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短編小説

ホタル飛ばしの夜

作者: うわの空

「あのう、すんません」


 後ろから、あるいは茂みから。低く、掠れた声が聞こえた。よもやわたしに話しかけている訳ではなかろう、と思いながらも振り返る。けれども、わたしの背後に立っている青年は、きちんとわたしを見据えていた。


「……わたしに、話しかけましたか」

「うん。他に誰もおらんと思うけど」

「…………」


 会話が、成立した。

 話せた。人と。……何年振りの感覚だろう。わたしはまだ、人語を操れているのか。もう消失してしまったかと思っていた。

 急に現れた青年のことをまじまじと見る。前歯の隙間が少し目立つ笑顔。いやそれよりも、腕と脚を露出させたその格好だ。この時期に。頭が弱いのだろうか。それとも、やぶ蚊の餌食になりにきたのか?


「あのー、すんません」

「……なんでしょう」

「この辺に、ホタルおらんかなあ?」


 細い腕を搔きながら、青年。その肌は若干赤みを帯びている。だから、その恰好ではだめなのだ。

 独特の訛りからかんがみるに、この近辺の子供ではないのだろう。大体、近隣に住む人間は、この川辺にはあまり来ない。


「……あなたは、ホタルの活動時期を知っているのですか」

「夏やないんか」

「初夏です。六月頃」


 わたしの言葉に、青年は目を丸くした。ビー玉のような目のすぐ近くを、つうっと汗が伝っていく。

 八月。この時期にはもう、ホタルなぞいない。流れる水音と、じいじいと鳴く虫の声だけが、あたりを包んでいる。


「……おかしいな、暑い時期やと思ってたんやが」


 青年は肩で頬を拭う仕草をし、近くを飛ぶ蚊を手で追い払った。

 ……そうか、最近の子供はホタルを見れる時期すら知らないのか。だから、この川に集まる人々は年々減っているのだな。少し、合点がいった。

 わたしはそっと、青年の顔を覗き見た。子供と、大人の間だ。このくらいの年の人間でも、ホタルに興味を持つのか。近年の人間たちは青白く光る板を片手に、こちらも見ずどこかへ行ってしまうことが多い。それがわざわざ、ホタルを見に来たなんて。

 ――珍しいひとだ。もう少し、話せるだろうか。


「あなたは」

「ん?」

「ホタルを、見たことがない?」


 こくり、と青年が頷いた。


「うちの近所はきったない川ばっかでな。亀はおってもホタルはおらんわ。この川には昔、ホタルがぎょーさんおったって、親戚のおばちゃんが言うてたから来てみたんやが」


 足元に落ちている花火の残骸を拾いあげ、青年は苦笑した。


「こらもう、期待できそうにないな」

「…………」


 確かにこの川は、年々その水を苦くしている。今はまだ少数のホタルが活動できているが、あと数年もすれば、ホタルの住めない環境になってしまうだろう。

 ひょろりとした青年は、わたしの存在をいぶかしがる様子すら見せない。純朴なひとなのだろう。月明りを頼りにゴミ拾いまではじめた青年を見ている、わたしのほうが悲しくなってくる。

 彼に、ホタルを見せてやりたかった。


「あなた」

「ん?」

「……来年、またこちらに来ますか」


 青年は、かぶりをふった。


「亡くなった爺ちゃん婆ちゃんの家――あ、こっから割と近いんやけど、そこの土地を今年中に売り払うんや。この近くに住んでる親戚もおらんし、来年わざわざこっちに来ることはもうないやろな」

「……そう、ですか」


 もう、会えぬのか。

 青年は持ち合わせていたらしい透明な袋に、拾ったごみを入れている。その細い腕は、先ほどよりもどこかたくましく見えた。わたしとは違う体つき。人間の男だ、と改めて思う。

