壮絶だ。水曜の交霊術だけが幽霊屋敷という風評の原因じゃなさそうだ。

「じゃ木曜さんがこの屋敷の持ち主なんですか?」

「いいえ」

木曜さんは短くそれだけ言った。俺はそれ以上聞けなくなってしまう。話の接ぎ穂がないまま庭に降りる。離れのお風呂を指差すと、木曜さんは、階段を上がって戻ろうとする。俺は咄嗟に彼女を呼び止めた。

「あの、水曜に聞いたんだけど。あなた方は4人とも血の繋がりがないって」

「タクトさんはうちらのこと調査しにここまできはったん」

 木曜さんは笑って言った。その目は笑っていない。俺はハッとする。

 木曜さんは俺に向き直る。

「確かに、うちら全員、身よりのない孤児や。同じ養い親に引き取られましたが、お互い血の繋がりはありません。でも、そんなん関係ない。うちには生活を共にしてきた大事な妹らどす。これで納得しはりました?」

 彼女の冷たい瞳が俺を貫く。俺はうなずくことすらできず立ちつくしている。

「納得したら、もう余計な詮索はやめよし。あなたはうちらと初めから同居していたわけでもない。兄弟や言うても、昨日が初対面どす。うちらにかかわらん方が貴方の為や。とばっちりを喰らって悪霊にとりつかれたら気の毒やし、貴方が探しているのはひめさん。うちらのことはどうでもよろし。貴方のこの手が持っている力……」

 木曜さんは俺の手首を掴んだ。伏せた眼はじっと何かを見つめているみたいだった。

「どないして使うかよお考えてください」

 いらんこと言いました、と木曜さんはにっこりして俺の手を離した。

 俺は一人で夜の庭に取り残される。謎だらけの4姉妹だが、その謎には確かに俺が首をつっこむべきじゃないのかもしれない。だけど気になるのだ。

 悩みつつお湯につかり、お風呂を上がって部屋へ戻った。タオルで頭をがしがし乾かしながらドアをばたんと開ける。と、俺は息が止まりそうになった。

「ばぁ」

 熊谷直義氏が真顔でじっとこちら向きに正座しているのである。こ、こわい。

 写経するでもなく俺を迎える熊谷に、俺は息も絶え絶えどないしたんですか、と尋ねた。

「おれは感動したのだ。今まではおれの気難しい気性を知ると、誰もが逃げた。日野水曜は逃げもしなかったが、話もしたがりよらん。しかしお前はもどってきた。おれと一緒にいたいという奇特な男が、由比のほかにもいるとは思わなかった」

 しみじみと彼は言った。いや今まで泥棒に逃げられてたのは気性以前の問題やと思います。俺は一度じっくり話したかっただけやし、と俺は呆然としながら頭をかいて、ふと気づく。

 ゆい? それは誰なんやろ。

「ともに命をかけたおれの友人だ。倒幕騒動の首謀者だった」

 倒幕の首謀者、ゆい。どの漢字や? ゆい……由比? 口の中で漢字を並べた俺はひょっとして、と叫ぶ。

「まさか由比正雪!? 熊谷さんが参加した倒幕騒動って由比正雪の乱、ですね!?」

 なぜ最初から気づかなかったんだろう。倒幕騒動を起こしているのなら、相当有名な事件のはずだ。

 由比正雪は軍学者で、慶安事件、通称由比正雪の乱の首謀者だ。要は失業浪人たちの力を利用してクーデターを起こし、徳川幕府をぶっこわそうとしたわけだが、失敗している。江戸、大阪、駿府などに放火し、失業浪人たちの決起を誘発しようとしたのだが、密告者がいて未遂に終わったのだ。成功していたら徳川政権は260年も続いていなかったかもしれない。

「おぬし声が大きいぞ。だがまあそのとおりだ」

 熊谷直義はうなだれ、遠い目になる。

「あいつはもう成仏したろうか……。奴は天草の乱に参じた時、瀕死のキリシタンから幻術の書を入手した男だ。討幕の計画ではおれは京都組、由比は駿府組でな。別れる前夜におれと由比はその幻術で作った不死の霊薬を飲んだ。熊谷はわしの片腕なのだから死んではならんと由比は言ってな。おれを、由比はまっすぐな男だと信頼してくれた。霊薬なんか効かぬだろうと思っていたが、効こうが効くまいが奴と運命を同じくするつもりでいたよ。だがおれが成仏できぬのは案外あの霊薬のためかもしれない。そうだとすれば由比の霊もまたこの世を彷徨っているはずなのだが」

 そんなわけもないな、と熊谷直義はため息をつく。

俺はえーとえーと、と由比正雪に関する歴史を思い出そうとする。

「由比正雪って、確か処刑されてますよね……熊谷さんと同時期に」

「由比は駿府で死んだはずだ、俺が死んだのは京都だったが。計画が露見してな、由比の塾生の、しかもあいつの好きな女の口から」

 あいつの好きな女……て。

「弓師の名を騙って塾に聴講に来ていた男装の女だよ。塾では藤四郎を名乗っていた」

 小説で読んだ知識だけど、由比には妻子がいたはず。熊谷氏にそう言うと、彼は言葉を濁しつつうなずいた。

「由比は計画がうまくいった暁にはお藤を妾にする気だった。お藤がなぜ裏切ったのかはおれにはわからん。密告者は他にもいたが、投獄された由比がどんな思いで裏切者の名を聞いてたかと思うとな」

 悄然とつぶやく。うなだれる熊谷氏をよそに、俺はぞっと寒気を感じる。

お藤だって。日野金曜は木曜さんを何と呼んでいたっけ。確かにお藤と呼んでた。

 どういうことなんや。

まさか日野金曜にとりついているのは由比正雪の霊……いや、まだわからない。

そうだとしても、なんで木曜さんをお藤と呼ぶん? お藤という人はとっくに死んでいるはずなのに。だけど全く無関係にも思えない。

「もしかして日野木曜さんて、お藤さんと何か関係が……?」

 あ、と熊谷氏は思いだしたように呟く。そういえば木曜はお藤と瓜二つなのだ、と手を打つ。

「初め見た時は驚いたな。まるで360年前に戻ったようで。だが関係とは?」

 血縁関係か? と彼は訝しげに首をひねる。

そうか、熊谷氏は金曜が霊にとりつかれていることも、とりついている悪霊が木曜さんをお藤と呼んだことも知らないんだ。360年前の慶安事件と今の悪霊騒動を結びつける発想はないよな。

 熊谷氏を呼びだしたのは水曜だ。何か知っているかもしれない。俺は翌朝水曜に尋ねてみることに決める。

 俺は熊谷氏に、いつか由比正雪とおぼしき霊を見たら紹介する約束をして、気分を切り替えることにした。

床の上に座る。深く呼吸をして、御魂たちを呼びだす。俺の御魂たちは、普段俺の体内に宿っている。俺の体内を庭とし、それぞれ対応する臓器の中にいるのだ。たとえば金属の御魂は、腎臓。木の御魂は、肝臓。火の御魂は、胆嚢。土の御魂は、脾臓、そして光の御魂は、心臓といった具合。でも御魂を多く持っていれば大きな力を使えるかといえばそうではない。体重の重い人間が必ずしも力持ちではないのと同じだ。少なくていいからお互いに調和できる性質の御魂を集める必要がある。でも少なすぎてもいけない。難しい。正解がないからだ。俺にとって相性のいい御魂が、ある人には作用が強すぎて病気を引き起こしてしまうことだってある。

そのうえややこしいことに、俺にとってある時期はとてもしっくりきた御魂が、翌年になるともう他の御魂とも自分の内臓とも調和しない、ということもあるのだ。そういう時はその御魂を自由にしてあげなくちゃいけない。合わない御魂や、劣化した御魂をそのまま閉じ込めておくと、体内の病気を引き起こす。自分の体内にいる御魂を放置するのも危険だ。金属の御魂は錆びるし、水の御魂は澱み、木の御魂は腐食する。

だからこうやって夜毎に外に出して遊んであげなくちゃ。

俺は掌の上から次々に舞い出てきて蛍のような光を放つ御魂を見つめた。

俺の体の周りを旋回し、それから部屋じゅうを駆けめぐる光たち。音楽に似た御魂の響きを聴いているのが俺は好きだ。見ていると心が落ち着く。

熊谷忠弥氏はそれをまぶしそうに眺める。

「おぬしのその力は不思議なもんじゃ」

 俺はええっと、と言葉を濁しかけたが、やはりちゃんと答えることにする。

「言いにくいんですけど、これ俺の力じゃないんです。彼らの力を借りています。俺は貸してって言える関係性を作れるだけなので」

 熊谷氏は黙ってそれを聴いていた。

俺はひとしきり御魂たちと遊んでから、布団に潜り込んだ。

速やかに眠りにつこうとする俺の枕もとで、熊谷氏は写経を再開しながら言う。

「おぬしはおもしろい男じゃ。もし本当に由比がまだこの世にいるなら、やつにも紹介したいものだ。何か霊関係で障りができたらおれに言え。おぬしの為に尽力する」

ありがとうございます!

