007
「よかった……。今日、父さんと母さんどっちも朝早くから仕事で」
誰にも聞こえないように望は呟いた。部屋から出る前に、携帯電話で両親の日程やメールをチェックすると、共に「今日は朝早くから仕事」とメールが入っていた。
望は洗面台で歯を磨きながら、鏡でぼさぼさの髪を梳かす。右手にはドライヤー、左手は歯ブラシと点でバラバラの動作を器用にこなしていた。普段はこんなことは本当に急いでいる時でもない限りやらないのだが――。
「ねぇ望! 何これ? 箱の中で人が動いてる!」
今、自分の家には自分以外にもう一人、しかも厄介なことに好奇心旺盛な住人がいるのだ。しかも、騒がしいもう一人の住人は、テレビを見ながらソファの上で無邪気にはしゃいでいるご様子だった。事実、ドスンドスンとソファの上で跳ねる震動が、望のいる洗面台まで響いてくる。
(勘弁してくれ。……というより、まず飛ぶな跳ねるな興味を示すな。本当にお願いだから、家の中を『テーマパークに来ちゃいました』風味な感じでうろつくな)
眉根を寄せつつ、不機嫌そうにしゃこしゃこと歯ブラシを動かしながら、望は気だるそうにため息をついた。
(はぁ……頭痛い。このマンションって、防音設備どうだったっけ……?)
望は洗面台の鏡に映る冴えない自分の顔を見ながらこのマンションの設備について記憶を掘り返していた。
「ほら、朝ご飯できたよ」
「はいはーい」
望がテーブルに簡単な朝食を並べ終えると、起きてからずっとテレビに張り付いていたセフィリアを呼び寄せた。今、彼女の上半身はTシャツに下はジャージと何ともラフな服でテレビを見ている。けれども、その服自体、元は望のものだった。
(あんな格好で、出歩いて欲しいとは思わないしね……)
ぼろぼろのシャツ一枚だったセフィリアを強制的に風呂に入れ、その間に望は部屋から自分の服を着替えとして用意した。初めて目にする女性物の下着はどうしようか……と一瞬物凄く悩んだが、仕方がないと割り切ってシャツと一緒に洗濯機に放り込んだ。
(あとでどうするか考えないと……)
もぐもぐと朝食を咀嚼しながら、これからのことを考えている望をセフィリアの声が断ち切った。初めて見るものが多いのか、幼い子供のようにその目は輝いている。
「望っ! 今日はどこかに出かけるの?」
「ふぇっ? ……出かけるって、まぁ普通に学校だけど?」
こんがりと焼いたトーストをくわえながら、望はちらりと時計を見た。家を出る時間まではまだ猶予が残されていることを時計が告げている。
だが、それも有限だ。正直あと三十分と経たずにこの家から出なければ、確実に遅刻になるだろう。
「学校っ! 行く行くっ、私も行きたい!」
セフィリアが身を乗り出して自分も一緒に行くことを言うが、望は冷静に一言。
「でも、制服は?」
「制服? 何それ?」
望がセフィリアを見返すと、「何を言っているの?」というように目をキョトンとさせている。
「はぁ……」
望は手を額に当てて呻いた。学校指定の制服がなければ嫌でも目立つのは言うまでもない。
というより、まず外部の者が中に入った時点で、ソッコーでバレるのは疑いようもない。
『コラァ! 希坂、部外者を勝手に校内に入れるな!』
という教職員のありがたくも厄介な言葉(しかも付いて来たのはセフィリアなのに怒られるのは望という理不尽さ)に加え、
『うらああああぁぁ! テメェ、こんな綺麗な女性とどういう関係なんじゃゴルァ!』
などと一方的に迫ってくるクラスメイト(主に男子生徒諸氏)。ハッキリ言えば、対応するだけで物凄い労力を強いられるのは目に見えて明らかだった。
そんな想像をしている望の事情など、セフィリアは知らない。『学校へ行く』と言ってから、目の前で「ねぇねぇ、学校行きたい! 行きたい!」と駄々をこねる自分と同世代の女性を見ながら、望はコーヒーをすすった。
何を言っても無駄だろうなぁ、と思い、望はそれ以上言うのを諦めた。
どうしようか、今日はあきらめて家で過ごしてもらおうか(無理そうだけど)と考えていた時、インターホンの音が居間に鳴り響いた。
「こんな時間に誰だろ?」
一瞬美冬の顔が想像できたが、すぐにそれを否定した。美冬はいつも陸上部の朝練があるはずで、美冬と一緒に登校することはほとんどないからだ。こんな朝早くから誰だろうと訝しみながらも、のろのろとした動きでドアを開けた。
