ホタル飛ばしの夜
「あのう、すんません」
後ろから、あるいは茂みから。低く、掠れた声が聞こえた。よもやわたしに話しかけている訳ではなかろう、と思いながらも振り返る。けれども、わたしの背後に立っている青年は、きちんとわたしを見据えていた。
「……わたしに、話しかけましたか」
「うん。他に誰もおらんと思うけど」
「…………」
会話が、成立した。
話せた。人と。……何年振りの感覚だろう。わたしはまだ、人語を操れているのか。もう消失してしまったかと思っていた。
急に現れた青年のことをまじまじと見る。前歯の隙間が少し目立つ笑顔。いやそれよりも、腕と脚を露出させたその格好だ。この時期に。頭が弱いのだろうか。それとも、やぶ蚊の餌食になりにきたのか?
「あのー、すんません」
「……なんでしょう」
「この辺に、ホタルおらんかなあ?」
細い腕を搔きながら、青年。その肌は若干赤みを帯びている。だから、その恰好ではだめなのだ。
独特の訛りから鑑みるに、この近辺の子供ではないのだろう。大体、近隣に住む人間は、この川辺にはあまり来ない。
「……あなたは、ホタルの活動時期を知っているのですか」
「夏やないんか」
「初夏です。六月頃」
わたしの言葉に、青年は目を丸くした。ビー玉のような目のすぐ近くを、つうっと汗が伝っていく。
八月。この時期にはもう、ホタルなぞいない。流れる水音と、じいじいと鳴く虫の声だけが、あたりを包んでいる。
「……おかしいな、暑い時期やと思ってたんやが」
青年は肩で頬を拭う仕草をし、近くを飛ぶ蚊を手で追い払った。
……そうか、最近の子供はホタルを見れる時期すら知らないのか。だから、この川に集まる人々は年々減っているのだな。少し、合点がいった。
わたしはそっと、青年の顔を覗き見た。子供と、大人の間だ。このくらいの年の人間でも、ホタルに興味を持つのか。近年の人間たちは青白く光る板を片手に、こちらも見ずどこかへ行ってしまうことが多い。それがわざわざ、ホタルを見に来たなんて。
――珍しいひとだ。もう少し、話せるだろうか。
「あなたは」
「ん?」
「ホタルを、見たことがない?」
こくり、と青年が頷いた。
「うちの近所はきったない川ばっかでな。亀はおってもホタルはおらんわ。この川には昔、ホタルがぎょーさんおったって、親戚のおばちゃんが言うてたから来てみたんやが」
足元に落ちている花火の残骸を拾いあげ、青年は苦笑した。
「こらもう、期待できそうにないな」
「…………」
確かにこの川は、年々その水を苦くしている。今はまだ少数のホタルが活動できているが、あと数年もすれば、ホタルの住めない環境になってしまうだろう。
ひょろりとした青年は、わたしの存在をいぶかしがる様子すら見せない。純朴なひとなのだろう。月明りを頼りにゴミ拾いまではじめた青年を見ている、わたしのほうが悲しくなってくる。
彼に、ホタルを見せてやりたかった。
「あなた」
「ん?」
「……来年、またこちらに来ますか」
青年は、かぶりをふった。
「亡くなった爺ちゃん婆ちゃんの家――あ、こっから割と近いんやけど、そこの土地を今年中に売り払うんや。この近くに住んでる親戚もおらんし、来年わざわざこっちに来ることはもうないやろな」
「……そう、ですか」
もう、会えぬのか。
青年は持ち合わせていたらしい透明な袋に、拾ったごみを入れている。その細い腕は、先ほどよりもどこかたくましく見えた。わたしとは違う体つき。人間の男だ、と改めて思う。
……二度と会えぬなら、土産くらい持たせてもいいだろう。
「あなた」
「なんやー?」
「まだ、時間はありますか」
わたしの言葉に、青年は顔をあげた。
「あるよ、学生やけどヒマやし」
「……では。よければ少し、わたしと歩きませんか」
青年はまた、目を大きくしてみせた。わたしはできるだけ、人間に近い笑顔をつくる。
「この時期でもまだホタルの飛んでいる場所を……実は、知っているんです」
明滅する黄緑色の光に、青年は子供のように喜んだ。
「すごい! ほんまに光っとる!」
暗闇を悠然と飛んでいく淡い光は、ぜんぶあわせても五つほどしかない。どれも弱く、小さな光だった。彼は本当に、本物のホタルを知らないのだと思う。ホタルを見たことのある人間ならば、この程度の光では喜ばない。