 ……二度と会えぬなら、土産くらい持たせてもいいだろう。


「あなた」

「なんやー?」

「まだ、時間はありますか」


 わたしの言葉に、青年は顔をあげた。


「あるよ、学生やけどヒマやし」

「……では。よければ少し、わたしと歩きませんか」


 青年はまた、目を大きくしてみせた。わたしはできるだけ、人間に近い笑顔をつくる。


「この時期でもまだホタルの飛んでいる場所を……実は、知っているんです」




 明滅する黄緑色の光に、青年は子供のように喜んだ。


「すごい! ほんまに光っとる!」


 暗闇を悠然と飛んでいく淡い光は、ぜんぶあわせても五つほどしかない。どれも弱く、小さな光だった。彼は本当に、本物のホタルを知らないのだと思う。ホタルを見たことのある人間ならば、この程度の光では喜ばない。

 夢中でホタルを指さす彼のとなりで、わたしはそうっとホタルをつくる。

 去年、わたしのとなりで花火をしていた親子の会話。肉を焼き、酒を飲んでいた大人たちの笑顔。忙しそうな顔をして通り過ぎていった若者。

 ――大したことのない思い出は、小さくひ弱なホタルになる。それを少しずつ、青年に気づかれぬよう、夜の空へと飛ばしていく。

 青年はしばらくホタルばかりを眺めていたが、やがてわたしに顔を向けた。


「ほんまに綺麗やな。なあ、あれがなんちゅう種類のホタルか分かるんか?」

「……ゲンジボタル」


 そう言い切るには多少の勇気が必要だった。ゲンジボタルにしては光が弱い、そう言われてもおかしくない程度に、わたしのつくるホタルはどれもこれも弱々しい。

 けれども彼は、そんなこと、まるで気にならなかったようだ。


「あれがゲンジかあ。なんか、呼吸に合わせて光ってるみたいやな。息を吸うタイミングで光ってるんかな、あれ」

「……さあ、そこまでは」

「お、一匹こっちに来たぞ!」


 青年は向かってくる光に向かって、そっと手を伸ばした。そこにちょうど、わたしのつくったホタルがとまる。


「うわー、サービス精神旺盛なやっちゃ! 思ったより小っこいなあ」


 ホタルの光がうっすらと、彼の笑顔を照らす。その横顔を、わたしは見つめる。

 うつくしい笑顔だった。

 ……このまま汚されなければいいのに、と思う。

 人間は大人になるほど、そのかんばせが変わっていく。この川のように、甘さを失くしていく。わたしはそれを知っていた。この青年がいつか、こうやって笑えなくなる可能性も、確率も。わたしは誰より、知っていた。

 ――どうか、彼が世界に冒されぬよう。


「ところで、この辺で夏祭りでもやってんのか?」


 数匹のホタルが飛ぶ空間で、青年がふと、そう言った。何故ですか、とわたしは返す。


「姉ちゃん、浴衣着てるから。盆祭りはまだ先やと思うが」

「…………」


 ふわりと、一匹のホタルがわたしたちの間を横切る。わたしはその光に合わせて、青年から目を逸らした。


「あんた、この辺に住んでる人やんな? 危ないから帰りは送ってくで。そうや、ええもん見せてくれたお礼に、ジュースでも奢らせてえな」

「…………」

「あ、そうや、名前。まだ言ってないし訊いてなかったな。俺は――」

「言わないで」

 

 口を開いたまま、きょとんとした顔で。彼がこちらを見る。


「……あなたの名を教えてもらっても、わたしにはかえせるものがありません」


 呼吸をするように明滅するホタルが、わたしの身体を静かにすり抜けていった。




 夕方までしとしとと降っていた雨がやみ、ねっとりとした空気に包まれた夜。数匹のホタルが舞う空に、わたしは自分のものをそっと紛れ込ませた。ほわほわと漂う光は、本物のそれに比べればやはり弱い。