「おはようございます」
「えっ……。な、何で?」
ドアを開けたその先には、銀糸のようなさらさらの白い髪と蒼い瞳があった。望は彼女のことを知っている。
「眞白、か?」
「それ以外に、誰がいるというのですか?」
触れれば切れるほどの冷静な対処をする、機械のような女の子。ある時は白い世界で、ある時は夕暮れの教室で望と対峙した女の子――眞白が望の前に立っていた。
しかも御丁寧に望が通う学校の制服を身につけ、足をふらつかせるほどの重たそうな大きなスポーツバッグを抱えて。
「何故、と申されましても……。私はただあなた方のサポートをしに来たのですが」
眞白が顎に指をあてながら望の問いに答える。
(サポート? そんな話はまったく、全然、これっぽっちも聞いていないのデスガガガ……)
どういうことだ? と思考回路がおかしくなる寸前で、
「はぁ……。取り合えず、まぁ上がってよ」
望は一人二人増えたことももう同じだと、そう考えることにした。
割り切りや諦めは、望の最も得意な分野なのだから。
◆
「はぁ……」
望は今日何度目か分からないほどのため息をついた。朝からいつも以上に気を回したせいで、今日一日分の体力を消費したように感じた。ため息をつくと幸せが逃げると誰かが言ったのは本当のようだと妙に納得する。
眞白いわく、「自分はサポートとしてお二人の〝判定者〟としての役割がスムーズに進むようサポートする」ために来たのだと告げた。
どうやらパートナーがいることは想定済みだったらしく、眞白はスポーツバッグから必要とされるもの一式、望が通う学校の制服、カバン、教科書、ノート、筆記具、さらに着替えを取り出す。
(そのバッグはどこぞの四次元空間にでも繋がっているのか? まさか、未来からやってきたネコ型ロボットじゃあるまいし……)
望はそんな風に眞白に言いたくなったが、すんでのところで言葉を飲み込んだ。
「これからセフィリアさんを着替えさせますから」
眞白はそう言うと、望を今から追い出し扉を閉めた。
何だか、そこはかとなく疎外感。うん、きっと気のせいだと望は自分に言い聞かせつつ、居間で一人ぽつんと椅子に座って待っていた。
数分後、着替えをさせている間に二人は仲良くなったのか、二人一緒に玄関から出て来た。セフィリアは眞白のことを「眞白っち」と呼んでいる。
(セフィリア、順応早すぎ……)
などと出てくる前のことを思い返していた望だったが、
「しかしまぁ、朝からすごい視線を感じるんだけど……」
望は後ろから突き刺さる視線の数々を感じながらぼそりと呟いた。呟く望の両脇で歩く眞白とセフィリアが「何?」とハモッたが、望は受け流した。
(視線が痛い。身体中がちくちくとぴりぴりと痛い。何なんだコレ)
背中にむず痒さを感じながらも、望はそう感じる原因についてはすぐに思い至っていた。
(たぶん二人が妙に様になってるからだろうな……)
ちらりと隣の面々を見ながら、そう望は思った。
一人は銀糸のように細く長い髪が風に揺れてさらさらと動いていた。白磁のように白い肌と深く蒼い目は制服に妙に合っている。一目で「お淑やかなお嬢様」といった印象を与える少女――眞白がカバンを両手に持ち、静かに歩いている。
対して、もう一人の少女が望の左側を歩いていた。セフィリア=キャンバロット。彼女も彼女でスペックは高い。
眞白とは対照的に、栗色の髪を後ろで一つにまとめた髪型は溌剌とした活気の良さを象徴しているようだった。外国人のような名前に似合わず、目は漆黒の色を宿している。また、身体も出るところは出て締まるところは締まっているという、まさに一流モデルのようなプロポーションの良さは、一目で男を釘付けするのに十分だった。
世の男性なら、今の望の状況に嫉妬するだろう。しかし、当の本人は対照的にひどく落ち着かない様子だった。
「どうかした? 望、何だかそわそわしてるよ?」
セフィリアが望に顔を近づけた。両手を腰に当て、上目づかいで望を見つめているセフィリア。一つ一つの動きに呼応しているかのように、たわわに実った胸がたゆん、と揺れる。望は慌てて視線を逸らした。
「い、いやっ! 僕は別に……」
「うにゃーっ! 望もやっぱりオトコノコってこと?」