夢中でホタルを指さす彼のとなりで、わたしはそうっとホタルをつくる。
去年、わたしのとなりで花火をしていた親子の会話。肉を焼き、酒を飲んでいた大人たちの笑顔。忙しそうな顔をして通り過ぎていった若者。
――大したことのない思い出は、小さくひ弱なホタルになる。それを少しずつ、青年に気づかれぬよう、夜の空へと飛ばしていく。
青年はしばらくホタルばかりを眺めていたが、やがてわたしに顔を向けた。
「ほんまに綺麗やな。なあ、あれがなんちゅう種類のホタルか分かるんか?」
「……ゲンジボタル」
そう言い切るには多少の勇気が必要だった。ゲンジボタルにしては光が弱い、そう言われてもおかしくない程度に、わたしのつくるホタルはどれもこれも弱々しい。
けれども彼は、そんなこと、まるで気にならなかったようだ。
「あれがゲンジかあ。なんか、呼吸に合わせて光ってるみたいやな。息を吸うタイミングで光ってるんかな、あれ」
「……さあ、そこまでは」
「お、一匹こっちに来たぞ!」
青年は向かってくる光に向かって、そっと手を伸ばした。そこにちょうど、わたしのつくったホタルがとまる。
「うわー、サービス精神旺盛なやっちゃ! 思ったより小っこいなあ」
ホタルの光がうっすらと、彼の笑顔を照らす。その横顔を、わたしは見つめる。
うつくしい笑顔だった。
……このまま汚されなければいいのに、と思う。
人間は大人になるほど、そのかんばせが変わっていく。この川のように、甘さを失くしていく。わたしはそれを知っていた。この青年がいつか、こうやって笑えなくなる可能性も、確率も。わたしは誰より、知っていた。
――どうか、彼が世界に冒されぬよう。
「ところで、この辺で夏祭りでもやってんのか?」
数匹のホタルが飛ぶ空間で、青年がふと、そう言った。何故ですか、とわたしは返す。
「姉ちゃん、浴衣着てるから。盆祭りはまだ先やと思うが」
「…………」
ふわりと、一匹のホタルがわたしたちの間を横切る。わたしはその光に合わせて、青年から目を逸らした。
「あんた、この辺に住んでる人やんな? 危ないから帰りは送ってくで。そうや、ええもん見せてくれたお礼に、ジュースでも奢らせてえな」
「…………」
「あ、そうや、名前。まだ言ってないし訊いてなかったな。俺は――」
「言わないで」
口を開いたまま、きょとんとした顔で。彼がこちらを見る。
「……あなたの名を教えてもらっても、わたしにはかえせるものがありません」
呼吸をするように明滅するホタルが、わたしの身体を静かにすり抜けていった。
夕方までしとしとと降っていた雨がやみ、ねっとりとした空気に包まれた夜。数匹のホタルが舞う空に、わたしは自分のものをそっと紛れ込ませた。ほわほわと漂う光は、本物のそれに比べればやはり弱い。
ひとつ、ひとつ。わたしは丁寧に、ホタルを飛ばす。自分の中身が剥がれ落ちる感覚を、何年も何十年も何百年も何千年でも、繰り返す。
「――すんません」
かさりと音を立て、わたしの背後で草が潰れた。振り返れば、ほんの少し大人びた、見覚えのある顔。
「……今年はちゃんと、この季節に来たんですね」
「俺を、まだ覚えてるんか」
その一言で、わたしは「正体を知られた」のだと悟る。頷き、ふっと笑ってやった。
「去年の八月、頭の悪そうな恰好で来たひと」
「せやから今年は完全防備やろ」
できる限り肌の露出をおさえている彼からは、虫よけのにおいがしない。まれに、ホタルを見に来た人間の中に、香草のような酷い香りのする者がいる。ホタルが虫だとも気づかず、虫に嫌われる香りを纏った人間が。一見頭の悪そうな青年だが、そこはわきまえていたようだ。
青年はわたしのとなりに来ると、草藪をそっと覗き込んだ。そこで休んでいるホタルを手で覆うようにして、小さな光を楽しむ。
「ホタル、今年もおるな」
「……ええ。おかげさまで」
「これぜんぶ、ゲンジボタルか?」
「…………」
「それともこれは、お前の『記憶』か?」
大きな手で囲われていた緑の光が、ふわりと暗い宙を舞った。
【ホタル飛ばし】