俺ははんぶん眠りながらお礼を言った。明日は探偵社の初仕事だ。


  第4章   初仕事


早朝4時、俺は布団を畳んで部屋を抜け出す。もう扉に鍵はかかっていない。

 廊下の突き当たりの窓を透かし見る。夜明けの空はまだ暗い。誰も起きていないようだ。

 俺の目的はもちろん1階。まだ俺は1階の部屋にひめさんが掴まっている可能性を捨てていない。あの隠し部屋がただの日野金曜の寝室だと確認するまではあきらめるつもりはなかった。

 金曜の中の悪霊がもし乗り移ろうとしたら、初日と同じように退るつもりだ。

音をたてないよう気をつけて歩く。絵画の後ろから1階への抜け道に潜り込む。

下まで降りて気付いた。引き戸が開いている。

俺は俄かに気をひきしめる。先に誰か入ったんだ。

足元に開けられた南京錠が落ちていた。だが、普通に解錠されたようすではない。上の部分がねじ切られている。まるで飴細工みたいに曲がっていた。こんな開け方、常人にはできない。

 俺は手元のライターを急いで消し、引き戸に手をかけて薄暗い中へ足を踏み入れる。

 部屋の中は戸の大きさからは考えられないくらい広かった。縦横に柱が立っているだけで、敷地を仕切る壁はどこにもない。質素なシャンデリアの電球が遥か上の方でかそけき光を放っている。俺は壁にはりつき、眼を凝らす。戸が開いているという事は、誰かがいるはずだ。

日野金曜と、もう1人誰か……。

部屋の中央に大きなベッドがあった。その上に誰かいる。ベッドの裾から白い手が力なく垂れている。か細い手首から下がった鉄の鎖はベッドの桟に繋がれていた。俺は胸の奥が少し痛くなったが、それを無視した。寝ている日野金曜の、その傍らに1つの影がある。

俺は破壊された南京錠から、ものすごく大きい山のような人物を想像していたが、意外にも小さな背中にハッとする。闇の中でも明るく見える赤い髪、そして頭の上のふわふわと丸い耳!

火曜だ。

でもいったいこんな所で何を?

俺は自分のことも棚に上げて眉をひそめ、そっと2人の様子を窺った。

起きているようすのない日野金曜に向かって、火曜は何か小さく話しかけている。

「取引しよ。うちの体を貸してあげる」

一体何の話だ?

火曜が金曜の中の悪霊と取引しようとしているのだ、と気づくまで少し時間がかかった。 何でそんな事を。俺は物理的に彼女を止めようとして本棚の裏からベッドへ歩みよる。

「もう金曜は限界なんでしょ」

俺はそれを聞いて一瞬息を止めた。

限界って。

そのとき、寝ていたはずの金曜が起き上がる。体の重さを感じさせない、羽のような唐突な動作だったので俺は心臓がとまりそうになった。近くにいた火曜も一瞬すくみ、1歩引いた。金曜の中の悪霊は言う。

「自分の体のほうがおれにとって居心地がよかろう、と申すのか。その見返りに何を望む」

「見返りはいらん。けど条件がある」

 火曜は無理に強気を通して言う。

「1週間なら器になってもいい。けどその後は適当な男に乗り移って出てって」

 確かに、と金曜の中の悪霊は言った。

「お前の体のほうが他の者の不意をつきやすいな。そういえば手近に適当な男も来ていた」

……ちょっと待てそれって俺のことなんじゃ。

「あと木曜になぜつきまとうのか教えて。男に乗り移れてもあんたと木曜が結婚できるわけない。何か他に理由があるよね」

悪霊は鋭い眼になり唸る。

「お前ができるわけがないと断言する理由は何だ。それからあれは木曜ではない、お藤だ。あの女は360年前からおれのものなのだ」

 お藤、と火曜は冷静に返す。

「それ誰」

「徳川幕府の雇われの甲賀忍者だ。あの女が裏切ることなど初めから知っておったわ。だから泳がせておいたのだ。弓師の名を騙り、男装でおれの塾に入り込んできた女だ」

 確かに美しかったが、まるで子供だった、と悪霊は語った。

「お藤は幼い手練手管でおれの秘密を探ろうとするのだ。放っておいたが、そのおれがいつか魅惑されていた。ある時、謀反の計画を聞かれてしまってな。捨て置けず捕えて問い詰めると、お藤は自分が甲賀者だと認めた。自分には弟がいて、甲賀の人質になった彼らの命を守る為にこの仕事を受けた、という。そこでおれは謀反の直前にお藤を解放した。おれと結婚の約束をし、幕府に贋の情報を流せば、弟も血縁も救いだしてやるといって」

「あんた誰なの……!?」

「おれか」

 悪霊は立て膝をついて低く嗤った。

「おれは由比正雪だ」

 俺は壁際で完全に固まっている。やっぱり……。

「幕府はおれが謀反を起こすのではないかと疑っていたのさ。それで甲賀者を内偵を塾に潜り込ませていた。お藤はその一人だ」

 由比正雪はお藤が内偵だと承知だった、という。だが捕えたお藤の感触から、自分側に寝返るだろうと思ったのだ。そこで幕府に贋の情報を届けると約束したお藤を解放し、裏切られた。

 悪霊はおれの読みが甘かったのだ、と自嘲する。

「だが、おれは約束を守る男だ。お藤は贋の情報ではなく真実を伝え、おれを裏切った。だからおれはあの女の弟も血縁も全て殺してやることにしたのさ。どういうわけか親族を全てとお藤の弟を1人殺したところでおれは魂の眠りについてしまったが、目覚めてからは探したぞ、お藤の子孫をな」

俺は背筋がうすら寒くなるのを感じた。木曜さんの祖父は自害したという。そしてご両親は事故死だ。全て由比正雪の祟りだったというのか。

火曜は黙りこんだまま何の言葉も発しない。

「60年、お藤の子孫につきまとい、子孫を絶やしてやろうと思った。だが考えが変わった。あのお藤がまた生まれてきたのだ!」

 叫んだ悪霊に火曜は低い声で鋭く言う。

「あんたおかしいんじゃない。あれは木曜。お藤じゃない」

 それを聞いた悪霊は激昂する。

「何を言う。あれこそお藤だ! おれに再び会うために産まれて来たのだ。おれはあの女を自分のものにし、そして今度こそこの国の覇者となる。なくしたものを全て取り戻すのだ。お藤とおれが結婚できないだと? できなければあの女を殺すまでだ」

「気が変わった」

と、火曜はすっくと立ち上がった。頭上の耳がびりびりと震えながら立つ。その耳を見ているだけで、彼女の緊張と怒りが伝わってくる。

「あんたとは取引しない」

 そうか、気が変わったか、と悪霊……由比正雪は嗤った。

「だがおれの気は変わっていない」

 由比の眼が赤く光った、と思うと同時に火曜は素早く跳んで姿を変える。こんな時でもなければ、それは見事な眺めだったと思う。ほんの一瞬だった。宙を回転する、その間に尻尾が生え、牙が生える。地に降り立った時には、もう真っ赤な豹が目の前にいた。

「うちを掴まえるのは難しいと思いや」

 火曜は傲岸に言い放つ。その琥珀色の眼が冷たく光る。そのまま素早く戸口へ踵を返す火曜に、慌てぬ悪霊が声をかけた。

「待て。金曜がこのまま死んでもいいのか」

 火曜が思わず振り向く、と同時に悪霊の眼が光る。赤い豹のしなやかな肢体が石のように固まる。金曜の体がベッドから降りる。だめだまずい。俺は咄嗟に飛び出した。

「おまえは昨日の……」

 金曜の中の由比正雪がなにか言おうとしたが、俺は聞かない。

「光の御魂、この部屋を照らせ!」

 金曜に向かって掲げた掌から凄まじい光が溢れ出す。強い閃光を避けようとして、金曜は思わず目に腕をかざした。俺はその隙に火曜を脇に抱えるとだっと走り出す。

 灰色の扉を後ろ手に叩き閉め、振り返らず階段を駆け上がる。背後で悪霊が嗤っていた。


          ※     ※     ※


 俺はものも言わず階段を駆け上がり、火曜を担いで抜け穴を飛び越すと一気に自室に駆けこんだ。ばたんとドアを閉めてからどさりと火曜を畳の床の上に下ろす。呪縛が解けたらしい火曜は乱暴な下ろしように文句を言ったが、俺はかまっていられない。そのまま床の上へ手をついてへたりこんだ。