 ひとつ、ひとつ。わたしは丁寧に、ホタルを飛ばす。自分の中身が剥がれ落ちる感覚を、何年も何十年も何百年も何千年でも、繰り返す。


「――すんません」


 かさりと音を立て、わたしの背後で草が潰れた。振り返れば、ほんの少し大人びた、見覚えのある顔。


「……今年はちゃんと、この季節に来たんですね」

「俺を、まだ覚えてるんか」


 その一言で、わたしは「正体を知られた」のだと悟る。頷き、ふっと笑ってやった。


「去年の八月、頭の悪そうな恰好で来たひと」

「せやから今年は完全防備やろ」


 できる限り肌の露出をおさえている彼からは、虫よけのにおいがしない。まれに、ホタルを見に来た人間の中に、香草のような酷い香りのする者がいる。ホタルが虫だとも気づかず、虫に嫌われる香りを纏った人間が。一見頭の悪そうな青年だが、そこはわきまえていたようだ。

 青年はわたしのとなりに来ると、草藪をそっと覗き込んだ。そこで休んでいるホタルを手で覆うようにして、小さな光を楽しむ。


「ホタル、今年もおるな」

「……ええ。おかげさまで」

「これぜんぶ、ゲンジボタルか?」

「…………」

「それともこれは、お前の『記憶』か?」


 大きな手で囲われていた緑の光が、ふわりと暗い宙を舞った。




【ホタル飛ばし】

 川辺に棲む、人の形をしたあやかし。大抵は女型である。

 自身の持つ『人間に関する記憶』を『ホタル』に変えて飛ばすちからを持つ。ホタルの形状はゲンジボタルに似ており、本物のゲンジボタルに【ホタル飛ばし】のホタルが混ざっていても、人間はまず判別できない。

 通常のゲンジボタル(成虫)の寿命が一~二週間なのに対し、【ホタル飛ばし】のつくったホタルは一晩しか生きられない。光の強さは、記憶の「重要さ」「大切さ」に比例する。【ホタル飛ばし】にとって大切な記憶ほど、ホタルに変えたとき強い光を放つ。

【ホタル飛ばし】のつくったホタルは、朝日を浴びると死ぬ。また、つくったホタルが死ぬと、ホタルに変えた記憶そのものも【ホタル飛ばし】からは消えてしまう。ただ、「忘れてしまった」ことだけは、【ホタル飛ばし】も覚えていることが多い。

 元来寂しがり屋の妖で、特別いたずらはしない。ホタルをつくって飛ばすのも、「ホタル見たさに人間が川辺に集まる」ことを理解しているためである。ホタルの多い場所ほど人間たちとの思い出が増えるため、【ホタル飛ばし】がホタルをつくりやすい環境になる。

 記憶をすぐにホタルに変えてしまうため、物忘れの大変激しい妖である。




「……最後の行が余計ですね。悪意すら感じます」


 彼の持ってきた古そうな本。表題には「妖怪大辞典」とある。中を開けば幼稚な文章が目立つが、あながち間違いではなかった。……最後の一言が本当に、余計ではあるが。


「去年、俺が見たホタルはぜんぶ、あんたの記憶やったんやな?」


 わたしは頷く。飛ばしてしまったため、それが「なんの記憶だったか」までは定かでないが、彼のためにいくらかの記憶をホタルに変えたのは間違いない。わたしにとってはどうでもいい記憶であったため、ひどく小さなホタルしかつくれなかった覚えもある。