川辺に棲む、人の形をした妖。大抵は女型である。
自身の持つ『人間に関する記憶』を『ホタル』に変えて飛ばすちからを持つ。ホタルの形状はゲンジボタルに似ており、本物のゲンジボタルに【ホタル飛ばし】のホタルが混ざっていても、人間はまず判別できない。
通常のゲンジボタル(成虫)の寿命が一~二週間なのに対し、【ホタル飛ばし】のつくったホタルは一晩しか生きられない。光の強さは、記憶の「重要さ」「大切さ」に比例する。【ホタル飛ばし】にとって大切な記憶ほど、ホタルに変えたとき強い光を放つ。
【ホタル飛ばし】のつくったホタルは、朝日を浴びると死ぬ。また、つくったホタルが死ぬと、ホタルに変えた記憶そのものも【ホタル飛ばし】からは消えてしまう。ただ、「忘れてしまった」ことだけは、【ホタル飛ばし】も覚えていることが多い。
元来寂しがり屋の妖で、特別いたずらはしない。ホタルをつくって飛ばすのも、「ホタル見たさに人間が川辺に集まる」ことを理解しているためである。ホタルの多い場所ほど人間たちとの思い出が増えるため、【ホタル飛ばし】がホタルをつくりやすい環境になる。
記憶をすぐにホタルに変えてしまうため、物忘れの大変激しい妖である。
「……最後の行が余計ですね。悪意すら感じます」
彼の持ってきた古そうな本。表題には「妖怪大辞典」とある。中を開けば幼稚な文章が目立つが、あながち間違いではなかった。……最後の一言が本当に、余計ではあるが。
「去年、俺が見たホタルはぜんぶ、あんたの記憶やったんやな?」
わたしは頷く。飛ばしてしまったため、それが「なんの記憶だったか」までは定かでないが、彼のためにいくらかの記憶をホタルに変えたのは間違いない。わたしにとってはどうでもいい記憶であったため、ひどく小さなホタルしかつくれなかった覚えもある。
「なんで、俺のためにホタルを飛ばしてくれたんや?」
青年の言葉に、わたしはくすりと笑う。
――鈍いな、人間。
心の隅で、そう思う。
「……あなたが、ホタルを見たがっていたので」
「ほっといても来年以降、どっかの川で見るやろうとは思わんかったんか? なんで、わざわざ自分の記憶をなくしてまで」
「わたしにとって」
青年の声を遮り、わたしは言う。
「わたしにとって、記憶を飛ばすのは『なんでもないこと』です。【ホタル飛ばし】は……いつだってそうやって、夏を過ごしてきた」
ひと夏で思い出をつくり、翌年、その記憶を光に変え。
その光に引き寄せられた子供たちと新しい思い出をつくって、それをまた飛ばして。
つくって、なくして、つくって、なくして。
自分がなくすことだけを鮮明に覚えたまま、この世界に棲み続ける。
【ホタル飛ばし】は他のどの妖よりも――虚無で不毛だ。
「それでも……俺の記憶は、まだ飛ばしてないんやな」
鈍いながらも嬉しそうに、青年は言う。偶然です、とわたしは返す。
「まだ、飛ばしていないだけ。いずれ飛ばします。記憶を持ち続けることに、わたしは必要性を感じない」
「そう言わんと、もうちょい残しといてくれへんか。来年もまた来るから」
予想外の言葉に、わたしは青年の顔を見る。へらり。青年が笑う。
「……もう来ないだろうと、去年あなたが」
「寂しがりなんやろ」
妖怪大辞典の一行を青年が指さす。『元来寂しがり屋の妖で、特別いたずらはしない』
「この川、ぜんぜん人来てないやん。なのにお前はずーっと一人でここにおる。去年も今年も」
「……【ホタル飛ばし】は、生まれた川から離れないので」
「じゃ、来年も再来年もおるんやろ。――なら、俺もまた来る。約束や」
青年が笑顔で小指を立てる。わたしは、小指を絡めたりはしない。妖と人間は決して触れ合えない。たとえ、人間に妖の姿が見えていたとしても。
青年は気分を害さなかったのか、笑顔のままで「そうかあ」とだけ呟いた。どういう意味の納得なのかはよく分からない。
青年は、どこまでも軽い口調で続けた。
「そや、名前や名前。お前もしかして、自分の名前も飛ばしてしもたんちゃうか」
「……わたしにはもとより、名などありません」
「誰かが昔、つけてくれてたかもしれんやろ」
「……覚えてないですね」
じゃあ、と青年。嫌な予感。