「ちょっと、どうしたん」

俺のようすに気付いた火曜は獣の姿のまま慌てたように俺の周りを回る。俺が押さえているシャツの胸のあたりに鼻を近づける。

「しばらくほっといて」

 俺はきれぎれに言ってそのまま畳の上に転がるように倒れる。

 火曜はあたりを見回したり落ち着かないようすだったが、じき部屋を飛び出して行った。

火曜が出た後から、光の御魂が俺を探して自力で戻って来る。開いた扉から流れるような光の線を描いて入ってきた。流れ星みたいだ。

きれいだ、と俺は思う。そして強い。

手を伸ばすと光の御魂は掌の中に吸い込まれた。俺は再び目を閉じて胸を押さえる。

光の御魂の照応部位は心臓。

風にも金属にも昨日頼み事をした。連日続けて仕事をさせると御魂が疲弊する。そこで咄嗟に光を呼びだしてしまったが、照応部位を考えるべきだった。

御魂が力を使う時、陸上選手が走り出す時に地面を蹴るように、俺の体の照応部位をも《蹴る》のである。御魂の力が強ければ強い程、俺の体はダメージを受ける。

 そして光の御魂は、俺の持っている御魂の中で最も力が強いのだ。

 しまったなあ……。

 でも収穫はあった。1階のあの部屋には、確かにひめさんはいない。光の御魂のおかげで部屋のすみずみが見えた。金曜のほかに人がいる痕跡はどこにもなかった。

 だが、と俺はポケットに手をやる。掌の上に転がるのはあの部屋で拾った石だ。見事な緑色翡翆の裏には金具があり、帯どめだと解った。これは確かにひめさんのものだ。一昨日の夜、確かにひめさんの白い帯の上にこの翡翆を見たのだから。

 ということは、ひめさんは今あの部屋の中にはいない、だが、ここに来たのは確かだ。俺が手伝おうとしたのを断り、ひめさんはここに金曜を寝かせに来た。そして帯どめが帯締から落ちるほどの強い衝撃を受けた。

そしてどこかに消えた……。

まさかもう死んで……? 

 不吉な考えが頭をよぎり、俺は帯どめを握りしめる。だめだ、マイナス思考になってる。

そんなわけない、どこかに必ずいる。屋敷の中をもっとよく探すんだ。でも、木曜さんの言った通り、屋敷内にはいない可能性もある。冷静になれ。

「おぬし、大丈夫か。先ほど屋敷内の霊どもが一斉に下から逃げようとひしめき悲鳴を上げているのが聞えたぞ。この部屋にまで声が届くのは余程のことだ。何かあったのか」

肩越しに声が聴こえた。横になったままの俺は体を起こそうとする。が、胸を貫く痛みに動きを止めてしまう。

「いや、そのままでよい」

熊谷氏だった。気遣わしげな顔で俺を覗き込んでいる。

俺は思いだす。金曜に宿っている悪霊は、彼の親友の由比正雪なのだ。俺は熊谷氏に、もし由比正雪とおぼしき霊を見つけたら教えると約束した。しかし親友が悪霊と化していると知ったらこの生真面目で心正しい熊谷氏はショックをうけないだろうか。

俺は当座彼には何もいわないことに決めた。

 持病でもあるのか、と問う熊谷氏に俺はいいえ、とかぶりを振る。

「ちょっと体調が悪いだけです。じきなおります。さっきの騒ぎは……」

 霊たちが上がって来た、というのは、光の御魂に浄化されるのを避けようとしたのだろう。俺がそれを説明しかけた時、火曜がドアの隙間からすべり込んできた。熊谷氏は閉口した顔になって姿を消す。

「水もってきた」

火曜は水の入ったグラスを片手に床に膝をつき、真剣な顔で俺を覗き込む。

「薬を探したけど何の薬がいいかわからへん」

 傍らに救急箱をそのまま持ってきていた。箱ごと差し出されたが、俺は手を振って起き上がる。グラスだけ受け取った。

「体弱いの?」

 水を飲みながら俺はかぶりを振る。

「じゃああの光の魔法のせい?」

 俺は動きを止めて火曜の顔を見上げた。魔法じゃないけど……なぜわかるんだろう。

「それくらいわかる。あんたが来た時から見えてたもん。その、体に入れてるやつ」

 火曜は真顔で俺の胸を指さす。

「能力の反動やろ? うちも変身後眠ったらしばらく起きれないから、わかる」

 俺はやっと口を開いた。

「こんなのわかるやつがいるとは思わなかった」

ひめさん以外で。

火曜はちょっと微笑む。笑うと目尻が下がってかわいかった。今まで睨んだ顔しか見たことなかったな、と気付く。

あ。そういえば、と俺は思い出してグラスを置く。ズボンのポケットからねじ切られた南京錠を出して火曜に手渡す。1階の扉のだ。

「火曜、だっけ。これ、君がやったんだろ。何で悪霊相手にあんな馬鹿な申し出?」

「ばかじゃない」

 受け取るだけ受け取って真顔で噛みついてきた彼女に俺は厳しい顔になる。

「なら何でやねん。悪霊に自分の体を差し出すなんて無茶」

 だって、と火曜は唇を噛む。

「木曜は金曜のことばっかなんやもん。身代りになればうちのことかまってくれるもん」

 俺はしばらく口を開いて呆けた。上目遣いに俺を見た火曜にぐさりと言う。

「アホちゃう?」

「何がアホやねん!?」

「アホちゃうなら馬鹿や! まさかそんな理由で……」

 俺は肩を落とした。だが火曜は納得していない。怒りに輝く目で俺を見据えている。

そっか、ほんまにこの子わかってないんだ。俺はちゃんと説明することにした。

「あのな、もしあんたに悪霊が乗り移ったとして。その変身能力を利用されたらどうなるか考えた? 水曜を襲って木曜さんを脅して、護符を捨てさせることだってできるよな。そしたら木曜さんを危険にさらすことになるけど」

 火曜は黙って目を大きく見ひらいた。身じろぎもしない。その白い顔は俺の言葉を聞いた途端、衝撃と緊張で石膏のように強ばった。ただでさえ大きな目がもっと大きくなり、そこにみるまに水分が溜まっていく。ぽたんと畳に落ちる。

涙だ、と見て取った俺は慌てる。何か言おうとしたが、それを火曜が自分で遮る。

「わかった」

火曜はそれ以外何もいわなかった。無表情のまま顔を伏せる。床にぱたぱたと水滴が落ちていく。俺はそれをどうもできないで眺めていた。

どないしよ、ちっこい子泣かしてしもた……。

でも、状況が状況だけに前言は撤回できない。

初対面のことといい、この子はほんまに木曜さんが好きなんや、ということだけはわかった。

しばらくすると火曜は犬が身震いする時みたいにぶるぶるっと頭を振って顔を上げる。目に涙は残っているが、表情はもういつも通りの顔だった。火曜は俺をじっと見つめる。

「ていうか何であんたあそこにいたの」

 そう問われて俺は言葉に詰まった。結局本当のことを言う。

「ひめさんを探しに」

「ああ、あの女か……あんなとこにいるわけないのに」

 気に入らない顔で火曜はそっぽを向いた。

「恩人探しって本気なんや。そんなことのためによくここに居座れるね、全く歓迎されてへんのに。あんたあの女が好きなの?」

 俺は言葉につまった。すんごいストレートに聞くなあ、この子。

答えを求めるようにじっと下から見つめられて、俺はへどもどしながら言う。

「ていうか、お世話になってるし……」

「ふうん。うちあの女嫌い。名前だけの保護者なんてどうせうちらを捨てるに決まってる」

 この言葉は刺さった。彼女は突然消えたのだ。気紛れに俺を拾ったもののどーでもよくなってこの屋敷に捨てたのかもな、と思わないこともない。だがそれをいつもいやそれは被害妄想ってものだ、と思いなおしてやってきたのだ。