「なんで、俺のためにホタルを飛ばしてくれたんや?」


 青年の言葉に、わたしはくすりと笑う。

 ――鈍いな、人間。

 心の隅で、そう思う。


「……あなたが、ホタルを見たがっていたので」

「ほっといても来年以降、どっかの川で見るやろうとは思わんかったんか? なんで、わざわざ自分の記憶をなくしてまで」

「わたしにとって」


 青年の声を遮り、わたしは言う。


「わたしにとって、記憶を飛ばすのは『なんでもないこと』です。【ホタル飛ばし】は……いつだってそうやって、夏を過ごしてきた」


 ひと夏で思い出をつくり、翌年、その記憶を光に変え。

 その光に引き寄せられた子供たちと新しい思い出をつくって、それをまた飛ばして。

 つくって、なくして、つくって、なくして。

 自分がなくすことだけを鮮明に覚えたまま、この世界に棲み続ける。

【ホタル飛ばし】は他のどの妖よりも――虚無で不毛だ。


「それでも……俺の記憶ことは、まだ飛ばしてないんやな」


 鈍いながらも嬉しそうに、青年は言う。偶然です、とわたしは返す。


「まだ、飛ばしていないだけ。いずれ飛ばします。記憶を持ち続けることに、わたしは必要性を感じない」

「そう言わんと、もうちょい残しといてくれへんか。来年もまた来るから」


 予想外の言葉に、わたしは青年の顔を見る。へらり。青年が笑う。


「……もう来ないだろうと、去年あなたが」

「寂しがりなんやろ」


 妖怪大辞典の一行を青年が指さす。『元来寂しがり屋の妖で、特別いたずらはしない』


「この川、ぜんぜん人来てないやん。なのにお前はずーっと一人でここにおる。去年も今年も」

「……【ホタル飛ばし】は、生まれた川から離れないので」

「じゃ、来年も再来年もおるんやろ。――なら、俺もまた来る。約束や」


 青年が笑顔で小指を立てる。わたしは、小指を絡めたりはしない。妖と人間は決して触れ合えない。たとえ、人間にわたしの姿が見えていたとしても。

 青年は気分を害さなかったのか、笑顔のままで「そうかあ」とだけ呟いた。どういう意味の納得なのかはよく分からない。

 青年は、どこまでも軽い口調で続けた。


「そや、名前や名前。お前もしかして、自分の名前も飛ばしてしもたんちゃうか」

「……わたしにはもとより、名などありません」

「誰かが昔、つけてくれてたかもしれんやろ」

「……覚えてないですね」


 じゃあ、と青年。嫌な予感。


「俺が名前を」

「なりません」


 ぴしゃり。叩くように言ったわたしに、青年は仔犬のような目を向ける。けれども、許すわけにはいかない。


「妖に、名をつけてはなりません」

「なんでや」

「それが主従契約となるからです。契約を結べば、わたしはあなたが死ぬまで従いますし、あなたが幸せになれるよう尽力します。けれどもあなたは、契約の代償として余命の半分を失うことになる。……長生きしたければ、妖に名をつけてはなりません」


 わたしの説明を聞いた青年は少し難しい顔をして、


「長生き、せんでもええんやけど」

「…………」


 睨んでやると、それ以上なにも言わなくなった。

 ただもう一度、「そうかあ」とだけ呟いた。




 少し、肌寒い夜だった。湿気もまだそれほど強くなく、虫たちはその息をひそめている。

 誰かを引き寄せるためのホタルを、わたしはまだ、飛ばさない。

 もう少し、もう少しだけ。

 かさり、と背後で草を踏む音。毎年心待ちにしているその音は、例年よりも少しだけ、力がなかった。


「――……よっこらしょ。あーよかった、ここにたどり着くまでに迷子になるかと思ったで」

「今年は少し……早かったですね」


 振り返らず、言う。「そうやなあ」と彼は笑う。


「今晩がええかと思ってな。来てしもた」

「……そうですか」

「どや、一匹くらいはおらんか?」


 わたしは首を振る。ホタルなんて一匹もいやしない。そんなの、彼だって分かりきっていただろう。

 煙草の吸殻、空になった弁当の容器。生き物が腐敗したにおい。汚れた川に、ホタルは住めない。

 ホタルがここから姿を消して、三十年は経った。ひとが来ることもない死んだ川辺で、わたしはひっそり座り続けている。当然、思い出など増えやしない。

 ただ。そんな場所に。

 彼は毎年、訪れた。


「これでは、あなたが妖のようですね」

「ほんまやな。子供が泣いて逃げていきそうや」


 がっはっは、と豪快に笑う。その息がきれていることにわたしは気づいて、けれど何も言わなかった。

 言えなかった。

 ――今年は来ないかもしれない。そう思いながらも毎年、となりに「誰か」が座れるよう配慮している自分がいる。彼もそんなわたしに気づいていて、けれど何も言わない。当然のようなそぶりで、いつもわたしのとなりに腰掛ける。そして、前を見る。