「俺が名前を」
「なりません」
ぴしゃり。叩くように言ったわたしに、青年は仔犬のような目を向ける。けれども、許すわけにはいかない。
「妖に、名をつけてはなりません」
「なんでや」
「それが主従契約となるからです。契約を結べば、わたしはあなたが死ぬまで従いますし、あなたが幸せになれるよう尽力します。けれどもあなたは、契約の代償として余命の半分を失うことになる。……長生きしたければ、妖に名をつけてはなりません」
わたしの説明を聞いた青年は少し難しい顔をして、
「長生き、せんでもええんやけど」
「…………」
睨んでやると、それ以上なにも言わなくなった。
ただもう一度、「そうかあ」とだけ呟いた。
少し、肌寒い夜だった。湿気もまだそれほど強くなく、虫たちはその息をひそめている。
誰かを引き寄せるためのホタルを、わたしはまだ、飛ばさない。
もう少し、もう少しだけ。
かさり、と背後で草を踏む音。毎年心待ちにしているその音は、例年よりも少しだけ、力がなかった。
「――……よっこらしょ。あーよかった、ここにたどり着くまでに迷子になるかと思ったで」
「今年は少し……早かったですね」
振り返らず、言う。「そうやなあ」と彼は笑う。
「今晩がええかと思ってな。来てしもた」
「……そうですか」
「どや、一匹くらいはおらんか?」
わたしは首を振る。ホタルなんて一匹もいやしない。そんなの、彼だって分かりきっていただろう。
煙草の吸殻、空になった弁当の容器。生き物が腐敗したにおい。汚れた川に、ホタルは住めない。
ホタルがここから姿を消して、三十年は経った。ひとが来ることもない死んだ川辺で、わたしはひっそり座り続けている。当然、思い出など増えやしない。
ただ。そんな場所に。
彼は毎年、訪れた。
「これでは、あなたが妖のようですね」
「ほんまやな。子供が泣いて逃げていきそうや」
がっはっは、と豪快に笑う。その息がきれていることにわたしは気づいて、けれど何も言わなかった。
言えなかった。
――今年は来ないかもしれない。そう思いながらも毎年、となりに「誰か」が座れるよう配慮している自分がいる。彼もそんなわたしに気づいていて、けれど何も言わない。当然のようなそぶりで、いつもわたしのとなりに腰掛ける。そして、前を見る。
以前はゲンジホタルを、あるいはわたしの飛ばしたホタルを見ていた。
今は、見るに堪えない姿となった川だけを、ただただ眺めて過ごしている。
「ホタル、なかなか見れんようになったらしいな。この前ニュースでやってたわ」
「……そうですか」
「本物のホタルがおらんくなってしもたら、お前もホタルを飛ばしにくいやろ」
「それ以前に、飛ばせる記憶がほとんどありません。……こんな、ドブのような川に。遊びに来る物好きはめったといませんから」
「それは言えてるな」
彼が笑う。その横顔を覗き見る。
そこにいるのは青年ではなく、壮年の男性でもなく、ただの老人だった。
皺だらけの顔。痩せた身体。なくなってしまった前歯。
――……これだから、人間は。
「……いつまで来れるのかと思っていたら」
「ん? なんや?」
「あなたには……契りを結んだひとがいるでしょう。そのひととの間にできた子も。孫だって」
「おるなあ。嫁に関しては『おった』やけどな。あいつ、せっかちやから先に逝ってしもて」
「……浮気ですよ、これは」
とがめるように、言う。彼は昔のようにきょとんとしたあと、やはり豪快に笑った。
「そうかもしれんな。プラトニックいうやっちゃで」
「ぷら……?」
「なんやろな。ただ……約束を守りたかったんかなあ」
「……古い、話を」
笑ってみる。けれど、彼のようにうまくは笑えなかった。
彼は、何もない空間をただただ見つめている。かつて、そこにはホタルがいた。ゲンジボタルが。あるいはわたしの飛ばしたホタルが、いた。
「――もっかい、見たかったなあ」
零れるように言った、その言葉は確かに聞こえた。
見たいと、彼がそう言うのなら。
「…………飛ばしましょうか」
意を決して、言う。彼がこちらを見たのが分かった。
「飛ばしましょうか、……ホタル」
わたしの言わんとしていることを察したのだろう。彼は困ったように口角をあげた。
