カワウソとホイル焼き
友達のりん子が鮭のホイル焼きを作ってくれると言うので、カワウソは鮭を捕まえに行った。川辺にはツユクサが咲き、朝まで降っていた雨が葉の上に丸い玉を残している。
川を覗き込むと、さらさらと流れる水面に空が映り、カワウソの顔が揺れて見える。太陽の光が細かく反射して、くしゃっと丸めたアルミホイルのようだ。
しかし、鮭は泳いでいない。カワウソは水に飛び込み、潜ってみる。ひんやりと明るい川底に腹を寄せ、滑るように泳いでいくが、魚の影はどこにも見えない。
「まったく、どこで油を売ってるんだ」
カワウソは岸に上がり、体を振って水を切った。
目を開けるとすぐそこに、銀色に光る魚の頭がぶら下がっている。
「そこか!」
カワウソは後ろ足でジャンプし、魚にかぶりついた。しかし、歯が噛み合う寸前に宙に逃げてしまった。
うろこに覆われた体と背びれが、カワウソの背丈より少し上で揺れている。その先の尾を誰かが握り、ぶら下げていた。
「これが欲しい?」
黒い帽子とケープを身につけた若い男だ。アーモンド型の目は不思議な色に光り、口元には笑みを浮かべている。カワウソは小さな額にしわを寄せ、その顔を見た。
「俺はカワウソ、魚捕りの名人だぞ。人間ごときに恵んでもらう必要はない」
「でもこの季節、鮭なんて泳いでないと思うよ」
男が言い、カワウソは言葉に詰まった。それはりん子にも言われたことがある。鮭の旬は秋で、産卵するために故郷の川へ戻ってきたばかりの頃がおいしいのだ。
フン、とカワウソは鼻を鳴らした。
「意地汚い人間のことだ。ただで渡す気はないんだろう?」
「よくわかったね」
男は悪びれもせずに言った。
「代わりにりん子がほしいんだけど」
「何だって?」
「できれば先払いで」
男の髪に水滴が飛び散る。手元で鮭が暴れていた。カワウソはその活きの良さに思わず目を奪われた。おいしそうに締まった身だ。塩焼きにしても、鍋に入れてもいいだろう。いや、やっぱりホイル焼きだ。
「無理だな。あいつにはホイル焼きを作ってもらう必要がある」
「ホイル焼き?」
男はきょとんとしている。最近の若者はホイル焼きも知らないのか、と思い、カワウソは説明した。ほどよい塩気とやわらかさ、玉ねぎやきのこの甘み、マヨネーズと味噌の絶妙な相性、要するにどこを取っても満足のいく料理なのだ。
そこへ、りん子がやってきた。ツーサイドアップの髪にオダマキの花を飾り、紺のジャンパースカートを履いている。
「遅いじゃない。鮭は捕まえたの?」
「ちょうどいい。お前もこいつにホイル焼きの素晴らしさを教えてやってくれ」
「誰? この人」
りん子は男を見て首をかしげた。カワウソははっとした。この男はりん子を誘拐して、ホイル焼きを独り占めにしようとしているのだ。誰もそうは言っていないが、そうに違いない。
「気をつけろ、こいつは悪党だ。そして変態だ」
男は笑い、悪党なんかじゃないよ、と言った。
「良かったら二人とも家においでよ。庭でとれたタマネギとエノキもあるから、わざわざ買いに行かなくて済むよ」
それを聞いて、りん子は目を輝かせた。カワウソは水かきの手でりん子を制止し、だめだだめだ、と言った。
「変態のほうは否定しなかったじゃないか! だいたいお前、どこに住んでるんだ」
あっちのほう、と男は川の向こう岸を指した。もやもやと霧が立ちこめ、淡い色の景色が揺れている。
「花がいっぱい咲いてるよ。野菜は無農薬だし」
「ステキね」
「行こうよ。どうせヒマなんでしょ?」
男はりん子の手を引き、川をざぶざぶと渡ろうとした。カワウソは飛び上がり、すぐさま二人の前に先回りした。男の手に噛みつくつもりが、間違えてりん子の袖口を噛んでしまった。
「ちょっと、何するのよ」
「川の向こうなんてろくなもんじゃないぞ。意地の悪い老婆と無気力なタヌキしかいないんだからな」
「面白いじゃない」
りん子はくすくす笑った。カワウソは頭に来て、川の中に石を投げた。すると水しぶきの中から、大きな出刃包丁が現れた。
「行ってもいいが、まずは魚をさばいてからだ」
カワウソは包丁を構えて言った。せっかちね、とりん子はため息をつく。
「まな板もないのにどうやって切るのよ」
「お前じゃない、そっちの男がやれ」
カワウソが包丁を突きつけると、男は丁寧に受け取った。
「いいよ。本当は君をぶった切ってやりたいところだけど仕方ないね」
男は鮭のうろこを斜めにこそぎ落とし、エラの近くに刃を差し入れて切った。尾をつかんだまま、空中で腹を割いていく。すごいわ、とりん子は言った。
カワウソは鮭に目配せをした。ぐったりしていた鮭が、一瞬だけ頭を振ってうなずいた。
「さあ、これで終わりだ」
男が深く包丁を滑り込ませた時、突然、鮭の腹から水があふれ出てきた。
初めは大した量ではないように見えたが、徐々に小川のように、やがて雪解け水のように、ついには津波のような勢いで水が吹き出し、男の足元をすくった。
「りん子……!」
男は押し流され、ケープと帽子を失った。顔が半分水に浸り、深い色の目でりん子を見ている。
りん子は男の名前を呼ぼうとした。しかし、虹が一色ずつ消えていくように、記憶が剥がれ落ちていくのをカワウソは確かに見た。
水は川に合流し、深く激しくなる。白いしぶきを上げ、光の粒を散らし、無数の魚の群れのように、向こう側とこちら側を隔てていく。
とんとん ぱたり
とん ぱたり
空からやってきた水が地下を流れ、また空へ帰るように、記憶も帰っていく。人間には見えない記憶の糸を、魚たちが織り上げ、そしてまた連れ去っていくのだ。
水に溶けていく男の影を、カワウソはじっと見送った。
気がつくと、ツユクサの咲く岸辺に、カワウソとりん子は二人で立っていた。
「それで、鮭は捕まえたの?」
りん子は朝露で濡れたスカートの裾を払って言った。カワウソはくるりと向きを変え、鼻をひくひくさせた。
「いいにおいがする。魚屋か、いやこれはスーパーの鮮魚コーナーから漂ってくる」
「捕れないなら捕れないって最初から言いなさいよ」
「今日は七夕セールだ。寒天ゼリーに杏仁豆腐、ケーキも割引対象だぞ。お前がぼやぼやしてるから調べてやったんだ」
「良く言うわ。ほとんど一人で食べちゃうくせに」
ツユクサを踏み、カワウソとりん子は歩いた。飛び散る露が、星のように瞬いて消えた。気配だけはしばらく残っていたが、やがてただの霧になってしまった。