 以前はゲンジホタルを、あるいはわたしの飛ばしたホタルを見ていた。

 今は、見るに堪えない姿となった川だけを、ただただ眺めて過ごしている。


「ホタル、なかなか見れんようになったらしいな。この前ニュースでやってたわ」

「……そうですか」

「本物のホタルがおらんくなってしもたら、お前もホタルを飛ばしにくいやろ」

「それ以前に、飛ばせる記憶ホタルがほとんどありません。……こんな、ドブのような川に。遊びに来る物好きはめったといませんから」

「それは言えてるな」


 彼が笑う。その横顔を覗き見る。

 そこにいるのは青年ではなく、壮年の男性でもなく、ただの老人だった。

 皺だらけの顔。痩せた身体。なくなってしまった前歯。

 ――……これだから、人間は。


「……いつまで来れるのかと思っていたら」

「ん? なんや?」

「あなたには……契りを結んだひとがいるでしょう。そのひととの間にできた子も。孫だって」

「おるなあ。嫁に関しては『おった』やけどな。あいつ、せっかちやから先に逝ってしもて」

「……浮気ですよ、これは」


 とがめるように、言う。彼は昔のようにきょとんとしたあと、やはり豪快に笑った。


「そうかもしれんな。プラトニックいうやっちゃで」

「ぷら……?」

「なんやろな。ただ……約束を守りたかったんかなあ」

「……古い、話を」


 笑ってみる。けれど、彼のようにうまくは笑えなかった。

 彼は、何もない空間をただただ見つめている。かつて、そこにはホタルがいた。ゲンジボタルが。あるいはわたしの飛ばしたホタルが、いた。


「――もっかい、見たかったなあ」


 零れるように言った、その言葉は確かに聞こえた。

 見たいと、彼がそう言うのなら。


「…………飛ばしましょうか」


 意を決して、言う。彼がこちらを見たのが分かった。


「飛ばしましょうか、……ホタル」


 わたしの言わんとしていることを察したのだろう。彼は困ったように口角をあげた。


「飛ばすって……それ、俺との記憶ちゃうんか」

「…………」

「そらぁ困るで。来年俺がここに来た時、『どちらさん?』ってなるんやろ。そーれは嫌やなあ」

「来れないでしょう」


 足元に目を落とす。丸い石が転がっているのが見えた。


「あなたにはもう、来年が。……ないんでしょう」


 本人は知らない話、かもしれなかった。

 けれども彼は、わたしの言葉を否定しなかった。


「……そういうのまで、わかるんか」

「妖は。あなたたちの何倍も、何十倍も、何百倍も、この世界に棲んでいるんです。……『それ』くらい、見ればわかります」

「物忘れの激しい妖のはずやのになあ」

「馬鹿にしないでください」


 笑う。この記憶も、明日の朝にはもうないだろう。

 ――これが、わたしたちにとって。正しい結末、ならば。

 そうっと、自分の中にある記憶を掴む。彼が、この河原で転んだ記憶。四十三年前。あの頃はまだ、本物のホタルも飛んでいた。

 掴んだ記憶を、そっと手放す。ホタルが一匹、私の手のひらから闇夜へ飛び立つ。


「……えらい、懐かしい記憶やな」

「わかるんですか」

「わかるなあ。俺が転んだ時やからー……四十年くらい前か? まだ覚えてたんか、こんなん」


 そうか。わたしと同じ記憶を持つ者ならば、『どの記憶をホタルに変えたか』までわかるのか。初めて知った。いや、知ったことすら忘れていたのかもしれない。わたしは記憶を保持することに、ひどく無頓着だったのだから。