だが俺はあえて答えずに、なんでひめさん嫌いなのと返す。

「だってうちらには手紙とかなかった」

 俺とは手紙のやりとりがあった、って水曜が喋ったんだな。手紙って御魂の扱いについてが殆どで、火曜が誤解してるような私的なやりとりじゃないんやけど。ていうか、

「もしかして、すねてんの?」

 俺が真正面から真顔で尋ねると、火曜はかっと顔を赤くした。

ちがう、なんであんな女にかまってもらわなきゃなんないの、木曜のほうがきれいだし云々と何か言っている。はいはい。

わかってきたぞ、この子はかなりやきもち焼きのかまってちゃんだってことが。

俺がぼーっと聞き流していると、彼女は聞いてへんやろ! と怒った。

「ばれたか」

あぐらのままぼりぼり首筋をかくと、むかっときたように火曜はもうええわ! とかみつく。だが気を取り直したように首をかしげて俺の顔を覗き込んだ。

「せやけど木曜にも水曜にもさっきのこと言わんといてくれる? うちも言わへんから」

 俺は一瞬考える。1階の部屋に忍び込んだことをお互い秘密にしとこってことか。

 うん、と言った俺に火曜はさっと立ち上がる。

「絶対言わんといて。ほんまに、ほんまやで」

 戸口で振り返って念を押す。もう一度俺が頷くと、火曜は出て行こうとして躊躇った。

「……う」

「え?」

 聞きとれなくて聞き返すと、火曜はむっとしたような顔で言い直す。

「ありがとうって言ったの。あんた一応助けてくれたから」

「あ? ……ああ、あれか……」

 何のことかと思った。別に、助けるつもりちゃうかったし、行きがかり上やし。

「何ぼけてんの。朝ごはん8時、うちが当番やから絶対遅れんといて」

俺がほうけていると、火曜はそう言い捨ててさっさと去って行った。

……なんというか、気の強い子だ……。

俺は後ろ向きに畳の上へひっくり返る。朝食前に仮眠しよう、と思って目を閉じて、そのまま寝入ってしまった。


          ※     ※     ※


「ちょっと! もう8時なんやけど!?」

 強引に腕を引っ張られて目が覚める。寝ぼけてあたりを見まわす。部屋のドアが開いてた。戸口には木曜さんと水曜、金曜があっけにとられたように俺を見下ろしている。

「?」

 俺は寝ぼけ眼で自分の腕をつかんでいる子を見上げた。真っ赤な髪に丸い耳。あ、火曜。

「おはよう……」

「お早うちゃうわ! もう遅ようじゃ!」

 遅よう……なんだかレトロなその台詞、なぜか懐かしいなぁ。

火曜は躍起になって俺を引っ張り起こそうとしている。俺は引っ張られるままにしておいてでっかい欠伸をした。夜あまり寝てないんだ。

「タクトさん、朝ごはんどす。起きてや」

 木曜さんが口に手を当てて言った。笑いをこらえている……ようにも見える。

「早く起きろ」

水曜は眠そうな顔の金曜と手をつないでいた。なぜか不機嫌そうにそっぽを向いて言う。

 はぁ……起きます。俺はのろのろ膝をついて立ちながら聞いてみる。

「でもなんで、皆さんそこにいたはるんですか。朝っぱらから」

「お前が朝食に遅れるからだ。火曜がお前を起こすっていうんで付いてきた」

 水曜はぶすっ面で言った。

「火曜が誰かを起こしに行くなんて、珍しいんどすえ」

木曜さんは戸惑っているようににこにこしながら言って、俺と火曜が廊下へ出る道を開けた。 短く白いエプロンをかけた火曜は俺を引っ張りながら木曜さんを振り向く。

「うちが作った朝ごはんが無駄になるのが許せへんの!」

 はいはい、わかりました、と木曜さんは笑う。金曜は重たげな頭上の角を支えかねるように、力なく水曜の肩にもたれかかっている。青ざめた顔で、目の下には病人のような隈があった。

水曜は顔をそむけたままだ。

水曜の顔に黒い御魂と水槽の中の銀色の液体、めるくりうすびたえがフラッシュバックする。

あれ、万能の霊薬の前段階、といえば聴こえはいいけど、つまり猛毒なんだよな。

触れればたちまち死に至るって、水曜は言ってた。そんな猛毒があれば、非力な人間にも簡単に人を殺せるんじゃないか。

ひめさんがもしもうすでに死んでいるとしたら、と早朝に考えたことを、俺はひきずってた。

考えすぎだ。頭を振る。

朝食のテーブルにつく。火曜は俺の隣に早々に席をとった。水曜は黙って火曜の向かい側、そして俺の真正面に金曜を座らせる。テーブルの上座には木曜が座った。そこが定位置みたいだ。淡々と俺を皆に紹介する。

「タクトさんは昨晩から住込みのバイトさんにならはりましたから、よろしゅう」

 皆、同じく目立った反応を見せず頷く。朝食が始まり、カトラリーの音が響く中、俺はパンをかじった。

 静かな食卓で、水曜がじっと俺を見つめてるのに気づく。何だかこわい眼で。

い、いったい何だ。

木曜さんが俺に穏やかな声をかけた。

「タクトさん、お顔の色がようないね。昨晩はよく眠れました?」

「あ、ええ。ただ、今日は初仕事だから」

俺はぎごちなく言って、余計な事言わんといてや、と言わんばかりに俺を袖から睨んでいる火曜を横目でこわごわ見る。

「そう、緊張したはるんや。でも今日そない大層な仕事やないんよ」

 木曜さんはにっこりする。 火曜を見る。

「火曜、今日はタクトさんも仕事に同行するからね」

「わかった」

 火曜はポーカーフェイスでそう言って苺を齧る。木曜さんは静かに俺と火曜を見比べた。

はっきり言って、木曜さんは不自然に思ってると思う。初日あれだけ反発を見せてた俺に対して、今日はえらい態度の変わりようだからだ。さっきも朝、起こしに来たり。

気づけ、火曜。俺に口止めする前に、自分がどう見えてるかってことに!!!

俺は口の中でぶつぶつ言ったが、火曜が横から不審そうに俺を覗きこんだだけだった。

「大丈夫?」

大丈夫!!!

俺は鬱屈の表情でフォークを持ち、たまごをぐさりと突き刺す。

 水曜は黙々と食事を口に運び、食の進まない金曜の皿に果物を運んでいた。日野金曜はうつらうつらして、殆ど意識がない状態に見える。体が限界だって、火曜もあの悪霊も言ってた。他の3人は何も言わないけど、いつもこんなかんじなんだろうか……。

 そっちをちらちら見る俺に気付いたのか、木曜さんが俺に声をかけた。

「クラスでは金曜と親しかったんどすか?」

 いいえ、と俺は慌てて木曜さんに視線を戻してかぶりを振る。親しいも何もよく知らない。印象としてはいつもスケッチブックもってるかわいい静かな子、という感じだった。

いつも1人でいるし静かすぎるから、正直気になってはいたけど。

「ぜんぜん。接点なくはなかったですけど」

 それって? と木曜さんに促されて、俺はえーと、と思いだす。

 音楽の授業で、グループ別の合唱テストがあった時のことだ。グループ発表が終わったら皆テキストにAだのBだの評価をもらう。歌えない金曜はグループに入れなくて、ぽつんと席に座ってさびしそうに開いた教科書を見つめてた。隣の席の俺はそれを見てたが、何だか見てられなくなり、横から手を伸ばして開いたページに超特急でなぐりがきの花まるをつけた。

 彼女はびっくりして顔をはね上げたけど、俺は照れくさすぎて顔を見れなくなり、逃げるように音楽室を出た。……おい、話すらしてへんやんか俺。あ、だけど。

「5月半ば、登校途中、見かけるようになった時期がありました。金曜さんはもう学校に来なくなってた時期だし、登校したいけど勇気が出ないのかなと思って」

 木曜さんと水曜、火曜が顔を見合わせた。3人で金曜をそっと覗き込むが、金曜は自分が話題になっていることなど知らぬげに寝息をたてている。木曜さんは尋ねる。

「それで、どうしはったん?」

「声かけたんですけど……逃げられました」

普通に『おはよ』って言っただけなんだけど、金曜は驚いたように逃げ出した。それで俺は彼女の背中に向かってちょっとまって、と言った。登校するんちゃうの? って。

しかし彼女は真っ赤になると、かぶっていたつばの大きい帽子を必死で押さえ、かぶりを振った。そして俺が慌てて差しだしたメモ帳に片手で《さんぽ》って書きなぐって消えた。思えば、帽子をかぶってたのは、すでに角が生えてきてたのを隠していたんだな。