セフィリアがからかうように背中を反らしながらニヤニヤと笑う。その口調はまるで「不思議の国のアリス」に登場する悪戯好きのネコのイメージにぴったりだった。
「お二人とも、〝役目〟を果たすことをお忘れなく」
望とセフィリアに割って入るように眞白が二人を咎める。
「うぅ、わかってるよ……」
「はいはい。って、眞白っちもまさか……」
「ち が い ま す」
望は眞白の言葉にわずかばかりの〝怒気〟が含まれていることを感じたが、これもまた運営者としての矜持からくるものなのだろうと望は勝手に納得した。
セフィリアは別のことを感じ取ったらしいが、望にはそれが何なのか分からなかった。
「はあぁぁ……。何なんだ、まったく」
望はため息をつきながら、目の前の通学路進んでいった。
朝の陽光を浴び、セフィリアと望にの首に掛けられたドッグタグがきらりと光っていた。
「本当に大丈夫なのか?」
校門に着くや否や望は何度となく眞白に訊ねた。何度も同じような質問を聞いているのか、眞白はもう答えるのも面倒だと言いたげな目を望に向ける。
「大丈夫です。先ほどから何度も言っているように、ゼウスが世界に対して強制認知を施しています。望の住むこの世界で、通常ならば『異物』として扱われるはずのセフィリアさんも、強制認知によって世界が『住人と認める』のです。つまり、本来あるはずもない記憶を外部から強制的に「移植」させるようなものです。……もっとも、セフィリアさんがこの世界にいることができる間――一週間ほどですけど」
何度も眞白の説明を聞いている望だが、イマイチ実感がわかないのは否めなかった。
「うーん、〝強制認知〟ねぇ。魔法とか神ってさぁ、本当は『御伽噺』だとか『童話』の類の範疇だと思うんだけどなぁ……」
眞白の説明を受けている間、望は今まで過ごしてきた《現実》が、この世界の社会の掟が何か音を立てて崩れてしまったかのような感覚がしてならなかった。眉根を寄せ、ぽりぽりと頬を掻くぐらいしかできなかった。
「だけど、こうして現実として関わっているのだから受け入れるしかないか」
望は自分の胸元を見ながらそう言って諦めた。現実ほど納得させるのに十分な証拠はない。ぼやく望の横では、セフィリアが家にいた時と同様に、好奇心旺盛な目を校舎に向けていた。セフィリアのその輝く目を見ながら、望は何事も起きない平和な一日が過ごせることを心の中で切に願った。たぶん無理そうだと思いながらも。
「では、私はここで……」
望の学年が集う校舎に向かう途中、眞白が不意に別れを告げた。
「ちょっ――! どうして……」
「私はお二人のサポートであって、一緒の教室で過ごすことが目的ではありません。あくまで私は『監視もしくはサポート』でしかありません。従って、私は私の役目を果たすため、〝一学年下の後輩〟という立場から離れた場所で見させてもらいます」
眞白はそう告げると、一人すたすたと別の校舎の中へと消えていった。残されたのは望とセフィリアの二人。しかもセフィリアは今日がこの世界に来た初日である。
「うあっ……」
望は恨めしそうに目の前の校舎を見上げていた。
(どうか無事に今日一日が終わりますように……)
無駄な行為と分かりながらも、望は何かに縋りつきたくて仕方がなかった。そうしなければ、胸の奥で疼く不安が解消されることはないからだ。
望とセフィリアは自分の教室へとたどり着いた。突如連れて来たセフィリアがどうなるのか不安でたまらない望だったが、眞白の言葉を信じて一気にドアを開けた。
望の姿を見たクラスメイトたちが、いつも通り『おはよう』と挨拶を交わす。
だが、次の瞬間、そのクラスメイトたちの誰もが怪訝な表情を浮かばせた。
(うっ……。やっぱり眞白の言葉を信じた僕が間違ってたのか?)
クラスメイト達の表情を見た望の胸中に、「しまった!」という思いが滲む。今ならゼウスにありとあらゆる呪詛さえ吐き出せる思いだ、と(表情には出さないが)腹の中でぐつぐつと黒い何かが蠢く。
「あれっ? 彼女って……」
「なぁなぁ……あの女の子って……」
望の後ろにいたセフィリアがひょいっと顔を出した。瞬間、クラス中の視線がぶつかる。セフィリアはその迫力に反射的に「うっ……」とたじろいでしまうが、見つかったからにはもう遅い。
(あぁ~、これは……詰んだかな?)