「飛ばすって……それ、俺との記憶ちゃうんか」
「…………」
「そらぁ困るで。来年俺がここに来た時、『どちらさん?』ってなるんやろ。そーれは嫌やなあ」
「来れないでしょう」
足元に目を落とす。丸い石が転がっているのが見えた。
「あなたにはもう、来年が。……ないんでしょう」
本人は知らない話、かもしれなかった。
けれども彼は、わたしの言葉を否定しなかった。
「……そういうのまで、わかるんか」
「妖は。あなたたちの何倍も、何十倍も、何百倍も、この世界に棲んでいるんです。……『それ』くらい、見ればわかります」
「物忘れの激しい妖のはずやのになあ」
「馬鹿にしないでください」
笑う。この記憶も、明日の朝にはもうないだろう。
――これが、わたしたちにとって。正しい結末、ならば。
そうっと、自分の中にある記憶を掴む。彼が、この河原で転んだ記憶。四十三年前。あの頃はまだ、本物のホタルも飛んでいた。
掴んだ記憶を、そっと手放す。ホタルが一匹、私の手のひらから闇夜へ飛び立つ。
「……えらい、懐かしい記憶やな」
「わかるんですか」
「わかるなあ。俺が転んだ時やからー……四十年くらい前か? まだ覚えてたんか、こんなん」
そうか。わたしと同じ記憶を持つ者ならば、『どの記憶をホタルに変えたか』までわかるのか。初めて知った。いや、知ったことすら忘れていたのかもしれない。わたしは記憶を保持することに、ひどく無頓着だったのだから。
ふわふわと綿毛のように飛ぶ一匹のホタルは、いつか彼に見せたホタルよりも力強く光っている。その理由を、彼は覚えているだろうか。意味に、気づいているのだろうか。
「……今晩が、最後のホタルですから」
二匹目を、空へと放つ。三十五年前。泥酔しながらも、彼がここへやって来た記憶。
「あなたの中に、残りますよう」
――わたしが、忘れてしまっても。
ひとつ、ひとつ。わたしは丁寧に、ホタルを飛ばす。
五十二年前。家族ができたのだと報告にきた彼。
四十五年前。わたしのためにと、どら焼きを買って来た彼。
三十八年前。ホタルを探しながらも、懸命にゴミ拾いをする彼。
――自分の中身が剥がれ落ちる感覚。幾年も繰り返したそれは、いつからかくも胸を締め付けるようになったか。
目を閉じ、耳を塞ぎ、記憶をちぎっては空にかえす。その行為を、わたしは繰り返す。
たった一晩。彼の笑顔が見たいがために。
限られた空間を、たくさんのホタルが飛び交う。数えきれない光。それほどに、わたしは彼との記憶を持ち続けていたのだと気付く。そしてそれを今、捨ててしまったことも。
強い光を放つのは、彼が初めてここに来た時の記憶か。今見れば、彼はまだ幼い子供だった。細い腕を掻きむしりながら、ホタルはいないかとわたしに話しかけてきた日。すべてのはじまりは、眼前で強く光り続けている。
彼が何を思っているのか。どの記憶を見ているのか。その横顔からでは何ひとつ分からなかった。
残りわずかとなった記憶を、わたしは掴もうとする。
……次はどれを飛ばす。
彼の名か。彼の姿か。彼の声か。
わたしに、名をつけようとしてくれた時のことか。
――約束。
『来年も再来年もおるんやろ。――なら、俺もまた来る。約束や』
「……う、っく」
ひとのように。
顔をゆがめてしゃくりあげたのは、初めてだったと、思う。
ホタルをつくっていた手で顔を覆う。指の隙間から雫がこぼれた。どうすればいいのかもわからず、両目を強くこすってみる。涙は止まらない。泣きじゃくるわたしの周囲をホタルが――もう二度と取り戻せない記憶が、光とともに飛んでいく。
彼がこちらを見て、手を伸ばし、けれども引き込めた。
約束したあの日も今夜も。
触れることすら、かなわない。
――人間ならば、「せめて最後に」と言うのだろう。
好きだ、と。
そう、言うのだろう。
けれども妖は、その言葉を持たない。人間相手に恋愛感情など、本来ならば持ちえない。
――……最後に。
最後に、本心を言ってもいいのなら。
――わたしは。
「……わすれたくありません」
わたし、は。
「忘れたくない……!」
――彼の名を、彼の姿を、彼の声を。
約束を。