それから姿を見なくなったから、歩くコースを変えちゃったかな、と思った。俺が声をかけたせいだろう、悪い事したな、と思った記憶がある。

 そんなようなことを説明すると、2人の姉と1人の妹は複雑な黙り方で俺をじっと見つめる。水曜がやがてきりだした。

「5月半ば、確かに金曜は家を抜けだすことが多かった。ちょうど登校時刻あたりだ。3人とも心配してたけど行き先を突き止められなかったんだ」

「さんぽ……じゃないんですか」

「金曜がそう言ったのなら、そうなのかもしれん。だが散歩なら我々とだって行けるだろ、無理して抜けださなくても。悪霊に無理に行動させられてるんだと思ってたんだが」

 水曜は不可解だ、という顔をして言う。

俺も意味がわからん……。

4人して黙りこんでいると、くすくすっと笑い声がした。

はっと顔を上げると、目の前の金曜が俺を見ながら笑っている。いつのまに起きたんや。

右手の指を口に当て、妖しいような艶っぽい表情だった。

木曜が彼女に声をかけようとしてふっと警戒の表情になり、俺等3人に目配せをする。

金曜はまたくすくすっと笑った。フォークをつかんで、それで俺を指差す。

「金曜が何をしていたのか、知りたいか」

テーブルに肘をつき、金曜……いや、悪霊は笑っていた。水曜は凍りつき、木曜さんは眉根を寄せた。火曜は全身の毛を逆立てるようにして警戒している。俺は言う。

「あんたは知ってるの、由比」

 火曜はテーブルの下で俺の袖を引っ張った。俺が悪霊を由比って呼んだからだ。口が滑った、と俺も思ったが火曜については喋ってへんぞ、一応。

由比は知っているとも、と脚を組み、フォークで苺を突き刺す。

「日野金曜はおぬしをつけていたのだ。そういうの、最近ではすとーかー、というらしいな。金曜はおぬしの声が好きでな。声聴きたさに毎日屋敷を抜けだしていた。金曜はおぬしに見つかって死ぬほど恥ずかしがったぞ。小娘の考える事はおかしくてかなわん」

 きれいな形の大きな目を細めて、くすくすっと由比は笑った。

声? ストーカー? え? 

俺が混乱して絶句していると、すっと立ち上がった木曜さんが言う。

「あんまりでたらめ言わん方がよろしおすえ」

 掲げられた指輪を見て由比は肩をすくめる。

「でたらめを言うものか。お藤、怒った顔も美しいのう。今日は挨拶までじゃ」

 ことん、と糸が切れたように金曜は椅子からずり落ちた。水曜が急いで金曜を抱える。

「彼女、専門家に診てもらったほうがいいんじゃ」

 俺が低く言うと、木曜が掲げていた護符を下ろし、俺に教えてくれる。

「精神科とカウンセラーの方に診てもろてます。でも薬も何もひとつも効果がないんどす」

 俺は言葉を失った。それじゃ打つ手なしってことなん?

「金曜のことは我々が何とかする」

 水曜は強い口調でそう言って、金曜を椅子から下ろそうとする。が、力を失った金曜は水曜の細腕には手に余る。手伝う、と言いかけた時、水曜がびっと俺を指差した。

「手伝って」

 はい……。

抵抗せずおとなしく立ち上がる俺。

「うちがてつだう」

 火曜が尖った声で言って立ち上がりかけると、水曜は厳しい口調で制する。

「火曜は食事当番。後片付けが済んでないだろ」

 火曜はむっとした顔になってどすんと椅子に腰を下ろした。

 片づけ手伝うし、と木曜さんが火曜をたしなめる。続いておたの申します、と俺を見つめた。俺は左側から金曜の肩を支えながら、うなずいた。


          ※     ※     ※


日野金曜を背負って、俺は1階への階段を降りる。水曜は先に入って南京錠を開けた。

そういえばここの扉の南京錠って火曜がねじ切ったから無いはずじゃなかったっけ。壊れた鍵そのものは火曜に渡したけど、代りのものを用意するの、忘れてた。

俺は思わず水曜を見る。水曜は黙って俺を見返すと、ベッドを指差した。

「金曜をあそこへ」

 俺が金曜をベッドに寝かせると、水曜が金曜の手首の鉄鎖をベッドの桟につないだ。

「こうしないと悪霊が金曜を傷つける」

水曜は暗い眼を伏せたまま説明して、金曜にそっとタオルケットをかける。

 この鎖、そういうことなのか……。

「ところで、お前に話があるんだが」

顔を上げた水曜は鋭い眼で言った。

「ちょっと時間をもらうよ」

有無を言わせぬ気迫に俺は頷く。

水曜は部屋を出ると、引き戸のところで声をひそめて言う。

「今朝、金曜を起こしに来たら、この扉の南京錠がなくなってた。侵入者は、おまえか?」

 俺はちょっと考えて、うなずいた。もうバレてるようなもんだしな。それに俺にも聞きたいことがある。

「日野ひめを探しに入ったんだろう? いないことはもうわかったな。木曜には言わないでいてやる。だから1人では2度と近づくな。契約違反だぞ、首になっても仕方がないんだからな」

「なんで木曜さんに言わないでいてくれるの」

 聞きたいことがあるからだ、と水曜は部屋の中を指差す。

「この部屋には呼びだした霊たちの溜まり場になっていて、霊の声でひしめいていた。それが今朝は何の声もしなくなってる。お前、何かしたのか」

 したような、しないような、と俺はかりかり首筋を掻いた。霊の浄化が目的だったわけやないんやけど。

水曜は必死の表情でつめよる。

「何でそんなことができるんだ? お前の能力は何だ。どうやれば霊を浄化できるんだ」

「その前に俺にも聞きたいことがある。ひめさんがいなくなった時、水曜はどこにいた?」

 水曜はあっけにとられたように口をつぐむ。

「言っただろ、火曜を寝かしつけてた。だから火曜の部屋だ。なぜそんなことを聞く」

 水曜は訝しげな顔になり、すぐに眉間に皺を寄せた。きりきりと眉が上がり、冷たい微笑が唇に浮かぶ。

「成程、私を疑ってるわけか?」

 刹那、水曜の沸点が上がった、と思った。無言の俺は殴られる、と思ったが、彼女は予想外にも冷静な瞳になり、ふっとため息をついた。

「好きなように疑え。どうせ何言ったって信じないんだろ」

 無意識に身構えていた俺は拍子抜けして肩の力を抜く。そこにぱん、と平手打ちがやってきた。水曜は真っ青な顔で俺を見つめている。怒っているというよりも。

傷つけた、と思った。

水曜はそのまま何も言わず階段を駆け上がっていく。まずった、と思った。

 あの反応、ひめさんを消したのは彼女じゃない。……と思う。

俺はだまって立ちつくしたまま、伸び放題のあたまに呆けたように手をやり、ため息をついてその手を下ろす。ひっぱたかれた右頬がじんと熱い。結構、痛いな。

でも、じゃあひめさんを《消した》のは誰なんだ……。

 水曜じゃない、水曜に寝かしつけられた火曜でもない、俺と一緒にいた木曜さんでもない、としたら、あとは金曜しかいない。

結局悪霊の不吉な予言通り、ひめさんの行方不明は悪霊の仕業ってことなのか?

わからない。俺は金曜のねむる部屋を眺め、静かに引き戸を閉める。階段を上がりながら思った。わからへん、どこを探せばいいのか。今だって俺は土と木の御魂を屋敷内にめぐらせ、生命の気配があれば全て報告してもらっている。でもどこにもいない。そんなことってあるか? 答えのない問題を解かされている気分だ。ひめさん、今度の課題は難しすぎるよ。

『またいつか、わからないことがあったら、ここに来なさい。私はいつでも答えるから』

 俺ははっとして顔を上げた。

ひめさんが言った言葉を思い出したのだ。

あの時は聞き流してたけど、今考えるとあの台詞はおかしい。俺は引き取られたばかりで、ひめさんと一緒に暮らすはずだった。

《わからないことがあったら、ここに来なさい》

 この台詞はまるで離れて暮らす人にいう言葉だ。自分がいなくなるのを察知してたみたいじゃないか。いや、自分がいなくなる事も実は予定に入ってた?!