 ふわふわと綿毛のように飛ぶ一匹のホタルは、いつか彼に見せたホタルよりも力強く光っている。その理由を、彼は覚えているだろうか。意味に、気づいているのだろうか。


「……今晩が、最後のホタルですから」


 二匹目を、空へと放つ。三十五年前。泥酔しながらも、彼がここへやって来た記憶。


「あなたの中に、残りますよう」


 ――わたしが、忘れてしまっても。


 ひとつ、ひとつ。わたしは丁寧に、ホタルを飛ばす。

 五十二年前。家族ができたのだと報告にきた彼。

 四十五年前。わたしのためにと、どら焼きを買って来た彼。

 三十八年前。ホタルを探しながらも、懸命にゴミ拾いをする彼。

 ――自分の中身が剥がれ落ちる感覚。幾年も繰り返したそれは、いつからかくも胸を締め付けるようになったか。

 目を閉じ、耳を塞ぎ、記憶をちぎっては空にかえす。その行為を、わたしは繰り返す。

 たった一晩。彼の笑顔が見たいがために。

 限られた空間を、たくさんのホタルが飛び交う。数えきれない光。それほどに、わたしは彼との記憶を持ち続けていたのだと気付く。そしてそれを今、捨ててしまったことも。

 強い光を放つのは、彼が初めてここに来た時の記憶か。今見れば、彼はまだ幼い子供だった。細い腕を掻きむしりながら、ホタルはいないかとわたしに話しかけてきた日。すべてのはじまりは、眼前で強く光り続けている。

 彼が何を思っているのか。どの記憶を見ているのか。その横顔からでは何ひとつ分からなかった。


 残りわずかとなった記憶を、わたしは掴もうとする。

 ……次はどれを飛ばす。

 彼の名か。彼の姿か。彼の声か。

 わたしに、名をつけようとしてくれた時のことか。

 ――約束。


『来年も再来年もおるんやろ。――なら、俺もまた来る。約束や』



「……う、っく」


 ひとのように。

 顔をゆがめてしゃくりあげたのは、初めてだったと、思う。

 ホタルをつくっていた手で顔を覆う。指の隙間から雫がこぼれた。どうすればいいのかもわからず、両目を強くこすってみる。涙は止まらない。泣きじゃくるわたしの周囲をホタルが――もう二度と取り戻せない記憶が、光とともに飛んでいく。

 彼がこちらを見て、手を伸ばし、けれども引き込めた。

 約束したあの日も今夜も。

 触れることすら、かなわない。

 ――人間ならば、「せめて最後に」と言うのだろう。

 好きだ、と。

 そう、言うのだろう。

 けれども妖は、その言葉を持たない。人間相手に恋愛感情など、本来ならば持ちえない。

 ――……最後に。

 最後に、本心を言ってもいいのなら。

 ――わたしは。


「……わすれたくありません」


 わたし、は。


「忘れたくない……!」


 ――彼の名を、彼の姿を、彼の声を。

 約束を。

 ホタルに変えたなら、それはどれほど美しかっただろうか。

 近く旅立つこの人に、どれほどの土産を持たせることができただろう。

 はなむけにホタルを見せて、わたしは彼を、綺麗に忘れて。

 淡い物語にふさわしい、その終わり方を。

 ――……わたしは何故、拒否するか。


 彼が消えたその時に、彼のすべてを忘れていたなら。

 それはどれだけ、楽な未来だろう。

 ……期待することもなく。

 夏が近づく度、自分のとなりに誰かが座れるよう気を配る必要もなければ。

 背後の草が揺れる度、背筋をのばすこともない。

 わたしはまた、ただの妖となって、記憶を飛ばし続けるだけ。

 何も持たぬ己におびえることもなく、この世に棲み続けるだけ。

 ――すべてを忘れる。それが正しい選択だと。楽な未来だと。

 わかって、いるのに。


「忘れたくない……っ」


 口が、頭が。駄々をこねる。人間のように。

 彼はしばらく黙ったままで、わたしを見ているようだった。わたしは顔もあげられず、目も合わせられず、ただただ泣いた。稚児のように。

 飛ばしたホタルは戻らない。朝になればわたしは、彼との思い出のほとんどを消失してしまうだろう。彼と会うのも今夜が最後。わかっている。笑うべきだとは、わかっている。しかし一向に、口も頭も両目すらも、わたしの言うことを聞いてはくれなかった。