そんな考えが浮かんだ望の耳に、視界の端から声が上がった。
「あっ! やっと帰ってきたんだね、セフィリアさん!」
突如として叫んだ美冬の声を契機に、クラス中の女子がセフィリアの周囲に集まった。
「ど、どういうこと……?」
「僕も知らないよ……」
小声で耳打ちしたセフィリアに、望が露骨に顔をしかめて返答した。周囲の声もそうだが、美冬の言葉がやけに望には引っかかっていた。
「ようやく退院できたんだね! ずっと入院生活だったから、クラスのこととか分からないことが多いかもしれないけど……」
美冬がセフィリアの手を取り、力強く腕を振った。美冬とセフィリアの様子に周囲にいた女子生徒達も騒いだが、望には何がどうなっているのかいまいちよくわからなかった。
「なぁ、冬。彼女って……?」
望はぼかすように美冬に訊ねる。
「ホープ、知らないの? 一年の時に話題になったでしょ? 彼女、病気がちで長期入院していたのよ……って、なんでホープと彼女が一緒に登校してるの?」
「あっ、あー……ちょうど校舎の前で迷ってるみたいだったから案内してただけだよ」
望は必死に取り繕った。美冬は「へぇ~、そう」とだけ言ってセフィリアの方へと顔を戻したが、望はこんな事が続くのかと思うと気が滅入りそうになった。
(なるほど。これが眞白の言ってたことか……。みんな苦もなく受け入れてるし、まぁいいか)
セフィリアの席は望の右隣だったらしく、まるで最初からその席がセフィリアのものだとされていたかのようにクラス中の生徒たちが認識していたことも少しばかり望を驚かせた。
自分の席にぎこちなさそうに座ったセフィリアは、きょろきょろと教室内を見渡しながら、「ここが学校かぁ……」と一人小さく呟いていたのを望はただ聞いていた。
教師も朝の生徒たちと同様、自然な形でセフィリアを受け入れていた。おかげで授業自体もスムーズに行われ、望はほっと胸を撫で下ろした。
授業中、セフィリアが一心不乱にノートを取っている姿は望にとっては意外だった。
「どうしてそんなに真剣なの?」
授業休み、望は隣にいたセフィリアに問いかけた。
「どうしてって言われても……今勉強できて、自分が今までよりもちょっとだけ賢くなれたら得じゃない? それに、今は無料だし」
最後の言葉は置いておくとしても、望にとって、セフィリアの言葉は新鮮だった。
ただ繰り返す毎日。決まり切ったサイクルの中を生きる自分にとっては、学校での授業というものは〝消化試合〟の意味合いが強かったからだ。
学校に行き、やがては社会人として働く。そういった現実が透けて見えているからこそ必死に勉強することを望は『諦めた』のだ。何もかもが「普通であること」を強要する社会。
他人と大差のないレールの上を歩かせることを強制させるこの世界は、望にとってみれば窮屈で淡々とした世界にしか映っていなかった。
「何事も楽しんでやればいいんじゃないの?」
一二〇%のスマイルを浮かべ、本当に楽しそうに輝くセフィリアが、望にとってどこか羨ましく思えた。
昼休み直前。
いつもならば携帯電話にメールが入る時間だったが、今日は『メールを受信しました』の文字は踊らず、メールが入ったことを告げるバイブはなかった。
「多分、先日の出来事で迂闊に手を出すことができなくなったのでしょう」
不思議がる望に眞白が解説を加えた。そういうものかと望は納得しつつ、箸を進めてもぐもぐと弁当を食べていた。
「にしても、驚いたよぉ。昼休みに眞白っちが『兄さん、一緒に食べましょう』って来た時は。望なんて目がテンになってたよ?」
「いや、それはそうでしょ? 事実、今まで僕に〝妹〟っていなかったわけだし……」
「ですが、現にゼウスによる強制認知によって、私を〝希坂眞白〟――希坂望の妹として認識させているのです。仕方がないでしょう」
眞白は言いながら、バツが悪そうな顔で紙パックのストローを咥え、中身のジュースをじゅるじゅると音を立てつつ飲んでいた。
望は眞白の言葉を聞きながら、その時のことを思い出した。