『ここ』というのは擁護施設近くの地蔵祠だ。そこに何か手掛かりがあるかもしれない。

俺は1階から暗い階段を駆け上がる。

食堂から火曜が顔を出し、玄関から飛び出そうとする俺を驚いたように見た。何か言おうとした彼女に俺はしっと強く人さし指を立てる。スニーカーに足を突っ込み、自転車の鍵をポケットから出しながら、小声で言った。

「お願い、このことだまってて。すごく大事な用があるんだ」

 火曜は口をつぐみ、俺を大きな目で見つめてうなずく。

「ありがと、後でなんかお礼する」

俺は急いで玄関を飛び出した。階段を駆け下り、自転車を出す。最初に施設からこの屋敷へ来る時はタクシーを使った。だけど距離的にはそう遠くない。自転車で北へ上がって20分だ。

 焼けつくようなアスファルトの道を俺は走る。車道と歩道の区別がほとんどない京都の道路は整備はされていてもひどく狭く、自転車でフルスピード出すとかなり危ない。そして京都の車は総じて運転が荒い。何度も轢かれそうになって怒鳴られたし、北へは上り道なので汗だくになって足が痛んだ。

ひめさんが自身で地蔵祠に手紙を入れに来たとは考えにくい。だがひめさんが自分が消えることを予想していたとすれば何らかの手を打っていた可能性はある。

たどりついた地蔵祠は焼けつくような真夏の日差しの中にしんと立っていた。傍らの楠木からじわじわと蝉の声が降ってくる。

俺は自転車をとめ、腕で汗をぬぐった。いつもひめさんの手紙があったのは、地蔵祠の生花の横。近所のおばあさん方がお参りに来るし、いつ誰に先に見られてもおかしくないような場所なのに、誰も手をつけない。まるで誰にも見えてないみたいだ、と俺は思ったことがあった。

そこに、真っ白な便箋がある。

ちりん、とどこかの風鈴の音がした。一陣の風に便箋がかすかに揺れる。

俺はそっと手を伸ばした。ふるえる手で開く。

ひめさんの字だった。


『タクト君へ。

 ちょっとしたトラブルに遭い、当分帰れそうもありません。彼女達を助けてあげてください。それが貴方がそこにいる理由です。

kenjyagasyomotuwoyaburi,oborerumonokabewokiduku.

sisigakusarinitunagaresitoki

私は必ず戻ります。日野ひめ』


          ※     ※     ※


 白い砂利が夕闇に青く浮かび上がる。名残のような蝉の声が小さく聴こえている。

日も落ちた20時、5人で京都御苑に来たところだ。

ブーツか厚めの長靴でと木曜さんが皆に指定し、俺には通販でサイズを誤って買ったという真っ白な作業用長靴を貸してくれた。これ、どうしようもなくぶさいく……。

由比から金曜ストーカー説を聞いてからというもの、俺は金曜を意識してしまって弱る。それに水曜はずっと怒ってるみたいで俺の顔を見もしない。

皆の後ろを気まずげに歩いてると、木曜さんがそっとそばに寄って俺に囁いた。

「金曜本人は、悪霊が何を言ったか知らへんの。だからなんにも知らんふりしといたって、金曜のために」

 俺はおろおろ頷く。そ、そっか、本人は知らへんのか……。しかし声が好きって言ってたけど、好きなのは俺のパーツだけなんやろか。それとも俺本人も好きなんやろうか。聞きたい。でも聞けへん。悶々とする俺を笑って、木曜さんは説明してくれた。

「金曜は並はずれた感覚の持ち主やねん。声音が色になって見えて、相手のこころがわかってしまうんやて。せやけど、そんなんやから人の裏が見えてしもて、自分も喋れんなってしもたの。声を出すのが怖い、て。せやけど、貴方の声はすきなんやね」

 最後の言葉はしみじみとした声音になった。はあ、と俺はつぶやく。俺の声のどこがそんなに気に入ったんやろ。俺よからぬ事を考えてることやってあるんやけど。声音でこころが見えるんやったら、そのへんどうなんやろ。結局わからん……。

ま、いっか、声だけでも好かれてるんなら。嫌われるよりましだよな、と俺は水曜を盗み見る。だが鋭く振り返った水曜に睨まれてため息をついた。一度とはいえ疑ったんだから、嫌われてもしかたないけどさ。正直ツラい。

広い道には俺等以外に誰もいなかった。

夏休みとはいえ、この時間だと観光客の姿ももうない。京都の朝は早く、夜の店じまいもわりと早い。繁華街の四条河原町か祇園なら別だが、イベントでもない限り日が暮れたら人の波はすみやかにひけていく。

俺等は蛤御門から入り、南西へ向かってゆるやかに進む。砂利道を黙々と歩いた。

芝生の上に大きな楠木が枝を広げているあたりで、木曜さんが立ち止まる。広い道を隔てて向かい側には八重桜が植えられ、萩の茂みの下で小川が流れている。

「場所はこのあたりです」

 言葉すくなに言って水曜に目くばせする。水曜は頷いて鞄から写真を出した。

「依頼者のかたのペットを探すという依頼なんどす。このあたりでお散歩中、いなくなったそうですので」

 俺と火曜はポケットライトの光でその写真を覗き込む。

俺は思わずうぇと小さくうめいた。

「ペットって。これ、蠍やないですか」

毒針がある、確かに蠍だ。尾が太く、茶褐色をしている。

木曜さんは頷いた。

「これはオブトサソリ、通称デス・ストーカーです。大きさは親指大。攻撃的で猛毒を持ち、危険やから日本では輸入が禁止されている品種です。ちなみに抗サソリ毒血清の入手は、日本では困難。刺されると死ぬこともありますから気をつけて」

「気をつけてって……」

 下手したら本気で死ぬやん。俺はぼーぜんとした。誰やねん、輸入禁止されてるほど危険な蠍を飼って逃がしてしもた依頼人て。表ざたになったら逮捕されるんちゃうか。

極秘での探偵社営業、というのにも納得がいく。危ない橋を渡ってるわけだ。

 木曜さんも火曜も蠍と聞いても特に騒ぐ様子もなく長い黒手袋をはめている。水曜は俺にもひと組放って寄こす。

「防護手袋。気休めだがはめておけ」

 俺は言われるままに手袋をはめながら、しかし、と言った。

「親指大の蠍って、どうやって探すんですか、この広大な敷地内で」

「肉眼で探すにきまってる」

 火曜がそう言ってつけていためがねを外す。その瞳が琥珀いろにきらっと光った。ライトに当った瞳の中で、焦茶の瞳孔が細く絞られていく。……人間の眼じゃ、ない。

「火曜の視力は7.0あるからね。2、3キロ先までなら小さな物でも見える」

水曜がそう言ってガラスの虫籠を取り出す。持ってろ、と俺に渡した。投げるような渡し方に、受け取る俺は落としそうになった。確実にまだ怒ってる……。

「あのさ、もーうちょっと丁寧に渡してくれる?」

「なんでお前に丁寧にしなきゃなんないんだ」

 言いながら水曜は俺をぎろりと横目で睨んだ。ああああああ。

「だから……ごめんて! もう疑ってない」

 殴られてから水曜への疑いは消えた。そして施設近くの地蔵祠でひめさんの手紙を発見してから、俺は4姉妹を疑うのを完全にやめた。

ひめさんは4姉妹を助けろと書いてた。自分が行方不明になることまで予測していたらしいひめさんがそう書いているのだ。ひめさんがどこに消えたにせよ、4姉妹の悪意によるものではないのだと思う。今でもひめさんがあの手紙をどうやってあそこに置いたのか全くもって謎やけど。誰かに頼んだのかな。