「……あの、な」


 少しずつ、終わりの朝が近づく中。

 どこか不明瞭な声で、彼が言った。


「最後にっちゅうか……最後やからいうか。渡したいもんがあるんや、お前に」

「…………?」

「名前」


 その言葉に、顔を上げる。

 微笑む彼が、そこにいた。


「名前を。受け取ってはもらえんやろか」

「……なま、え?」


 驚いたひょうしに、ぱたりと涙が地面に落ちた。

 彼はホタルを見ることも、川を見ることもせず、真摯な目でわたしを見据えている。

 名前。わたしの――わたし、に?


「ずうっと考えてたんや。出会った時からずっと。お前にぴったりな名前はなんやろなあって」

「……しかし」

「分かっとる。余命の半分、やろ。……せやけどもう、俺は充分長生きしたと思うとる。もう、充分や」

「…………」

「せやからどうか、最後に、老い先短いジジイのわがままを聞いてはくれんやろか。主従とか契約とか、そういうのは要らんのや。ただ、名前を渡したい。……受け取った後は、好きにしてくれて構わん。持ち続けても、ホタルにしてもええ。ただ、今。この瞬間だけでも、どうか受け取ってはくれんやろうか」


 ふわふわと。無数の思い出が飛ぶ中で、彼が笑う。

 それはあの日の、穢れを知らぬ青年と同じ顔で。

 わたしは笑おうと目を細め、やっぱり涙がこぼれて落ちた。


「……浮気、ですよ。これは」

「そうかもしれんなあ。我ながら、悪いやっちゃで」


 彼の笑顔がこちらに近づく。

 ホタルの舞う空。接吻すらできそうなその距離で。

 彼はわたしに。


「お前の、名前は――」


 新しいホタルをひとつ、くれた。




     *


「……いねーじゃん」

「いるって言ってたんだよ、ほんとに」


 月の見えない空の下、少年ふたりが喧嘩を始めた。赤いTシャツ、青いタンクトップ。湿度の高い空気がふたりを包み、それが不快感を強めている。


「誰が言ってたんだよ、そんなの」

「ひいひいおじいちゃんが言ってたって、おじいちゃんが言ってたもん」


 少年はそう言いながらも、Tシャツからのびた自身の腕をぱちんとたたく。ぷうん、と煩わしい音を立てて逃げていく虫。それを見たもうひとりの少年が、面倒くさげに呟いた。


「さっきから蚊ばっかり。絶対いねーよ、こんな干からびた川に。天然記念物か都市伝説なんじゃねーの、光る虫なんて」

「でも、ひいひいおじいちゃんが」

「お前のひいひい爺さんなんざ知らねーよ。帰ってゲームしようぜ」


 タンクトップの少年は吐き捨てるようにそう言うと、ずんずんと前へ進みだした。Tシャツ姿の少年が、納得のいかない面持ちで川を――水の流れていた形跡だけが残る土地を、振り返る。


「いるって言ってた。ホタルって虫と一緒に」


 縋るような表情で、藪に向かってぽつりと発する。


「確か、名前は――――」

 


 甘さも枯れた、その場所で。

 淡い光が、ひとつだけ。

 ふわりと飛んで、闇夜に消えた。



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― 新着の感想 ―
[一言] すいません、語彙力が無いので一言だけ。 とても綺麗でした。
[良い点] 綺麗で切なくて、泣いてしまいました。
[一言] とっても幻想的な、素敵なお話でした。 なんだか心がふわふわしました…。 私の語彙力では感想がうまく伝えられませんが、こんなお話を考えられるのが、とても羨ましいです!
2017/09/12 20:04 退会済み
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