ホタルに変えたなら、それはどれほど美しかっただろうか。
近く旅立つこの人に、どれほどの土産を持たせることができただろう。
餞にホタルを見せて、わたしは彼を、綺麗に忘れて。
淡い物語にふさわしい、その終わり方を。
――……わたしは何故、拒否するか。
彼が消えたその時に、彼のすべてを忘れていたなら。
それはどれだけ、楽な未来だろう。
……期待することもなく。
夏が近づく度、自分のとなりに誰かが座れるよう気を配る必要もなければ。
背後の草が揺れる度、背筋をのばすこともない。
わたしはまた、ただの妖となって、記憶を飛ばし続けるだけ。
何も持たぬ己におびえることもなく、この世に棲み続けるだけ。
――すべてを忘れる。それが正しい選択だと。楽な未来だと。
わかって、いるのに。
「忘れたくない……っ」
口が、頭が。駄々をこねる。人間のように。
彼はしばらく黙ったままで、わたしを見ているようだった。わたしは顔もあげられず、目も合わせられず、ただただ泣いた。稚児のように。
飛ばしたホタルは戻らない。朝になればわたしは、彼との思い出のほとんどを消失してしまうだろう。彼と会うのも今夜が最後。わかっている。笑うべきだとは、わかっている。しかし一向に、口も頭も両目すらも、わたしの言うことを聞いてはくれなかった。
「……あの、な」
少しずつ、終わりの朝が近づく中。
どこか不明瞭な声で、彼が言った。
「最後にっちゅうか……最後やからいうか。渡したいもんがあるんや、お前に」
「…………?」
「名前」
その言葉に、顔を上げる。
微笑む彼が、そこにいた。
「名前を。受け取ってはもらえんやろか」
「……なま、え?」
驚いたひょうしに、ぱたりと涙が地面に落ちた。
彼はホタルを見ることも、川を見ることもせず、真摯な目でわたしを見据えている。
名前。わたしの――わたし、に?
「ずうっと考えてたんや。出会った時からずっと。お前にぴったりな名前はなんやろなあって」
「……しかし」
「分かっとる。余命の半分、やろ。……せやけどもう、俺は充分長生きしたと思うとる。もう、充分や」
「…………」
「せやからどうか、最後に、老い先短いジジイのわがままを聞いてはくれんやろか。主従とか契約とか、そういうのは要らんのや。ただ、名前を渡したい。……受け取った後は、好きにしてくれて構わん。持ち続けても、ホタルにしてもええ。ただ、今。この瞬間だけでも、どうか受け取ってはくれんやろうか」
ふわふわと。無数の思い出が飛ぶ中で、彼が笑う。
それはあの日の、穢れを知らぬ青年と同じ顔で。
わたしは笑おうと目を細め、やっぱり涙がこぼれて落ちた。
「……浮気、ですよ。これは」
「そうかもしれんなあ。我ながら、悪いやっちゃで」
彼の笑顔がこちらに近づく。
ホタルの舞う空。接吻すらできそうなその距離で。
彼はわたしに。
「お前の、名前は――」
新しいホタルをひとつ、くれた。
*
「……いねーじゃん」
「いるって言ってたんだよ、ほんとに」
月の見えない空の下、少年ふたりが喧嘩を始めた。赤いTシャツ、青いタンクトップ。湿度の高い空気がふたりを包み、それが不快感を強めている。
「誰が言ってたんだよ、そんなの」
「ひいひいおじいちゃんが言ってたって、おじいちゃんが言ってたもん」
少年はそう言いながらも、Tシャツからのびた自身の腕をぱちんとたたく。ぷうん、と煩わしい音を立てて逃げていく虫。それを見たもうひとりの少年が、面倒くさげに呟いた。
「さっきから蚊ばっかり。絶対いねーよ、こんな干からびた川に。天然記念物か都市伝説なんじゃねーの、光る虫なんて」
「でも、ひいひいおじいちゃんが」
「お前のひいひい爺さんなんざ知らねーよ。帰ってゲームしようぜ」
タンクトップの少年は吐き捨てるようにそう言うと、ずんずんと前へ進みだした。Tシャツ姿の少年が、納得のいかない面持ちで川を――水の流れていた形跡だけが残る土地を、振り返る。
「いるって言ってた。ホタルって虫と一緒に」
縋るような表情で、藪に向かってぽつりと発する。
「確か、名前は――――」
甘さも枯れた、その場所で。
淡い光が、ひとつだけ。
ふわりと飛んで、闇夜に消えた。