ともかく、ひめさんが最初に俺に言ってた『してもらうことがある』っていうのは、彼女達が悪霊に悩んでるのを影ながらフォローしろ、ってことなんだろう。……と、思う。

「ごめん。この通り」

 俺は真面目に頭を下げた。

だが水曜はそっけなく顔を逸らす。

「どうだか」

「うち、先に行く」

揉めてると、火曜はふっと跳んで消える。そっか、1人ずつ探した方が効率がいい。

「でも、いま、夜……見にくくない?」

「蠍は夜行性。日中は石の下とかに隠れてるんどす」

 木曜さんがそう言って懐中電灯を取り出した。俺に1つ渡す。

「蠍はブラックライトを当てると蛍光色に光ります。これを当てながら探してください」

 なるほど、だから夜探すんだ。御所が24時間出入り自由でよかった、と俺は思った。

ブラックライトの青い光を芝生に当てていると、砂利を鳴らしながら地味な黒い車がゆっくりと近づいてきた。ほとんど自転車くらいのスピードで去っていく。

御所内では京都府警や皇宮警察の車が常に見回りをしているのである。

……女の子3人に男1人、まあ、そんなに怪しまれない、かな。

車を見送る俺をよそに、水曜は尼僧服の裾を翻して芝生の上に座った。

「私は網を張る」

 餌をまいて罠でも仕掛けるのかと思えば、違った。

水曜と向い合せに金曜も草の上に座り、2人で両手を合わせる。俺はぽかんとする。

「? ……遊んでるの?」

 馬鹿、と水曜が笑う。笑った顔、初めて見た。

「いいから見てろ。……っても、見えるかな?」

 金曜は俺を見上げてはにかんだように笑う。目を伏せる。

 水曜と金曜が合わせた手と手の間から青い光が生まれる。水曜が右手をそっと離す、とそこに光の網が見えた。蜘蛛の網に似ている。水曜はそれをそっとたぐる。最初はそっと少しだけ、そして次はぐっと掴んで強く放つ。地面と水平に放たれた光の網は、最初ぱっときらめくように青く明るく光り、それからところどころに光を明滅させながらさあっと拡がっていく。ほとんど地面が光っているように見える。

木曜さんはつばの広い帽子を被っていたが、ちょっとつばを持ち上げて様子を見る。

「よろしおす。5キロ圏内は張れました」

「今の、何?」

水曜は半ば眼を閉じて答えない。深く集中しているようだった。木曜さんは俺を横目で見て微笑む。

「タクトさんにも見えましたか。うちらは蜘蛛の巣って呼んでます。目標が何であれ、ひっかかればその箇所で鈴が鳴るんよ」

 俺は地面の上で微かに光っている網目に目を凝らした。よく見ると網目毎に1つずつ、小さな鈴がついているのだ。

「凄い……」

「うちらは地道に探しまひょ」

 木曜さんは俺に言って歩き出す。歩きながら教えてくれた。

「水曜だけではあの能力は発揮できません。金曜だけでも無理。あの子らは2人で1人。それがあんなことになってしもて」

「悪霊ですか……」

 木曜さんは黙って俺を見てうなずく。ライトの光が2つ、砂利の上で心細く揺れた。

俺は黙ってられなくなって言った。どうせ水曜にはばれてるし。

「実は昨晩、1階に忍び込みました。ひめさんを探そうと思って。であの悪霊と話しました。貴方の祖先に恨みのある、由比正雪って名乗ってたけど」

 木曜さんは契約違反ですよ、と咎めるような目で俺を見る。

「危ない、て言いましたのに」

「ごめんなさい。でもどういうことなのか知りたくて」

 仕方のないお人、と木曜さんはためいきをつく。

「うちら姉妹にかかわらんほうがええのに」

「でも、俺もきょうだいなんでしょ? かかわるなって方が無茶です」

 そう言うと木曜さんは黙って考え込むようだった。しばらく歩いた後、口を開く。

「由比正雪、あの悪霊はうちにもそう名乗りました。うちが甲賀者の家系や、いうのも確かです。代々直系が変な死に方するのも。両親も、うちが15の時揃って事故死してますし。せやけど祖先が由比はんの言うような裏切りをした証拠、というのは、調べても出てきやしまへん。どう判断していいのか」

 木曜さんはそう言いながらくちびるを噛んだ。

「うちには何の能力もないんよ。時々自分が情けのうなります」

「あんなスピードの持ち主に能力もないなんて言われたくないです」

 俺が即答したので、木曜さんは仕方なさそうに笑う。

「金曜や火曜とは次元がちゃいます。タクトさんも何か力をもったはるでしょ」

 俺は喉の奥で唸る。何かと変わってるこの4姉妹になら信じてもらえるだろうな、と今では思う。ひめさん以外見える人なんかないと思ってた御魂も、火曜には見えていた。

他の人にも意外と見えたりわかってもらえたり、するのかもしれない。あやしい宗教団体、とかでもなさそうだし。

「せやけど、無理して言うことありません。うち、待ってますから」

 木曜さんがにこっと笑う。

 そんな笑顔を見ると、自分がしょうもないことを隠してるようで情けなくなる。俺は手袋を脱ぐと、掌を上にして御魂を呼んだ。

「緑の御魂、出ておいで」

 ふわ、と拳大の光が浮かぶ。でもこれって木曜さんには見えないんやったっけ。

どうしよか、と俺は一瞬目を上げて悩み、近くの枯れかけた萩の木の傍にしゃがみこむ。

「中に入ってごらん」

 小声で言って息を吹きかける。御魂は俺の手の上で少し迷い、それから木の中に跳び込んでいく。ぼうっと木の葉が光った。萩の木全体が光りながらすきとおる。

「きれい」

木曜さんは驚いたように目を見張る。

俺はちょっと笑って手をさしのべ、もう一度呼びかける。

「戻っておいで」

緑の御魂はすぐに俺の掌の上に戻って来た。一旦俺の体の中に入った御魂は他の生体には入りたがらない。だが他の生体に入ると、その生体は輝き、失われた生命力を取り戻す。どういうわけか怪我とか病気も治るみたいだ。

 木曜さんは光を失った萩の木の葉におそるおそる触れた。

「みずみずし。先まで枯れてたのに。御魂って、言わはったね。それ、何なん?」

「精霊みたいなもんです。俺は体の中にいくつも飼ってる。さっきのは緑の御魂。この萩に入ってもろたんです」

 俺はありがとう、と御魂に言ってもとにもどそうとした。

しかし木曜さんは俺の手のひらの上を指さす。

「御魂って、それ?」

 え。

「その光ってるまあるいのん」

「見えてるんですか!???」

 俺は思わずあとじさった。てっきり見えない人だと。木曜さんは、あ、と口を手で押さえる。

「せや、最初会った時見えへんふりしてたんやった。えらいすんまへん。うち、けったいなもん見えてまうことが多いさかい、普段なんか見たらとりあえずなあんにも見えへんふりしてますねん」

 ……もっと早く言ってください……。

俺は手に御魂を載せたままとりあえずぐったりした。

 が、にこにこしていた木曜さんが突然鋭い眼になって耳を澄ます。

「鈴です」

 言うなり足元で砂利を蹴る音がしたかと思うと、小さく風が立つ。

隣を見た時には、そこに木曜さんの姿はなかった。前方に彼女の背中を見て俺ははっとする。彼女はもうとっくに走り出していたんだ。

ちょ、ちょっとめっちゃ速い!!!!

「先に行きます。建礼門の前へ来てください」

 遥か前方から思いだしたように振り向いた木曜さんが俺に一声かけてまた走り出す。

俺は慌てて走りだしながら、既に遠くなった木曜さんの背中を茫然と見つめる。ヒール履いてるんちゃうかったか、あの人! 

それに鈴の音って、俺には何にも聴こえへんかった。何その聴力!

忍者って聞いてほんま腑に落ちた。そうでなきゃありえない。

木曜さんの背中を見失わないよう俺は必死に追いかける。だがもう角を曲がって見えなくなってしまった。建礼門前へ来いって言ってはったぞ、確か! 

鈴が聴こえたってことは、水曜と金曜の《蜘蛛の巣》に探してた獲物がひっかかったっていうことだ。

 とりあえず走る。建礼門前にたどりつくと、砂利の上にライトを当ててしゃがみ込む4人の姿があった。

火曜ももう着いてる!

俺は息を切らして彼女たちのところへたどりつくと、4人に囲まれた獲物を覗き込む。

「見つかったんですか」

 答えは聴かなくてもわかった。細い光の糸に捕えられて鋏を振り上げながらもがいているのは、薄い茶色をした蠍だ。尾が太い。写真のと同じだ。

 水曜と火曜がしゃがんだまま俺を見返る。水曜がうなずく。

「こいつで間違いない」

 虫取り網とかないの? と俺がきょろきょろすると、木曜さんがクライエントの財産に傷をつけてはいけないので、と首を振った。網、ないんや。ほなどうやって獲るわけ!?

「うちが獲る」

火曜が端的に言ってためらいなく手を伸ばした。おい!! 手で……!

俺は咄嗟に止めようとしたが、木曜さんの方が速かった。

ぱしっと軽い音がして、木曜さんは火曜の手首を掴む。

「デスストーカーは大型動物も倒すんよ、火曜。甘く見たらあきまへん」

そうきびしく注意した木曜さんは、きっぱりと言い放つ。

「うちが獲ります」


          ※     ※     ※

 

応接間の窓からは朝の光が射し込む。大理石のテーブルの上で、蠍の入ったガラスの箱は午前の光を透いてつめたく輝いていた。

俺は暖炉前の椅子で5つめの欠伸を噛み殺す。午前10時、すがすがしいが俺は眠い。

依頼人さんが来はるから応接間にいて下さいと木曜さんに言われたので、待機している。

バイトに過ぎない俺が立ち会う必要あるのかな、と思ったけど、デスストーカーなる危険な蠍を飼ってた人物、というのを見てみたい気持もあった。

昨夜御所で蠍を捕獲してから、眠ろうと思ったがあまり寝ていない。欠伸ばかりしていたら、水曜が窓を閉めにやって来て呆れた顔をする。実は俺、昨晩は熊谷氏と徹夜でテレビを見ていたのだ。

テレビを見るのは初めてという熊谷氏のコメントが面白くて眠りそびれた。例えば動物特集番組を見ているだけでも、随所で話が食い違うのである。熊谷氏が豹をみて獅子だ! って盛り上がってるから何か変だと思い聞いてみたら、豹をライオンと勘違いしていたし。なんでも江戸時代の日本にライオンはいなかったらしい。物理的にいないから脳内想像で豹を雌ライオンだと思い込んでたらしいのだ。熊谷氏のそんな間違いを調べて指摘したり、中々信じないから図鑑を持ち出して説明したりしていたら、いつのまにか徹夜していた……。

木曜さんが入って来た。

「タクトさん、ねむそう」

「あ、いいえ」

 椅子の背もたれにだらっと凭れかかっていた俺はぴんと姿勢を正す。

「昨晩はお疲れどしたやろ。悪いな、思たんですが。お得意さんが来はりますから、うちらの新しい兄弟を紹介しよ思いまして」

……あ。

新しい兄弟、という言葉に俺は目が覚めた。バイトやし気楽に構えてたが、そうか、そういう位置づけがあった。

唐突にテーブルの上の電話が鳴った。2回コールしてすぐ切れる。

「ほら、おでまし」

 水曜が低く言って戸口へ出て行く。さっきのは来訪を告げる電話だったみたいだ。そういえば最初来た時、呼び鈴がないので来客はどうするのか、と思った。コール回数を決めてあるんだな。こうやって、電話番号と合図を知ってる人間だけを中に入れるようにしてるわけか……。

金曜は1階から出てこようとせず、火曜はどこかへ雲隠れしている。

水曜は1人の中年を連れて入ってくる。いかにもひと癖ありそうな人物だ。黒い帽子を目深にかぶっている。木曜さんは挨拶だけすると、お茶を、と言ってすぐに出て行った。

「ああ、見つかったんですね。よかった。料金はもう入金しておきましたよ」

依頼人は見つかった蠍をテーブルの上に見て頷いているが、ケージに近寄るでもない。実のところそんなに蠍に興味ありげな感じもないな……。

それよりも俺を見て鋭い眼つきになる。一体何や?

俺は座ったまま目をすがめた。水曜は依頼人の気を逸らすように話しかける。

「大切な蠍がいなくなって、心配なさったでしょう」

 うぇ。俺は目をむく。水曜がふつうの女みたいに丁寧に喋ってる。依頼人は水曜に話しかけられると途端に機嫌よくなり、猫撫で声で話しだす。

「いや、心配してないよ。実のところ君に会う為に依頼したんだ。それに君たちの依頼解決能力を信頼しているしね」

 げ。人がいる前で堂々と水曜口説くなよ……。同室にいながらにして空気状態の俺はどうしたらいいのだ。そして女口説くために毒蠍を公共の場所に放置するなよ。

つっこみたい事は多々あれどこいつは客だ。俺はとりあえず窓側に顔を逸らす。

「それで、彼は?」

白々しい声で俺を見て男が言うと、水曜はにこりと笑う。

「私たちの新しい兄弟です。これから一緒に暮らします」

 きょうだい、なんだそうか、と依頼人は空笑いする。

「ま、それなら問題ない。ところでこれから探偵社は長期休暇に入るんですって? いい機会です。水曜さん、前から言ってる通り、こんな物騒な商売は抜けてうちに来ませんか」

「はあ……」

 口説かれている水曜は困ったように俺を見た。俺にどうしろと。

「仕事なんかしなくていいんです。俺と結婚してくれれば、綺麗にしているだけでいいんですから」

結婚という台詞に、俺は椅子の背に載せていた顎を浮かした。一応仕事の話だとばかり思っていたのに、いきなり何の話が始まるんや。あのう俺ここにいるんですけど、見えてますか。

「すみませんが、私は尼僧ですから」

「まあそう言わず」

男はずいずい水曜に詰め寄っている。俺は椅子から腰を浮かしたが、水曜は若干引きながらも社交辞令的に笑って彼を受け流した。

「それはともかく、この間の霊薬はいかがでした?」

「……あ、ああ、君が特別サービスでかけてくれたあの魔法の水ね」

 ええ、と水曜はにこにこしている。霊薬と聞いて俺も耳をそばだてた。もしかしてあの猛毒、めるくりうすびたえのことじゃないだろうな。

 男は目深に被っていた帽子を脱いだ。まばらな頭髪が目に入る。ん?

「あれから髪がこころなしか薄く……」

 水曜はひどく曖昧な笑みを浮かべる。

「不老長寿になろうというんですから、髪など小さなことですわ」

 え。いや、それってどうなん!?

「それにそのあたま、とってもかわいい」

 水曜がにこにこする。

俺は何かをすごく突っ込みたかったが、とりあえず絶句した。依頼人氏も同じだったらしい。

髪なしの不老長寿より髪ありの普通の人生を選びたいと今日初めて具体的に思った俺。

いや、多分依頼人氏は不老長寿の霊薬なんてはなから信じてなかっただろうけど。水曜の魔法ごっこにつきあってあげたつもりやったんちゃうか。それがこの結果に……げに恐ろしきかな水曜。

 無言で固まる俺らに声をかけたのは銀盆を持った木曜さんだった。

「どうしました?」

依頼人氏はお茶を固辞してそそくさとケージを受け取り、出て行く。

また新作ができましたらお試しくださいね、あなただけの特別無料サービスですの、と水曜が手を振ると、彼はうれしそうに戸口で頷いた。……やつは、まだ騙されるつもりか。

木曜は帽子を脱いだ依頼人氏のあたまを見送って、眉をひそめた。

「あら、あのかた、髪が……また、いけずしたんちゃう、水曜」

「髪はもとから無い。私の大事な実験体に意地悪なんかいたしません」

 水曜はそう言って厳重なフードを脱ぎ始めた。

「実験体実験体て。おかしな薬を試すのはやめよし。あのかた、問題あるけど一応お客さまよ」

「嫌いじゃないよ、あの人。ちゃんと優しくしてる」

 俺はとりあえず黙っていた。

こないだ疑ったことを忘れてもらえそうな気配がようやく見えてきた頃だ。余計な口を挟んだら墓穴を掘る。

 水曜はフードを脱ぎ棄てて頭を振った。長い髪が肩の上に散らばる。

「暑い。でもこれ着てると言い寄られた時断りやすいしな」

「着てなくても断れる癖に。その服、ええかげんやめよし」

 水曜は舌を出す。

木曜さんは俺に珈琲をついでくれながら、仕方なさそうに説明する。

「このこ、尼僧院はもう卒業してますのに、尼僧服を着るのをやめませんの。確かにあのお客さん強引で、水曜をよく口説くんですけれど」

「嘘。これは願掛け。金曜が悪魔から解放されたらやめる」

 水曜は突然そう言った。

「金曜が助かるまで絶対恋愛しないんだ」

そう言って走り出していく。

見送る木曜さんは、あれを着てないと不安みたいねと呟いた。ふと手元に目を落とす。

「あの子たちが普通に暮らせるようになるのはいつのことなんやろ」

 金曜が悪霊にとりつかれてからというもの、水曜も火曜も、学校に通うのをやめてしまったのだと木曜さんは言った。まるで普通の女の子としての人生をあきらめたみたいに。

「あの子たちの学費を稼ごうと思って始めたこの稼業です。危ない稼業やし、うちはともかく妹らは将来別の仕事に、と思っていました。せやから学校へ行けとは、いっているんどす。……それはともかく、今日はひめさんの捜索にゆきますね」

 木曜さんの声を聴きながら、俺は水曜が出て行ったドアをじっと見つめる。

普通の女の子に戻った水曜を見てみたいような気がした。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